第三章 春宵の夢 --- 3

「まだ日が沈んでないみたいだな」

 ユ-セットの言葉に、イスフェルは馬を預けながら頷いた。ルーフェイヤの麓から上方へ延びる道には、大人が両手を広げたほどの間隔で篝火が焚かれており、また山中に並び建つ神殿のそこここに松明がかけられて、山全体が炎に包まれているかのようだ。

「……思ったより人が少ないな」

 坂道を上りながら、イスフェルが前後を見て言うと、ユーセットは軽く口の端を擡げた。

「神は既に閨の中だ。皆、それに倣って街で愉しんでるんだろ」

 途端、イスフェルが顔をしかめた。

「おまえな、他に言い様はないのか? 神聖な祭なんだぞ」

「単なる喩えだ」

 ユーセットが呆れたように年下の青年を見返すと、彼は不機嫌そうに言った。

「そんな喩え、オレは嫌いだ」

 ユーセットはおもむろに溜息をつくと、半ば憐れむような視線を彼に向けた。

「いい加減……忘れてもいいんじゃないのか?」

 その言葉に、イスフェルはユーセットをちらと見遣ると、いっそう表情を険しくした。

「忘れる? おまえも同じ目に遭ってみればいいんだ。そうすれば、オレの気持ちが解る」

 頑ななイスフェルの態度に、黒髪の青年は内心で盛大に嘆息した。

 二年前のある夜のことである。当時、王立学院に在籍していたイスフェルは、王宮で外国の使節団を歓迎する宴が催されるということで、他の学院生と共に登城していた。宴の最中、未だ酒を飲み慣れなかった彼が、漂う酒気に気分を悪くして別室で横になっていると、突然、何かに口を塞がれた。いつの間にか眠ってしまったらしいのだが、不覚にも人の気配にまるで気付かなかった。息苦しさにイスフェルが目を開けると、目の前に見知らぬ女性の顔があった。驚いた彼は思わず寝台の上で後ずさりしたが、彼女は構わず彼に迫ってきたのである。

 女性に免疫がなく、日々剣と書と向き合ってばかりいたイスフェルである。その女性の濡れた瞳と迫力に容易に圧倒され、無様にも室内を逃げ惑った。それが想い余って彼のもとへ忍んできた女性に恥をかかせる行為だとさえ思い及ばない。彼女は半ば肌を露わにしながら、涙を流して彼に縋ってきた。しかし、やがてイスフェルにその気がないのを悟ると、今度は反対に大声で彼を詰ったのである。

 ユーセットがイスフェルを起こしに行った時、部屋の中央には崩れ落ち号泣する半裸の女、壁際には顔面蒼白になったイスフェルの姿があった。そして、その一件以来、イスフェルは女性嫌いとはいかないまでも、確かに一線を画して接するようになり、さらには下世話な冗談まで嫌悪するようになってしまったのだ。

「同じ目に遭えば気持ちが解る」とイスフェルは言うが、もしそこに居たのが自分なら、最初は怖じ気づいても、最後には彼女を受け入れていただろうとユーセットは思う。たとえ一夜限りでも、それは向こうも承知の上だ。男を上げる好機でもある。しかし、年若いながら品行方正で通るイスフェルに、そういった発想は皆無だったようだ。王宮屈指の貴公子として王都中の女たちの視線を集めながら、今や彼に付けられた異名は「冬のフォーディン」だった。――本来、フォーディンは性に奔放な聖官せいがんだというのに。

「……しかし、イスフェル。学院の白壁は、最早おまえを守ってくれる物ではないぞ」

 普段ならイスフェルがムキになった時点で諦めて口を閉ざすユーセットだが、この夜は珍しく後を続けた。

「女たちは、おまえの出仕を恋愛の解禁とばかりに待ち望んでる。これからは自力でそれを回避するんだな。――いや、多少は浮き名を流してくれてもかまわんが」

 その時、二人の前に、愛と美の聖官エリシアの神殿が姿を現した。ユーセットは再び意地の悪い笑みを浮かべた。

「丁度いい。エリシアに良い姫を紹介してもらったらどうだ?」

「ユーセット!!」

 藍玉の瞳に本気の怒りを滲ませて漸く隣人を黙らせると、イスフェルは大きく息を吐き出した。彼はユーセットが執拗に言葉を重ねた意図を察していた。女性の存在を無視して王宮を渡っていけると思うな、というのである。しかし、そんなことは彼自身、百も承知のことだ。古今東西、政の影には常に女が潜んでいたものだ。それはサイファエール王宮においても例外ではない。女と侮り下手な策を打てば、たちまち返り討ちに遭うことは目に見えている。

(しかし……こればかりは甚だ自信がないな)

 今まで自分に近付いてくる女性たちから散々逃げ回って来たというのに、これからはうまく付き合い、あるいは利用しなければならないとは。さらには、その中から人生の伴侶を選ばなければならないとは!

 弱気になったところで、ふとイスフェルは思い出した。

「……そう言えば、今年の使節の団長は、女に百戦錬磨のゼオラ殿下ではなかったか?」

「ああ、確か」

 ユーセットは思わず噴き出した。イスフェルの思考が手に取るようで可笑しかったのだ。

「なんだ、殿下に教えを請う気か?」

「いや、オレのような素人には所詮、玄人の言い分は理解できない。ただ、せっかく《月光殿》に寄るのなら、挨拶をと思ってな」

「ああ、そうだな。旧知とはいえ、出仕始めに礼を欠いては何に障るかわからん」

 しばらく喉を鳴らして笑っていたユーセットだが、突然はっとして額に手をやった。

「どうした?」

 イスフェルが訝しんで尋ねると、彼はやれやれといった面持ちで口を開いた。

「額輪がない。厩舎に預けてきた荷物の中だ」

「なに? その布は額輪を隠すためじゃないのか」

 額輪は貴族の男子が成人する際に親から授かる物で、公の場ではそれを着用することが義務づけられていた。王族に謁見を求めようかという時にそれがないのでは話にならない。イスフェルはまだ成人の儀を終えていないので、その必要はないのだが。

「最初はそうだったが、これだけ誰にも気兼ねのない旅が続くと外したくもなる。だいたい着けていたら、武装した蟻に集られてかなわん」

「だが、ゼオラ殿下の傍には必ずドレジ殿がおられるぞ。かの御仁は風紀にうるさいからな」

「仕方ない、取ってくるか。悪いがあそこで待っててくれ」

 目でエリシアの神殿を指すと、ユーセットは身を翻して来た道を下りていった。ひとり残されたイスフェルは、再び神殿に向かって歩き出した。



 白い大理石をふんだんに使って建てられたエリシアの住居は、煌々と輝く松明の光をより広い範囲に届け、巡礼に来た者たちを優しく迎え入れていた。縦に幾筋も溝の入った柱が荘重な様子で建ち並び、屋根との連結部分には細かな草模様の彫刻が施されている。階段の両端では、ボンネス蔦が美しい花を咲かせていた。

 入口をくぐったところで、イスフェルは大きく息を呑んだ。愛と美を司る者の宮だけあって、内部の装飾は華やかかつ繊細だった。床のそこここにエリシアの愛したリオーラの花が珊瑚を使って描かれ、そこから天井に延びる柱は女性的な丸みを帯びていた。壁には生花が延々と飾られ、まるで春の園のようである。

 自分のすぐ横の壁に巨大な絵が描かれてあるのに気付いて、イスフェルは立ち止まった。それは四代前の宮廷画家であったティディアムの作で、世に『美女たちの祝宴』という題で知られているものだった。花の咲き誇る森に十二人の美女たちが遊んでおり、その中央に一際光彩を放った女性が白い腕を水平に掲げて立っている。すなわち、それが愛と美の聖官せいがんエリシアだった。

 この絵を描き終えた後、ティディアムはしばらく女たちを近付けなかったという。自分の理想の女性を一度に十二人も描いたのだから、現実の女たちが色褪せて見えたのも無理はない。

「――『私は愛という名の水をすべての者にもたらしましょう。泉が涸れたら、愛という名の灯を。火が消えたら、愛という名の風を。風がやんだら、愛という名の夢を。私は絶えずあなた方を愛し続ける』……」

 以前、鑑賞した劇の中で、エリシアを演じていた女優の台詞が思わず口をついて出た。すると、隣に居合わせた男が怪訝そうに彼を見遣り、その後、連れの女性に何かを囁いて離れていった。その時になって、イスフェルは初めて神殿内にいる人間がすべて対になっているのに気付いた。夜も更けた今、確かにこの空間は恋人たちのためにあるのかもしれない。急に居心地が悪くなって、彼は踵を返した。しかし、ユーセットにここで待てと言われた以上、この神殿から離れるわけにもいかない。

 とりあえず表に出ると、イスフェルは夜景がよく見える神殿の裏へ歩を進めた。足場が悪いせいか、そこに男女の姿はなく、彼は内心で溜息を付いた。

「こんなことなら先に上まで行っておくと言えばよかった」

 ひとりごちたが後の祭りである。しかし、星の輝きを湖面に映したかのような地上の華やぎは、すぐにそんなことを忘れさせてくれた。空気が澄んでいるせいか、光がちらちらと揺れて見え、いっそう春の宵を幻想的に見せた。

 と、その時、か細い声のようなものが聞こえた気がして、イスフェルは周囲を見回した。しかし、相変わらず人の姿は皆無である。

(空耳か……?)

 しばらくの間、じっと耳を澄ませていたが、聞こえてくるのは遠くの喧噪ばかりだった。イスフェルは小さく溜息を付くと、神殿の壁にもたれかかった。が、次の瞬間、西から吹いてきた風が、今度ははっきりと彼の耳にその正体を掴ませた。それは、初夏の風のような、清涼な竪琴の音だった。

 青年は首を傾げながら壁から離れると、足下に注意しながら奥へと進んでいった。ここが街道沿いや祭の広場なら、彼もそんなに気に留めなかったに違いない。しかし、物寂しい感じさえするこの場所で、ただ聞き流すにはもったいない腕前だったので、音の根源を確かめたくなったのだ。

 一歩踏み出すごとに聞こえてくる竪琴の音が鮮明になっていく。やがて彼の目に、崖から突き出すように造られた露台と、その手摺りに腰をかけている少女の姿が映った。

 頭部を覆った白緑色の薄布の端から蜜蝋色の巻毛が溢れ出しており、むきだしの白い腕に抱かれた竪琴は、松明に照らされて目映いばかりに輝いている。俯けられた横顔を見れば、王都にて当代一の美女と目される第一王女に勝るとも劣らぬ美しさだった。

 イスフェルは息をするのも忘れてその光景に魅入った。まるで『美女たちの祝宴』から美女のひとりが抜け出して、彼の前で竪琴を弾いているようだった。

 なにやら心がざわめき立つのを感じて、イスフェルがそれに耐えようと地面を踏みしめた時、彼の足下で乾いた音が響いた。枯れ枝の一端を、彼の革靴が踏みしだいたのだ。びくっと身体を震わせて、少女が顔を上げた。驚愕に染まった瑠璃色の瞳がイスフェルの姿を捉え、その正体を確かめるようにこちらを見ている。

「あ……別に、怪しい者ではないから……。その、驚かせてすまなかった」

 青年が近付いていって丁寧に謝ると、少女は少し意外そうな顔をして、それから小さく微笑んだ。

「王都の使節の方ですか?」

 彼女の唇から流れ出た声も竪琴同様、いやそれ以上に澄んでいた。

「ああ……まぁ、そんなところかな」

 この幻想的な夜に俗世の身分を持ち込むこともないと思い、イスフェルは曖昧に答えた。そんな彼を、少女はまっすぐ見つめている。心の動揺を追い払うように前髪をかき上げると、彼は少しの間逡巡し、それから遠慮がちに申し出た。

「きみの演奏を、しばらく聴かせてもらっていてもいいかな? 迷惑なら、すぐにでも退散するが……」

 すると少女は慌てて首を振った。

「そんな、迷惑だなんて……。お耳汚しになるかもしれませんけど、それでも宜しければ」

 恥ずかしそうにしながらも彼女が再び竪琴を構えたので、イスフェルは礼を言って露台の内側に腰を下ろした。



 少女の竪琴は、イスフェルに海を渡る小さな舟を連想させた。波に揺られて高くなり低くなり、時には儚くなりながらも決して沈むことはない……それに乗る者の意志や希望が感じられるような。

 最後、少女は同じ旋律を次第に弱めながら奏で、曲を終えた。そして、傍聴者が言葉を発すのを待った。が、反応はなかった。あまりの下手さに呆れているのだろうかと思って様子を窺うと、高貴な感じのする青年は、ただ宙を見つめるばかりであった。

「あの……?」

 彼が身動きさえしないので、少女は心配になって声をかけた。

「どこか具合でもお悪いのですか?」

 少女に肩を叩かれて、イスフェルはようやく我に返った。顔を上げると、彼女が困惑した表情を浮かべている。

「あ……」

 何か言わなければ、と思ったが、その意志に反して、口から漏れ出るのは感嘆の吐息ばかりだった。ふいにイスフェルは両手を打ち鳴らした。言葉でと思ったのがそもそもの間違いだったのだ。方法はいささか単純ではあるが、素晴らしいものを聴かせてもらったからには、それなりの礼節をもって応えねばなるまい。自分の語彙力では、本当に素晴らしかったことを伝えられそうもなかった。

「……ありがとうございます」

 特に彼の気に障ったのではなさそうだとわかったのか、少女は嬉しそうに微笑んだ。

「今の曲、あまり有名じゃないけど、名匠シダンの曲なんです。『英雄へ』っていう曲の一節で……」

 そこで、イスフェルはためらいながら口を開いた。


  この惨めさを知る者がいた


 瞬間、驚いたように少女が彼を見た。それにかまわず、青年は言葉を続けた。


  この惨めさを知る者がいた

  彼は遥かネルガットよりも高い世界にいながら

  火のない台所の鼠の名を知っている

  彼は常春の野に横たわりながら

  漁り夫の指にできた肉刺まめの数を知っている


 彼の声に、少女の声が重なった。


  ある日 彼が歩き出した

  その行く先を知らぬ者はいない

  茨と氷と闇とが彼を待ち受けたが

  拳と血と志とで彼は乗り越えた

  彼の後に多くの鼠と多くの漁り夫が続いた


  かつて この誇らしさを与えてくれた者がいた……


 吟遊詩人のシダンは、サイファエール王国の始祖クレイオス一世のためにこの曲を作ったと言われている。

 かの王は孤独な為政者だった。先君に牙を剥いた家臣らとの長い戦いの末、ようやく取り戻した玉座を彼は憎んだ。己の力量が足りなかったために、偉大な先祖たちから受け継いだ祖国が荒廃したのを許せなかったのである。悲しみ嘆くクレイオスを、シダンは近衛兵に羽交い締めにされながら叱咤した。

「クレイオスよ、覇者に偽善者がなるべきではない。民たちはあなたを信頼し、血を流した。神はあなたを愛し、勝利をもたらした。あなたは我々に何を返してくれるのです? あなたがここで逃げるなら、我々は二度と国が建たぬよう、今すぐ命を投げ捨てる」

 クレイオスと共にあった人々にとって、彼は英雄だった。民に自ら支えになってもらえるほど、王冥利に尽きることはない。そして、その支えがある限り、頂点に立つ者はその義務を怠ってはならないのだ。

 それから数百年。クレイオス一世は新生サイファエールの始祖として、今日に偉大なる功績を称えられている。

「……御存知だったんですね」

 二人して詩を暗唱した後、少女がまじまじと言い、イスフェルは立ち上がりながら小さく笑った。

「好きな詩のひとつなんだ。子どもの頃、オレは英雄というものに対してとても憧れていた。もっとも、男ならたいてい考えることだろうが……。だが、この詩を知って、少し考え方が変わったように思う」

「どんなふうに?」

 少女が切り返すように訊いてきたので、イスフェルは少し面食らって彼女を見た。しかし、輝く瑠璃色の瞳と形のいい唇に浮かんだ微笑とが、自分の答えを心待ちにしているように思えて、何となく嬉しくなった。

「それまでオレは、英雄といえば剣を持ち武勲を立てた者にのみ与えられる称号だと思っていた。確かにそれもあるだろう。だが、もっと深いところで考えると……英雄とは志してなるものなどではなく、世の中のどこかに歪みがあって、そこから必然的に生まれるものなんだ」

「じゃあ、英雄が在るということは、あまりいい状況じゃないということ?」

「……ああ」

 英雄が出現するということは、時の執政者が失政悪政を行っているという証拠である。しかし、イスフェルはじきにその執政者になるのだ。英雄を生み出さないためには、彼自身がこの詩にあるとおり、鼠の名を知り、漁り夫の肉刺の数を知らなければならないのだ。その苦労に、彼は耐えられるだろうか。その優しき存在を守るために、自ら血を流せるだろうか。

(――いや、耐えられるか、ではなく、耐えてやる、だ。オレには、そんなことしかできないのだから……)

「じゃあ、もう英雄にはなれない……?」

 少女の気遣うような言葉に、イスフェルは軽く笑った。

「さっきの詩は、きっと英雄に限ったことではないと思うんだ。普通に生きるにしても、人の痛みに気付ける人間になりたい。もっとも、そのためにはまず自分が痛みを知るべきだろうが」

 その時、少女が小さく首を振った。

「……あなたは、もう鼠の名前も肉刺の数も知っていそうだわ」

「え?」

「ううん、それだけじゃない。露店商人の子どもの誕生日とか、虹の橋の袂に宝箱があるとか、そういったことまで」

 イスフェルは目をしばたたかせた。彼女の言うことがよくわからなかった。

「あの詩でそこまで考えたなんて、あなたはきっともう歩き出しているのね。自分の内の英雄の道を」

「自分の内の、英雄の道……」

 思わず彼女の言葉を反芻する。その言葉が、心の真ん中にかちりとはまり、次第に熱を発しているように感じた。

 イスフェルは改めて彼女を見た。どこか、神秘的な感じのする少女。彼女が微笑むと、とても安らいだ気分になれた。

(なぜだろう……? 彼女になら、何でも話せそうな気がする……)

 一ディルク前まで、できれば避けて通りたかったはずの女性に、まさかそんな思いを抱くことになろうとは、彼自身、考えもしなかった。

「……そういえば、まだ名前を聞いていなかった。オレはイスフェルという。きみの名を教えてくれるかい?」

 自分の心の中へ新鮮な風を送り込んでくれた少女に、彼は気付かぬうちに急速に惹かれていた。

「ダルテーヌの谷のセフィアーナといいます」

「セフィアーナ……。響きの良い名だな。ダルテーヌの谷のことなら、少し聞いたことがある。シリアに囲まれた、香水で有名な土地だ」

 青年の博学さに驚きながら、セフィアーナは大きく頷いた。谷を発ってからこちら、何度故郷の説明をしたことか。ダルテーヌを知っていた者は、軽く片手で数えられるほどだ。

「今よりカルマイヤと折り合いが悪かった頃、聖都を守るために築かれた砦があるそうだね」

「それは私の村からだいぶ下ったところです。今は軍神ケルストレスを称える祭殿になっています」

 瞬間、イスフェルの顔が輝いた。

「ケルストレスを? それは知らなかったな。一度訪ねてみたいものだ」

 イスフェルは、未だ行ったことのない南の国境の地を想像して、軽く微笑んだ。武芸で心身を鍛えてきた彼にとって、強く雄々しいケルストレスは、ひとつの目標でもあった。

 ふとセフィアーナは、カイルが出場すると行っていたケルストレス祭のことを思い出した。うっかり口を滑らせると、案の定、イスフェルは出場したいと言い出した。

「危ないわ。きっとお怪我を……。私の友だちも出るつもりらしいんですけど……もう、今から心配だわ」

「オレは大丈夫さ」

 剣術・弓術・体術を学院時代にみっちりと教え込まれた。この旅の道中は、まるでその最終試験とでもいうように、日々実戦で鍛えられる始末である。しかし、そんなことは眼前の少女の知ったことではない。

 セフィアーナはどうにか出場を諦めさせようとイスフェルの袖を掴んだ。その時、神殿の表で彼女の名前を呼ぶ声がした。リエーラ・フォノイである。彼女の姿が見えないので、心配して探しに来たのだろう。

「あっあの、私、もう行かなくちゃ」

 セフィアーナは慌てて手摺りから降りると、イスフェルを真っ直ぐ見上げた。

「あなたに会えてよかった……。どうか、お元気で」

 言うなり走り出そうとする彼女の腕を、イスフェルは咄嗟に掴んだ。

「いつまで、ここに?」

 短い言葉を発す。そんなことを訊いてどうするのか自分でもわからなかったが、このまま別れてしまうのは嫌だった。

「えっ? あ、多分ずっといると思います……」

「多分?」

 セフィアーナの言葉の不可解なことにイスフェルが引っかかっていると、再び彼女を呼ぶ声がした。セフィアーナはイスフェルの手をそっと解いた。

「それじゃあ……」

 心が暖まるような微笑みを浮かべると、少女は大事そうに竪琴を抱え、イスフェルの前から去っていった。

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