第三章 春宵の夢 --- 7

 木々の間に立ち籠める朝靄が陽光をはらんで白く輝き、辺りに幻想的な世界を作り出している。

 セフィアーナは、編み終えたばかりの白い花輪を持って森の中に入ると、道からは死角になっている崖下の草地に降り立った。そこで数千の青葉を茂らせるマローバの樹の下に、積み重ねられた石の墓標がある。彼女はその前の地面に膝を付き、花輪を供えると、両手を胸の前で組んだ。

 昨夜、王都の青年と別れた後、山道を登っていたセフィアーナは、偶然、この場所へやって来た。そして、そこで少女の行方を案じて途方に暮れるリエーラ・フォノイと出くわしたのだ。最初、彼女はセフィアーナには気付かず、樹の根元に跪いて祈りを捧げていた。怪訝に思った少女が背後からそっと覗くと、女神官の向こうには石塚があり、彼女はそれに向かって幾度となく繰り返していたのである。「どうか、セフィアーナが無事に戻ってきますように」と……。

 その石塚は、《祈りの日》の前夜に亡くなった少女の墓だった。なぜリエーラ・フォノイがその場所で祈っていたのか、セフィアーナは知らない。しかし、そんなことより、彼女の身を必死で案じていた女神官に、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。そして、そんな彼女に嘘の芝居をすることなどできるはずもない。

 セフィアーナは、振り向いたリエーラ・フォノイに涙を流しながら許しを請うと、《月光殿》を抜け出した理由を打ち明けた。女神官はそれを黙って聞いていたが、彼女を叱るようなことはなく、翌日の予定だけを告げて神殿へと戻って行ったのである。

「……迷惑をかけてごめんなさい。どうか、安らかに……」

 その時、草を踏む音がして少女が振り返ると、いつの間にかリエーラ・フォノイが朝露に聖衣の裾を濡らして立っていた。

「リエーラ・フォノイ……」

 セフィアーナは立ち上がって石墓の前を空けると、リエーラ・フォノイはそこに進み出て膝を曲げ、しばらくの間、祈りを捧げた。

「……この花輪、貴女が?」

「あ、はい……」

 ふいに声をかけられて、セフィアーナは慌てて頷いた。

「そう……ありがとう」

「い、いえ……」

 無論、礼を言われるために編んだわけではなく、さらにそれをリエーラ・フォノイから言われ、セフィアーナはとまどった。

「……あの、リエーラ・フォノイ」

 セフィアーナは深く息を吸い込むと、反省した面持ちで女神官を見た。昨晩のことを、もう一度、陽のある場所で謝したいと思ったのである。

「昨夜は本当に御心配をおかけして、申し訳ありませんでした。私、自分勝手ことを……」

 すると、リエーラ・フォノイは立ち上がり、少女を真っ直ぐに見つめて言った。

「ええ。方法としては、とても誉められるものではありませんでしたね」

 その言葉に、セフィアーナは改めて唇を強く結んだ。確かに一夜明けた今、冷静に考えると、愚かな考えなしの行動だったと思わずにはいられない。しかし。

「……けれど、近しい者に何かが起きているというのに、それを知らぬ振りをしておく者に《太陽神の巫女》は務まらないでしょう。巫女は飾り物ではないのですから。少なくとも私はそう思います」

 意外に賛同する意見を言われ、少女は驚いてリエーラ・フォノイを見た。

「その気持ちを大切に。それにこそ、貴女が《太陽神の巫女》に選ばれた理由があるのだから」

「は、はい……!」

 まさか養母と同じ言葉で励まされるとは予想していなかったが、ダルテーヌの一少女としての感情の存続を認められ、セフィアーナは嬉しかった。

(何も捨てる必要なんてないんだわ。ただ、今までのやり方では、私が《太陽神の巫女》に選ばれた意味がないのね。私にはその責任と期待がかかっているのだから……!)

「さあ、上に戻りましょう。ここに長居はしないように」

 言って歩き出したリエーラ・フォノイの後を、セフィアーナは慌てて追った。

「リエーラ・フォノイ。あの、彼女のことは、もうアイゼス様に……?」

 途端、女神官は歩みを止めた。理知的な顔が険しく歪む。

「……セフィアーナ」

「は、はい」

「いいですか。神殿を出る時は、私に必ず声をかけるように。それと……神殿内でも、あまり一人で歩かないように」

「え……」

 困惑した表情を浮かべる少女に、女神官はさらに言を次いだ。

「貴女を怖がらせたくはないのですが、かの少女が貴女の部屋で尋常でない死に方をしたのには、きっと何かの理由があるはずです。それ自体は貴女に直接関係ないことかもしれませんが、世の中には誤解という言葉が存在します。巻き込まれたりしないよう、十分に注意しなければなりません」

 突然の警告に、セフィアーナは軽く息を呑んだ。かの少女が《太陽神の巫女》の部屋で生命を落としたことにそんな可能性があるとは、平和な村で育った彼女には思いも及ばない。

「……わ、わかりました」

 半ば呆然とした様子の少女を、リエーラ・フォノイは深刻な表情で見つめていた。

(ええ、きっとこの娘は無関係。まだ、シリアからやって来て十日と経っていないのだから。けれど、エル・ティーサは……ラフィーナは巻き込まれてしまった。あの娘に何があったか……必ず突き止めなくては……)



「なに、もう王都へ発つのか?」

 朝食を終えたばかりのゼオラに謁見を求めたイスフェルは、午前中のうちに聖都を出立する旨を伝えた。

「もう少し滞在していたいのはやまやまなのですが、後が支えておりますので……」

「そういえばおぬし、四月の半ばに成人の儀を控えているのであったな」

「はい。本来ならとっくに額輪を戴いているはずなのですが、年始はレイスターリアにおりましたので」

 すると、ゼオラは口元を歪め、皮肉げに笑った。

「普通、成人の儀を控えている者は、使節に従ったりせぬものではないのか?」

「ええ、まあ。けれど、どうしても会いたい人々が向こうにおりましたので、無理を聞いてもらいました」

「まあ、おぬしの場合、一度王宮の書斎に入ると死ぬまで出られぬゆえな。その前に好い目にあわせておこうという宰相の計らいか」

「……やはり死ぬまで出られないでしょうか?」

「やめるなら今のうちだぞ」

「そうですね……」

 二人の軽口の応酬に、イスフェルの背後に控えていたユーセットがわざとらしく咳払いをし、二人は軽く首を竦めた。

「とにかく道中気を付けることよな。おぬしらのことゆえ、心配はないと思うが」

「御配慮、痛み入ります。それでは失礼いたします」

 二人は深々と礼をすると、ゼオラの部屋を後にした。

「それにしても、二日の滞在で済むとは正直思っていなかったが」

 朝の目映い陽射しが降り注ぐ回廊を歩きながら、ユーセットが首を傾げ、イスフェルは前方を向いたまま言った。

「……長居しても、やることは見物くらいなものだろう」

 長居したところで、あの少女にはもう逢えない気がした。おそらく、昨夜が永遠の別れだったのだ。

 彼らしくない物言いに、ユーセットは少々呆れた様子で言った。

「だが、そもそも見物以外にやることがあったか? 神殿にもろくに詣でていない」

「おまえが神頼みの人間だとは知らなかったな」

「なに? それはおまえだろう――」

 一瞬、顔をしかめたユーセットだが、ふいに眉を顰めた。

「……ところでおまえ、昨夜、どこに行っていたんだ?」

 内心でユーセットの勘の鋭さに首を竦めながらも、イスフェルは無表情を装った。

「なんだ、藪から棒に。散歩だ」

「散歩ねぇ……」

 言外に大きな含みがあるのを感じて、イスフェルは片眉を吊り上げた。

「何が言いたい」

「別に」

 憎らしいほど涼しい顔をして、ユーセットはイスフェルの追及を避けた。イスフェルは大きく息を吐き出した。

「安心しろ。ルーフェイヤの神殿なら一通り回っておいたから、加護はあるだろ」

 事実、セフィアーナと夜道を帰りながら、イスフェルは通る神殿通る神殿で祈りを捧げていたのである。しかし、ユーセットはあっさりと言い放った。

「おまえの場合、エリシア神の加護さえあればいい。あとは実力でどうにかなる」

「なっ」

 イスフェルがユーセットに噛みつこうとした時、回廊の向こうから顔見知りの人物が姿を現し、彼は無理矢理憤懣を収めた。

「イスフェル殿」

 セレイラ総督の任を預かるディオルト=ファーズは、青年たちの姿を見付けると、にこやかな表情で足を止めた。

「これはディオルト殿。聖都に来ながら顔も見せず、申し訳ありませんでした」

 ディオルトとイスフェルの父ウォーレイは旧知の仲であり、彼が聖都に赴任する以前、幾度か宰相家の屋敷にも訪れたことがあった。下山後、イスフェルは聖都を出る前に総督府へ寄るつもりだったが、先に会ってしまったからには無沙汰を詫びるしかない。

「以前と変わらずお元気そうでなによりです。神殿に何か御用でも?」

「ええ、ちょっと、《太陽神の巫女》にお会いしに」

「え……彼女を御存知で?」

《太陽神の巫女》と聞いて、イスフェルがぎくりとしながら尋ねると、ディオルトは意外そうな顔で青年を見遣った。

「御存知ない? 彼女は一番最初、総督府の庭で信徒たちの心を惹き付けたのですよ」

「そ、そうだったのですか……」

「彼女を私のところへ連れてきた青年がいたのですが、その者が急にいなくなったとかで、同じ村の者たちが探し回っておりましてね。結局、彼の居場所はわかったらしいのですが、なぜかそれが巫女殿の耳にも入っていたらしく、心配しておいでとのことなので、村の者に代わって私が御報告に」

 途端、イスフェルは内心で顔をしかめた。

(居場所がわかった? だが、ティユーの持ってきた手紙は一通しかなかった……)

 もしカイルの手紙が二通だったとして、ティユーがデスターラ神殿に行った時点で、もう一通の手紙がセフィアーナに彼の居場所を報せるだろうことは明らかである。わざわざディオルトを煩わせる必要はない。

「……それは良かった。巫女殿に憂いがあるようでは、サイファエールの未来も明るくない」

「ええ。しかし、彼女のおかげで、少なくとも来年からの巫女審査が変わりそうです」

 ディオルトは、深刻そうな顔をして燦々と陽の溢れる《光の庭》を見下ろした。

「……ここは光の宮ですが、それゆえに影も濃い」

 言って、再びイスフェルを振り返る。

「イスフェル殿」

「……はい」

 藍玉の瞳に緊張が走る。それを見て取って、ディオルトは僅かに表情を和らげた。

「宰相閣下にお伝えを。自治権は最早彼らに必要なものではなくなりました。彼らが必要なのは、……彼らが欲するのは、王国の支配権だと」

「ディオルト殿……!」

「決してこの地から目を離されませぬように。……それでは、失礼します」

 呆然と立ち竦む青年たちに一礼すると、セレイラ総督は静かに彼らから去っていった。



 聖都の東側に位置し、遥か王都へ向かう道の始まりを担う《生誕の門》。その壁には神が地平から姿を現す様が刻々と彫られ、またその光を受けて生命を得た動植物が、その喜びに大地を舞う姿が描かれている。

 その下をくぐりながら、イスフェルは心に重くのしかかったディオルトの言葉について考えていた。

「王国の支配権……」

 サイファエール勃興以来、それは常に王都の国王に有った。流れる歴史の中で、その存続が危ぶまれたことも幾度となくあったが、今なお輝かしい栄光とともに東の地に有る。それが動くようなことが――神の忠実なる民たちによって聖なる地が焦土と化すようなことが、本当に起こるのだろうか。

 そう思った時、イスフェルは自嘲した。

「馬鹿なことを……」

 真剣に歴史を勉強してきた。平和が長く続いた例など滅多にない。自分だけは、サイファエールだけは、という考えは決して通用しないのだ。

「イスフェル、《正陽殿》が見納めだぞ」

 ユーセットの言葉にイスフェルが鞍上で振り返ると、暗い門内の向こう、遥か広がる蒼い空の下に、真白の神殿がそびえているのが見えた。

「……あの壁が紅く染まることは、これまでも、そしてこれからも決してない」

「……そうだな」

 ユーセットの強い頷きを得、イスフェルは再び手綱を握り直した。と、その時、彼の目に、門の警備に当たる総督府の兵の姿が映った。イスフェルはふと思い立って馬から下りると、その一人に絹の袋をふたつ差し出した。

「これを、デスターラ神殿のシュルエ・ヴォドラスという人に届けてくれないか。シェスランの香りを谷中に満たして欲しい、と」

 突然の申し出に不審げな表情を浮かべていた兵士だが、袋の口からちらと中身が見えた途端、驚いた表情でイスフェルの顔を見返した。

「あ、貴方様は……?」

「名は、まだない。すべてこれからだ」

「え?」

 兵士には理解できないことを言ってイスフェルは微笑むと、再び鞍上に身を跳ね上げた。

「じゃあ、宜しく頼む」

 そして今度こそ手綱を振るうと、ユーセットと共に東の地を目指して走り出した。



 ……遠ざかる二人の背を、《生誕の門》の上から真っ直ぐに見つめる人影がある。

「やっと行ったか……」

 風に吹き荒れる枯葉色の髪を手で押さえると、カイルは反対側に目を向けた。その先には、緑に埋もれてセフィアーナの暮らす《月光殿》がある。

「……気を揉ませて、悪かったな。だが、オレは奴に会うことはできないんだ」

 カイルは知っていた。セフィアーナが彼を案じる余り、《月光殿》を飛び出したことを。その時、一人ではなかったことを。彼は約束通り、《月光殿》にケルストレス祭の報告に行ったのだ。しかし、運命の悪戯か、彼女の傍らには、彼が神前試合を棄権することになった元凶が座っていた。

「だが、もう約束は破らない。オレは、谷に帰る」

 その時、太陽の中に黒い影を見付け、カイルは軽く手を挙げた。

(あいつ、オレが手紙通り谷に帰るか見届けに来たのか)

 呆れたように空を見上げていたカイルだが、呆れているのは大鳥の方だろうと気付いた時、軽い溜息を漏らした。彼の小細工のために、ティユーは飛び慣れぬ夜を二度も往来することになったのである。

「さて、行くか……」

 石段を降りる途中、見晴るかした聖都の街並みは、春の陽射しに永遠の繁栄を謳っているかのように見えた。


【 第三章 了 】

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