第四章 風の旅人 --- 5

「くそ……」

 ひとりの男の険しい顔が篝火の光に浮かび上がる。彼の背後では土を削る音、岩を砕く音が間断なく鳴り響いていた。時折、それらに混じって鞭の振り下ろされる音、低い苦痛の呻きや絶望の悲鳴も聞こえてくる。

「ドノール・エドラ……」

 呼ばれて振り返ると、見知った貧相な顔がそこにあった。

「何だよ、ファグニ・モートン」

 きつい口調で言い放つと、ファグニ・モートンと呼ばれた小男は、目下最もドノール・エドラが訊かれたくないことを尋ねてきた。

「あの女のこと……どうする? もう十日近くも経つのに、まだ見付からないぜ。まさか外に逃げたんじゃ……」

しっ!」

 ファグニ・モートンの後ろに人影を見て、ドノール・エドラは彼を制した。人影は彼らの同僚のもので、鞭の握りをしごきながらゆっくりと暗がりに姿を消していった。それを確認すると、ドノール・エドラは小男を睨み付けた。

「このバカ! 軽々しくあの事を口に出すな!」

「わ、悪い……」

 相手の静かな剣幕に身体を縮めると、ファグニ・モートンは上目遣いで彼を見た。その視線にいっそう苛立ちを募らせて、ドノール・エドラは頭を覆った聖布をかきむしった。

「……いや、まだ大丈夫だ。でそんな騒ぎは起こってない。あの女が逃げたことを知っているのはオレたち二人だけで、身代わりもすぐに立てた。誰にも気付かれていないはずだ」

「だけど……」

「つべこべ言うな! たとえあの女が外に逃げてようと、口が利けねえんだ。簡単にここのことを伝えられるもんか」

 吐き捨てるように言い、ドノール・エドラは背後を顧みた。鉄格子の向こうに、ひとりの少女が踞っている。と、身体を軋ませるような咳が彼女を襲った。

「……あの女も、胸の病を持ってた。案外、もうそこら辺で死んでるかもしれないぜ。とにかく、金輪際あの事を話題にするなよ。あの方に知られでもしたら、オレたちは終わりだ」

「わかったよ……」

 頼りなげに頷いて踵を返すファグニ・モートンの背を見送りながら、ドノール・エドラは内心で大きな舌打ちを漏らした。あれは、ほんの悪戯心だったのだ。

 長い間、光を浴びない土竜のような生活を彼らは強いられていた。自分たちの任務が重要であることは承知していたが、なにぶんまだ修行中の身である。暗闇の中、代わり映えのない毎日に、時としてどうしようもなく心を腐らせた。

 そんな折り、ひとりの少女が閉じ込められた独房の存在を知ったのだ。ある夜、二人は同僚の目を盗み、その独房に入った。驚愕に目を見開く彼女を押さえつけると、彼らは代わる代わる彼女の身体を貪った。報われぬ日々が、若い彼らから神への忠誠心を奪い、悪魔へと貶めたのだ。

 その後も幾度となく背徳行為は繰り返された。しかし、聖日を間近に控えた朝、事件が起こった。欠伸を噛み殺すのに必死なドノール・エドラに、顔面蒼白にして息を切らしたファグニ・モートンが言ったのだ。あの女がいなくなった、と……。

 慌てて独房に行くと、確かにそこは蛻の殻となっていた。詰め寄るドノール・エドラに、貧相な小男はあっさりと白状した。抜け駆けで、少女の独房に行ったのだ。そしてそこでいつの間にか眠ってしまい、気が付いたら少女がいなくなっていたというのだ。

(なんでファグニ・モートンなんかと一緒に……)

 彼が今後悔するのは、無抵抗な少女を犯したことではなく、無能な男と行動を共にしたことだった。

「いっそのこと、オレも逃げるか……」

 ドノール・エドラは半ば真剣に呟くと、荒い岩肌の天井を見上げた。

 彼は知る由もない。自分が残酷に扱った少女が神の娘であったことを。そして、今見つめる数十ピクト上方で他に比類無くそびえる大神殿において、新たな神の娘がその過酷な運命に足を踏み入れようとしていることを。



「《太陽神の巫女》よ、前へ」

 老神官の威厳ある声に、セフィアーナは《正陽殿》の深紅の絨毯を進んだ。

 見事、聖儀を成し終えた巫女に対して行われる《栄光の儀》は、今年も例外なく、しかも例年以上の期待を込めて行われることとなった。

 少女の両側には聖都の主立った神官らが立ち並び、その歩みを目で追っている。祭壇の前まで来て、彼女は跪き、頭を垂れた。

 テイルハーサ教の総本殿だけあって、《正陽殿》の祭壇は尋常の大きさではなかった。直径が二十五ピクトほどもある円錐状の黒大理石の周囲を、同じく黒大理石の十二聖官せいがんの彫像が正絹の衣を纏い、ルーフェイヤ聖山に配された神殿と同じ位置で取り囲んでいる。頂には《天の光セイファス》が灯され、人々の祈りを導いていた。

「《十二の誓い》を」

 再び指示する声がかかり、セフィアーナは暗記した聖詞をつむいだ。

「人々に安らぎを

 人々に活気を

 人々に徳を

 人々に新風を――」

 彼女の言葉に合わせ、十二聖官がその手に持つ燭台に、四人の女神官たちが火を灯していく。

「人々に勇気を

 人々に意志を

 人々に希望を

 人々に豊饒を

 人々に夢を

 人々に破壊を

 人々に友愛を」

「汝には?」

 間髪入れず、彼女の上方で《月光殿》の管理官の声がし、セフィアーナが顔を上げると、いつの間にかアイゼスが祭壇の前に立っていた。

「……『誠実なる生を』」

 それは、《聖典》の中で己の力に惑った刻の聖官システィに月の聖官ミーザが放った言葉だった。その答えにアイゼスは満足したように頷き、彼女を立たせた。

「これは、そなたと『誠実なる生』をつなぐ勇気の枷だ」

 そう言って、アイゼスはリエーラ・フォノイが捧げ持ってきた銀の聖盆からひとつの腕輪を丁寧に取り上げた。

「神が眠りに就かれる《秋宵の日》まで……いや、神によって灯を消されるその日まで、そなたは《太陽神の巫女》である。そのことを決して忘れぬように」

「はい……」

 セフィアーナは自分の左腕に嵌められた腕輪を見た。銀で作られたそれには、テイルハーサの紋章が全面に彫られてある。巫女として賜った栄誉は永遠に続くものであり、銀の腕輪はその者の手首から一生抜き取られることはない。

 ふいに傍らで風が動き、セフィアーナが視線を転じると、そこにひとりの神官が立っていた。がっしりとした体躯で、彫りの深い顔に茶色い髭を生やしている。その蒼氷色の瞳には、見る者すべてを萎縮させてしまうかのような強烈な光があった。

 彼と面識はなかったが、アイゼスと同じ衣装からすぐに誰であるかを知り、少女は慌てて身を屈めた。

「デドラス様、初めてお目にかかります」

「よい、面を上げよ」

 低く穏やかな声を受けてセフィアーナがおそるおそる顔を上げると、デドラスは彼女の白い手を取り、今し方嵌められたばかりの銀の腕輪に視線を落とした。

「そなたには詫びねばならぬと思っていた。本来、《太陽神の巫女》は、我が《月影殿》がお世話申し上げるよう神から仰せつかっておったのに」

「いえ……アイゼス様に良くして頂きましたから」

「そのようだな」

 アイゼスの物言いたげな表情に気付いていたが、デドラスはそのまま続けた。

「そなたの魂は人々に安らぎを与え、歌声は人々の心を神の御許に誘うものだ。聖儀で神の御光を浴びた誇りを忘れず、常に強く在れ。人々を、そして己自身を神に近付けられるように」

「は、はい……!」

 デドラスが帰都してからこの日まで謁見が叶わなかったことを多少案じていたセフィアーナだったが、彼の思いも寄らぬ謝辞と激励に大きな感銘を受けた。

 その後、臨席の神官らとしばらく歓談し、それからセフィアーナは自分の部屋に戻るために《正陽殿》を後にした。しかし、

「あら……?」

 いつもと雰囲気の違う廊下に、セフィアーナは間違えて《月影殿》への出口を通ってしまったことに気付いた。外交を司り、そのために人の出入りが激しい《月光殿》に比べ、《月影殿》は耳が痛いほど静まり返っており、まるで侵入者を拒むかのようだった。

 神官たちは自らが所属する神殿以外にむやみに立ち入ることはなく、セフィアーナも今日まで《月影殿》に足を踏み入れる機会がなかったので、清閑どころか息の詰まるようなその空気に容易に圧倒されてしまった。本来はここで聖儀のための修行をするはずだったのかと思うと、セフィアーナは少し身震いした。思わず裏庭の方へ足を転じた時、

「《太陽神の巫女》?」

 背後で訝しげな声がし、セフィアーナが振り向くと、凄烈な印象のある顔が自分を見つめていた。

「貴女は……」

 廊下から庭へと抜ける風が、女の漆黒の外套を揺らめかせた。

「《光道騎士団》のサラクード・エダルです」

「もちろん覚えています」

 セフィアーナも名乗りを返すと、女聖騎士は再び首を傾げた。

「このようなところで如何なされました?」

 セフィアーナは赤面した。

「あ、あの、出口を間違えてしまって……」

 一瞬、サラクード・エダルが真顔に戻るのを見て、いっそう恥ずかしくなったセフィアーナは俯いた。

「西と東もわからないなんて、ホントに情けないんですけど……」

「貴女は……」

 喉を鳴らして笑う彼女を、セフィアーナは唖然として見上げた。

「すみません。先日の印象と随分違うものですから」

 それはセフィアーナも同じだった。ヒース=ガルドに対した彼女の闘志は、もはや祭に相応しいものではなかった。敵意や殺気というものがどのようなものかセフィアーナは知らなかったが、その禍々しい気配を十分に感じ取っていた。しかし今、目の前にいる彼女からは、まるでそれを感じることができない。

(あれは、錯覚だったのかしら……?)

 その時、ようやく笑いを収めたサラクード・エダルが言った。

「セフィアーナ、もし宜しければ庭を案内しましょうか?」

「え、良いんですか?」

 意外な申し出に瑠璃色の瞳を見開く少女に、女聖騎士は軽く首を竦めた。

「良いも何も、デドラス様のお帰りが早ければ、とうに愛でておられた庭ですよ」

 導かれて庭に降り立ったセフィアーナを、色とりどりの花が迎えた。

「わあ……!」

《月光殿》の庭が立ち木を中心に配しているのに比べ、《月影殿》の庭は花や草が主に用いられていた。

「ここの庭は朝陽が照らしますが、《月光殿》の方は夕陽が照らすでしょう? 夕陽はそれ自体に色が付いておりますので、花を植えても本来の色が映えません。それであちらには立ち木が」

「そうなんですか……」

 花の名を呼びながら歩むセフィアーナの後ろで、サラクード・エダルは、その左手に光る腕輪を見た。先刻の儀式を、彼女は参列はせず、列柱の陰から見ていた。

(あの腕輪の下に、あの時の傷が……)

 先日の武道会で自分の手に付けられた血を、彼女はすぐに洗い落とした。同僚には聖なる血だ浄化の血だと羨ましがられたが、彼女にはなぜかその存在に耐えられなかったのだ。

「サラクード・エダル?」

 いつの間にか自分のところにやって来ていた少女に顔を覗き込まれ、サラクード・エダルは慌てて表情を戻した。

「あの……お訊きしてもいいですか?」

 セフィアーナがおずおずと言うと、サラクード・エダルは逆に聞き返した。

「当てましょうか?」

「え?」

「『なぜ女だてらに《光道騎士団》に』でしょう?」

 ずばり言い当てられて、セフィアーナは言葉を失った。

「みな、巫女殿のように単刀直入に訊いてくれれば有り難いんですが」

「あの……ごめんなさい」

 セフィアーナが頭を下げると、さして気にしていないように女聖騎士は頭を振った。

「かまいませんよ。私はペイデット地方のカマエラという小さな村で育ちました。私の父はそこの礼拝堂の守人だったんです。それで、私も神の道に」

「剣は騎士団で?」

「まさか。入団するには既にある程度の技量がないといけないのです。剣は村に小さな道場があって、そこで覚えました。男の子よりも強くて、それで騎士団でも通用すると勝手に思いこんでここへ」

「まあ! でも、見事に聖騎士になったわけですね。貴女の剣技は素晴らしいってゼオラ殿下がおっしゃってました」

 セフィアーナの言葉に、今度はサラクード・エダルが目を見開いた。

「王従弟殿下は天下無双の猛者。かの御方に認めて頂けるとは心強い――あの石像がどなたかわかりますか?」

 彼女が指を指す先を見て、セフィアーナは頷いた。

「勿論です。大地の女神テルアーナ」

 周囲に群がる花に水をやろうとしているのか、彼女の手の中には水差しがある。

「私の名前の由来なんです」

「ああ、それで。……貴女も誰かを諭すことが?」

 彼女の冗談めかした言い方に、セフィアーナは笑った。テルアーナは狩猟の聖官ホレスティアの姉で、《聖典》の中でも無鉄砲な弟を捕まえては説教をする場面は有名である。

「私にはまだそんな力は。これからできるように頑張ります」

 セフィアーナが石像の土台を撫でながら言った時、突然、手に触れていた部分が奥に引っ込み、均衡を崩した彼女は思わず倒れ込んでしまった。

「セフィアーナ!」

 少女に駆け寄ったサラクード・エダルは、彼女を助け起こしながら、内心で大きな舌打ちを漏らした。まさか、彼女がその部分に触れるとは思わなかった。

「な、なに……?」

 突然、目の前に出現した穴に、セフィアーナは息を呑んだ。土台にぱっくりと空いたそれは、人がひとり通れるほどの幅がある。その先に道があるのか、そこから吹いてきた微かな風が彼女の蜜蝋色の髪を揺らせた。

「これ、どこかに通じているのかしら……?」

「危ない!」

 覗き込もうとする少女を、サラクード・エダルは肩を掴んで制した。その鬼気迫る口調にセフィアーナが驚いたように振り仰ぐと、女聖騎士は険しくなった浅葱色の瞳を慌てて緩めた。

「……これはおそらく、忌むべき古の通路です」

「い、忌む……?」

「貴女も聖都の歴史は御存知でしょう? その昔、ここは二大国に挟まれた小さな国でした。もし攻め入られた時、聖旗や神像を秘かに持ち出せるように、神官たちは神殿の中に秘密の通路を造った、と」

 巫女の修行の時に読んだ歴史書の中にそんな記述があったことを、セフィアーナはようやく思い出して息を呑んだ。

「これが……」

「幸い使われることもなくなって久しいですから……おそらく途中で土で埋まってしまっているでしょう。好奇心を起こして中に入ったりしないでくださいね。生き埋めになっても、誰にも気付いてもらえませんよ」

「まさか、そんなことしません」

 笑いながら立ち上がると、セフィアーナは裾子スカートをはたいた。

「でも、こんなところがそこここにあったら危ないですね」

「ある程度は調査して塞いだらしいのですが……。ここのことは私におまかせを。責任を持って塞ぎます」

「はい。よろしくお願いします」

 ふたりして頭を下げ合っていると、回廊からヒース=ガルドが姿を現した。

「探しました、よ……」

 言いかけて、少女の後ろの人物が誰か気付き、セレイラ警備隊の副長は意味深げに唇を擡げた。

「これはこれは……意外な組み合わせですね」

 それまで和らいで空気が一気に不穏なものへと変化し、セフィアーナははらはらしながら二人を見遣った。

「おぬしこそ、ここで何をしている。《月光殿》は反対側だ」

 女聖騎士の剣呑な物言いに、ヒースは首を竦めた。

「私は巫女殿に伝言が」

 言ってセフィアーナに耳打ちする。

「来ましたよ、カイルが。総督府に」

「えっ!?」

 セフィアーナが声を上げて見返すと、ヒースは深く頷いた。

「――私、行かなきゃ……」

 呆然と呟くもすぐに気を取り直すと、セフィアーナはサラクード・エダルを見た。

「サラクード・エダル、急用ができたので、これで失礼します。案内してくださって、どうもありがとうございました」

 頭を下げるなり走り出した少女の背を、ヒースは困惑した表情で見つめた。

「ずっと走って行くつもりか……?」

 その時、無言のままサラクード・エダルが立ち去ろうとし、彼は慌てて呼び止めた。

「おぬしが庭を案内? 花の名前も知らないのに?」

「おぬしはたくさん知っておろうな。おぬしを巡る妓女たちの流血騒ぎは神殿にまで聞こえているぞ」

 痛烈な反撃を受けて唇をへの字に曲げると、ヒースはそそくさとその場を後にした。

 後に残されたサラクード・エダルは、男が回廊に消えるのを見るとすぐに踵を返した。目指したのは、テルアーナの石像の土台に空いた穴だった。

(どうにか気付かれなかったようだな……。巫女が余計なことを言わなければいいが、まぁ、すぐに埋めればいいことだ。出入り口は他にもある)

 辺りに人影がないのを確認すると、ついさっきセフィアーナに入るなと注意したばかりの穴に、彼女は何の躊躇いもなく入っていった。

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