第三章 春宵の夢 --- 2

 天の玉座を極めた太陽も、いつしか終焉の時を迎えていた。

 東の山の端から、白い月が淡く煌めく星々を従えて姿を現し、それに呼応するかのようにセレイラの大地を見下ろす塔に火が灯された。はじめは遠慮がちに揺らめいていた炎も、やがて火柱となって天高く燃え盛り、陸路で聖都フィーユラルへとやってくる者たちの道標として、その役目を果たしつつあった。

「あれが《天の光セイファス》か……」

 その様子を見ながら、聖都から南へ二モワルほど離れた街道上で、葦毛の馬に身を任せた青年が感慨深げな声を漏らした。

「美しいな……」

 言って彼が被っていた紫紺の頭巾を手で払うと、まだ少しあどけなさを残した若者の、白く秀麗な顔が露わになった。

 彼は、サイファエール王国宰相ウォーレイの嫡男で、その名をイスフェルといった。春の日溜まりのような麦藁色の髪が、少し癖のある様子で額に落ちかかり、その奥で潔癖な感じのする藍玉の瞳が、意志の強さに比例して揺るぎない光を放っている。頭巾から続く同色の外套を羽織り、胴に皮の鎧を着け、腰に短剣を佩いていた。

「その昔、かの地にテイルハーサ神が降臨された際、我々にお与え下さった聖火だ。それ以来、一度も絶えることなく今日まで至っているというが……」

 もうひとり、同じように空の彼方を眺めていた青年が、仲間の隣に馬を立てながら、厳かに言った。

 その瞳は緑玉のごとく、背中まで伸びた漆黒の髪と額に巻いた白い布が鮮やかな対比を成している。宰相家の遠縁に当たるバロー家の一員で、イスフェルの目付役を自負するユーセットである。

 先だって、二人は友好親善使節の一員として隣国レイスターリアに赴いたが、帰国する直前に海賊と揉め事を起こしてしまったため、彼らだけ帰路を陸にとる羽目になってしまったのだ。だが、その道中で、年に一度の国教の祭典《尊陽祭セレスタル》が行われているということで、彼らにしてみれば怪我の功名だった。

「残念ながら、聖儀には間に合わなかったな……」

 気が抜けたように溜息をつくイスフェルを見て、ユーセットは軽く笑った。

「一事が万事だな。たった一日の差でこのザマだ」

「まったく……」

 自分が思った以上に意気消沈しているのを感じ、イスフェルは内心驚いた。

 この年、イスフェルは十八歳になる。それは、貴族の男子が成人として認められる年齢であり、彼自身はこの旅を終えた後、宰相補佐官として宮廷に出仕する予定となっている。この新しい門出の年に、《尊陽祭》の聖儀に参列し心身を浄めたいと考えるのは、テイルハーサ信徒として当然のことだった。

「前回、参列したのはいつだ?」

 ユーセットの問いに、イスフェルはふと宙を見つめた。

「確か……十一の時だ。王立学院に入るためにテイランでの生活を終えて、王都に帰る途中……そうそう、父におまえと引き合わされた、あの時以来だ」

「あれ以来か!」

 ユーセットはおかしそうに口元を歪めた。

「それは、やはり惜しいことしたな。次回の訪問は、いつになることか」

 昨年の秋、隣国を訪問する使節団に、イスフェルは半ば無理矢理同行させてもらった。出仕を控えた息子に、父ウォーレイが許した最後の遊学である。王都に帰れば、まず始めに出仕の開始を引き延ばしてもらったことによる反動が彼を襲うだろう。そして、その後は宰相補佐官――次代の宰相として、日々荒れ狂うまつりごとの海を泳いで行かねばならないのだ。優雅に訪問団などに参加している場合ではない。

 フン、とイスフェルは鼻で笑った。

「オレが動けないということは、おまえも動けないということだぞ、ユーセット。なんせおまえは宰相補佐官付きの宮廷書記官だからな」

「かまわないさ」

 ユーセットはさらに笑みを強めた。

「オレに放浪癖はないし、おまえが日々の政務だけに追われている間は、国内がまぁ安定しているという証拠だろうしな」

 イスフェルは憮然として隣人を見遣った。別に彼に放浪癖があるわけではない。ただ、旅をして、新しい出来事や刺激的な人物に出会うのが好きなだけだ。だいたい、たとえ半人前でも、ひとりの政治家が王都に閉じこもってばかりいて、いったいどんな政を行えるというのか。

「さて、一事が万事だ。こんな所に長居をしていては、後夜祭さえ逃してしまう」

 ユーセットは手綱を握り直すと、ふくれっ面のイスフェルを残し、颯爽と夜の帳の降りた街道を走り始めた。



 二人がフィーユラルの城門をくぐった時には既に、天上は宝石箱をひっくり返したような輝きを放っていた。

 祭のためにごった返した城内は、音と光と活気に溢れ、二人とも思わず長旅の疲れを忘れてそれらに魅入った。

 路上では、旅芸人が次々と鮮やかに見せ技を決めて観客の賞賛を浴びており、その合間を縫って、路傍に軒先を連ねた露店から商人の威勢のいい声が聞こえてくる。街の広場では、この日のために集まった諸国の歌謡団や舞踏団が所狭しと天幕を張り、その中で華やかな衣装に身を包んだ美女たちが自慢の踊りや喉を披露して熱狂的な騒ぎとなっていた。

「いつ来ても、ここの祭は凄いな!」

 荒れ狂う人波を避けるのに苦労しながら、イスフェルが叫んだ。そうしなければ、すぐ隣にいるユーセットにさえ声が届きそうにない。祭は夜明けと同時に始まったはずなのに少しも衰えを見せず、それどころかこれから夜半にかけてますます盛り上がる気風があった。

「どうする!? このまましばらくぶらつくか!?」

「そうしたいのは山々だが!」

 イスフェルは顎をしゃくると、ユーセットに脇道へ入るよう促した。馬がやっと一頭通れる細い道を抜けて煉瓦造りの商店の裏まで出ると、ようやく祭の喧噪から逃れることができた。

 イスフェルは馬首をユーセットの方に巡らせると、小さく溜息を付いた。

「こう人が多くては、馬での移動はとても無理だ」

「だが、だからといって乗り捨てて行くわけにもいくまい。どこか……あ」

「……何だ?」

 イスフェルが首を傾げると、ユーセットは改めて彼を見遣った。

「ときにおまえ、今晩の寝床はどうするつもりだ?」

「どうするって……そんなの、そこら辺で野宿に決まってるだろう」

 貴族中の貴族である宰相家の跡取り息子は、あっさりと言い放った。

「以前泊まった総督府は来賓客でいっぱいだろうし、一般の宿に至っては今さら言うに及ばずだ」

 ユーセットは内心で苦笑した。

(つくづく権力の使い方を知らないヤツだ)

 それは、今回の旅に経って以来、何度も彼が感じたことだった。イスフェルがそうだと名乗りさえすれば、丸く収まる事態は山ほどあった。それをそうしないものだから、何度ユーセットが身を砕くことになったか。だが、それで十二分にわかったこともある。

(こいつは、自分のことに関しては絶対に権力を使わない。だからこそ、付いていく価値もある)

 ユーセットはイスフェルより四つ年上であり、その分、先に宮廷書記官として出仕している。そこで与えられている彼への評価は「冷徹」の一言に尽きる。

 もともと才幹に溢れていた彼は、次男ということもあって、昔から宮廷でのし上がることを考えていた。そのために入った王立学院でめきめきと実力をつけ、ある日招待された王宮での宴で、イスフェルの父ウォーレイと出会ったのだ。宰相に気に入られた彼は、遠縁ということも手伝って次代の宰相の先導役を頼まれ、その足でイスフェルを迎えるために聖都へと向かったのだ。

 自分の才幹を頼りに自力で上を目指すことを考えていた彼だったから、無論、最初は抵抗があった。その息子とやらが、もし愚に尽きる人間であったならば、彼の一生を棒に振ることになりかねない。しかし、有り難いことに現実は違った。

『僕を計ってるの?』

 藍玉の瞳の少年は、開口一番そう言って、冷静に彼を観察していたユーセットの度肝を抜いたのである。以来、自分にここまで忠誠心などがあったのかと笑いたくなるほど、ユーセットはイスフェルのために尽くしてきた。勉強を見てやったり、剣術の練習相手になることは勿論、人脈を作るために彼の仲間に引き合わせたこともあった。先に王宮へ行くようになってからは、特に人間関係に注視し、イスフェルの力となってくれそうな人物に接近を図ったり交流を深めたりした。政務の上でも、火種になっている、或いはなりそうな事項を徹底的に押さえ、イスフェルの出仕に備えた。彼への対外評価は、半分は彼の性質であるが、もう半分は彼のイスフェルへの期待の顕れなのかもしれない。

 ユーセットは見たいのだ。自分が憧れた初めての人間が、人の皮を被った魑魅魍魎の跋扈するあの王宮で、どこまで通用するのかを……。

「何がおかしいんだ?」

 彼の口元の笑みを見咎めたらしい。イスフェルが軽く眉根を寄せた。

「……いや、別に。ところで、《正陽殿》には行くつもりなのだろう?」

「やたら話が飛ぶな。ああ、行くつもりだ。聖儀には間に合わなかったが、ここまで来た以上、詣でずに帰れるか。それが?」

「《月光殿》に知り合いの神官がいる。もしかしたら、部屋が空いているかもしれない。ダメもとで当たってみよう。馬は、確かルーフェイヤ聖山の麓に臨時の厩舎が設けてあるはずだから、そこに預ければ参拝にも町中を彷徨くにも丁度いい。どうだ?」

「そこまでの人混みくらいは我慢しろということか。わかった、行こう」

 二人は再び表通りに出ると、多少人波の切れやすい中央部分を通って聖なる山を目指した。



 毎年、《尊陽祭セレスタル》には王宮から使節が派遣されている。復活した神に敬意を示し、サイファエールにさらなる繁栄をもたらしてもらうためで、それには王宮から百五十名、王都の神殿から五十名が従うのが慣例だった。団長には、数年に一度、国王が巡礼する時以外、王族や筆頭貴族が務めることになっている。

 今年、その団長に選ばれたのは、国王イージェントの従弟で、先月三十四歳になったばかりのゼオラだった。戦時は上将軍の役を仰せつかるだけあって、鍛え上げられた体躯は筋骨隆々とし、その黒い瞳は常に大胆不敵な光を放っている。

《月光殿》の大広間の上座で、ゼオラは長い間、眼前に跪く少女を見つめていた。彼の、好んで道化になるほどの陽気な性を知っている者たちは、あまりにも長い沈黙に互いに首を傾げながら、彼の発言を待った。

「……自分で言うのもなんだが」

 ようやくゼオラが口を開いた。

「私は芸術には疎い。音で好むものと言えば、剣の刃鳴りぐらいなものだ。だが、おぬしの声に何かがあるのはわかる。おぬしの歌は……人の心を喚び起こす」

「身に余るお言葉……恐れ入ります」

 絨毯の上で畏まっていたセフィアーナは、深々と頭を垂れた。

 聖儀で未だかつてないほどの栄光を手に入れた彼女は、落ち着く間もなく大神官や王族貴族の訪問を受け、賞賛の嵐のただ中に立たされることになった。が、同じサイファエール人として、いち早く面会を望むはずの王都の使節団は、昼間は一向に動かず、夜になって彼女を宴に招待してきた。どうやら《太陽神の巫女》を独占するため、陽のある間は我慢していたらしい。

 リエーラ・フォノイの話によると、ゼオラは王族の中でも庶民的で、兵士に圧倒的な人気があるとのことだった。しかし、王族どころか兵士にさえ馴染みのない彼女である。そう聞いたところで、「高貴」という得体の知れない人々に対する緊張を自ら解くことなどできるはずもない。「この地に集う者はすべて同じ神の子」――ただ、その意識だけが彼女の身を立たせ、臆することなく巫女としての務めを全うさせようとしていた。

「聖台の上で、おぬしの目に《朔暁》はいかに見えた?」

《朔暁》とは、聖儀の日の日の出のことである。ゼオラは挑むように真っ直ぐ少女を見据えた。

「私には……」

 セフィアーナは小さく笑った。

「私には、いつもと変わりなく思いました」

 途端、大広間の中がどよめいた。神の聖なる新生を「いつもと変わりない」とはどういうことか――。その場にいた全員が、絨毯を挟んで《太陽神の巫女》に視線を集中させた。

「確かに神は生まれ変わり、新しい力を得られました。その恩恵を、私たちに授けてくださることでしょう。けれど、力があってもなくても、神は神――私はむしろ、故郷の暁と今日の暁が同じであったことをとても嬉しく思いました。神は本当に、いつも傍にいてくださるのだ、と……」

 そこで彼女が浮かべた微笑みに、誰もが息を呑んで見とれていた。

「おぬしはやはり……」

 饒舌なはずのゼオラも、言葉を詰まらせた。

「人の心を喚び起こす。ここに集った者がすべて感じたであろう。おぬしによって、神の変わらぬ存在を」

 セフィアーナは一瞬、黒い瞳を見つめると、再び深く頭を垂れた。その下で、強く瞼を綴じる。

(私でも役に立てたのね……。やっぱり頑張って良かった……)

 その後しばらく大広間に留まっていたセフィアーナだが、先日以来の激務に疲れているだろうとのゼオラの配慮で、思ったより早く退出を許可された。ひとり回廊を歩きながら、セフィアーナは「高貴」な人々に対する印象がかなり変わったことを感じていた。

(なんだか胸がいっぱい……。部屋に戻っても、きっとすぐには寝付けないわね……)

 セフィアーナは、腕に抱いた竪琴を見つめると、そっと《月光殿》を後にした。

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