第三章 春宵の夢 --- 6

《太陽の広場》は、聖都フィーユラルのほぼ中心に位置する。祭前までは、早い時期から訪れた信徒たちや歌謡団、露店などの天幕が所狭しと立ち並んでいたが、聖儀を終えた今、その半数近くが姿を消していた。連日連夜のお祭り騒ぎはすっかり鳴りを潜め、今ではところどころで焚き火を囲んだ和やかな団欒が開かれているぐらいである。

「神殿が見えてきた」

 イスフェルが言い、馬上で彼の肩越しに前方を覗いたセフィアーナの視界に、篝火に浮かび上がるデスターラ神殿の列柱廊が映った。その長さは二百ピクトにも及び、まるで巨人の足が並んでいるようである。

「あの列柱廊、十二聖官せいがんが造ったって言い伝えだが、本当かな?」

「きっとそうよ……。だって、人間があんな大きくて綺麗なもの、どうやって造るの……?」

 半ば放心したように言う少女に、イスフェルはくすりと笑った。王都に生まれた彼にとって、巨大な建造物は見慣れたものだが、山間の村から出てきた彼女は、そのひとつひとつに圧倒され、感激するらしい。

 その時である。後方から荒々しい足音が聞こえたかと思うと、十二歳くらいの少年が二人の乗る馬を凄い勢いで追い越していった。

「何だ……?」

 呆気に取られた二人が少年の背中を目で追いかけると、彼は少しも速度を緩めないままデスターラ神殿の小階段を駆け上り、ようやく列柱廊の間で立ち止まった。首を巡らせ、何かを探しているようである。と、柱の陰からふたつの人影が現れ、少年に向かって歩いていくのが見えた。その横顔を捉えた時、少女の顔色が変わった。

「先生……」

 遠目にも間違いない。間違えるはずなどない。篝火の向こうで、神官服の胸に両手を当てて話し込んでいる人物は、紛れもなく養母のシュルエ・ヴォドラスである。もうひとつの人影は、村長のヒーリックだった。

「おじいさんも……」

 嫌な予感がした。いや、それは最早予感ではないかもしれなかった。こんな夜半に、人影も殆どない神殿の入口にダルテーヌの者たちが集まる理由など、他にないはずである。

「やっぱり……」

 背後で少女が俯き、イスフェルはその理由を察しつつも、そのまま馬に歩ませ続けた。しばらくして彼らのいる階段の下までやって来ると、先に馬から降り、続いて少女を降ろしてやる。

 最初に気付いたのは、二人を全速力で追い抜いていった少年だった。

「セフィねえちゃん!?」

 彼の叫びに、大人二人が驚いたように下方を見遣る。そこには久方ぶりに目にする愛すべき――いや、今となっては敬愛すべき少女の姿があった。

「セフィ……セフィ!!」

「先生……!」

 二人は同時に走り出すと、階段の途中で強く抱き合った。

「聖儀での貴女の歌声、本当に素晴らしかったですよ。私の一生の誇りです」

「先生、会いたかった……!」

 離れていたのは僅か六日間であるが、それはもっと長いように感じられた。

「……でも貴女、こんな時間にどうしてここへ……」

 ようやく抱擁を解き、シュルエ・ヴォドラスが訊ねた時、二人の後方でヒーリックが叫んだ。

「カ、カイルか!?」

 セフィアーナは驚いてヒーリックの視線の先を見たが、そこに居たのは自分を連れてきてくれたイスフェルだった。

「おじいさん、違うの。彼は……」

 セフィアーナの声に、またもやカイルと間違われてしまったイスフェルは、馬と共に篝火の側へと近付いていった。

「彼はイスフェルというの。私をここまで連れてきてくれたのよ」

 怪訝そうな二人の視線を受けて、青年は丁寧に一礼した。彼の凛としつつもどこか穏やかさを感じさせる面立ちは、彼らに不審感を抱かせることはなかった。

 セフィアーナは、改めて院長に向き直ると、その榛色の瞳を強く見つめた。

「先生、カイルは……カイルは今どこに?」

 驚いたのはシュルエ・ヴォドラスである。彼女はおもむろに目を見開いた後、眉根を寄せた。

「貴女、どうしてそれを……」

「じゃあ、じゃあ、やっぱりカイルは……」

 院長の態度に確信を得、セフィアーナは落胆した。

「……カイル、今夜、私のところに来るって言ってたの。でも、いつまで経っても来ないから……」

「あれほど行っては駄目と言っておいたのに……」

 シュルエ・ヴォドラスは溜息をついたが、いなくなるぐらいならば、セフィアーナのところに行ってくれていた方が良かったという思いも否めない。

「昼前には確かにいたのですよ。出かける時にもちゃんと声をかけてくれたし……」

「この子や村の者にも方々探してみてもらったのじゃが、まだ見つからんのじゃ……」

 セフィアーナとイスフェルは、お互いに顔を見合わせた。

 ケルストレス祭のことが出てこないところをみると、カイルは出場することを話していなかったのだろうか。村の作業場を建て直す資金は、もともと総督府に依頼することにしていたので、野蛮な方法に変更したことを言えなかったのかもしれない。

「どこかでお酒でも呑んでいるのかしら……」

 しかし、神殿に泊まらせてもらっている身であり、毎日食事の時間にはきちんと帰ってきていただけに、突然羽目を外すとも考えにくい。ケルストレス祭の途中で消えたことを知っているセフィアーナたちには尚更である。

(カイル、カイル、聞こえる? 皆あなたのこと心配してるのよ。いったいどこにいるの……!?)

 少女は心の中で強く呼びかけたが、それに応えるものは何もなかった。その時、黙ったまま大人たちの深刻そうな表情を見ていた少年がふいに口を開いた。

「……ねえ、そんなに心配すること?」

 そして小さく欠伸を噛み殺す。

「ポルカ?」

「さっきディオ兄も言ってたけど、年に一度のお祭りなんだよ? カイルにいちゃんだって遊びたいに決まってるよ。一晩帰ってこないぐらいでこんな大騒ぎしなくても……」

「でも、何かあったのかもしれないでしょう」

 院長は眉を顰めたが、少年は軽く首を竦めた。

「そうだとしても、カイルにいちゃんが負けるはずないよ。剣だって弓だってシリア一の使い手じゃないか」

 ポルカ少年の意見ももっともなことであった。もし行方不明になったのがカイル以外の大人だったら、おそらく彼らは「羽目を外して遊んでいるのだろう」と、その日のうちは心配もしないに違いない。村を発つ以前のいざこざが、彼らの考えをどうしても暗い方向へと導いてしまうのだった。

「……確かにそうじゃな」

 ヒーリックは大きく息を吐き出すと、ポルカの頭を撫でた。

「ポルカの言う通りじゃ。案外、明日になったら何事もなかったように帰って来るかもしれん。そうなったら、心配したわしらがバカみたいじゃ」

「村長……」

 無理矢理元気を出そうとするヒーリックを院長が気遣わしそうに見た時、老人はふと手を打った。

「今頃になって思い出したわい。セフィ、おまえさん、谷でわしに言ったの。カイルを信じよう、と。谷を本当の故郷のように思ってくれているから、と」

 ヒーリックの言葉に、セフィアーナははっとした。確かに彼女はそう言って落ち込む老人を励ましたのだ。

「わしはもう一度あの言葉を信じ直すわい」

「おじいさん……」

 前向きな彼とは対照的に、セフィアーナは依然として心中の不安を拭えないでいた。カイルは村のために出場したケルストレス祭を棄権したのだ。そしてこの時間まで帰ってきていない。彼の身に何かが起きたのである。

 しかし、セフィアーナは強く頷いてみせた。老人に希望を持たせたのは彼女自身である。その責任を放棄し、不安を撒き散らすような真似はできない。

「……ええ、私も。自分で言っておきながら、すっかり狼狽えて神殿を飛び出してしまって……恥ずかしいわ」

 途端、院長と村長の表情が凍りついた。

「神殿を――」

「飛び出した!?」

 しまったと思ったが、後の祭りである。セフィアーナは、二人の表情が見る間に険しくなっていくのを、息を呑んで見つめた。

「……それではセフィ、貴女、《月光殿》を抜け出して来たというのですか?」

 院長の恐ろしく静かな問いを聞いて、イスフェルは首を傾げた。

(《月光殿》を抜け出す? じゃあ、セフィアーナは神官なのか?)

 彼の視線の先で、セフィアーナは青い顔をして立ち尽くしている。

(……だが、神官服は着ていないし、何より――)

 何より、彼女と出会うのはいつも夜だった。神官ならば普通、夜に出歩かないはずである。しかも、初めて会った日など、セフィアーナはひとりで竪琴を弾いていた。聖日の夜、《月光殿》の神官にそんな自由はないはずである。

「どうなんです、セフィ?」

 厳しい視線と詰問に、セフィアーナは項垂れた。

「カ、カイルが心配だったの……」

 少女の蚊の鳴くような声に、シュルエ・ヴォドラスは信じられないというように首を振った。

「セフィ、《太陽神の巫女》は、聖儀で《称陽歌》を歌い終わったらそれで終わりではないのですよ? 貴女の言動には、テイルハーサ信徒何万、いえ何十万が注目しているのです。決して軽はずみなことをしてはならないのです」

「……はい」

 それは、修行の時に何度となく言い聞かされたことだった。自分でもわかっていたはずなのに、と俯いた瞬間、セフィアーナは改めてその本当の意味に気が付いた。

(……じゃあ、私は、カイルがいなくなったのを知りながら、《月光殿》でじっとしていなければならなかったの? 《太陽神の巫女》になるということは、そういうこと? もう、ダルテーヌの谷のセフィアーナでいられないの……?)

 二人の重苦しい空気にヒーリックは小さく吐息すると、眼下の青年に目を遣った。

「イスフェルといったかな。あんたも思い至ってくれれば良かったのじゃがな。《太陽神の巫女》が真夜中に若い男と出かけたなどと知れたら、醜聞も醜聞じゃ」

「おじいさん!」

 瞬間、セフィアーナが否定の叫び声を上げる。イスフェルは、なぜかそれをひどく遠い場所で聞いたような気がした。

(確かに、いくら彼女の頼みでも、案内を引き受けるべきではなかった。年頃の娘がこんな時間に出歩いて良いことなどない。日を改めるように説得すべきだったんだ。だが……だが、《太陽神の巫女》というのは……)

 聖都入りして以来、その代名詞にまつわる噂を幾度となく耳にした。擦れ違った巡礼者たちから、露店の商人から、《月光殿》の広間で盃を酌み交わした仲間から……。常春を謳う、奇跡の巫女と、絶大な支持と尊敬を受けていた乙女。それが、今、彼の目の前にいる少女だというのか。

「……申し訳、ありません」

 半ば呆然としながら、それでもイスフェルは自分の非常識を詫びた。そんな彼を、セフィアーナはいっそう声を荒げて庇った。

「違うのよ。彼は止めてくれたのに、私が無理を言ったの!」

「今となってはどうでもいいことです。そんなことよりも、セフィアーナ、一刻も早く神殿にお戻りなさい。騒ぎにならないうちに……もうなっているかもしれませんが」

「………!」

 院長の突き放すような厳しい言葉に、セフィアーナは容易に言葉を失った。俯き、唇を噛みしめると、ゆっくりと踵を返した。

(何のために……何のために……)

 カイルの行方も掴めず、イスフェルに迷惑までかけて、自分はいったい何をしにここまで来たのか。自分の無力さがあまりにも情けなく、セフィアーナは蜜蝋色の髪の下で微かに涙を滲ませた。と、その時。

「セフィ」

 院長の彼女を呼び止める声がし、セフィアーナはおそるおそる振り返った。すると、そこにはいつもの柔らかな表情を浮かべた養母の姿があった。

「貴女の他人を思いやる気持ちは尊いものです。決してそれを失くさないで。頑張りなさい」

 院長の態度の軟化に安堵したのか、ヒーリックも表情を崩した。

「カイルのことが何かわかったら、すぐに報せるからの」

「セフィねえちゃん、ぼく、応援してるからね!」

 三人の声援を受けて、セフィアーナは深く頷いた。視界が滲みそうになるのを堪えながら、階段を下りてイスフェルのもとへと向かう。

「……迷惑をかけてごめんなさい」

「いや……」

 イスフェルは首を振った後、躊躇いがちに彼女に尋ねた。

「きみは……きみが《太陽神の巫女》というのは、本当かい?」

 すると、少女は一瞬、困ったような顔をし、その後、小さく頷いた。

「ごめんなさい。きっと失望させてしまったわね……」

「いや、そういう意味で訊いたんじゃないんだ」

 ではどういう意味で訊いたのかと問われたら、何と答えるつもりだったのか、イスフェルは自分でもわからなかった。しかし、決して失望したわけではない。むしろ、妙な納得が彼の中にはあった。類い希な音楽的才能と、息を呑むほどの美しい容貌、そして何より神秘的な雰囲気。それらを兼ね揃えた少女が、聖儀の日のルーフェイヤ聖山に何人といるはずがないのだ。

「さあ、早く神殿に戻ろう」

 言いながら、イスフェルは自分がひどくがっかりしているのに気付いた。今の今まで、眼前の少女の存在を知っているのは、自分だけのような気がしていたのだ。しかし、彼女は《太陽神の巫女》だった。聖都中の人間が、既に彼女を知っていたのだ。

 馬に乗せてもらいながら、セフィアーナはふと思った。

(私がいなくなったこと、リエーラ・フォノイは気付いているかしら……)

 その瞬間、大きな後悔が彼女を襲った。

(私、なんてバカなこと……!)

 見知らぬ少女がセフィアーナの部屋で変死してから、まだ二日しか経っていない。リエーラ・フォノイは彼女の死に大きな衝撃を受けていたというのに、今また自分が姿を消して、どれほど心配をかけてしまっていることだろう。

 その時、イスフェルが列柱廊に向かって叫んだ。

「必ず無事に彼女を送り届けます!」

 彼の言葉にヒーリックが深く頷くのを、院長が心配そうにこちらを見ているのを、セフィアーナは走り出した馬の背から認め、その光景をいつまでも忘れることができなかった。



「……あの時と同じだ」

 ルーフェイヤの麓で馬を預けた後、山道を登りながら、ふいにイスフェルが呟いた。

「え?」

 セフィアーナが青年の顔を見上げると、彼は前方を見つめたまま、おかしそうに笑った。

「昔、王立学院の寮を真夜中に抜け出したことがあった。今日のきみと同じように、友だちを探すために」

「……その友だちは見付かったの?」

 少女の真剣な問いに、イスフェルは大きく頷いた。

「もちろん」

「そう……!」

「だが、帰り道、大きな問題が生じた」

「なに……?」

 不安そうな彼女を一瞥すると、イスフェルは首を竦めてみせた。

「先生たちに、抜け出した理由をどう説明するか、さ。抜け出したことがすっかりバレてた」

「あぁ……」

「あの時は下手な芝居で乗り切ったが、さて今回はどうするかな」

 小さく吐息し、イスフェルは上方の神殿群を見上げた。と、彼の視界を黒い影が横切った。

「!?」

 神殿の篝火を背景に、闇夜をもたらさんばかりの漆黒の翼。夜でさえ、その正体は明らかだった。

「木の裏へ!」

 彼の視線の先で人狩鳥は鋭い弧を描くと、確かに二人を目指して急降下してきた。突然、腕を掴まれ、木の方へ追いやられたセフィアーナは、緊張を露わにした青年の横顔を驚いたように見遣った。

「な、なに……!?」

 その前で、イスフェルは懐から素早く短剣を取り出すと、身を屈め、戦闘の体勢に入った。時機を少しでも外せば、二人は人狩鳥の餌食になってしまう。勝機は相手が鋭い爪を伸ばす一瞬しかない。

(……しかし、こんな時分、こんな場所に、どうして人狩鳥が? 彼らは日中の高原地帯を好むはずだが……)

 空を睨み付ける青年の視線を追っていって、セフィアーナは初めて彼が何と対峙しているかを理解した。彼女の守護神を自負するティユーである。セフィアーナはイスフェルがティユーを傷付けるのを恐れ、またティユーがイスフェルを襲うのを恐れ、咄嗟にイスフェルに飛びついた。

「やめて、待って……!」

「なっ」

 立ち木が生い茂り、暗いこともあって、セフィアーナはまるで気が付いていなかった。彼女たちの歩いていた道の端は、ちょっとした崖になっていたのだ。

 少女によって一瞬、動作を封じられてしまったイスフェルは、木の根に足を引っかけて転倒すると、彼女を抱いたまま、一ピクト下の地面に転落した。

「っ痛ぅ……」

 幸い下は柔らかな草地だったので大事に至ることはなかったが、それでも全身を打ちつけてイスフェルは顔をしかめて咳き込んだ。

「ご、ごめんなさい、大丈夫!?」

 青年に守られて無傷だったセフィアーナは、慌てて身体を起こすと、彼の顔を覗き込んだ。

「あ、あ……大丈夫だ。このくらい、何でもない……」

 深く息を吸い込み呼吸を落ち着かせると、イスフェルは片手で身を支えながら起き上がった。

「だが、一体どうし――」

 その時、鈍く光る黒い嘴が、彼の視界いっぱいに映った。

「………!!」

「ギャッ」

 藍玉の瞳をめいっぱい見開いたイスフェルの前で、いつの間に舞い降りたのか、人狩鳥は翼を折り畳み、しきりと首を傾げていた。青年は黒い大鳥を見つめたまま、必死で地面に手を這わせた。落ちた時、不覚にも短剣を手放してしまったのだ。そんな彼に、ひどく明るい声をかけた者がいる。

「大丈夫、この子は安全よ」

 イスフェルは目を剥いて少女を振り返った。

「安全!? 人狩鳥だぞ!?」

 しかし、セフィアーナは少しも動じず、それどころか人狩鳥に向かって話しかけたのである。

「ティユー、イスフェルに短剣を返してあげて」

 驚いたイスフェルが再び人狩鳥に視線を戻すと、ティユーと呼ばれた人狩鳥は、しばし逡巡した後、足下に隠していた短剣をくわえ、彼に向かって差し出してきたのである。驚愕とともにそれを受け取りながら、イスフェルは呟いた。

「まさか、そんな……」

「私の友だちよ。ティユーっていうの」

 人狩鳥の頭を撫でる少女を、それを嬉しそうに受けている大鳥を、イスフェルは呆然と見遣った。

「なぜ、きみに懐いているんだ……?」

「雛の時に巣から落ちてたこの子を、私が拾って育てたの。ティユー、イスフェルよ。私の新しいお友だちなの」

 すると、ティユーは漆黒の瞳を彼に向けた。静かで穏やかなその瞳の前では、どんな偽りもまやかしも存在することはできないように思えた。

「……よろしく、ティユー」

 思わず差し出してしまった手に、ティユーが嘴で小突いて応える。

「ふふ。ティユー、あなたのことが気に入ったみたい」

 セフィアーナがおかしそうに笑った時、イスフェルはふとティユーの脚に小さな筒がくくりつけられてあるのに気付いた。

「……あれは手紙じゃないのか?」

 彼の言葉にティユーの足元を見たセフィアーナは、筒を取り外すと、中の手紙を取り出した。それを拡げた途端、彼女の表情が強張り、イスフェルは眉根を寄せた。

「……どうしたんだい?」

 すると、セフィアーナはゆっくりと顔を上げ、そして言った。

「カ、カイルから……」

「え!?」

 驚いて差し出された文面に目を落としたイスフェルは、彼が今どこに居るのかを知った。

「リーオ……」

「シリアの麓で一番大きな街よ。……彼はもう、ここには居ないんだわ……」

 俯く少女の肩に、イスフェルは手を当てた。

「……待った。別に彼は居なくなったわけじゃない。ほら、ここに書いてある」

 セフィアーナがイスフェルの指の先におそるおそる目を遣ると、そこにはカイルが駐屯部隊の副長に入隊を迫られ、やむなく聖都を逃げ出した旨が書かれてあった。

「確かに彼ほどの腕前なら、副長の目に留まってもおかしくないだろうな。良くも悪くも目を付けられた以上、それから逃れるためには彼らの縄張りを出るしかない」

「ほ、本当に……?」

「彼自身が書いていることだ。それに、ほら、その後を読んでごらん」

 彼に言われるまま、セフィアーナは文字に視線を走らせた。一瞬、彼女の表情が驚きに染まり、ようやく春を迎えた花のように徐々にほころんでいった。

「カイルは……カイルは村へ帰ったの!?」

 信じられない様子のセフィアーナに、イスフェルは深く頷いて見せた。

「彼の故郷は、もはやダルテーヌの谷なんだ。……良かったね」

「ええ……! ええ……!」

 セフィアーナは瞼を強く綴じると、喜びにうち震えた。

(カイル、ああ、村に帰るつもりだなんて。本当に良かった……!)

 心底嬉しそうな彼女の様子を見て、イスフェルも安堵しつつ、しかし一抹の寂しさを覚えていた。今、彼女のすべては、あの武舞台の上、棒きれ一本で武を唱えた青年に向かっている。僅かでも、彼の入り込む隙間などないように感じた。

「……さあ、セフィアーナ。そろそろ行かなければ」

「え、ええ、そうね……」

《月光殿》を出奔した理由であるカイルの安否を最後の最後で知ることができ、セフィアーナは深く息を吐き出すと、勢いよく立ち上がった。あとは、《月光殿》にいかに戻るかということである。

 山道へ戻る道を探していたイスフェルは、突然、布が裂ける音に背後を振り返った。すると、驚いたことに少女が自ら枝で裙子スカートの裾を裂いていた。

「セ、セフィアーナ!?」

 しかし、少女は彼にちらと視線を遣ったものの、さらに衣類を傷付け汚していった。

「これで少しは……山道を彷徨ったように見えるかしら?」

「いったい何を……」

 絶句する青年を、セフィアーナはようやく手を止めて見返した。

「一芝居うつのよ。崖に誤って竪琴を落としてしまった私は、探してる間に道に迷ってしまったの」

 イスフェルが呆気に取られていると、セフィアーナは意を決したように口を開いた。

「……イスフェル、もう、ここでいいわ」

「え?」

 いっそう驚きを見せる彼に、セフィアーナは一言一言噛みしめるように話しかけた。

「今夜は本当にありがとう。あなたがいてくれなかったら、私、ひとりで泣くばかりだった。あなたのおかげで、私、とても救われたわ」

 長い間、カイルのことで思い悩んできた。彼の過去を知り得ずにいる自分を責め、また全てを打ち明けてくれない彼を恨みもした。誰にも言えず、秘めてきたその暗い思いを、イスフェルはいとも簡単に受け止め、さらに彼女に力の湧く言葉を与えてくれたのだ。

「これ以上、あなたに迷惑はかけられない。あとはせめて自分で何とかするわ」

「セフィアーナ……」

 イスフェルは困ったような微笑を浮かべた。

(本当に、この少女は弱いのか強いのかわからないな。あの老人に、必ず無事に送り届けると約束したが……)

 しかし、既に彼女は一人で帰る気でいる。彼が何と言おうと、彼女が意志を覆すことはないように思った。

「……わかった。では、ここできみを見送ろう」

「ありがとう」

 僅かな間、二人に沈黙が走る。と、イスフェルは諦めの付かない子どものように苦笑した。

「……きみの竪琴を、もう一度、聴きたかったな」

 彼はすぐに王都に発つ。彼女は聖都に残り、神官となる修行をする。おそらく、この別れは永遠のものになるのだ。

 それを知ってか、セフィアーナもどこか淋しそうに微笑んだ。

「励ましてもらったこと……きっと忘れないわ」

「気を付けてお帰り」

「あなたも」

 そして、少女は青年に背を向けて歩き出した。山道に戻る細い道を上りきり、そのまま行こうとして、彼女は立ち止まった。振り返り、崖下の彼に声を掛ける。

「さようなら!」

 それを受けて、イスフェルは軽く手を挙げた。夜の闇に彼女の表情を見ることはできなかったが、きっと暖かい笑顔を浮かべてくれているに違いない。

「……ティユー、オレの代わりに彼女の無事を見届けてくれ」

 彼の言葉を理解してくれたのか、或いは単なる使命感からか、ティユーはセフィアーナの後を追ってすぐに夜空に飛び立っていった。

 一人残されたイスフェルは、しばらくの間、今夜のことすべてを知っている月を眺めていたが、やがて少女とは違う道を上り、彼の仲間のもとへと帰っていった。

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