第五章 嵐の兆し --- 1

 大きな出窓から外を眺めていた少女は、部屋に入ってきた貴婦人を見、慌てたように駆け寄った。

「母さま、父さまとイスフェル兄さま、どこへ行ったの!?」

 幼い娘の目線の高さに合わせて母親が膝を折ると、彼女はなおも言った。

「今日、イスフェル兄さまのお誕生日でしょう? エンリル、ちゃんとアレ、完成させたの。イスフェル兄さま、いつ帰ってくるの?」

 心配そうな少女の頬に手を当て、貴婦人は優しく微笑んだ。

「大丈夫ですよ。お昼には戻られるわ」

「ほんとっ!?」

「ええ――」

 言いながら、貴婦人の視線は窓の外に放たれた。彼方、緑に覆われたリオドゥルクの丘の上に、長き栄光とともに真白に輝くサイファエール王宮が見える。

(ついにあの場所へ行く日が来たのですね……。神よ、あの子をお守り下さい――)

 その微かに憂いの滲んだ美しい顔を、幼い娘は不思議そうに見つめていた。



 鞍上で空を振り仰いだイスフェルは、木の葉の間から漏れる春の陽射しに藍玉の瞳を細めた。

 オルヴァの丘の屋敷を出てから、随分と時が経っていた。てっきりゆかりの神殿で成人の儀をすると思っていたのに、先を行く父ウォーレイは、そこへの道をやり過ごし、それどころか昼間でさえ人気のないイズーリ山への道筋を辿った。

(父上はオレをどこへ連れて行くおつもりなんだ……?)

 そんなことを考えていると、ふいに父の姿が視界から消えた。慌てて馬を速歩はやあしで駆けさせ、父の消えた辺りで首を巡らせていると、横の斜面を小石が転がり落ちてきた。不審に思って見上げると、交錯する枝々の奥に、上方を目指す父の姿があった。

「………!」

 道もない急な斜面を、感嘆する以外にない手綱さばきで、宰相はさらに進んでいく。イスフェルは僅かに息を呑んだが、彼自身も馬術にはそれなりの自信がある。馬の上りやすい場所を選びながら、父の背中を追った。

 時折倒れた枯木に足を取られそうになりながら、ようやく平地に辿り着くと、父は既に馬を降り、崖の淵にその身を立たせていた。イスフェルは馬を降りると、呆然と父に近付いて行った。

(この山にこんな所があったとは……。それにしても、この美しさ……!!)

 空の青と、海の碧が視界を二分していた。その境界に、赤茶色の屋根々々や新緑の木々が線を引く。海にはいくつもの帆船が白い帆を広げ、潮風と陽光を十二分に受けて走り、垣間見える街道からは市場へ向かう人、神殿へ赴く者、鬼ごっこに興じる子どもらの声が風に乗って聞こえてくる。

(――平和とは、こういうものなのだ……)

 漠然と思って、なおもその光景に見入っていると、

「……三十年前と少しも変わっておらぬ」

 呟くような声に、イスフェルは父の顔を見た。

「あの日も今日と同じように晴れていて、王都の町並みがよく見えた」

 その時のことを思い出すように、ウォーレイは目を綴じた。

「父上……。では、ここは……」

 驚く息子に、ウォーレイは深く頷いて見せた。

「ここは私が成人した場所だ」

「―――」

「父が……おまえの祖父が言っていた。皆は成人の儀を神殿で行うが、我々執政官は神に仕えるわけではない。この国に仕えるのだ、と。だから、私もおまえをここへ連れてきた」

 イスフェルは思わず息を呑んだ。物心ついた時からずっと、王立学院に入ってからは特に、いつか父の後を継いでサイファエールの宰相になるのだと思ってきた。しかし。

(――オレに、本当にできるのか……? 父のように、正しき道へ人々を導けるのか……!?)

 ふいに湧き起こった不安にイスフェルが言葉を失っていると、父の手が彼の頭に乗った。横を向くと、父は穏やかに笑っていた。

「父上……?」

「ついこの間まで、こうしていたと思ったのに……」

 感慨深いのは、数十年振りにこの場所へ来たためだけではなかった。我が息子の成人を祝うことができるとは、一昔前まで思いも寄らなかった。イスフェルが生まれた日のことを、ウォーレイは日が昇ってから沈むまで、鮮明に覚えている。元気な産声を上げたこの息子が、彼を絶望の日々から救ったのだ。

 イスフェルには姉がいた。しかし、この世の光を浴びることなく《光の園》へ還り、医師は残酷にも妻ルシエンに子を成す力がなくなったと彼に告げた。ウォーレイは彼女の自害を恐れ告知しなかったが、やはり自分の身体のこと、薄々と気が付いていたのだろう。それから一年ほどして、彼女の方から離縁をせがまれた。宰相は世襲制で絶対嫡男が必要だから、私のことは忘れて他の女性と幸せになって欲しい――それが彼女の言い分だった。自分より弱い立場の女性を怒鳴りつけたのは、あの時が最初で最後である。彼女が、彼女抜きで自分が幸せになれると思ったことが悲しく悔しく情けなかったのだ。

 ウォーレイは諦めなかった。諦めたくなかった、と言った方がいいかもしれない。彼がルシエンと結婚したのは、世継ぎを生んでもらうためだけではなかった。人々に『テイランの大恋愛』とまで言わしめた彼女との出逢いは、そんな虚しいものではなかったはずだ。王宮で身を粉にしながら望む幸福な世界の住人に、自分と彼女も居ていいはずなのだから。

 しかし、ルシエンは理解してくれなかった。いや、頭では理解しても、心が許さなかったのだろう。時には泣き叫んで彼を避ける彼女を、ウォーレイはひたすら待った。報われる日が来るかどうかも分からなかったが、とにかく待った。今は亡き父の下、補佐官として国中を駆けずり回りながら、王宮で人々の間を奔走しながら――そんな日々が二年も続いた。

 その頃の彼は、とにかく疲れ切っていた。どこにも心の安まる場所がなかったのだから、それも当然のことだった。帰宅する馬車の中でふいに溢れた涙に、ようやく限界を覚り、その夜、ルシエンに実家へ帰るよう告げた。明朝、彼が目覚めた時、隣にあったはずの温もりは既になく、それからの三ヶ月を、彼は抜け殻のように過ごした。

 そんなある日のことである。誰にも干渉されたくないと下町の酒場で呑んでいたウォーレイが夜更けに屋敷に戻ると、家中の者が玄関で泣き崩れていた。家宰のセルチーオも、侍女頭のピルアも、厨房頭で豪放なはずのパレゴーネまでも。何事かと思って彼らを問いただしているうちに、そこにはいないはずの人間の顔を見いだして、彼は目を見開いた。そこに居たのは、ルシエンが一番信頼していた侍女リルルだった。彼女は彼の前に進み出ると、涙にうち震える声で叫んだのだ。

『ウォーレイ様、奇跡が起こったのでございます……!』

 最初、奇跡という言葉を笑い飛ばしたウォーレイだったが、リルルの話を聞くうち、思わず床にへたり込んでしまった。ルシエンが、王都から遠ざかるのを嫌がるように、僅かな距離に幾日もかけて進んでいたこと。夜、空を見上げては、王都からも同じ月が見えるだろうかと呟いていたこと。亡き娘の供養をしたいと、しばらく聖都に滞在することを決めたこと。そして、体調を崩し、診てもらった医師から突然の祝福を受けたこと――。

『奥様は待っておられます。ウォーレイ様のお許しを、お腹のお子様と御一緒に……!』

 それは、『テイランの大恋愛』第二幕の始まりであったのかもしれない。夜明けを待たず、ウォーレイは王都を飛び出した。早馬を使い、驚異的な速度で街道を南下し、チストンを過ぎた辺りで一台の馬車と擦れ違った。御者に名を叫ばれ、振り返った彼の瞳に――いったい何年ぶりだっただろうか――馬車から降りてきたルシエンの満面の笑顔が映った。

 それからの七か月は本当に早かった。絶対無事に生ませようと、とにかく気を遣った。が、その苦労も彼にとっては無上の喜びだった。そして十八年前の今日、イスフェルが生まれたのである。夫婦にとっては待ちに待った我が子の誕生――それも男児だった。迎えに飛び出した時でさえ、一応の政務を自分に課していたウォーレイだったが、ルシエンと生まれた赤ん坊を見た時、あまりの感動に出仕を一日すっぽかしてしまった。即日、宰相である父にひどい雷を落とされたことは言うまでもない。

(しかし……親というのは欲張りなものだな。すやすやと寝息を立てるのを見ていると、それまでただ無事に生まれてくるだけでいいと思っていたのに、生まれた以上は一角の人物になって欲しいと願うようになって……)

 そして実際、イスフェルは思い通りに――いや、それ以上に素晴らしい人間に成長してくれた。立派に、地に足を着けた人間に。

「おまえは、私の誇りだ」

 父の突然の言葉に、イスフェルは慌てて首を振った。

「有り難いお言葉ですが、私はまだ父上がいて下さらないと何も……」

「そんなことはない」

 ウォーレイにはわかっていた。いつかこの息子は、父が犯した幾つもの間違いに気付くだろう。そして、それを躊躇せず正していくだろう。

(それでいい。その確固たる意志こそ、おまえがひとを惹き付ける所以なのだから。いにしえわだちは、足を取るだけだ)

 ウォーレイは、懐中から額輪を取り出した。家紋を彫り込んだ金の輪の中央に、大粒の紫水晶が嵌め込まれてある。

「跪け、イスフェル」

 イスフェルは深呼吸すると、草の上に膝を着いた。すかさず父が言う。

「私に向かってではない。あの都――守るべき町並みに向かってだ」

「守るべき、町並み……」

「そうだ。町並みで笑いさざめく、守るべき人々に向かって」

 父が指し示す先に、イスフェルはゆっくりと身体の向きを変えた。

(この都で、この国で、この大地で平和に暮らす人々に向かって……)

 ふと、ひと月前の春の夜、ひとりの少女と共に『英雄へ』という歌を吟じた日のことを思い出した。あの日、彼は決意したのだ。鼠の名を知り、漁り夫の肉刺まめの数を知る――その苦労に必ず耐えてやる、と。自分の生きる道はそこにしかないのだから、と――。

「……父上、私は誓います。サイファエールの城壁となって、たとえこの身が砕けようとも、人々の幸福を守り抜くことを……!」

「その宣誓を、待っていた」

 ウォーレイは深く頷くと、黄金に輝く額輪を静かに息子の頭に載せた。



 サイファエール宰相家の歴史は、意外なほど浅い。

 イスフェルの曾祖父オファーマルは、トレストラ地方において中級貴族の出身であり、立身出世のために仕官することは、ごく普通の流れであった。ただ、彼は真に芯のある人物であった。王宮に仕官した者の大半が出世ばかりを望むのに対して、彼は出世した後のことまで考えていたのだ。

 宰相職は、もともと長く書記官を務めた者や、政において何かの功績を挙げた者が就くことが慣例であった。地方の官吏を十数年務めた後、宮廷書記官となったオファーマルは、その温厚な人柄と誠実な仕事ぶりで、着実に周囲の信頼を得ていった。そして宰相の病死に伴い、書記官長の後押しを得て、見事その座に就いたのである。

 しかし、当初の予定通り、彼は要職を得た喜びに浸るだけではなかった。持てる力を十二分に活かし、サイファエールの政治を動かしていったのだ。時には息が詰まるほど繊細になり、時には心が透くほど大胆になる彼を、周囲の人間は愛してやまなかった。

 そんな折り、隣国カルマイヤの侵攻があった。しかし、サイファエール軍はマラホーマ侵攻の最中にあり、王都はあっという間にカルマイヤ軍の包囲を受けた。親征のため、主も名だたる将も欠いた大都を、オファーマルは必死で守り抜いた。一時は王宮にカルマイヤ精鋭部隊の侵入を許したこともあったが、身を呈して王妃を守り、親征軍の帰還を待った。

 そうして数日後、急行したサイファエール軍によってカルマイヤ軍が敗走すると、オファーマルはその大功により、子々孫々までの繁栄を約束され、前代未聞の宰相職世襲制を許されたのだった。

「――父上、おじいさまは、初めて宰相職を世襲した者として、とても苦労なさったのでは?」

 オルヴァの屋敷に戻る坂を上りながらイスフェルが尋ねると、ウォーレイは宙を見つめた。

「父上が苦労を苦労と思っていたら、我がサリード家は今ほど大きくはなっていなかっただろうよ。子ども心に不思議だった。なぜそこまで楽しそうに仕事ができるのか、と」

「……父上もそう見えますが」

 イスフェルが首を傾げると、ウォーレイは少しはにかみながら笑った。

「そうか? では、父上もこんな心境だったのかな」

 それがどんな心境なのか、今のイスフェルには計り知れなかった。

 二人が屋敷の門に辿り着いた時、広い庭の彼方から明るい声が聞こえてきた。

「シェラード兄さま、たかいたかーい!」

「エンリル! しっかり掴まっておかないと落ちるぞっ」

 見ると、馬に乗った少女と、その手綱を引いて歩く若者の姿があった。

「シェラード!?」

 目を丸くするイスフェルに、ウォーレイが言った。

「せっかくだからな。私が一日だけ帰ってくるように言ったのだ」

 その時、鞍上の少女が二人に気付いた。

「父さま、イスフェル兄さま! おかえりなさい!」

 それを聞いて振り返った若者も、嬉しそうに叫ぶ。

「兄上!」

 お互いに歩み寄り、大理石造りの四阿あずまやの前で馬を降りた。

「シェラード、久しぶりだな。学院はどうだ?」

 イスフェルは弟を抱きしめると、同じ色の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。三つ年下のシェラードは目下、王立学院で勉学中の身だった。

「ちゃんとますよ。兄上こそ、レイスターリアは……いや、そんなことより、本日は御成人おめでとうございます。額輪、よくお似合いです」

 畏まるシェラードに、イスフェルは照れくさそうに額輪を撫でた。

「さあ、全員揃ったところでお昼にしましょう」

 ルシエンが盆を持った侍女たちを連れて来、四阿はにわかに活気づいた。真っ白な卓布の中央に君影草が飾られ、それを中心にルシエン手製のズシュール料理が並べられていく。シェラードが思わず歓声を上げた。

「母上の料理、久しぶりだ!」

「だから、美味しいかどうかはわかりませんよ」

 そんな妻の肩にウォーレイは手を乗せ、ひとつ頷いた。それだけで、彼女はイスフェルの成人の儀が滞りなく終わったことを察した。

 十数年前、二人に絶望の日々をもたらした医師の言葉は、イスフェルの後から生まれたシェラードとエンリルによって、すっかり無へと帰していた。

「――では、イスフェルの成人を祝して、乾杯!」

 父の言葉に家族全員が杯を打ち合わせる。ウォーレイは宰相としてサイファエールに繁栄をもたらし、ひとりの父親として自分の家族にも安らぎをもたらしていた。

「エンリル、イスフェル兄さまに贈り物があるの!」

 エンリルは侍女に部屋から取ってきてもらった物を、イスフェルに差し出した。彼がそれを広げてみると、金と銀の糸で宰相家の紋章が刺繍された、紫色の絹布だった。

「母さまに教えてもらって作ったの。初めて作ったからうまくできなかったけど……」

「エンリル……」

 イスフェルは妹の髪を優しく撫でた。

「ありがとう。大切に使わせてもらうよ」

 ルシエンは嬉しそうに頷くエンリルを微笑みとともに見遣ると、傍らに置いておいた銀の箱に手を伸ばした。

「イスフェル、私たちからも贈り物が」

 そして、それを夫に手渡し、受け取ったウォーレイは、イスフェルの前に置いた。

「開けてみろ」

 それに従って蓋を開くと、中には一本の短剣が収まっていた。柄の表には、エンリルが刺繍した模様と同じものが刻まれ、額輪と同じように紫水晶も嵌っている。

「これは……」

「母上の実家のあるズシュールでは、子が成人する時、父から剣や手刀を贈るのが慣わしなのだそうだ」

 ウォーレイが言い、ルシエンが続けた。

「イスフェル、これは心の剣です。守るべきものを守れるように。これから貴方が進む道は大変なものです。でも、私たちがいることを決して忘れないで下さい」

「はい……ありがとうございます」

 両親の思いを胸の中でかみしめると、イスフェルはその短剣をエンリルにもらった絹布で包んだ。

「――あ、兄上」

 思い詰めたようにシェラードが声を発し、突然、両手を卓にかけて立ち上がった。全員が驚いたように目を見開く中で、彼はイスフェルに向かって言った。

「わ、私も兄上のお力になれるよう頑張ります!」

「シェラード……。――クッ」

 思わずイスフェルは噴き出した。彼だけではない。ウォーレイやルシエンも声を立てて笑い出した。幼いエンリルだけが、きょとんとした表情で上の者たちを見回している。

「な、何がおかしいんですか!?」

「い、いや、何でもないさ。ありがとう」

 しかし、四阿の笑い声は、しばらくの間やむことがなかった。

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