第三章 春宵の夢 --- 5

 欠けた月を補うようにかざしていた銀貨を、イスフェルは溜息とともに革袋に押し込んだ。すっかり青褐色に沈んだ《月光殿》の裏庭を、青年はひとり当てもないまま歩を進める。

『そんな顔するなよ。優勝は優勝だろ』

「……バカ言え」

 ふいに脳裏に蘇ったセディスの冷めた口調に、彼は今頃になって反論を口にした。

(ケルストレス祭は腕比べであって兵法の試験じゃないんだ。自分より優れているかもしれないヤツと戦わずに、勝者を名乗れるかっ)

 憤慨して拳を振り下ろした先では、隻眼の獅子の彫像が同じように憤怒の表情を浮かべている。

(だが……彼はなぜ試合を放棄したんだろう?)

 イスフェルは獅子像の横に腰掛けると、昼間の出来事を思い返した。

 巨大な偃月刀を枝切れ一本で撃退した青年の二回戦を、観衆は大歓声を上げて待ち望んでいた。しかし、彼はいつまで経っても姿を現さず、神官は困惑の表情で彼の棄権を告げたのである。その時、イスフェルの隣で大きな舌打ちを鳴らした者がいた。彼の一回戦の相手だったヒラードである。

 どういうつもりだ、と独りごちたヒラードに、イスフェルはカイルのことを知っているのかと問うた。すると、彼はカイルがケルストレス祭に参加した理由――村のために賞金がいるという事情を口にしたのである。

『あの腕前で……棄権する理由などどこにあるのか』

 彼の半ば呆然とした物言いに、イスフェルもまた首を傾げざるを得なかった。

(賞金を稼ぐ必要がなくなった……わけはないか。銀貨二袋に勝るものなど、普通の民が容易に手に入れられるはずもない。では何故……)

 しかし、ちらと垣間見ただけの人間の考えることなど、イスフェルにわかるはずもない。彼は小さく溜息を付いたが、妙にカイルのことが気になってならなかった。彼の勝利にケチを付けたからだろうか? それとも、あの少女の友人だからだろうか? デナード師の捻り突きを体得していたからだろうか?

(……どれも違う気がする)

 彼を、カイルを見た瞬間、イスフェルはどこかで反発するものを感じていた。それが何かはわからなかったが、武舞台で勇壮に闘う彼から目が離せなかった。

 その時。

「カイル!」

 草を踏む音がしたかと思うと、突然、彼の目の前に人影が立ちはだかった。

「待ってたのに、こんな場所で何をしてるの!? 見つかったらどうするのよ……」

 僅かな月光に照らされたその美しい顔に、イスフェルは目を見張った。昨晩以来、何度も心に浮かんだ顔だった。

「……オレはカイルじゃない」

 すると、少女――セフィアーナは意外そうな顔をした。辺りは暗く、イスフェルの顔の部分は影になっているので、背格好の似ているカイルと間違えたらしい。

「こんばんは。また会ったね」

 身を起こし、顔を半月の光にさらすと、彼女は驚いて手で口を覆った。

「あ、あなた、昨夜の……」

 しかし、次の瞬間、慌てて頭を下げた。

「あっあの、ごめんなさい、間違えてしまって……」

「いや、こんな場所でうろうろしているオレも悪い」

「……ありがとう」

 セフィアーナは小さく吐息した。

 かなり長い間、彼女は自室でケルストレス祭の報告にカイルが来るのを待っていた。しかし、彼はいつまで経っても姿を現さず、怪我でもしたのかと案じながら窓の外を見遣った時、裏庭をうろつく人影を見付け、てっきりカイルだと勘違いして部屋を飛び出してしまったのだ。

「あなたはここで何を……?」

「え? ああ、ちょっと考え事があって……」

 少女の問いに、イスフェルは軽く苦笑した。

 シダはとっくに任務に戻り、セディスは連夜の宴で酒杯を呷っていることだろう。ユーセットは王都を離れていた間にあったことの情報収集のため、こちらも宴に出席しているはずである。イスフェル自身は、せめて王都に戻るまでは自由な時間を楽しみたいと考え、ひとり裏庭に出てきたのだが、特にすることもなく、結局昼間のことを考えてしまったのだった。

「――あ、そう言えば、きみに見せたい物があるんだ」

「なぁに?」

「これさ……」

 イスフェルは再び革袋から銀貨を一枚取り出すと、彼女に向かって差し出した。

「これって、銀貨……?」

「ああ。ケルストレス祭の賞金さ」

 すると、驚いたように少女が顔を上げた。

「賞金……?」

「優勝、したんだ」

「うそ……」

 彼女はいっそう瑠璃色の瞳を見開くと、銀貨とイスフェルの顔を何度も見直した。

「本当に!?」

「ああ。……とは言え、特徴も何もない銀貨だから、信じてもらえなくても仕方がないが」

「そんな、そんなことないわ。すごい……! おめでとう!」

 セフィアーナが本当に喜んでくれているのを見て取って、イスフェルは少し気が晴れたような気がした。

「……ああ、そっか。だからだわ」

 ふいにセフィアーナが納得したように頷き、イスフェルは首を傾げた。

「あ、えと、カイル……私の友だちもね、ケルストレス祭に出るって言ってたんだけど、優勝するって豪語してたの。だから結果報告に必ず来てって約束したのになかなか来ないから、怪我でもしたのかと思って心配してたんだけど……そう、優勝したのがあなたなら、カイルは来られないわね」

 言って、セフィアーナはおかしそうに笑ったが、イスフェルは反対に顔を曇らせた。

(彼女との約束さえ放り出して……? やはり彼に何かあったのだろうか……)

 しかし、少女は彼の様子に気付かず、ひとり喋り続けた。

「でも、カイルが負けるなんて……何だか想像が付かない。カイルね、狩りの時はいつも誰よりも多く獲物を仕留めるし、この間なんて盗賊もひとりでやっつけちゃったのよ。カイル、誰に負けたの? もしかして、あなたなの?」

 イスフェルは静かに首を振った。

「……彼は誰にも負けていない」

「え?」

 わけがわからないというふうに首を傾げるセフィアーナに、イスフェルは少し躊躇いながら口を開いた。

「彼は、棄権したんだ」

「え……」

「二回戦の前に、会場からいなくなった。誰にも……神官にも何も言わずに」

「うそ、そんな……本当に!?」

 思いも寄らない報せに、セフィアーナはみるみるその表情を強張らせた。

『優勝すれば、あのボロ小屋を建て直せる』

 彼は確かにそう言ったのだ。目的があることに対して、カイルはいつも真剣だった。それを、途中で放り出すことなどあり得ない。しかし、次のイスフェルの一言が、カイルの失踪を決定的にした。

「……もし彼が棄権しなかったら、あるいはオレは優勝できなかったかもしれない」

 セフィアーナはふいに眩暈を覚えた。聖都へ行くと告げた時のカイルの後ろ姿が、再び彼女の脳裏に甦る。冷たい、何を考えているのかわからない背中。どこかへ行ってしまうのではないかと心底怯えた恐怖。

「セフィアーナ!?」

 よろけた少女の腕を慌てて掴むと、イスフェルは獅子像の土台の縁へ彼女を座らせた。

「大丈夫かい? 何か飲むものでも持ってこよう……」

 言うなり歩き出した青年の袖を、セフィアーナは慌てて掴んだ。

「ううん、大丈夫よ。ごめんなさい。ちょっとびっくりしただけだから……」

「いや、オレの方こそ……申し訳ない。オレが言うべきではなかった……」

「ううん! そんな、言ってもらって……本当によかった……」

 少女の狼狽ぶりに、イスフェルの方も驚いていた。カイルの棄権を告げることで、彼女が心配するのではないかとは考えていたが、まさかこれほどとは思わなかった。少女は微かに震えてさえいたのだ。

 もっと詳しい説明を少女が求めたので、イスフェルは自分が知る限りのことを話して聞かせた。とはいえ、彼も武舞台の上のカイルを見ただけで、あとはヒラードとの短い会話しか話すことはなかったが。

「カイル、どうして……」

 それきり言葉を失くしてしまった彼女に、イスフェルは散々迷った挙げ句、声をかけた。

「……少し、訊きたいことがあるのだが……いいかな?」

 それに反応した少女の顔は、血の気を失って、まるで陶器の置き物のように白くなっていた。

「きみの友だちは、その……どういう人間だい?」

 その質問を受けた瞬間から、セフィアーナの心臓は大きく音を立て始めた。

「どういう、意味……?」

「いや、彼の戦いぶりを見ていたら、ただの農夫ではないと思って……」

 それを聞いて、セフィアーナは顔を手で覆った。

 やはりそうだった。彼にはあの卓越した剣技――玄人も賞賛する強さを身に付けなければならなかった過去があるのだ。しかし、彼女はその片鱗だに知り得ない。

「セフィアーナ?」

 身じろぎひとつしない彼女を心配して、イスフェルが顔を覗き込むと、セフィアーナはようやく手を外し、深い溜息を付いた。しばらくして、意を決したように、しかし力なく言葉を紡ぎ始めた。

「彼とは……カイルとはね、一年前の冬に知り合ったの。彼が雪の四阿あずまやに倒れていたのを、私が偶然見付けたの。彼ね……彼、死にたかったらしいのよ」

 その衝撃的な言葉に、イスフェルは藍玉の瞳を大きく見開いた。しかし、セフィアーナはそれに構わずとうとうと話し続けた。

「だから、助けたこと、恨まれたわ。その後、色々あって、春が来る頃には落ち着いてくれたけど……。カイルがそれまで何処で何をしてたか知りたかったけど、酷く傷付いてたから、彼が自分から話してくれるのを待とうと思ったわ。それで……今も知らないまま。彼の傷は、まだ癒えてないのね」

 瑠璃色の瞳からこぼれ落ちた雫が、膝の上で組まれた彼女の手の甲で弾けた。ひとつ、またひとつ、頼りない月光を受けて切なく煌めきながら。

「セフィアーナ……」

 イスフェルは思わず彼女を抱きしめてやりたいという衝動に駆られたが、どうにかそれを抑えると、代わりに背中を撫でてやった。

「……ご、ごめんなさい。会ったばかりの貴方に、こんなこと……」

「いや……」

 優しく微笑むイスフェルに安堵の吐息を漏らすと、セフィアーナは再び俯いた。

「この一年、ずっとカイルと一緒にいたわ。それなのに、いなくなった理由にも思い当たらないなんて……」

「……一旦は死を覚悟した者が立ち直るには、それなりの時間が必要だ。周囲の人間は、焦らずに待つしかない」

 イスフェルは以前、戦争で死にかけた将軍と話をしたことがあった。迫りくる死を武人の誉れと受け入れていたのに、何の因果か彼は助かってしまった。彼が再び生きる気力を取り戻したのは、数年後、自分を支えてくれた妻が亡くなった時だったという。

「ええ、その通りね……」

 力なく頷く少女に、イスフェルは思ったままを口にした。

「だが、カイルはもう立ち直っていると思う」

「……え?」

 あまりにもあっさりと放たれた言葉に、セフィアーナは呆気に取られて青年を見た。

「だって、もし未だにカイルが死を望んでいるというなら、ケルストレス祭なんかに参加して、村のために賞金を狙うなんて言うはずがない」

「あ……」

 考え込む彼女の横顔を一瞥すると、イスフェルは中途半端な輝きを放つ月を見上げた。

「辛い時に、側に誰かがいてくれるというのは心強いものだ。だから、彼はダルテーヌの谷を、……こんなにも自分のことを心配してくれるきみの傍を離れなかったんだとオレは思う」

「イスフェル……」

「焦らないで。一度深い傷を負った者は、一生それと向き合っていかなければならない。彼が生きようと決めたことは、その覚悟ができたということなのだから」

 イスフェルの、自分をいたわってくれる気持ちが胸に熱い。セフィアーナはようやく口元に微笑みを取り戻した。

「そうね。ケルストレス祭を棄権したのは、何か急用ができたからかもしれないし……。ねぇ、イスフェル。あなた、デスターラ神殿の場所を知ってる?」

 唐突な問いに、イスフェルは目を瞬かせながら頷いた。

「ああ、《太陽の広場》のすぐ近くだ」

「もし差し支えなければ、今から私を連れて行ってくれない?」

「今から!?」

 祭中とはいえ、既に真夜中という時分である。イスフェルが驚いてセフィアーナの顔を見直すと、彼女は至ってまじめな様子で頷いた。

「カイル、デスターラ神殿に泊まってるって、この間言ってたの」

「オレは別にかまわないが……明日じゃダメなのかい?」

 イスフェルがそう言ったのも無理はない。普通、年頃の少女が真夜中に出歩くことなど許されないのだから。しかし、少女は首を横に振った。

「明日は、ダメなの」

 明日だけではない。明後日も明々後日も、神官になると決めた彼女に、もはや勝手は許されないのだ。

「今夜じゃなくちゃ……」

 セフィアーナの思い詰めた様子に、イスフェルは立ち上がった。

「わかった、行こう」

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