第三章 春宵の夢 --- 4
「イスフェル!?」
イスフェルがユーセットを従えて《月光殿》の大広間に入っていくと、入り口付近の壁際に立っていた若者が駆け寄ってきた。その声に、大広間にいた者たちが一斉に振り返る。
「シダじゃないか! おまえ、何でここに?」
めいっぱい見開かれた藍玉の瞳に、シダと呼ばれた青年は不服そうに眉を顰めた。
「この凛々しい格好が目に入らないのか」
言われてイスフェルが視線を下げると、シダは濃紫の上着――サイファエール近衛兵団の軍服を纏っていた。
「のんびり屋のおまえと違って初任務さ」
自慢げに胸を反らせる彼に、ユーセットがイスフェルの背後であからさまに嘆息を漏らした。
「近衛兵団も廃れたものだな。おまえの入団を許すなんて」
「なっ、ユーセット!」
その時、ざわめく人の輪の中から青年がもう一人抜け出してきた。
「イスフェル!」
「セディス!? おまえまで……いったいどうなってる?」
イスフェルは眼前の二人を代わる代わる見遣った。彼らとは六年間の学院生活を共に過ごした仲であり、刎頸の友でもある。二人ともイスフェル同様、今年から王宮に出仕することになっており、騒がしい日々は今後も続きそうだった。
「それはこっちの台詞だ。しっかし、久しぶりだな! レイスターリアからは海路で帰るんじゃなかったのか?」
「あぁ……まぁ、色々あってな」
海賊と揉め事を起こして陸路になったとは、口が裂けても言えない。
「おまえは巡礼でここへ?」
「バカ言え」
イスフェルの言葉を、セディスは呆れたように一蹴した。
「出仕を始めたばかりの新米に、王宮が一か月も休みを与えると思うのか?」
「それどころか、遠路遥々仕事に行けとさ」
シダが意地悪く笑う。
「じゃあ、書記官として同行を?」
セディスは小さく頷くと、イスフェルの肩越しにユーセットを見た。
「今後とも宜しくお願い致します、ユーセット殿」
そして深々と礼をする。今後、同じ書斎で机を並べることになった新人に、しかしユーセットは、励ましの言葉をかけたりはしなかった。
「わざわざおまえたちに会うために聖都まで来たんじゃないんだ。イスフェル、行くぞ」
久しぶりに彼の額を飾った金の輪が、照明の光を受けて輝いている。イスフェルは小さく肩を竦めると、二人に「後で」と言い残し、使節団長のもとへ大広間を進んでいった。
「……これはこれは、どこぞの旅人かと思えば」
イスフェルの姿を認めるなり、ゼオラは愉快そうに口元を曲げた。
「敵前逃亡した宰相家の御子息殿ではないか」
「――と見せかけて、裏道から秘かに戻って参りました。ゼオラ殿下、何のお沙汰もなく突然お伺いした次第、どうぞお許しを」
絨毯に膝を付くと、イスフェルは恭しく頭を垂れた。ユーセットもそれに倣う。
「ふむ、普段なら無礼なと叫んで剣を抜き放つところだが、おぬしら、運が良かったな。今日の私は格別機嫌がよい」
機嫌が悪くてもそんなことは決してしないゼオラだが、目尻が下がりっぱなしの様子を見ると、機嫌が良いのは本当らしい。
「おぬしら、聖都へはいつ?」
「は、つい先刻でございま……」
イスフェルが言い終わらないうちに、国王の従弟は呑みかけていた酒を噴き出すと、腹を抱えて笑い出した。
「先刻!? 先刻とはいつだ。神が寝床へ帰られてからか」
「ええ……」
何が可笑しいのか、と訝しんでいると、ゼオラは苦労して笑いを噛み殺しながら言った。
「おぬしら、今年の聖儀に間に合わなんだことは、人生の損失だぞ。それも甚大な」
イスフェルとユーセットは、わけがわからないというように互いの顔を見た。確かにイスフェルは間に合わなかったことを残念に思ってはいるが、所詮、彼の個人的かつ些細な望みであり、甚大な損失などではありえない。ユーセットに至っては、聖なる都へはイスフェルのお守りで立ち寄っただけであるから、大笑されて内心、顔をしかめるばかりだった。
「殿下、聖儀で何か……?」
「おう、あったとも。奇跡がな。今年は必ずや良い一年になる」
言うなり立ち上がると、ゼオラは手に持った盃を高く掲げて叫んだ。
「洗われた器と、注がれた酒に、乾杯!」
途端、大広間中の人々が次々と杯を掲げる。その言葉の意味を二人が知ったのは、ユーセットの同僚の輪に招き入れられてからのことだった。
「しかし、おぬしら、本当に惜しいことをしたぞ」
「さっきからいったい何なんです? 人生の損失など、私は何も感じていません」
ワグゼスという年上の書記官の言葉にユーセットが溜息をつくと、隣に座っていた同期のブレーオフが、葡萄酒の入った彼の杯子をつついた。
「おまえは葡萄酒が飲みたい。しかし、ひとつしかない杯子に黴が生えていたら、おまえならどうする?」
「そりゃ徹底的に洗うだろうよ」
「だろう」
ブレーオフがにやりと笑う。
「オレたちは全員、洗ってもらったのさ。巫女殿に、ここを」
言って手が当てられたのは、胸の上であった。
「そして極上の酒を――新しき神の、力強き生気を注いでもらった。なみなみとな」
「巫女? 巫女とは、《太陽神の巫女》のことですか?」
イスフェルが首を傾げると、ワグゼスが大きく頷いた。
「今年の乙女は、それは見事な美声の持ち主でな。魂を抜かれるというか……あの無骨なゼオラ殿下がベタ褒めするほどだ。わかるだろう?」
「また美談があるのさ。彼女、孤児なんだと」
「孤児?」
首を傾げるイスフェルの横で、ユーセットが辛辣な言葉を漏らす。
「孤児の娘などが、あの汚泥にまみれた試験によく受かったな」
「よくぞ言ってくれた!」
突然、ブレーオフが膝を打つと、嬉しそうに叫んだ。
「彼女、なんでも推薦試験に後見人として信徒一万人を引き連れて来たらしい」
「い、一万人!?」
イスフェルとユーセットは、思わず同時に叫んでいた。
何かをしようとする時、人を集めるのがいかに難しいことか、二人はこれまでの経験から知っている。それを、孤児の少女が一万人とは。
(……いや、孤児だから、か?)
もしイスフェルが彼女の歌声を直に聴いていたら、そんなことは考えもしなかっただろう。彼女の声音の前に、身分など存在しないのだから。
「巫女殿、さっきまで居たんだがな。おまえたち、本当に運が悪いな」
確かに二度もその姿を見損ねるとは運が悪かったのかもしれない。しかし、イスフェルはその運の悪さに心のどこかで感謝していた。そのおかげで、あの少女と出逢うことができたのだから。
ふいに彼女の言葉が蘇る。
『多分ずっといると思います……』
彼女はダルテーヌの出身と言っていた。故郷の様子を話す彼女の表情はとても明るく幸せそうだった。その愛する土地を離れ、彼女はこの聖なる都で暮らす気なのだろうか。
(いったいどんな理由で……?)
イスフェルは気になったが、それ以上に嬉しくもあった。何年か後、彼が聖地にやって来た時、彼女はこの都のどこかで竪琴を弾いているのだ。
(何年か後、か……)
溜息をつきながらそう思って、イスフェルははっとした。これまで女性のことで物思いに耽ったことなどなかったのに、いま彼の頭の中は少女のことでいっぱいだった。そんな自分を持て余して、イスフェルは酒杯を勢いよく呷った。
「おっ。イスフェル殿、好い飲みっぷりだな」
ワグゼスの言葉に、「なにそのくらい」と他の者が続いて盃を取った。イスフェルの数年前の醜態を知っているユーセットは、やや呆れた様子で彼を見ている。
(確か彼女の友だちもケルストレス祭に出ると言っていたな。では試合に行けば、また会えるかもしれないな……)
周囲のバカ騒ぎを余所に、イスフェルは頬を上気させながらそう思った。
彼自身、それが恋だと気付くには、まだ時間がかかりそうだった。
「これはまた、すごい人の数だな」
当日の参加受付をするイスフェルの横で、セディスは続々と集まってくる観客を眺めながら言った。
「これって有名な祭なのか? まるで聞いたことがないぞ」
首を傾げるシダに、イスフェルの相手をしていた神官が驚いたように顔を上げた。
「いえいえ、ケルストレス祭は由緒正しき祭儀ですよ。話すと長くなりますので申し上げませんが、優勝した者には《光道騎士団》からお声がかかることもあるのです」
「《光道騎士団》ねぇ……」
シダとセディスは顔を見合わせると、軽く首を竦めた。
突然、厳しい戒律のもと武装を始めた僧兵軍団は、統べる者を替えてもなお、その勢いを衰えさせることはなく、それどころか小国の軍隊に迫るものさえあった。そのことが王宮でも物議を醸し出していることは、出仕してまだ日の浅い彼らでも知っていることだ。
「ところでイスフェル。こんな祭のこと、どこで聞いてきたんだ?」
先程から黙ってイスフェルの筆先を見ていたユーセットが、ふと口を開いた。
これまで一度もケルストレス祭のことなど彼の口から話題に上ったことなどなかったのに、今朝いきなり出場すると言われて、目付役として多少合点がいかないのかもしれない。それも当然のことで、昨晩の少女のことを、青年はユーセットに話していなかった。
「い、いや、昨日、看板が出ていたのを見かけてな……」
容易にたじろいでしまったイスフェルだが、それには気付かぬ様子でシダが呆れたように言った。
「おまえも相当、物好きだな」
その物好きをせっかくの非番に見に来た物好きはいったい誰なのか。
「おまえに言われたくない」
名前などの記帳を終えたイスフェルが言い返した時、この祭を取り仕切るケルストレス神殿の神官が、庭に設置された武舞台の上に姿を現した。他の神官たちが「静粛に!」と叫んでいるのが聞こえる。
「おっ、いよいよか」
自分が出場するわけでもないのに、シダは嬉しそうに伸び上がった。その様子を、三人は呆れ顔で見遣った。
しばらく神官によって挨拶と試合の方法や決まりが説明され、ふたつある武舞台で最初に試合を行う戦士たちの名が呼ばれた。それぞれの得物を手に、観衆の前に現れた彼らは、丸太のように太い足の者もいれば、イスフェルよりも小柄な者もいる。湧き起こる大歓声の中、最後に神官長が武舞台に上り、両手を天にかざした。
「神の膝元に集いし熱き魂たちよ! 競いてケルストレスが誉れを勝ち取らん!」
彼らの頭上では、新生したばかりの太陽が春にしては熱い輝きを放っていた。
イスフェルが木陰から遠目に試合を見ながら自分の番を待っていると、くじで負けて露店に飲み物を買いに行ったシダが何やら興奮した様子で戻ってきた。
「おい、おまえ、頼んだ林檎茶は……」
彼が手ぶらなのを見て、セディスが顔をしかめた。
「あ? 買ったがさっき落っことした」
「なに!?」
目を剥くセディスをよそに、シダは大きく武舞台の方を指さした。
「それより、見るなら向こうの武舞台だぜ。変わった奴が出てる」
「変わった奴?」
シダに引っ張られるようにして木陰から出ると、強い陽射しが彼らを襲った。まるで夏のように肌が焼けるのを感じる。
「ほら、あの、髪を束ねているヤツさ」
シダがしゃくった顎の先で、二人の男が一瞬一瞬その立ち位置を入れ替えながら、その腕を競っていた。ひとりはまさに巨漢で、特注と思われる大きな偃月刀を振るっている。それを迎え撃つ細身の青年がシダの言う「変わった奴」らしいのだが、驚いたことにその辺に転がっているような棒きれで偃月刀の猛撃に対抗していた。
四人はしばらくの間、沈黙して闘いを見つめていたが、やがてあることに気が付いた。
「……おい」
セディスがイスフェルを見ると、彼は視線はそのままで頷いた。
「あぁ。デナード先生と同じクセだ……」
それは王立学院で彼らに剣を教えてくれた師の名前である。彼は相手に突きを与えた後、手首を捻るのが癖だった。そうすることで与える負荷が大きくなり、それを真似て拾得した弟子たちは多いと言われている。王立学院出身剣士の習性と言ってもよかった。
「案外、学院出身者だったりするんじゃないのか?」
セディスの言葉に、シダが大きく手を振る。
「さっき聞いたんだ。ダルテーヌの谷の農夫だと。えーと、名前は確かカイン……カイルだったかな」
「農夫!? 馬鹿言え。ただの農夫があんな動きをするものか!」
掴みかからんばかりのセディスに、シダは首を竦めた。
「いや、まったく同感だな」
その時、イスフェルはあることに思い当たった。
(――待てよ……ダルテーヌの出身ということは、彼女の友だちとは、彼のことか……?)
その時、鈍い音がして、大きな偃月刀が吹き飛んだ。青年の棒が、相手の手首を捉え、思いきり捻ったのだ。均衡を崩して倒れ込んだ巨体の戦士の喉元に、彼は静かに棒先を当てた。
「オレの勝ちだ」
途端、武舞台の周囲を囲んだ観客から大歓声が上がる。
「おいおい、マジかよ。あんな棒一本で……」
シダが呟いた時、神官が次の試合に出場する戦士の名を呼んだ。
「第二武舞台第三試合ヒラード対イスフェル! 速やかに上がられたし!」
「……オレの番だ」
イスフェルは我に返ると、邪魔になりそうな外套をユーセットに預けた。
「相手のヒラードだが、去年の優勝者らしいぞ」
周囲の観客から聞き出したものか、シダが得意げに説明する。
「一応、言っておくぞ。気を付けろ」
ユーセットの事務的な言いように、イスフェルは苦笑いしながら武舞台に上がった。強烈な陽射しが、彼の麦藁色の髪を金色に輝かせる。女性の観客からうっとりとしたような吐息が漏れ、男たちはそれに顔をしかめながらも、彼の鍛えられた肢体がどんな剣技を繰り出すものか見定めてやろうと武舞台に注目した。しかし、たったひとり、その姿を険しい視線で見遣った者がいる。
その名が呼ばれた瞬間、カイルは束ねた髪の先が頬を打つほど強く振り返っていた。
(イスフェルだと……!? どうして宰相家の嫡男がこんな試合に……)
青年はしばらくの間、顔を強張らせていたが、やがて静かに人混みの中へ消えていった。
数ディルク後、彼と闘う予定だった戦士の不戦勝が決まった。
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