第四章 風の旅人 --- 1
「え?」
瑠璃色の瞳に驚きを露わにして、セフィアーナは眼前の総督を見た。朝早く彼女の部屋を訪れた彼に、意外なことを言われたのである。
「わかったのだよ、カイルの居場所が」
「で、でも、ディオルト様がどうしてそれを……?」
いかにも不審そうな彼女に、ディオルトは軽く肩を竦めた。
「シュルエ・ヴォドラスに頼まれたのだ。彼女では、貴女にお会いするのに時間がかかりすぎる」
「そう、ですか……」
確かにカイルの居場所が判ったらすぐ報せると言っていたが、まさか昨晩の今朝で報せが届くとは思いもしなかった。それどころか、こちらから報せないといけないと思っていたくらいなのに。
「カイルは今、リーオだ。先に谷へ戻っている、と」
「………」
「巫女殿?」
少女の表情が安堵とは無縁なのを見て取って、総督は眉根を寄せた。旧知の青年の行方を憂いていたのなら、もっと明るい顔をしてもいいのではないだろうか。しかし、セフィアーナは暗い顔のまま、形のいい唇に手を当てて言った。
「それは、ティユーが……谷の鳥が報せて来たのでしょうか?」
「ああ、そう聞いているが?」
瞬間、セフィアーナの心に生じた疑惑をいっそう強めた。
(……おかしいわ。ティユーの手紙は一通しかなかった。もし先にデスターラ神殿に寄ってきたのなら、院長先生は私宛の手紙が入っていることにも気付いたはず。それをディオルト様を煩わせてまで報せて来たということは、神殿にティユーが行った時、手紙は一通しかなかったということだわ。でも、そうしたら、手紙は一通一通運ばれたことになる……)
しかし、いくら人狩鳥でも、一晩にリーオから聖都まで二往復することは不可能である。
(……まさか、まさかカイル、リーオじゃなくて、もっと近いところにいるんじゃ……?)
物思いに沈む巫女を前にして、総督は大きく息を吐き出した。
「……しかし、カイルも意外と勝手なことをするものだな。誰にも何も言わず、都を出るなど……」
その言葉に、セフィアーナはカイルが聖都を出奔した理由を思い出した。
「ディオルト様は、カイルがいなくなった理由を御存知ですか?」
「いや?」
それは、駐屯部隊の副長がカイルに付きまとっていたからであるが、彼の驚いた様子を見ると、どうやら知らないようである。セフィアーナは告げるべきか迷ったが、結局、今後のことも考えて言うことにした。
「――なに、ヒースが?」
「その方は、ヒース様とおっしゃるのですか?」
「うむ……しかし、まさかヒースのせいとは。確かにあやつ、私を助けてくれた時のカイルの強さに惚れ込んではおったが……」
首を傾げるディオルトに、セフィアーナは言葉を重ねた。
「カイルは谷で暮らすことを……望んでいます。これ以上、無理なお誘いは――」
「本当にそれだけなのかね?」
総督の疑問の声に、セフィアーナは思わずどきりとして顔を上げた。
「え?」
「カイルがいなくなった理由は」
総督の知る限り、カイルは個人的な理由で他人に迷惑をかけるような性格ではない。副長に追い回されたくらいで、青年が聖都を飛び出すとはとても思えないのだ。
「彼の手紙に、そうありました」
「そうか……」
溜息とともに深く沈んだディオルトだったが、ふいに膝を打って明るい声を上げた。
「では、巫女殿直々にお諫めくだされ。ヒースは今、下におります」
「えっ?」
「私としても、カイルが聖都に来なくなっては困るのでね。フィオナの機嫌が悪くなって」
言いながら立ち上がる総督を、セフィアーナは呆気に取られて見つめていたが、すぐに彼の後を追って戸口を出た。
二人が《月光殿》の一階の玄関広間に降りていくと、壁際の長椅子に座っていた男が立ち上がった。
「閣下、もうお済みで?」
「いや、まだだ」
歩み寄ってきた男にディオルトは首を振ると、少女を振り返った。
「巫女殿、これが例の、セレイラ警備隊の副長を務めているヒース=ガルドだよ」
「例の」という言葉に目を瞬かせている男を、セフィアーナは少し意外そうに見遣った。駐屯部隊の副長というから、どんな屈強な男かと思いきや、背格好はカイルに及ばず、その表情に至っては絶えず微笑が口元にあり、一見するだけでは兵士どころか神官のようである。年齢もまだ三十には達していないのではないだろうか。
「ヒース、こちらはセフィアーナ殿。今年の《太陽神の巫女》だ」
「えっ……」
《太陽神の巫女》の突然の登場に、ヒースは大きく淡紫色の瞳を見開いた。
「貴女が……。はじめまして、ヒース=ガルドです。お会いできて、誠に光栄です」
その穏やかな話し方に、セフィアーナは内心でいっそう驚きつつ、軽く会釈した。
「巫女殿がおまえにお話があるというのでお連れしたのだ」
「私に?」
ディオルトの言葉に、ヒースはセフィアーナを見た。噂には聞いても、実際に会ったのは、つい今し方だ。聖儀の時、彼は警備のために《正陽殿》から遠く離れたところにいて、遠目にも彼女を見ていない。それなのに、いったい彼に何の話があるというのか。その彼に、巫女はおずおずと話を切り出した。
「あの、ヒース様はカイルのこと、御存知ですよね?」
「ええ。……ああ、そうか。貴女は彼と同じ村の御出身でしたね」
ヒースは納得したように大きく頷いた。
「カイルの武芸の腕前は、我が警備隊の欲するもののひとつです」
「あの、ヒース様。そのことなんですけど……」
あっさりと、しかし力強く言い切る副長に、セフィアーナは小さく息を吸い込んで、意を決したように口を開いた。
「彼は、谷での暮らしを望んでいるんです。もう二度と今回みたいなことが起こらないために、警備隊への勧誘はもう……」
すると、ヒースは一瞬きょとんとした顔をして、首を傾げた。
「もう、とおっしゃられましても……え? では、カイルが突然いなくなったというのは、私が原因だと……?」
「どうやらそうらしいぞ」
総督が首を竦めると、ヒースは穏やかな顔を少し歪めた。
「そんな! 今年に入ってから、まだ彼と会ってもいないというのに……」
「……え?」
「それとも、昨年のことが相当腹に据えかねていたのかな。彼を見かける度に捕まえて言っていたから……」
半ば独り言のような彼の呟きを、セフィアーナは慌てて遮った。
「ちょっと待って下さい。今年に入ってから、カイルとまだ会ってないんですか……!?」
ヒースの首が縦に振られるのを見て、セフィアーナは額に手を当てた。
(どういうこと? ヒース様が原因というのは、まさか……嘘、なの?)
聖都に来れば、またヒースの勧誘を受けることは、カイルにはわかっていたはずである。しかし、カイルはそのことについて何も言わず、彼女とともにフィーユラルへとやって来た。そしてさらに、金銭を稼ぐためにケルストレス祭への参加も決めた。そんなことをすれば、警備隊の誰かに見付けられることは明らかなのに。つまり、勧誘問題は彼にとって大したことではなく、いつでもやり過ごせることだったのである。それでは何故、そんな嘘をついてまで、彼は聖都を出てしまったのだろう……?
「巫女殿?」
再び深刻に考え込んでしまった少女を元気づけるように、ディオルトが言った。
「カイルが谷へ戻ったというのは、確実なのだろう?」
「わ……わかりません」
今となっては、青年の言葉のどこに真実を見いだせばいいか、彼女にはわからなかった。
「……ディオルト様、お願いがあります」
「何だね?」
「カイルが……もし今度カイルが聖都へ、総督府へ来たら、必ず私に報せて下さい。お願いします!」
彼女の切羽詰まった様子にただならぬものを感じつつも、総督は深く頷いた。
「……さて、貴女も多忙な身の上だ。私たちはそろそろお暇しよう」
歩き出した二人を見送るため、セフィアーナも入口に向かった。
「あの、お忙しいのにわざわざお越し下さって、ありがとうございました」
「いや、なに、こちらとしても、貴女にこうしてお会いできて嬉しいのだよ。貴女は稀有な存在だ」
優しげに微笑むディオルトに、セフィアーナは首を振った。自分は稀有などではない。数日前までは、一介の村娘だった。ある朝、神に歌を捧げた、ただそれだけなのだ。そして、未だカイルの本当の信頼も得られない、未熟者なのだ。
二人の背が、《光の庭》で神の祝福に包まれていくのを見ながら、セフィアーナはそれに枯葉色の髪の青年の背を重ねた。
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