第五章 嵐の兆し --- 3

「――は? なに、じゃあ、昨夜は誰とも踊らずに帰ったっていうのか?」

 呆れたように言うシダに、イスフェルは山のように届いた前日の報告書を捌きながら眉根を寄せた。

「だからリューズ姫やクレスティナ殿と――」

「おまえ、バカか!? 人妻や恩師と踊って何が楽しいんだ」

 イスフェルは憮然として旧友を見遣った。

「バカとはなんだ。お二人に失礼だぞ」

「おまえな……」

 盛大な溜息とともにシダが言い返そうとした時、

「おまえたち、上る丘を間違えたのか? 学院なら隣だぞ」

 ユーセットの鋭い叱咤が飛び、二人は思わず首を竦めた。

「さ、さて……じゃあ、オレは持ち場に戻るかな」

 報告書を置いてそそくさと部屋を出ていくシダと入れ替わるように、今度はセディスが姿を現した。

「何だ。ここは溜まり場ではないぞ」

 目を吊り上げるユーセットに首を傾げながら、セディスはイスフェルに小冊子を差し出した。

「三日前、オデッサの砂浜に打ち上げられた難破船の報告書だ。調べるのに丸二日、報告書に丸一日。おかげでサイローズ殿の披露宴に行き損ねた」

 次に続くだろう言葉を、イスフェルは慌てて咳でかき消した。朝から二度もユーセットにどやされるのは気が重い。

「で、何が判った?」

「あー、それが面倒なことになりそうなんだ。ここを見てくれ」

 セディスが書類をめくり指し示した箇所に目を落とすと、鳥に槍を突き立てた図柄が描かれてあった。

「これは……?」

「船長室の奥の壁に彫られてあったものだ。紗で覆い隠してあったんだが……三か月前、海賊に襲われた商人が、これとよく似た図柄を描き遺してる」

「じゃあ、この船は海賊の……!?」

 深刻げなイスフェルとは対照的に、ユーセットは冷めた表情で首を振った。

「海賊が海に喰われりゃ世話ないな。これのどこが面倒だと?」

「これを持ってた」

 そう言って差し出された物を見て、イスフェルとユーセットは絶句した。それはちょうど手の平ほどの大きさの金属片で、各国の政府直属の貿易船だけが持つことを許された航海証だった。

「これによると、あの船はタルコス王国のものということになる。もし、船あるいはこの航海証が奪われたものでないとしたら、……面倒だろう?」

 セディスが口の端をもたげ、イスフェルは肩を竦めた。

「他のタルコス籍の貿易船についても調べる必要があるな。もしタルコスが承知のうえなら、重大な条約違反だ」

 お膝元のイデラ港におけるタルコスの荷揚げ高は、この数年、飛躍的に伸びている。その一端を殺戮によって担っているとすれば、これはサイファエール一国の問題では済まされない。

「とにかく、陛下に御報告申し上げる」

 イスフェルはセディスの報告書を携え、廊下の先の王の執務室へと向かった。しかし、そこでは別の、さらに大きな火種が煙を上げつつあった。



 国王の顔を一目見ただけで、ウォーレイは異変に気付いた。澄んでいるはずの天色の瞳は澱み、その表情は罪人のように強張っている。

「陛下、いかがなさいました?」

 しかし、イージェントはただ首を振るだけで、無言のまま椅子に着いた。ウォーレイは持っていた書類を机上に置くと、ふと傍らの花瓶に目を遣った。淡い桃色の花が満開だった。

「――そう言えば、庭師のモドックが、珍しい花の苗が手に入ったので、今度是非こちらの庭に植えさせて欲しいと申しておりました」

「……そうか。あやつならどんな花も美しく咲かせるだろう」

 受け取った書類に印章を捺すと、国王は突然、頭を抱えた。

「それに比べて、余は踏みにじることしかできぬ……」

「陛下……?」

 ウォーレイが目を見開く先で、イージェントは書類を遠ざけ、両手を組んだ。

「……ウォーレイ」

「はい」

 朝と夕とあまり変化のない宰相の穏やかな顔を、数々の苦難を乗り越えてきた男は呆然と見上げた。

「……生きておったのだ」

「は……」

「レイミアが、生きておったのだ」

「レイミア……?」

 しばらくの間、脳裏でその名を反芻していたウォーレイだったが、記憶の瓦礫の中にその破片を見付け、愕然とした。

「陛下……!」

「昨夜、侍従長が余のもとへ参ってな。そう申したのだ」

「し、しかし、あの方は、かの折りに確かに亡くなった、と……」

 組んだ両手に、イージェントは深い溜息を吐いた。

「その機巧からくりも判った」

「機巧――」

 その時、軽快に扉を叩く音がし、イスフェルが入ってきた。

「失礼いたします。先日の難破船に関する報告書が届きましたのでお持ちしました」

 が、振り返って彼を見遣る二人の緊迫した雰囲気に、わずかに息を呑む。

「……どうかなさったのですか?」

「いや……貰おうか」

「あ、はい」

 イスフェルは書類と金属片を宰相に手渡すと、概要を口頭で報告した。

「……今のところ、この船の生存者と見られる人間を発見したとの報告は、沿岸警備隊の詰め所には入っていません。が、航海証がなくても、船内の装飾や死者の服装から、難破船がタルコス籍のものであることは間違いないと思われます」

 さらに、刻まれていた不気味な模様以外に、積み荷の荷札から割り出した航路では決して手に入らない荷が積載されていたことを挙げ、その船が海賊船であった可能性が高いことも示唆した。

「……とはいえ、タルコスは一千モワルも先の国。真実の追究にはこの問題が大きく立ち塞がるであろうな」

「御意」

 タルコス王国は、サイファエールの北東に位置するマラホーマ王国・ジージェイル王国よりもさらに向こうにある。使者を送ったところでタルコス側が否定するのは必至、そうなればどうしようもない。

「推測で物は言えぬ。確固たる証拠を集めろ。商人や水夫は勿論、タルコス船に乗っているサイファエール人、巷で人気のある海賊小説家、少しでも情報を得られそうな人間に接触するのだ。タルコスには、今夏の条約更新会議において各国の前で追及する」

 つまり、今夏までに真実を突き止めなければならないのだ。イスフェルは内心で、これから最前線に立つであろうセディスの苦労を思った。

「駐在大使には何と?」

「船が難破するなどよくあることだ。わざわざ知らせてやる必要はない。もし向こうから尋ねて来るようなことがあれば――」

 イスフェルは頷いた。

「タルコス船であった可能性があるということだけ伝えます。明言すれば、証拠品を返還するよう言ってくるかもしれませんから」

 二人の頷きを得、イスフェルが一礼して踵を返すと、宰相が彼を呼び止めた。

「敵は外にいるとばかり思うな。人間の心は、良かれ悪かれどこかに繋がっているものだ」

 今回はタルコスの船であったが、もしかしたらサイファエール籍の船の中にも、ふたつの顔を持つ船があるかもしれない。その可能性を、宰相は言外に告げているのだった。

「では、失礼いたします」

 補佐官の姿が扉の向こうに消えた途端、国王は吐息した。

「どうやら時と場所を改めた方がよさそうだな」

「陛下、久しぶりに遠出などはいかがです? お供いたします」

「……ふむ、そうだな。久しぶりにフォーディン岬にでも行ってみるか」

 潮風に当たれば、今の陰鬱とした気分を少しでも解消できるかもしれない。そう思って、イージェントはウォーレイの言葉に頷いた。



 それは、九年前のことである。

 陸上交易の権益をめぐり、北西のマラホーマ王国との間に起こった戦は、当初から泥沼の様相を見せていた。北東の国境、カイザール城塞での攻防はひと月にも及び、城内の士気は低下する一方であった。

 ある日、決断したサイファエール軍は城から撃って出た。その猛攻に、マラホーマ軍は本陣を数モワルほど後退させなければならなかったが、突如の雷雨に痛手を被ることは避けられた。それはむしろ、サイファエール側にもたらされたと言ってもよかった。

 国王イージェントが戦闘の最中、野で行方不明となってしまったのだ。

 近衛は無論、将軍たちも血眼になって国王を捜索したが、二日経っても発見することは叶わなかった。戦況は再び膠着状態に陥り、その一方、会議室では醜い言い争いが繰り広げられた。国家の存亡の危機に、誰もが平静でいられなくなっていた。しかし。

 四日目の朝、暗雲に覆われた会議室に、突如、黒塵が立ちこめた。前触れもなく、背の高い暖炉の側壁が崩れ落ちたのである。将軍たちが手や外套で鼻口を覆う中、煤にまみれた男がひとり、そこから姿を現した。右足首にした添え木を包帯で幾重にも巻き、両手で床に突いた木の棒をしっかりと握りしめていた。髪も、顔も、衣服も、すべてが薄汚れていたが、彼らはすぐに気付いた。それが彼らの仰ぐ光、サイファエールの太陽であることに。

「……実のところ、余が王冠を被って良かったと思ったのは、あの時が初めてだったのだ」

 断崖を吹き上げる風に髪をさらしながら、イージェントは嬉しそうに言った。

「おぬしや侍従長や近衛兵団長の忠誠は疑いのないものだ。それは即位する以前からわかっておった。だが、他の者については……」

 イージェントと弟トランスはふたつしか年が離れておらず、兄より弟の方が快活で人望もあった。イージェント廃嫡・廃位の動きは、何かにつけ頭を擡げていた。

「ところがあの時、将軍たちは余を見るなり、涙で顔をぐしゃぐしゃにして……」

「陛下……」

「本当に心配をかけたが、余には必要な経験だった」

 力のない者が巨大な権力を背負わされてしまった時、それをどうやって維持し、ときに用いればよいのか。己の無力さを自覚していたイージェントは、素直に周囲の言葉に耳を傾けた。しかし、心の奥底には、常に劣等感を抱えていたのだ。

 踵を返し、灯台の中へ入ろうとして、イージェントは石畳の角につまずいた。一瞬、古傷に違和感を覚える。

「――おみ足は、まだ痛まれますか?」

 後ろから支えようとするウォーレイの手を断りながら、イージェントは小さく笑った。

「このような痛み、あの娘が受けた痛みには遠く及ばぬ。そもそも、このぐらいの痛みで済んだのも、彼女のおかげだったというのに……」

 行方不明となっていた三日間、国王の傍らにはひとりの娘がいた。戦場で将軍や近衛兵らとはぐれた後、彷徨している間に泥に足を取られたイージェントは、馬ごと崖から転落してしまった。幸い馬の上に落ちたので命に別状はなかったが、足首を捻挫し、自力での歩行は不可能となってしまった。そこに通りかかったのが、近くの村に住むレイミアという娘だった。見張り台にいる村の者に、家族の病気を告げに言った帰りだった。

 山中の樵小屋に匿われた国王は、怪我とそれからの発熱で即日の帰還を断念した。連絡を取りたいのはやまやまだったが、下手に動いて敵に見付けられては、それこそ目も当てられない。彼は、サイファエールの国王なのだ。レイミアも、男の衣装から国王とは思わないまでも、身分の高い者であることを察し、常に注意を払ってくれた。そして、そこで彼女の手厚い看護を受け、三日後、イージェントはなんとか足を引きずりながら、城内へと通ずる秘密の抜け道を通って、無事の帰還を果たしたのだ。

 国王の生還に活気づいた将軍たちは、「勝利は我が軍にあり!」とマラホーマ軍に奇襲をかけた。そして、ようやく長きに渡る戦いに勝利を得たのである。

 戦が終わった後、イージェントは大恩あるかの村娘を後宮に迎え入れようと思い立った。しかし、迎えの使者が村を訪れたところ、レイミアは嵐で氾濫した川に誤って落ちて死んだと告げられたのである。その報を受けたイージェントは、ひどく落胆し、彼女を偲ぶ碑をカイザール城塞の中庭に、祠を後宮の庭に建てた。

「――その娘が生きていたというのは、いったいどういうことなのです?」

 螺旋階段を昇りきり、展望台の部屋に入ろうとして、ウォーレイは足を止めた。室内に人影があったのだ。男は振り返り、二人に向かって一礼した。

「ミンタム殿……」

 イージェントを生まれた時から知る、侍従長だった。

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