第五章 嵐の兆し --- 2

 サイファエール王国の都バーゼリック――。

 広大なパーツオット湾の最も奥にある港町にして最大の貿易都市である。西方の大帝国ルタリスクのものより長大と言われる城壁は、全長五十モワルに及び、六つの大門とひとつの水門を擁す。それによって物流が管理され、常に海上には数十カ国の帆船が行き交い、陸上には幾千もの荷馬車が長蛇の列を成していた。

 その恩恵を余すところなく享受した城内は、一方で文化都市としても見事な発展を遂げた。王宮のあるリオドゥルクの丘の麓に展開する街並みは整然とし、神殿や学院、図書館といった学術的施設から、競技場、競馬場、劇場、大浴場といった娯楽施設の他、裁判所、病院、公園などが通りに立ち並んだ。その間をエヴァノ河に水源を得たコロナ・ララ両運河が流れ、街道沿いに植えられた常緑木とともに、人々の心に豊かさと安らぎを、生活に安定をもたらしていた。



 初出仕の朝、イスフェルは父に伴われ、王宮の謁見の間へ入った。普段、外国の使者や陳情者などを迎え入れる部屋は、置いてある調度こそ少なく簡素であったが、緑が溢れ、人々にどこか安心感を与えた。

 しばらくすると、衣擦れの音とともに青い外套を纏った男が入ってきた。肩にかかる淡い金色の巻髪を細い金冠で留め、白絹の長衣には金糸でサイファエール王家の鷹の紋章が縫い取られてある――彼こそ、第十四代サイファエール国王イージェントであった。生来、病気がちであったが、二十五歳で即位して以来二十五年、宰相を始めとする優秀な人材に恵まれ、サイファエールに栄華のひとときをもたらしていた。

 イージェントは紅い天鵞絨の張られた背椅子に腰を下ろすと、天色の瞳を嬉しそうに細めた。

「ついに来たな、イスフェル」

「陛下、おはようございます」

「うむ。ウォーレイ、おぬし同様、余もこの日を待ち侘びておったぞ」

「ありがとうございます」

 イージェントは、ウォーレイの後ろで頭を垂れて控えているイスフェルに手招きした。

「イスフェル、凛々しくなったな」

 イスフェルは三歩ほど前に進むと、改めて一礼した。

「ご無沙汰をいたしておりました、陛下。遅くなりましたが、本日より宰相補佐官の任を戴きます。至らない点が多々あると存じますが、どうぞ宜しくお願い申し上げます」

「うむ。ウォーレイに付いて、できるだけ多くのことを学べ。そして、サイファエールのために尽くしてくれ」

「御意。未熟な身なれど、身命を賭して」

 青年の力強い返事に国王は深く頷き、そして笑った。

「これで宮廷はますます賑やかになろうな。ゼオラなど、手ぐすね引いて待っておるぞ」

「陛下、補佐官は遅参の身。当面は競射などに興じている場合ではございませぬ」

「そう申すな。そなたも昔、政務の合間を縫って、トランスとよく競い合っていたではないか」

「トランス殿下と?」

 イスフェルが目を見開くと、ウォーレイは諫めるようにイージェントを見遣った。

「陛下」

「おお、これは、余計なことを言ったか?」

 ふざけ合う二人を前に、イスフェルは内心で首を傾げた。父ウォーレイと国王の弟トランスが同じ年に生まれたことは知っていた。王立学院の同期であったことも。しかし、二人が彼自身とゼオラのような間柄だったとは思いも寄らなかった。目下、宮廷内の最大の敵がそのトランスであったから――。

 御前を辞した後、イスフェルは待っていたユーセットとともに、関係方面への挨拶回りに向かった。ユーセットの根回しのおかげで、内心はどうあれ、殆どの省庁が年若い宰相補佐官を歓迎してくれた。

 二人が近衛兵団の中央官舎に赴いた時、中庭では一個師団による剣の演習が行われていた。その中にシダの姿を見付けて眺めていると、突然、彼らの前にひとりの騎士が立ちふさがった。その者が太陽を背負っていたため、イスフェルが眩しげに目を細めると、聞き慣れた声が降ってきた。

「イスフェル。聖都での事、シダから聞いたぞ。剣の腕前は落ちておらぬようだな」

 風にそよぐ長い黒髪、生気に溢れた鮮やかな紅蓮の瞳、近衛兵団の濃紺の制服の胸に光る小隊長の証。『近衛のシャーレーン』と異名をとるクレスティナ=イザエルだった。

「クレスティナ殿!」

 近衛兵団史上、初の女性小隊長を見上げ、イスフェルは嬉しそうに顔をほころばせた。六つ年上の彼女はまた、彼の学院時代の剣の師でもあった。

「いよいよ、おぬしの腕を試す時が来たな」

「はい」

「色々あろうが、苦しい時は夢に向かって励んでいた時の自分を思い出すことだ。あの頃の自分が、挫けている自分を見てどう思うか、それを考えろ」

 恩師の言葉に、イスフェルは深く頷いた。

「旅の話など聞きたいところだが、任務中ゆえそうもいかぬ。今晩のリューズ姫とサイローズ殿の結婚披露宴には来るのだろう?」

 すかさずユーセットが頷いた。

「では、その時に会おう」

 クレスティナは手綱を振るうと、中庭へと戻っていった。残された二人の間に、しらけた空気が漂う。最初に口火を切ったのは、イスフェルだった。

「……ユーセット、オレに何か隠してないか?」

「いいや。ただ、言い忘れていたことならある」

「………」

 いつもこうだ。ユーセットはイスフェルの嫌うことはぎりぎりまで口にしない。そして、後に引けない状況になった上で彼に告げ、その場に引きずり出すのだ。

「ユーセット、この機会に言っておくが――」

「今回はどのみち断れなかったぞ。サイローズは優秀な宮廷書記官だ。本人直々に招待状をもらったのに、宰相補佐官とはいえ新参者がそれを断る? 存在を示す絶好の好機、断るどころか呼ばれなくても押しかけるところだ」

 畳みかけるようなユーセットの言葉に、イスフェルは溜息をついた。

「誰も断れとは言ってない。ただ、前もってオレに一言あって然るべきだろ? オレはおまえを頼りにしてる。だから、おまえもオレを信用しろ」

 ユーセットが首を竦めると、イスフェルは目を吊り上げた。

「オレに一言なかったものに関しては、オレは絶対に動かないからな」

「……わかった」

 先に歩き出したイスフェルの背を、ユーセットは首筋を撫でながら見遣った。女性の苦手な彼が、その標的ともなる結婚披露宴への出席を受諾するわけがないと高を括っていたが、多少勘が外れたようだ。

(宮仕えなど、毎日が宴だ。とりあえず、今晩は軽く流しておくか)

 引き結んだ口元に皮肉げな笑みを浮かべて、彼もまた歩き出した。



 結婚披露宴が行われるリューズ姫の実家、デアロン家は、宰相家のあるオルヴァの丘の麓にある。名だたる貴族の屋敷は、王宮から王墓までの街道を挟むようにして立ち並んでおり、その中で王宮に最も近いオルヴァの丘は、宰相家をはじめとする名門をいくつも抱え込んでいた。

 夕刻、一度屋敷に戻ったイスフェルは、正装に着替えると、再びユーセットと馬車に乗って坂を下った。王都の西にある『終焉の門』に太陽が沈みゆくのが、御者台側の小さな窓から望めた。

「……デアロン家の宴だと、この辺りの貴族がこぞって来るのだろうな」

 イスフェルの呟きに、ユーセットが頷く。

「今回は特に婿取りだからな。招待状を持ってきた時に、サイローズがぼやいていた。姫に欠点があるとすれば、それは家柄だ、と」

「家柄か……」

 イスフェルは小さく笑った。サイローズの気持ちが、少しわかるような気がした。宰相家は今でこそ名門五指のうちに数えられるが、ほんの三代前までは中流貴族だったのだ。古くから権勢を誇る他の大貴族とは違い、厳しいしきたりや伝統などは殆どない。しかし、それによって形作られているデアロン家は、新しく入るサイローズをいちいち圧倒するのだろう。

「ララーズ殿やジオール殿、バハーサル殿に、何と言ったかドリオル家の……エナス殿か。あのへんは必ず来るだろう。あと書記官連中と」

「そういえば、クレスティナ殿はサイローズ殿とどういう繋がりなんだ?」

「いや、彼女はリューズ姫の方の関係だ。女でありながら男社会で平然と生きてる。それで姫君たちにかなりの人気がある」

 苦笑いを浮かべてイスフェルが頷くと、ユーセットがおかしそうに言った。

「最近、彼女が何て呼ばれているか知っているか?」

「いや?」

「『姐御前』だ」

「『姐御前』?」

 怪訝そうな顔をするイスフェルに、ユーセットは喉の奥で笑った。

「あの竹を割ったような性格のおかげで、彼女は男にも女にも頼りにされてる。多分、今日の二人も、彼女の橋渡しがあったと思うぞ」

「なるほど……」

 つまり、クレスティナは今日の宮廷内で、影の恋愛御意見番のような役を担っているというわけだ。ある意味、宰相よりも宮廷内の人物相関図に詳しいといえるだろう。

 やれやれ、と麦藁色の髪をかいた時、馬車がデアロン家の前で止まった。玄関に敷き詰められた緋色の絨毯に降り立った途端、屋敷内の喧噪が耳を打つ。そして――。

「宰相家のイスフェルだ……!」

 広間の扉をくぐった途端、着飾った人々の視線が青年に集中した。その中を、イスフェルは毅然とした態度で歩を進めていった。その先の螺旋階段の下に、デアロン夫妻の姿がある。

「これは……イスフェル殿!」

 賓客の肩越しに彼の姿を認めたトリス=デアロンが声を上げると、周囲の人々が驚きとともに道を開けた。

「トリス殿。この度はリューズ姫の御結婚、誠におめでとうございます」

「ありがとうございます。イスフェル殿こそ、御成人おめでとうございます。額輪、よくお似合いですぞ」

「ありがとうございます」

 その時、人々の歓声が上がった。今日の主役が階段上に現れたからである。皆が見守る中、サイローズはリューズの手を取り、ゆっくりと階段を下りてきた。二人に祝福を告げるため、客たちが見る間に列を成す。

「イスフェル殿、ユーセット殿、来て下さったのか」

 下りてくるなり、サイローズは二人の姿を見付け、嬉しそうに言った。

「こんなめでたい日に礼を欠くと?」

 ユーセットが新郎の肩を小突く。

「リューズ姫、サイローズ殿とお幸せに」

 イスフェルが微笑むと、姫は途端に頬を赤らめた。

「まあ……お噂には聞いておりましたが、本当にお美しい方。私は早く彼を見付けておいて良かったわ。貴方を巡る姫たちの戦争に巻き込まれなくてすみましたもの」

 リューズの冗談にイスフェルが目を丸めると、弾かれたようにユーセットが笑い出した。サイローズが慌ててリューズを諫めたが、デアロン夫人が「確かにこれから楽しみですわね」と続けたものだから、美形の貴公子は周囲の人々から妙な期待のこもった笑声を浴びることとなった。

 内心で半ばむくれつつ主役二人を他の客たちに渡すと、イスフェルは葡萄酒の杯を片手に大広間の中を歩き出した。が、今日の影の主役ともいえる彼を人々が放っておくはずもない。三歩進むごとに声をかけられ、青年は足を止めて彼らとの談笑を楽しんだ。

「……最初にしては巧く狸どもの相手をしているものだな」

 突然、背後で声がしてユーセットが振り向くと、夜空のような青褐色の絹服を纏ったクレスティナが立っていた。胸元と足下にほどよく鏤められた真珠が、照明を受けて金剛石のように輝いている。

「これはクレスティナ殿。今宵は剣ではなくその姿で我々を魅了する気ですか?」

「フッ。相変わらず色事を楽しんでいるようだな、ユーセット」

 言って、クレスティナは深い紫紺の液体を口に含んだ。

「それにしても貴女が絹服とは珍しいですね。以前は何の時でしたか……」

「嫌なことを思い出させるな。ゼオラ殿下との競射で負けた時だ。今回はリューズ姫たっての御希望でな。めでたい日に断るほど私も無粋ではない」

 冷めた口調ではあるが、女装することへの嫌悪は感じられない。彼女は女であることを最大の武器としているようだった。

「さて、そろそろ舞踏曲が始まる時間だぞ。彼の最初のお相手はいったい誰になることやら」

 クレスティナはおもしろそうに紅蓮の瞳を細めたが、その期待は大きく外れることとなった。イスフェルが旧知の老紳士とともに露台に出ていったからである。



「……それで、訊きたいことというのは?」

 蓄えた白い髭を撫でながら言うのは、父ウォーレイの友人のひとりで、名をヤーズナルといった。ひと昔前までは辣腕の宮廷書記官だったが、六十も半ばを過ぎ、現在は気ままな隠退生活を送っている。

 イスフェルは小さく息を吐き出すと、篝火に浮かび上がる夜の庭に目を遣った。

「父のことなんですが……」

 今朝以来、頭の片隅にあったことを彼は口にした。則ち、父と王弟の間柄について。

「ああ、確かに二人は良い好敵手だったが……。なんだ、ウォーレイから何も聞いておらぬのか?」

 イスフェルが頷きつつ内心で首を傾げていると、それを察して老紳士は言葉を次いだ。

「二人が同い年であることは知っておろう。学院で同期だったことも。彼らは身分こそ違ったが、文武で対等に渡り合い、親友といえる間柄だった。ウォーレイの出仕が始まり、トランス殿下が王宮に戻った頃は、やれ競射だ競馬だ剣の腕比べだと毎日が祭のようでな。だが……いつ頃からかそんなこともなくなった。皆はウォーレイの補佐官の仕事が忙しくなったせいだろうと、失われた娯楽と活気を惜しんだが、実際は……」

 ヤーズナルは小さく首を振ると、庭へと続く階段に足を向けた。

「……そうだな、単純に言えば、『嫉妬』だろうな」

「嫉妬?」

 思わぬ言葉に、イスフェルは藍玉の瞳を細くした。ヤーズナルは頷いた。

「二人とも才に優れてはいたが、華があるのはどちらかといえばウォーレイの方だった。そしてサリード家は今をときめく権門――。それゆえに、人々の視線はおぬしの父に集まり気味だった」

「しかし、トランス殿下は王族であり、イージェント陛下の弟君ではありませんか」

「未来のない王族――と、これは不敬罪に当たるな。とにかく、当時の宮廷でトランス殿下が羽を伸ばせる場所はなかったのだ。陛下の下、まつりごとには宰相とウォーレイが万事漏れず対応しておったし、軍務においては、あの頃は大将軍ドリザールがいた。たとえトランス殿下が上将軍として出征しても、その作戦と指揮はドリザールが執った。ゆえに、陛下が弟君の武勲を称えても、殿下は素直にそれを拝受することができなかったのだ。己に人並み以上の実力が備わっていることを自覚している人間には、当然のことではあるがな」

「せっかくの才能を生かす場がない……」

 そのことを考えた時、イスフェルは自分に与えられた境遇を幸運に思わずにはいられなかった。しかし、それと同時にもうひとつの才能についても考えた。すなわち、ある事柄に対する才能、それをいかに生かすかという才能である。

(現在の状況を考えると、トランス殿下には後者の才能が欠けていたのか……)

 埋もれつつある才能を嘆くのなら、ドリザールが病死した折り、上将軍の任に率先して就くべきだったのである。しかし、トランスはその任を従弟のゼオラに許した。結果、彼はますます宮廷での立場を逸したのである。

「しかし、運命とは皮肉なものだな」

 宰相らに対し、単なる嫌がらせに留まっていた彼の振る舞いが、やがて『王弟派』として宮廷に台頭するようになったのは、王位継承者の不在が長期化したためである。国王夫妻には子が三人いたが、いずれも女子であり、サイファエールにおいて女子には王位継承権は認められていない。トランスは、待ちさえすれば、その昔望んだものを難なく最良の形で手に入れることができるのだ。

(昔の殿下になら、その権利を手にするのに両手を上げて賛同できたが……長年、嫉妬を巣くわせた心に、その権利が復讐として使われるのは明らかであろうな)

 その矢面に立たされるだろう青年を、ヤーズナルは深刻な面持ちで見遣った。

「イスフェル、おぬしは良き友に恵まれているようだな」

「はい……」

「大切にするのだぞ。決して、失わぬよう」

 イスフェルははっとすると、唇を噛みしめた。

(お二人の仲は、もう戻らないのだろうか……?)

 友人の重要性を認識し、彼が幼い頃から出会いの場を広く設けてくれた父が、トランスの心が離れていくのを手をこまねいて見ていたとは思わない。しかし、相手は身分という権力を持ち、こちらを拒絶できる立場にある。

(ユーセット、シダ、セディス……。オレはせめて、自分からおまえたちに背を向けるようなことはしない……)

 イスフェルはヤーズナルに一礼すると、軽やかな曲の流れ始めた大広間へと戻っていった。

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