第四章 風の旅人 --- 7

「セフィ……!」

 夕刻、セフィアーナが《月光殿》の裏庭を散策していると、遠くで彼女を呼ぶ声がした。振り返ると、神殿側の糸杉の木の下にエルティスの姿があった。

「エルティス、久しぶりね。元気だった?」

 歩み寄って尋ねると、エルティスは珍しく興奮したように口を開いた。

「そんなことより貴女、王都に行くことになったそうね!?」

「え、ええ……」

 その早耳なことにセフィアーナが驚いていると、黒髪の少女はさらにまくし立てた。

「ゼオラ殿下、貴女の歌と琴をいたくお気に召していらしたものね。すごいわ」

「ありがとう」

 その時、セフィアーナはあることを思い出して、その表情を曇らせた。

「――そうだわ。私、あなたに謝らなければならないことがあるの」

「え?」

「聖儀の前にもらったお香、寝る時にこぼしてしまって焚けなくなってしまったの。せっかくもらったのに……」

 それを聞いたエルティスの瞳が鋭く光った。

(……そうだったの。どこまでも運の良い……)

 しかし、セフィアーナは顔を俯けていたので、それに気付くことはなかった。

「ああ、いいのよ、そんなこと。私の方こそ、気を遣わせてしまって、ごめんなさいね」

「エルティス……」

 セフィアーナはほっと吐息すると、夕陽の沈む方へ歩を進めた。

「……ねえ、エルティス。私――ううん、私たち、どんな神官になると思う?」

「え……?」

 セフィアーナの突然の問いに、エルティスは緑玉の瞳を瞬かせた。そんな彼女に、黄昏の光を半面に受けた巫女は、さらに尋ねた。

「エルティスは、どういう神官になりたいの?」

「どういうって……」

 瑠璃色の瞳が真剣なので、エルティスは軽くかわすことができず、口を噤んだ。

(なんなの、急に。どういうって、そんなの決まって……)

 しかし、この時になって初めて、エルティスは自分に展望がないことに気が付いた。それもそのはずである。彼女は《太陽神の巫女》になるために聖都へやって来た。神官を目指してのことではなく、父の愛を得るために。だが、その夢は破れ、帰るべき場所を失った彼女は、仕方なく面倒を見てくれるという神殿に落ち着いたのだ。どんな神官になりたいかなど、考えたこともなかった。数日後に、《洗礼の儀》を控えているというのに。

「……王都に行く行かないの判断をね、アイゼス様は私に任せてくださったの。その時、私、この方みたいな神官になりたいなって思ったの」

 独り言のように呟くセフィアーナを、エルティスは少し思い詰めたような表情で見遣った。

「どういうこと?」

「リエーラ・フォノイが言っていたわ。私が……《太陽神の巫女》が王都に行くとなると、誰かの一存では決めることのできない大事なのに、それを当人に何の負荷も感じさせず選択させるなんてって。アイゼス様は、私が王都へ行くにしても聖都に留まるにしても、本人の意志に寄らなければ、そこで私が巫女として――神官として修行する意味がないってお考えらしくて。だから私、何にも囚われず、自分の好きな選択をできたわ。そういう、その人に良かれと思うことを自然に、お仕着せがましくなく施すのって、とても難しいことよね。ただでさえ神官は人々に頼られて答えを求められるうちに、自分が何とかしなきゃって思ってしまうものなのに」

 カイルのことに関して、確かにセフィアーナは視野が狭くなっていた。自分が彼の苦しみを解いてあげたい、解いてあげなければと、イスフェルに諭されるまで思い詰めてきたのだ。

「私が王都に行こうと決めたのはね、もっといろんな世界を見て、いろんなことを学びたいって思ったからなの。私は狭い谷の中で育ったから、知識も経験も殆どないわ。これじゃあ、とてもひとの力になんてなってあげられない――」

 最初はただ彼女を育て助けてくれた人々に恩返ししたいだけだった。巫女を志した時、それに何かができるかもしれないという自分自身に対する期待が加わった。周囲と自分を見ることが少しできるようになった。しかし、知識と経験が絶対的に足りていないことを、彼女は聖都を訪れてから痛感していた。

「私は、ひとの背中をそっと押してあげられるような、そんな神官になりたい。だから、王都へ行くの」

 セフィアーナは、無意識のうちに左手首の腕輪を握った。それを嵌めている限り、永遠に努力を怠るまいと彼女は決めたのだ。

(ほんの半月前まで、こんな景色見たことなかったのに……)

 ルーフェイヤの森の彼方に、フィーユラルの街並みが霞んで見える。それはくまなく夕陽に照らされて、まるで一日の汚れを浄めてもらっているかのようだった。近く赴く王都では、いったいどんな風景が待ち受けているのだろう?

「……ねぇ、セフィ。競争しましょ」

 それまで黙ってセフィアーナの話を聞いていたエルティスが、俄に口を開いた。

「競争?」

「ええ。どっちが早く、自分の理想とする神官になれるか。正直に言って、私はまだ理想像を描けてはいないけれど」

「……いいわ」

 エルティスは、力強く頷くセフィアーナの手を取った。今の時点で、彼女は大きく遅れをとっているかもしれない。しかし、今ならまだすぐに追いつけるはずだった。

 並び立つ二人の光と闇の髪を、金色の風が緩やかに靡かせた。



 蝋燭がジリジリと命を削る音を立てている。深夜、そのわずかな明かりを頼りに、アイゼスが自室で書物を読んでいると、既に休んだはずのルース・ロートンが困惑顔で姿を見せた。

「どうした? そなた、もう休んだのではなかったのか」

「それが……」

 言葉を濁す彼の後ろで影が動き、見知った女神官が姿を現した。リエーラ・フォノイである。しかし、普段、理知的で落ち着きのある表情は硬く、どこか思い詰めている様子があった。

「リエーラ・フォノイ?」

「夜分遅くに突然お伺いして、誠に申し訳ありません。どうぞお許しを」

 神の居ぬ間にそのしもべが何かと行動することは好ましいことではなく、どの神殿でも就寝時刻を過ぎての外出は禁じられている。それを十分承知の上で、しかし、リエーラ・フォノイは自室を出てきたのである。

「何かあったのか」

 しかし、ルース・ロートンの耳目を憚ってか、女神官は唇を引き結んだまま沈黙を保った。アイゼスは目線でルース・ロートンを下がらせると、彼女に椅子を勧めた。

「そなたが私に用があるということは、《太陽神の巫女》のことか?」

「……はい」

「セフィアーナがどうかしたのか」

 少女は王都行きを決め、意気揚々としているはずなのに、その先導役の表情の暗さに、《月光殿》の管理官は内心で顔をしかめた。

「………」

「リエーラ・フォノイ?」

 あまりにリエーラ・フォノイの口が重いので、アイゼスは小さく吐息すると、無理に話を促すことを諦めた。すると、ようやく彼女が口を開いた。

「……セフィアーナではありません。さきの《太陽神の巫女》、エル・ティーサのことで……」

「エル・ティーサ?」

 意外な名前の登場に、彼は二、三度瞬きした。

「――おお、派遣されたテティヌの大神殿で元気にしているのか?」

 その言葉に、女神官の黒い瞳が見開かれる。――知らないのだ、《月光殿》の管理官は。あの少女がどんな運命にあったかを。

「どうした? それとも、こちらに戻りたいと弱音でも言ってきたのか」

 堪えてきたものが、熱い銀の波となって体外に溢れ出た。

 あの日以来、リエーラ・フォノイは常に心に緊張を強いてきた。元気に暮らしているとばかり思っていたラフィーヌの異常な死。その衝撃だけでも受け止めがたいものなのに、彼女はさらに二次的な被害を阻止することも考えなければならなかった。少女を無惨に扱った者たちの、彼女とセフィアーナに対する口封じである。アイゼスの瞳を見れば、彼が嘘をついていないことはすぐにわかった。少なくとも、彼は敵ではない――その安心感が、彼女の脆い緊張の糸をぷっつりと切っていった。

「リエーラ・フォノイ……?」

 何事かと身を乗り出す管理官に、リエーラ・フォノイは嗚咽の混じった声で語った。

「……りました……」

「なに?」

「亡くなったのです、《祈りの日》の前夜……」

 おもむろにアイゼスの息を呑む音が室内に響く。

「そう、あの娘は昨年の《秋宵の日》の後、希望を胸にテティヌへ旅立ったはずでした。元気にしている、と手紙も来て……それなのに……!!」

「いったい何があったのだ」

 もはやこれまでと語調を強める彼に、リエーラ・フォノイも声を荒げて訴えた。

「あの娘が死んだのは! ……あの娘が死んだのは、《太陽神の巫女》の部屋です。この部屋の下の――」

「な、何だと!?」

「あの日の夜、床に就いたはずのセフィアーナの部屋から物音がして……」

 リエーラ・フォノイはすべてをアイゼスに話した。まるで襤褸布のようなラフィーヌが床に倒れていたこと。喉を潰され、神に捧げた美しい声を失っていたこと。彼女の腕の中で、静かに息を引き取ったこと……。

「……セフィアーナが言うには、ラフィーヌは声にならぬ声で、必死に何かを伝えようとしていた、と……」

 リエーラ・フォノイは首を振った。それはセフィアーナにだけではなかった。死の間際、何かを訴えようとしていたラフィーヌの沈黙の声を、彼女は汲み取ってやることができなかった。だからこそ、セフィアーナが王都へ行くと決めた今夜、アイゼスの部屋を訪ねようと決心したのだ。

「アイゼス様、私は突き止めたいのです。あの娘が何故あのような惨たらしい最期を遂げることになったのか……。でなければ、でなければいつまた同じ事が――」

 興奮し、声をうわずらせる女神官を、アイゼスは片手を挙げて制した。

「……セフィアーナは、彼女は死んだ少女が前の《太陽神の巫女》だと知っているのか?」

 リエーラ・フォノイは首を振った。

「今、《聖骸》はどこに?」

「ルーフェイヤの山腹に、私が独りで埋葬しました。セフィアーナにはきつく口止めしましたので、このことを知っているのは私たち三人だけです」

 アイゼスは大きく溜息を付いた。

「……そなたには辛い経験であったな。だが、よく騒がず賢明な対処をしてくれた」

「アイゼス様、私はどうしたらよいのでしょう?」

 思い詰めたリエーラ・フォノイに、しかしアイゼスは目を伏せ、首を振った。

「……何も」

「そんな!」

「リエーラ・フォノイ、よく聞くのだ。半年の間、苦楽を共にした少女を、そなたが見誤るはずがない。ということは、巫女の部屋で生命を落としたのは、間違いなくエル・ティーサなのだろう。その《太陽神の巫女》に選ばれた乙女が、神の恩寵を一身に受けた娘が、乞食のように身をやつれさせ、奴隷のような扱いを受けた傷を負い、まして喉を潰されていた!? 神のお膝元でそのようなこと、正気の沙汰ではない」

 アイゼスは立ち上がると、腕を組みながら窓際へと歩いていった。いつの間にか外では雨が降り出しており、曇った硝子を静かに濡らしていた。

「……おそらくその根は深く暗い闇にあるのだ。神の御光も届かぬ暗黒の谷に……。下手に動いては、そなたの身まで危険が及ぶ。よいか、決して軽はずみなことはしてはならぬぞ。そなたはセフィアーナとともに王都へ行くのだ」

「し、しかし、このままでは……」

 納得がいかないとばかりに唇を噛みしめる彼女に、アイゼスはふと思い付いて、紙と筆を差し出した。

「これは……?」

「テティヌのエル・ティーサに手紙を」

「は……?」

「内容は……今年の《尊陽祭セレスタル》のことなど――ああ、厳しい修行に堪える者への激励でもよい」

 リエーラ・フォノイは眉根を寄せた。

(アイゼス様は何を仰せなの……。ラフィーヌは死んでしまったのに。手紙を書いたところで、読む者など――)

 そこまで考えて、彼女はようやく了解した。

「それを受け取る者が重要なのですね……?」

 アイゼスは小さく笑うと、軽く顎をさすった。

「このくらいのことで尻尾を掴めるとは思ってはおらぬが……もしかすることもある。よいな、あくまで平常通りに動くのだぞ」

「御意」

 その後、リエーラ・フォノイが自室に戻る頃、雨足は風とともにいっそう激しくなり、人気のない廊下を歩む彼女の身を叩いた。部屋に入る直前、突き当たりの、テイルハーサの紋章が刻まれた扉に目を遣る。

(あんな思いは、もう二度としたくない……)

 その厚い木戸の向こうで静かに寝息を立てているだろう少女を、リエーラ・フォノイは必ず守ろうと心に誓った。



 春、サイファエールの街道は最も賑わいを見せる。巡礼から故郷へ帰る者、雪の戒めを解かれ商いを再開する者、生命の息吹を芸術に託して歩く者。そして、新たな決意を胸に旅立つ者も。彼らのすべてに、風は優しくも厳しくも平等に吹くはずであった。


【 第四章 了 】

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