第二章 太陽神の巫女 --- 5

 フィーユラルの最も高い位置で偉容を誇る大神殿、《正陽殿》。太陽神テイルハーサの本宮であり、大陸中に散在する神殿の総本殿である。ルーフェイヤ聖山の頂に、東の空から現れる神を迎え入れるよう、コの字型に建てられており、その中庭たる《光の庭》には、毎春、何万人という信徒が訪れ、新生した神に敬意と服従を誓って跪いていた。

 今、その右翼に当たる《月光殿》の露台に、ひとりの神官が佇んでいた。高官のみ着用を許される濃紺の聖衣と、《聖典》の言葉が《神聖文字》で刺繍された白絹の頭巾を身に纏っている。《月光殿》の監督管理を双肩に負うアイゼスだった。まだ三十六歳と若いが、先見の明に優れ、温厚にして沈着な性から《複名》を排して久しい。月光殿管理官として仕えるようになってから、既に三年の月日が流れていた。

「何を考えている……?」

 眼下には、緑に埋もれる聖官殿群と陽光に白く霞む街並みが広がっていたが、彼の口から漏れ出た呟きには深刻な響きがあった。ゆっくりと視線が転じた先に、その原因となっている左翼の《月影殿》が横たわっている。《尊陽祭セレスタル》を間近に控えているにも関わらず、現在そこは蛻の殻となっていた。

 アイゼスが《月光殿》を任されているように、《月影殿》にもその統括を任されている者がいる。彼より五つ年長の四十一歳で、その名をデドラスという。二人は神官を志した時期こそ同じだが、その通ってきた道はまるで違っていた。

 アイゼスは十六の折り、故郷の神殿の推薦を受け、聖都にやってきた。以来、高名な神官の下で修行を積み、時には神殿を出て信徒たちと直に触れあい、時には王国との交渉役として政府高官たちと渡り合ってきた。セレイラ地方がその昔、ひとつの宗教国家として栄えていた頃から、《正陽殿》の両翼には、激しい時代の波を泳ぎ切るため、それぞれ疎かにできない役目が与えられていた。即ち「外交の《月光殿》」、「内政の《月影殿》」である。まだ若いアイゼスがその任に就いたのも、その経験を高く評価されてのことだった。

 一方、内政――つまり数千にも及ぶ神殿の統括を司る《月影殿》を任されたデドラスの経歴は、異色といってもよかった。彼は剣を由とする神官――僧兵の出身なのだ。古来、異教徒や蛮族の襲来から聖なる地を守ってきた《光道騎士団》は、それがサイファエールに組み込まれて以降、専ら神殿警備や高官の護衛を旨とするようになった。しかし、彼が団長の任に就くや、長い平安で規律の乱れていた騎士団は、突如、秩序を回復し、今では総督府の警備隊と並んでも引けを取らないほどになっていた。そしてやはり三年前、デドラスはその統率力を認められ、《月影殿》の管理官の任に就いたのである。

 無論、血を浴びてきた者に神殿を――それも天下の《正陽殿》の片翼を任せることを危惧する声もあったが、緩やかな荒廃を見せ始めていた神殿群を取りまとめるには厳しい姿勢が必要との声が多数を占めた。中にはそれを建前とし、あまりに強固となった《光道騎士団》の団結力を削ごうと考えていた者もいたらしい。永きに渡って安穏とした生活をフィーユラルが送っていられるのも、偏にサイファエール政府の理解があるからである。彼らがもし手のひらを返して襲ってきたら、いくら武威を誇る《光道騎士団》でも、数十万という大軍から聖地を防衛することは不可能である。彼らに妙な刺激を与える前に、最良の形で首のすげ替えを行えたというわけだった。

 任命された最初の一年、デドラスは聖都から一歩も外に出ようとしなかった。《月影殿》に籠もって何かをやっていたようだが、実際に何なのかは《正陽殿》で隣に肩を並べていても判らなかった。しかし、やがて《月影殿》に仕える他の神官たちの目の色が変わった。信徒より信心深いのが神官である。しかも、ルーフェイヤ聖山中の神殿の者とくれば、変な話、神官の中でも選りすぐりの信心深さが売りになってくる。彼らは、そこへさらに輪をかけたような――換言すると「狂信的」とも思える言動を見せるようになったのである。そして二年目から現在まで、《月影殿》の長はその館に殆ど留まらず、サイファエールはおろかカルマイヤの神殿にまで足を伸ばし、その統制を図っているという。

 俗世の利権にまみれつつある神官たちが、デドラスの働きで改心し、正道に立ち戻ってくれるならば、言うことはない。ただ、《月影殿》の神官たちを見る限り、その立ち戻り方、その落ち着く先が、アイゼスの心に漠然とした不安を植え付けていた。彼らが異口同音に唱えるテイルハーサ至上主義は、武を好むデドラスとともに、テイルハーサ教の将来に、大きな影を落とすような気がしてならなかった。

「アイゼス様」

 ふいに声をかけられて振り向くと、《月光殿》唯一の《複名者》、ルース・ロートンが立っていた。

「何事か」

「ジャネスト神殿より使者が参り、これから《太陽神の巫女》をお連れするとのことにございます」

 アイゼスは溜息をついた。

「なぜの仕事まで引き受けねばならんのだ。ただでさえ忙しいのに」

つい」とは無論、《月影殿》のことである。《尊陽祭》といえば、テイルハーサ信徒を名乗る者にとっては一大祭事である。その運営・進行はすべて両月殿がぬかりなく行うことになっているのだが、片方の長が不在ということで、代わりの責任者はいるものの、重要事項の決定はどうしてもアイゼスが下すようになるのだった。

「まったく……」

 再び聖都の街並みに目を向けながら、右の手を左の手首に当てる。昔の古傷が疼きを取り戻す季節が来たことを彼は知った。



「お初にお目にかかります。ダルテーヌの谷より参りました、セフィアーナと申します」

《正陽殿》の広い礼拝場でその少女と対面した時、アイゼスは時間神の厳罰に処せられた気がした。

「アイゼス殿、この者は今までの《太陽神の巫女》とは比類無き才能の持ち主ですぞ。後見はなんと聖都に住む信徒一万人でござる」

 普通なら目を剥いて問い返す内容だが、《月光殿》の管理官は、呆然と少女の顔を見つめるばかりだった。

「おそらく、聖儀でその数は何十倍にも増えるでしょうな。……アイゼス殿?」

 少し興奮気味に話していたヴァースレンだが、さすがにアイゼスのただならぬ様子に気付いた。

「いかがなされた、アイゼス殿?」

 顔を覗き込まれて、ようやくアイゼスは我に返った。

「いや……何でもありません。そうですか、後見は信徒……」

 彼の鈍い反応に、ヴァースレンは大いに物足りなさを感じた。神殿の威光で武装した神官や乙女らを封じるための、これは好機なのだ。本来なら内政担当のデドラスに報告できるとよかったのだが、彼はあいにく不在だった。だが、この際、デドラスもアイゼスも同じである。テイルハーサ教の腐敗は、誰もが望むところではないのだ。

 ヴァースレンは強引に年若い高官の着衣を掴むと、中庭へと続く中央の入口へ引っ張っていった。そして扉を開かせると、その世にも珍しい光景を彼に見せつけたのである。

「こ、これは……」

尊陽祭セレスタル》以外の時分で、《光の庭》が信徒に埋め尽くされる光景を、アイゼスは二十四年間の神官生活の中で一度も見たことがなかった。いや、それどころか、どの歴史書を紐解いても、そんな記述はなかったはずだ。

「いったいどういうことだ……」

 改めて絶句するアイゼスに、ヴァースレンは得意げに頷いた。

「彼女の歌声が、彼らをここまで導いたのです。まさに奇跡だ」

 アイゼスは、再び今年の《太陽神の巫女》に選ばれた乙女を見た。

「そなた……竪琴は弾けるか?」

 突然の問いに、セフィアーナは瞬きした後、慌てて頷いた。

「では今宵、奇跡の歌声とやらを披露してもらおう。リエーラ・フォノイ」

 彼の呼びかけに応じて、ひとりの女神官がセフィアーナの前に進み出た。

「この者の世話を頼む。セフィアーナ、わからないことはすべて彼女に尋ねるように」

「は、はい……」

 少女がおずおずと女神官を見ると、彼女はにっこりと微笑んだ。

「初めまして。巫女殿のお世話をさせていただきます、リエーラ・フォノイと申します」

 南方の出身なのだろうか、淡褐色の肌をしており、理知的に輝く黒い瞳が印象的である。

「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」

 丁寧にお辞儀すると、セフィアーナは早速リエーラ・フォノイの案内を受けて《正陽殿》を後にした。

 その背を見送りながら、アイゼスは知らぬ間に眉間に深い皺を刻んでいた。

 優しげな光を湛えた瑠璃色の瞳。陶器のように白い肌。緊張で僅かに上気した薔薇色の頬……。彼はそれと同じものを、遠い昔、目の前で見たことがあった。



《光の庭》で巫女の再登場を待ち望んでいた群衆の当ては大きく外れた。代わりに現れたのは、大役を終えたばかりのヴァースレンである。彼は声の限りに叫び、信徒らに帰宅を促した。

「《太陽神の巫女》は直ちに修行に入られた! 聖儀の折りは、必ずや我々を再び神の下へ導いて下さるはずだ! それまで指折り数えて待っておこう!」

 それを聞いて、最初は非難の声を上げていた彼らだが、太陽の最後の一条が《正陽殿》の向こうに消えてしまうと、ようやく諦めを付けて帰路に就き始めた。最後まで残ったのは無論、カイルとシュルエ・ヴォドラス、ディオルトにフィオナだった。

「セフィアーナは今どこに?」

 院長の問いに、ヴァースレンの顔が曇ったように見えたのは、降り始めた夜の帳のせいだけではないようだった。

「既に《月光殿》に渡り、修行に入った。今日より聖儀の終わる日まで、あの少女がこの館を出ることはない」

「え……。それは、あの娘には会えないということでしょうか……?」

 息を呑んで尋ねる院長に、審査官長は厳しい表情で頷いた。

「聖儀はたった一日だが、その一日を乗り切るために、《太陽神の巫女》に選ばれた者には最大限の努力をしてもらわねばならぬ。たとえ歌唱力が抜群でもだ。ましてセフィアーナは神官を目指しているのであろう? ならば情けは無用だ」

 シュルエ・ヴォドラスは沈黙した。確かにそうだ。しかし、もう一目その姿を見られると思っていた。まだ励ましの言葉ひとつかけてやっていないというのに。

「わかりました……。では、私どもも下がらせて頂きます」

 肩を落とす彼女に、ヴァースレンは僅かな躊躇いとともに声をかけた。

「シュルエ・ヴォドラス。《尊陽祭セレスタル》が終わるまで、私の神殿に滞在するがよい。他に居るよりは、少しでもセフィアーナの様子を知ることができよう」

 シュルエ・ヴォドラスは、深々と頭を垂れた。

「大丈夫ですか?」

 中庭の出口に向かって歩きながら、カイルは院長の横顔を心配そうに見遣った。シュルエ・ヴォドラスは自嘲した。

「私を愚かだと思うでしょう?」

「院長……」

「いいのです。自分が一番そう思っているのですから」

 そして、深く溜息をつく。

「まさか、本当に選ばれるなんて……」

 随分無責任な発言だが、それが本音のすべてではないことをカイルは承知していた。

「あなたに育てられた子だ。きっと素晴らしい巫女に――神官になりますよ」

「セフィなら大丈夫よ!」

 ディオルトはおろか小さなフィオナにも励まされ、院長は苦笑した。

「いざとなったらオレが《月光殿》に潜り込んで、セフィの様子を探ってきます」

 物騒なことをあっさりとカイルが口にする。

「まぁ、カイル! 決してそんなことをしてはなりませんよ! 畏れ多くも神の宮に忍び込むだなんて……。捕まったらどうするんです!」

 院長がやっと普段の調子に戻り、カイルには珍しく噴き出した。続いてディオルトとフィオナの笑声が上がり、最後にはシュルエ・ヴォドラス自身も笑い出した。

「さぁ、今晩手紙を書いて、一刻も早く、このことを村長に知らせなくては」

 四人が出口にそびえる尖塔の間を抜け、山道に姿を消した瞬間、中庭に面した《月光殿》の三階の窓が開き、セフィアーナが顔を出した。

「やっぱりいない……。もう帰っちゃったのかしら……」

「どうかしましたか?」

 リエーラ・フォノイの声に、セフィアーナは室内を振り返った。

「あの、院長先生は……私を聖都まで連れてきてくれた人たちは今どこに……?」

 今、彼女がいるのは、《太陽神の巫女》のために用意された部屋だった。《月光殿》の最東部、三面を窓や露台に囲まれた部屋は広く、所々に一見、質素に見える色合いだが、実際はかなり値の張ると思われる調度品が置かれている。これから巫女の務めの終わる《秋宵の日》まで、彼女はこの部屋で暮らすのだ。

「いえ、私は存じ上げません。けれど、後で訊いておきましょう」

 優しく微笑むリエーラ・フォノイを見て、セフィアーナは安堵の溜息をついた。

「ありがとうございます」

 見知らぬ場所ということも手伝って、彼女の気遣いがいっそう嬉しく感じられる。

「……まぁこれ、巫女殿の竪琴?」

 俄にリエーラ・フォノイが感嘆の声を上げた。セフィアーナの荷物を解いていて、銀の竪琴を見付けたのだ。

「『巫女殿』はやめてください。セフィで構いません」

「それではセフィ。これは貴女の?」

「はい。……片時も傍を離したことがないんです」

 十六年前、彼女がスリベイラ孤児院に置き去りにされた時、唯一持っていた物がその竪琴だった。その事実を知らされたのは十二の時だが、それによって一層彼女は竪琴を離さなくなった。いつかどこかで親に出会った時、一目でわかってもらえるように――そう考えた末のことだった。

「では今晩、早速その腕前を聴けるわけですね」

 それで思い出して、セフィアーナは首を傾げた。

「そういえば、アイゼス様は私を見て驚かれていたようですが……?」

「えぇ、そういえば……。なぜでしょうね……」

 リエーラ・フォノイも知らないようだった。そもそも彼女は平和の女神シャーレーンの神殿に仕える女神官ということで、アイゼスとも日々それほど付き合いがあるわけでもないらしい。

「さあ、アイゼス様のお召しがあるまで、明日からのことを少しお聞かせしておきましょう」

 堅実な女神官に促され、セフィアーナは再び緊張しながら円卓に着いた。

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