第二章 太陽神の巫女 --- 6
稀代の才能を《月光殿》の神官たちに惜しみなく披露した翌朝、セフィアーナはリエーラ・フォノイに先導されて、《正陽殿》へと向かった。この日を含め、《
昨夜の少女の歌声を聞いた限り、《称陽歌》を謳わせるには何の支障もないとリエーラ・フォノイは考えていた。それどころか、テイルハーサの許す限り、《太陽神の巫女》はずっと彼女でもいいと思えるほどだった。しかし、《太陽神の巫女》の役割は、ただ《称陽歌》を謳うに留まるものではない。巫女の力量は、その年の行く末を占うものでもあるのだ。歌声が素晴らしいだけに、セフィアーナに対する周囲の期待は想像以上に高まることだろう。ところが、実際に面と向かい合った時、礼儀や知識の点で大きく遅れを取るようなことがあれば、失望という名の反動もまた大きくなる。《太陽神の巫女》に選ばれた乙女は、人々の敬愛を受ける代わりに、決してその立場を貶めるようなことがあってはならないのだ。
「大抵の人は、貴女の歌声や人柄だけで充分満足できるでしょう。けれど、中には貴女の力量を試そうと無理難題を言ってくる者もいます。また、各国の王族貴族とも親しく言葉を交わさねばなりません。そういった時にも、神の寵愛を受けた者として毅然と振る舞えるよう、明日からの修行には心して臨んでください」
昨夜、リエーラ・フォノイから言われた言葉を思い出して、セフィアーナは胸が苦しくなるほどの緊張感を覚えた。《太陽神の巫女》に選ばれた以上、歌唱力は認められたとして、問題はその他の点である。《聖典》の知識に通じているとはいえ、山奥の狭い村の中でさえ、それを活用できず、人々の力になれない自分の無力さに心を痛めてきた彼女である。あの、ジャネスト神殿の大通りを埋め尽くした人の群――少なくとも彼女より世間を知っている人々に対して、狭い世界で育った自分が何を言えるだろう? まして集った高徳な神官らの下問になど答えられるはずもない。大樹の下の雑草も同じである。
また、これまでただの一度も王侯貴族を見たことがないセフィアーナである。いったいどのような人々なのか、まるで想像がつかない。それなのに、「見る」どころか「親しく言葉を交わ」さなければならないとあって、不安は募るばかりだった。
もし何か失敗をしてしまったとしても、彼女自身が嗤われ誹られるだけなら、これほど身体が強張ることはないだろう。しかし、彼女の失敗は即座に《太陽神の巫女》の威信を失墜させることになるかもしれない。さらに、もしそのことで古代から与え続けられてきた神の恩恵がこの地に降り注がなくなったら……。
セフィアーナは愕然として自分でも知らぬ間に歩みを止めていた。冷静に考えれば突飛な発想かもしれないが、今の彼女にそんな余裕はない。たった三日の修行で、いったい何が自分の身に付くのだろう?
「……セフィ、どうしたのです?」
突然立ち止まった少女を、リエーラ・フォノイは怪訝そうに振り返った。しかし、その血の気を失った表情を見て、すぐに彼女の心中を察した。《太陽神の巫女》の世話役を仰せつかったのはまだ二度目だが、昨年巫女に選ばれた少女もその重責に堪えられず、毎日涙をこぼしていた。
女神官は踵を返すと、少女の細い肩にそっと手を当てた。
「恐ろしくなったのですね……?」
彼女の問いに、セフィアーナは震えなが縦に首を振った。リエーラ・フォノイは小さく頷くと静かに微笑んだ。
「……きっと私の言い方が悪く、言葉も足りなかったのですね。ごめんなさい。確かに貴女のこの肩には想像以上の責任がのしかかるかもしれないけれど、でも、これだけは忘れないでいて欲しいのです」
リエーラ・フォノイは少女の正面に立つと、その白い頤を両手でそっと包んだ。
「それは、貴女がどうして《称陽歌》を謳いたいのか、誰のために謳いたいのかということ」
セフィアーナは、はっとして女神官の黒い瞳を見た。
「昨夜、貴女は私にどうして聖都へ来たのか教えてくれましたね。孤児の貴女が、ダルテーヌの谷でどれほど励まされたか。その人たちのために、いえそれだけではなくて大陸中の人たちのために自分ができることがあるのなら――」
瑠璃色の瞳から、銀色の雫が落ちる。
「他人のために何かしようという志は尊いものです。その気持ちさえ忘れなければ、神は真っ先に貴女に御光を注いでくださいます。これは絶対です」
「リエーラ・フォノイ……」
その言葉ひとつひとつを噛みしめると、セフィアーナは真っ直ぐリエーラ・フォノイを見返した。
「はい、決して忘れません。今の私には、それを信じて頑張るしかありませんもの」
「そう、その意気です。……さあ、急いで《正陽殿》に参りましょう。貴女を待っている人がたくさんいらっしゃいます」
再び歩き出したリエーラ・フォノイの後を、セフィアーナは深呼吸するとすぐに追いかけた。
優しい光が降り注ぐ回廊で、ふと養母の言葉を思い出す。
『もし貴女が本当に巫女になれたら、どれほどここの子どもたちを……いえ、国中の傷ついた人々に勇気と希望を与えることになるでしょう。貴女の歌にはそれほどの力があると、私は信じています』
『重要なのは、《太陽神の巫女》に選ばれた乙女が、どれほどの誠意をもって事に当たり、そこから如何に神の教えを学び取り、人々に伝えていくかということ。その点で大きな期待ができるからこそ、私はこの少女を連れて参ったのでございます』
自分で自分を貶めることは、自分を信じてくれている大切な人々を裏切ることになる。自分のために彼らを傷つけたくはなかった。
(もう挫けないって決めた。私は皆のためにも、頑張りたいって思う私自身のためにも、この修行で絶対に何かを掴み取ろう)
一度強く瞳を綴じ、セフィアーナは《月光殿》を後にした。
記念すべき修行第一日目の午前は、《正陽殿》三階の図書室で、三人の神官を相手に始まった。与えられた時間の間、彼らが代わる代わる発する問いに、セフィアーナは孤軍奮闘して的確な答えを返さねばならなかった。その内容は主に《聖典》の解釈から出題される。太陽神はいつ降臨したのか、という基本的な問いから、神や十二聖官が人間に対して行った裁きの意味の説明や、果ては背信行為を行った信徒に対する接し方など、それは多岐に渡り、セフィアーナは頭の中で常に《聖典》をひっくり返さねばならなかった。時にはそれに数少ない自分の経験を踏まえて返答したが、それでも三問に一問は答えられない。
「闇の聖官ヴォドクロスが夜の聖官ミーザに取って代わられたのは何故か」
難題が二問続けて出されたとき、セフィアーナは逆に神官らの見解を問うた。
「ヴォドクロスは、人々の心から不安を吸い取り、そこに平安をもたらす者。けれど、人々の不安というのは、漠然としたものから明確な悪意を帯びるものまで様々で、暗い感情なだけにその力は集まれば強大になります。それをヴォドクロスは自分の務めと体内に取り込み続けました。結果、それはテイルハーサに一番に従った彼の身体を蝕み、一番に背信者の烙印を捺させたのです。ヴォドクロスは神に忠実であったばかりに、神に背くことになったのです……。神は彼を《光の園》に封印し、代わりにミーザを後継に据えました。しかし、彼女に与えられた任は、ただ夜を支配し、人々に癒しの刻を与えることだけ。そのために負の感情は人々の間に留まり続け、そのために争いが今なお繰り返されています。……私にはわかりません。なぜテイルハーサ神は、ミーザに不安を吸い取る役目を負わせなかったのでしょう? 彼女がヴォドクロスと同じ轍を踏むかもしれないとお考えになったからでしょうか? それとも……。争い続ける私たちを、神はどのように見ていらっしゃるのでしょうか……」
少女の問いに、神官らは顔を見合わせた。右手に座していた神官が、ふいに口元を綻ばせた。
「質問を返してくる巫女は久方ぶりです。自分の考えを持ち、さらにその先に疑問を見いだそうとする力は、神官を志す者にとって必要不可欠なものです」
「さよう。ただこなすのではなく、多少時間がかかっても、そこに何かを見いだそうと努めれば、きっと答えを掴める時が来よう」
言葉を繋いだ後、中央の神官が綻んだ表情を少し引き締めた。
「……そなたの問いは永遠の問いだ。神の本意は我々卑しい者の知るところではない。ただ……ただ、不安や苦しみを失った人間は、もはや人間ではない。それらをヴォドクロスに吸い取られた人間はどうなった? 安楽は怠惰に取って代わり、我々人間は堕落した。神は我々に生命をお与え下さり、生きるよう運命められた。生きるとは、安と楽のみで成り立つものではない。表があれば裏があり、光があれば影があるように、安楽があれば辛苦がある。それでこそ、安楽も成り立つというものだ。だからといって辛苦を賞賛するわけではないがな」
「セフィアーナ、私はこう思います。辛苦の中に希望を見いだそうとする力こそ、神が我々に望むもの、また辛苦を残された理由だと。或いはもっと明確な答えが存在するのかもしれませんが……」
その後、正午の鐘が鳴るまで問答は続けられ、再び廊下の絨毯を踏んだ時、少女の頭は両手で支えなければならないほどその中身を濃く重くしていた。
二階の小部屋で軽い昼食を取った後、セフィアーナは様々な思いで熱を帯びた心を庭で落ち着かせようと、階段へ向かった。
《正陽殿》は、それ自体が巨大な礼拝場である。敷き詰められた緋色の絨毯の上には一万人を収容でき、五階分を吹き抜けにしたその先には、直径が三十ピクトもある丸天井が太陽神の姿をたたえている。部屋は北側に位置し、一階には小さな控えの間が幾つかあるだけだが、二階・三階は、神官の中でも上位の者のみに使用を許される部屋や書斎、小図書室、会議室、小宝物庫などがある。とはいえ、《正陽殿》は聖地の中の聖地であるため、たとえ部屋に寝台が置かれてあっても、それは形だけのことで実際に神官が横になることはない。ルーフェイヤ聖山の神官らは両月殿、あるいは山間にある宿舎で質素に生活し、修行で心身を鍛えていた。
セフィアーナが螺旋階段を下りていくと、その袂に見知った人物が立っていた。まるで少女がそこを通るのを知っていたかのように、その視線は真っ直ぐと彼女を捉えていた。
「こんにちは」
「あなたは……」
驚愕の色も露わに、セフィアーナは早足で階段を下りた。
その人物を初めて見たのは、ジャネスト神殿の門前だった。豪奢な馬車に乗り、窓布の隙間からその美貌を覗かせていた。二度目は、同じくジャネスト神殿の正面階段である。大衆の前でセフィアーナが歌っていた時、突然現れて少女が《太陽神の巫女》となることを決定的にしたのだ。
「確か御挨拶がまだでしたわよね。私、グロヴァース神殿のエルティスといいます」
差し出された白い手を、セフィアーナは快く握り返した。
「セフィアーナです。ダルテーヌの谷から来ました」
しかし、相手には聞き覚えのない地名だったようだ。困惑している緑の瞳を見て、セフィアーナは苦笑した。
「シリア山の麓にあるんです。一番近い街でもあまり知っている人はいませんから、あなたが御存知ないのも無理ありません」
「勉強不足で……。ごめんなさいね」
エルティスが首を竦めると、真っ直ぐな黒髪が肩口からこぼれ落ちた。
「いいえ。それで、あの、ここへはどうして……?」
「勿論、貴女にお会いするためだわ」
「え?」
セフィアーナが瞬きしていると、エルティスは俄に真顔に戻り、恭しく一礼した。
「改めて、《太陽神の巫女》に選ばれましたこと、お祝いを申し上げます。誠におめでとうございました」
突然のことに一瞬言葉を失ったセフィアーナだが、すぐにエルティスに身を起こすよう頼んだ。
「あ、ありがとうございます。けれど、そんな畏まらないで下さい。私はまだ選ばれただけで、何かを成したわけではありません」
それを聞いて、エルティスは少々大袈裟なほど緑の瞳を見開いた。
「まぁ、ご謙遜を。あのように信徒たちを大勢引き連れて現れたのは、後にも先にも貴女ただ一人ですわ。貴女は既に人々の心を洗い浄めておいでなのに」
「洗い浄めてだなんて……」
セフィアーナは静かに首を振った。彼女は、心に痼りとなっているカイルのことを忘れたわけではなかった。
「そのようなこと、簡単にできることではありません。そんなことより、私たち、年齢は同じくらいですよね。もし宜しければ、お友だちになりませんか?」
唐突な申し出に、エルティスの方が面食らったようである。本当に良いのかと問い返して来る彼女に、セフィアーナは深く頷いて見せた。ついでに敬語の撤廃も申し出る。
「……とても嬉しいわ。私、巫女にはなれなかったけど、この聖都に来て、どうしてもここで修行を続けたいと思ったの。運良く私を受け入れて下さる神殿があったのだけど、このうえ貴女みたいなお友だちができたら、神様の罰が当たってしまうかも」
エルティスが冗談めかして言い、セフィアーナは満面の笑みでそれに応じた。
グロヴァース神殿の権威がどれほどのものか、昨日の横暴な神官から想像することは難しくない。そして、そこの推薦を受けた少女がどういうつもりで聖都にやって来たのかも。しかし、現実に彼女は選ばれず、代わりにセフィアーナ自身が選ばれた。悔しくてたまらないだろうに、そんなことはお首にも出さず、相手に祝福を贈るエルティスに、セフィアーナはひどく感心した。
一方、エルティスの内で起こっていることは、そんな単純な話ではなかった。由緒ある神殿の娘が、凱旋を夢見て後にした郷里に手ぶらで帰ることなどできるはずもない。エルティスに蹴落とされた少女らが、それ見たことかと笑い出すのは必至である。それどころか、負け犬の烙印を捺され、二度と誰にも振り返って貰えなくなるかもしれない。
さらに、エルティスには個人的にどうしても勝たねばならない理由があった。それは、彼女の父親に原因がある。エルティスの家はツァーレンの古い商家だった。父親は仕事一筋の人間で、初めての子に跡継ぎとなる男児を期待してやまなかった。しかし、生まれたのは女児で、母親は産後の肥立ちが悪く、二度と子を産めない身体となってしまった。父親はエルティスに名前さえ付けようとせず、途方に暮れた母親が、夫が幾つか考えていた男児の名前から一番女の子らしいものを使って名付けたのだ。そうしてエルティスが十歳になった時、父親の愛妾に男児が生まれた。当然、その赤子は跡継ぎと定められ、エルティスは一層身の置き場を失って、母の薦めで神殿へ仕えるようになった。《太陽神の巫女》の話を聞いたのはその頃である。
(《太陽神の巫女》は、皆の敬愛を一身に受けるという。もし選ばれたら、お父様も私を敬愛してくれるかしら? 私の名前をちゃんと呼んでくれるかしら……?)
以来、彼女は人一倍の努力をして巫女の推薦枠を勝ち取ったのである。しかし、その努力は大いなる神聖を秘めた少女の前に儚く散っていった。巫女となる夢が崩れ去り、帰る場所を失った彼女に、もはや聖都に残る以外の選択はなかったのだ。
(……私は貴女の影になるの。少しでも隙があれば、すぐに取って代われるように)
この時そう思わなければ、或いは彼女の人生はもっと違うものになっていたのかもしれない。しばらく後、『影』は思いも寄らぬ形で実現し、その強烈な自尊心のゆえに、エルティスはやがて自身を見失っていくことになるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます