第四章 風の旅人 --- 4

「巫女殿の歌声を、どうにか持って帰れぬものかな」

 そう言い残して、ゼオラは使節を率いて王都へと帰っていった。カルマイヤの使節は前日のうちに発っており、《月光殿》の閑散とした様子はまさに祭の後といった感があった。

「今年の《尊陽祭セレスタル》は、最初から最後まで例年と違っておりましたね」

 ルース・ロートンの言葉に、アイゼスは目だけで頷いて見せた。

(それもすべて、あの娘のおかげだ……)

 セフィアーナが町の人々を率いてルーフェイヤを登ったあの日から、いくつの無駄な壁が壊され、いくつの心が結ばれたことだろう。まだまだ立ちはだかる壁は星の数ほどもあるが、ひとつひとつでも壊さないことには始まらない。その先に、神の望む世界があるのだから。

「ところで、アイゼス様。ひとつ質問があるのですが」

「なんだ?」

「《太陽神の巫女》を《月光殿》で引き取るとデドラス様におっしゃったそうですが、なぜです? 《太陽神の巫女》は本来、《月影殿》がお世話するものですのに……」

 ルース・ロートンの言い様ももっともなことだった。この数十年、《太陽神の巫女》の世話と指導は、ずっと《月影殿》の担当だった。《月光殿》が政治家を相手にするのに対し、《月影殿》が神官の指導を請け負っていたためで、神に仕えるという点で神官も巫女も同じだからである。

 しかし、巫女を右翼に迎え入れることに前例がないというわけではない。古にはついの対立で巫女の奪り合いが起こり、その末に《月光殿》が、ということもあったし、落雷で倒れた大木が巫女の部屋に直撃したため、ということもあった。もっとも、今回のように《月影殿》の管理官が長期不在を理由に無理矢理、ということはなかったが。

「デドラス様が戻られた今、神官になられる巫女殿はあちらへ移られるべきでは?」

「ルース・ロートン、よく考えてもみよ。鳥は空に放たれてこそ、鳥たりえる」

 ルース・ロートンは目を瞬かせた。管理官の言うことがよくわからなかったのである。

「こう言ってはなんだが、《月影殿》で修行した《太陽神の巫女》の中で、幾人が立派な女神官として身を立たせている? 小難しい老神官たちばかりを相手にしておっては、セフィアーナの囀りはいつか失われてしまおう。彼女は稀代の巫女。そして、今度は稀代の神官となるのだ」

 納得し、深く頭を垂れるルース・ロートンを見ながら、アイゼスは深く吐息した。意識して、左手首をさする。

(自分が何者なのか、その答えを探し求めている少女……。もし、母が同じ《太陽神の巫女》で、ある日突然姿を消したと知ったら、いったいどうする? 教えるべきか迷っているのは、彼女が聖都から出ていってしまうのを恐れるからか、それとも私にまだ俗世に未練があるからなのか……)

 結局、アイゼスの口から少女に事実が伝えられることはなかった。しかし、幾らでもあった機会を自ら逃してしまったことを、彼はその後、深く後悔することとなるのだった。



 老人の、およそ老人とは思えぬ力に、カイルは思わずよろめいてしまった。

「おまえさん……!」

 まだ旅装も解かぬうちに突然、暴挙に出た夫を、マルバは驚いて見遣った。しかし、その様子には目もくれず、ヒーリックは眼前の青年を睨み付けると、腹の底から怒りの滲み出るような言葉を発した。

「わしらの心配を、おまえはこれっぽっちも考えなかったということじゃな」

 初めて向けられた養父の厳しい視線に容易に呑まれ、カイルは声も出せずに立ち尽くした。打たれた頬だけが、心臓の鼓動とともに熱を増していくように感じられる。

「確かにおまえは一年前、わしらの養子になった。だが、所詮は赤の他人じゃ。おまえが突然行方を眩まそうと、わしらに口出しする権利はないのかもしれん」

「ちょっとおまえさん!」

「おまえは黙っていろ」

 制止の声を上げる妻に見向きもせず、ヒーリックは言を次いだ。

「だが、おまえがこの家に戻ってきた以上、わしも言わせてもらうぞ。こんな勝手な真似は二度と許さん。それが嫌なら、今すぐこの家から、この谷から出て行け!」

 叩き付けるようにそれだけを告げると、老人は疲れた足を引きずるようにして自分の部屋へ閉じこもってしまった。残された二人の間に、沈黙が重くのしかかる。

「カイル……」

 きつく唇を引き結んだままの青年に、マルバは静かに声をかけた。

「あの人、ああは言ってるけど、本心じゃないのよ。ただ、寂しかっただけ」

 カイルが顔を上げると、養母は小さく笑った。

「おまえ、警備隊に勧誘されてるだなんて、一度も話したことなかったじゃないか。しかも、断っただなんて……」

 本来なら、警備隊の勧誘を受けるというのは名誉なことである。二つ返事で入隊するのが普通なのだ。それを、青年は再三に渡って断っていたという。

 カイルには、ヒース=ガルドの為人が、それに耐えうるものとわかっていた。彼は真の騎士で、勧誘はしつこかったが、それは聖都の中だけのことに留まっていたし、青年の拒絶には、我慢を余儀なくされた子どものような表情で応じていた。しかし、そのことをヒーリックに言えば、彼は青ざめてヒースに、いやその上の総督へ無礼に対する詫び状を書いただろう。支配階級にとっての一事は、平民にとって万事なのだ。

「オレは警備隊なんかに興味はないし、言ったら、じいさんがまた要らない気を遣うと思って……」

 マルバは小さく吐息すると、濡らした手布をカイルに差し出した。

「それでも言って欲しかったのよ。おまえが警備隊に入る入らないは別として。親子じゃないか」

「………」

 腫れた頬に当てた手布がひんやりと気持ちいい。それは徐々に彼の独りよがりな心にまで沁みていった。大切な人々に心配をかけ、それを紙切れ一枚でやり過ごそうとしていた自分が情けなかった。

 カイルはヒーリックの書斎の前までやって来ると、意を決してその扉を叩いた。返事はなかったが、鍵はかかっていなかったので、彼はそのまま部屋の中へ入った。

「じいさん……」

 老人は、窓辺に置かれた揺り椅子に身を委ねていた。

「心配かけて……悪かったよ。もうしないから……その、これからもこの家に居させて欲しいんだ」

 カイルはそう言って大きく息を吸うと、視線を床に落とした。

「オレを心配してくれる人なんて、もういないと思ってた……」

「……悲しいことじゃな」

 小さな溜息を漏らし、はじめてヒーリックはカイルを振り返った。

「ではなぜ一年前、わしらは家族になったんじゃ? なぜおまえはわしらの養子になった?」

「そ、れは……」

 一年前のあの日、この村で目覚めてから、彼は多くの優しさに触れてきた。養父養母は勿論、セフィアーナや孤児院の人々、そして村人たち。そして、いつしかそれがなくては生きられないということを知ったのだ。

「ばあさんの料理の味見をしたり、じいさんの仕事の手伝いをしたり……あの時間を、失いたくなかった」

「おまえ、ばあさんが納屋で転んだ時、とても心配してくれたな。わしが風邪で寝込んだ時も」

「……ああ」

「それはなぜじゃ?」

「なぜって、家族、だから……」

 言ってから、カイルは自分の口から何の躊躇いもなくその言葉が出たことに驚いた。その一方で、ヒーリックは彼に強く頷きを返した。

「そうじゃ。それがわかっていながら、その反対があるということに思い至ってくれなかったのは残念じゃな……。だが、ある意味、仕方がないのかもしれんな」

 ヒーリックは改めてカイルを見遣った。

「……おまえ、この谷に来るまで、ずっと独りで生きてきたのじゃろう?」

 不意を衝かれて、カイルは冴えた碧玉の瞳を見開いた。

「おまえの瞳は、はじめて谷に来た孤児院の子どもたちと同じじゃったからな」

「じいさん、オレは……」

 しかし、ヒーリックは息子の言葉を、手を上げて遮った。

「いいんじゃ。儂らは別に、おまえがこの家に居てくれるだけで――いや、居たいと言ってくれただけでいいんじゃ。他には何も望まん」

 セフィアーナと同じように、老人もまた、カイルが心に閉じこめてしまったものを打ち明けてくれるのを待っていた。しかし、彼が谷に居たいと言ってくれた時、いや谷に戻っているのを目にした時点で、それはどうでもいいことになったのである。大切なのは現在と未来であって、人間の手では変えようもない過去ではないのだ。

「カイル、悪いがな――」

 ヒーリックは揺り椅子の上で身を起こすと、痛みを訴え始めた膝をさすった。

「二、三日中にまた聖都へ発ってくれんか?」

「え?」

「シュルエ・ヴォドラスを迎えに行って欲しいんじゃ。聖都に村の者が何人か残っておるが、彼らだけでは心許ない」

 青年はゆっくりと首を振った。

「それは、じいさんに頼まれることじゃない。もともとオレは、そのために聖都へ行ったのに……」

 老人がカイルに向かって手を伸ばした。歩み寄ると、養父は老いた手で彼の頬を撫でた。

「今度谷に戻ってくるときは、わしの真の息子として戻ってきておくれ」

 その言葉に、青年はただ深く頷いた。

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