第二章 太陽神の巫女 --- 7

「デドラスはまだ戻らぬのか」

 穏和なアイゼスにしては珍しく厳しい語調に、留守のデドラスに代わって《月影殿》を預かっているフォールナーは、粛然として頷いた。

「昨夜、キースの砦に到着したとの報告がございましたので、明日か明後日には……」

「明後日だと? 明後日はもう《祈りの日》ではないか」

「は……」

 アイゼスは眉間の皺を一層深くした。

「……地盤を固めるのも良いが、《月影殿》を預かる者が一大祭事を蔑ろにして周囲に何を説くというのか」

 途端、抗議の声が上がる。

「アイゼス様、それは違います! デドラス様は決して《尊陽祭セレスタル》を蔑ろにしているわけでは……!」

「では、ここに今、デドラスがいない理由を何と説明する? 自分の立場を顧みれば、ひと月前には――少なくとも《太陽神の巫女》の選定には戻ってくるべきではないのか」

「………」

 沈黙してしまったフォールナーを前に、アイゼスは大きく溜息を吐き出した。

 祭事自体は既に確立した方法に則って行えばよいことで、そう難しいことではない。しかし、それを行うための準備や教育が嵐の海を身ひとつで渡るように困難なのだ。そして、このひと月というもの、アイゼスは息継ぎもせずにその状態にある。彼自身、フォールナーを叱ったところで詮無いことと判ってはいたが、彼があまりに頼りなく、そのくせデドラスを擁護するようなことばかり言うので、いい加減限界に達しているのだった。

「とにかく、年に一度の神の新生だ。不手際があっては決してならぬ。下の者にもう一度祭事の準備が滞り無いか確認させよ。おぬし自身は聖儀の進行を務める神官らの指導に当たれ」

「はっ……」

 退出するフォールナーの背を、アイゼスは憮然として見送ると、隣室の長椅子にどさっと腰を下ろした。ルース・ロートンが煎れてくれたお茶から立ち上る湯気を、飲むことも忘れてただ見つめる。

(神のためとはいえ、あまりに勝手が過ぎるのではないのか、デドラス? 今度こそ、おぬしの本心を聞き出してやるぞ……)

「……ゼス様、アイゼス様」

 呼ばれて我に返ると、ルース・ロートンが心配そうにこちらを見ていた。

「……何だ?」

「先程から、《太陽神の巫女》お付きのリエーラ・フォノイが待っておりますが……」

 修行の進み具合を尋ねようと声をかけていたことを、彼はすっかり失念していた。

「ああ、すぐに通してくれ」

 言いながら、鈍った頭のために杯子を手に取った。ひと口含んで安堵した時、衣擦れの音がして、リエーラ・フォノイが姿を現した。

 アイゼスの顔を見るなり、リエーラ・フォノイは黒い瞳を僅かに見開いた。

「お顔の色が優れぬようですが……」

 アイゼスは思わず苦笑した。

「それを皆が解ってくれればよいのだがな。……いや、ひとの顔色を窺いながら動くようではつまらぬか」

 リエーラ・フォノイに椅子を勧めると、アイゼスは自分も身を起こした。

「……先ほど、フォールナー様と擦れ違いました。《月影殿》の方は大丈夫でございましょうか……?」

 他の神殿にまで《月影殿》の遅滞が知れ渡っているのだろうか。アイゼスは内心で天を仰いだ。

「……なに、何のかんの言っても、最後にはうまくいく。だからこそ、デドラスも年下の私にすべてを託して出歩いているのだ。……と、そう思っておらぬと身が保たぬ」

 投げやりな口調だが目に余裕があるのを見て取って、リエーラ・フォノイは安心した。

「ええ、うまくいきますとも。そのために《太陽神の巫女》も尽力しております」

 彼女の力の籠った物言いに、アイゼスは目を細めた。

「では、修行の方は順調なのだな?」

「はい、砂に水が染み込むように。根が素直なので、憶えが早いのでしょう。さらに、憶えた後で生じた疑問を素直に発するので、教育に当たっております神官らにも良い影響を与えているようです」

「そうか……」

 アイゼスは、審査の日の夜のことを思い出していた。緊張した面持ちで《月光殿》の広間に現れた少女。その胸に抱かれた銀の竪琴を見て、彼は苦い悔恨と共にひとり得心していた。それは、かつて彼が神官の途を捨てようとさえした恋の残骸であったのだ。

(なぜ今、再び私の前に現れた……?)

 少女に重なる女の面影に、漠然と尋ねた。しかし、無論答えなどあるはずもない。そんな彼の前で、セフィアーナは弦を爪弾き、昼間信徒たちを魅了した伸びやかな声を披露した。

『……なぜ神官を志したのだ?』

 毎年、巫女に対して発してきた問いだが、今回ばかりは訊くまでもないことのような気がしていた。竪琴の本来の持ち主も、彼女と同じように神の祝福を受けた身だった。娘がその影響を受けていても不思議はない。が、その答えはあまりにも意外なものだった。

『私は孤児院で育ちました。親のない私を、院長先生をはじめとする神官たちは皆、とても深く愛して下さいました。それで私も、彼女たちのように他人の力になれたら、と……』

 それでは、『親』はいったいどこへ行ってしまったのだろうか。

「……セフィアーナは孤児院で見習いをしておったと聞いたが」

 或いはその問いこそが、この夜、リエーラ・フォノイを呼び寄せた理由だったかもしれない。

「さようにございます」

「両親は、亡くなったのか?」

 リエーラ・フォノイは黒い瞳を僅かに見開くと、静かに首を振った。

「本人からはっきりと聞いたわけではありませんが、どうやら……その、捨て子だったようです。彼女が持っていた竪琴を覚えていらっしゃいますか? あれが唯一、自分が何者かを示す物なのだと、先日話してくれました」

 アイゼスは耳を疑った。あの娘は――セラーヌは、どんな理由でも自分の子を捨てるような人間ではなかった。巫女には選ばれたが神官になることは望んでおらず、暖かい家庭を築きたいと言っていた。だからこそ彼も神官への途を捨てようとしたのに。その決意を伝えに言った日、彼女は忽然と姿を消していた。彼の前からだけではなく、神の前からも……。

「……孤児だろうと王族だろうと、『自分が何者か』など永遠の問いだ」

 アイゼスの真意など知る由もないリエーラ・フォノイは、ただ深く頷いた。

「しかし、今年は大変な話題になろうな。孤児の少女が信徒を従えて聖なる山を上った、と……。来年から巫女の成り手がおらぬぞ」

「ヴァースレン様は喜んでおいでの様ですが」

 女神官が笑いながら言うと、アイゼスは軽く肩を竦めた。

「推薦制度を言い出したのは彼だからな。まさか権力闘争の種になろうとは思いも寄らなかったのだろう。私も、今回の一件がそれに少しでも水を差したことになれば良いと思っている。……差すだけではなく溢れさせてくれれば一番だが。そのためにも、巫女には更に修行を積んで、無事に務めを果たして欲しいものだ」

「非力ながら、少しでも神の意に添えるよう尽力いたします」

 立ち上がると、リエーラ・フォノイは管理官に一礼し、部屋を出ていった。

(自分が何者か、か……)

 再び長椅子に沈むと、アイゼスは天井を見つめた。

(教えてやるべきか、それとも……)



尊陽祭セレスタル》を二日後に控え、聖都フィーユラルの神殿や街路は、大陸中から集まってきた信徒たちで溢れ返っていた。

 カイルらが身を寄せているデスターラ神殿も例外ではない。礼拝堂には祈りを捧げに来た者たちの声が響き、内庭では順番を待つ者たちが長蛇の列をなしていた。外庭に至っては、宿のない者が天幕を張り、祭が終わるまでの居候を決め込んでいる。

 神官宿舎の廊下の窓から庭を見下ろすと、カイルは少し顔をしかめた。どこを見ても人、人、人。おそらく表通りはさらにひどい混雑となっていることだろう。しかし、行かないわけにはいかない。先日、総督府で手に入れた紙切れを懐中から取り出すと、カイルは再び歩き出した。

「院長、ちょっと出てきます」

 祭殿で準備の手伝いをしているシュルエ・ヴォドラスに声をかけ、カイルは神殿を出た。いちいち断って出かけるのは面倒だったが、院長と約束したことなので仕方がない。それは彼女が、カイルが突然行方をくらますかもしれないと危惧してのことだったが、村で暮らすことを決心したカイルには無用の心配だった。もし再び行方を眩ませる機会を窺っていたとしても、今はセフィアーナの大事の前である。たとえ何があろうとも、彼に聖都から出る気など起こるはずもない。

「そういえば、今日は修行の最終日だな……」

 ヴァースレンを頼り、デスターラ神殿に寄って三日が経過していたが、期待していたセフィアーナの情報は、手に入れることができないままでいた。神殿中が《尊陽祭》の準備に追われており、それどころではないのだ。しかし今、彼女の周りには優秀な神官が何人も付いており、少女も努力を惜しんではいないはずだ。必ず見事に務めを果たすだろう。何より彼女には神の御加護がある。

 案の定、表通りは信徒や商人らで埋め尽くされていた。しばらく我慢してその中を歩いていたカイルだったが、裏路地の入口を見付けるとすぐにそこへ身を投じた。表の賑わいが嘘のように静まり返っていたが、祭の装飾はさらに個性を増して神の威光を称えている。

 慣れない者なら必ず迷う細い路地を、カイルは目的の場所――ケルストレス祭の行われるヴァルトラー神殿へ向けて、糸が解けるように進んでいった。やがてその塔の先端が建物の狭間の空に見えてくると、彼の歩調はいっそう速まった。おそらく表通りを行っていたならば、三倍の時間を要したに違いない。

 最後に高い壁を颯爽と乗り越えたカイルは、しかし、門の直前でその異様な光景に足を止めた。戦争を司る聖官ケルストレスを祀っているだけあって、ヴァルトラー神殿の巡礼者は圧倒的に男が多い。そこへ武道試合の開催を聞きつけて、さらに男たちが集まってくるのだ。それも、腕に憶えのある者たちばかりが。その者たちの中にあっては、さすがのカイルも少女のようにか細く見える。

 ケルストレス祭に参加するためにはどうすればいいのか、カイルが辺りを見回していると、人混みに押されてひとりの男がぶつかってきた。

「おっ、すまねぇ」

 軽く手を上げて去ろうとする男に、カイルは思わず声をかけた。

「ケルストレス祭に参加するにはどこに行けばいいか、あんた知っているか?」

 すると男は驚いたように立ち止まり、おもむろにカイルの全身を見回してから言った。

「兄ちゃん、本気かい?」

「優勝賞金が本当に銀貨百枚なら本気だ」

 その台詞はいっそう男を驚かせたようである。

「兄ちゃん、優勝するつもりか!?」

 誰が勝つつもりもなく試合に出るのか、とカイルが顔に書いていると、男は可笑しそうに口元を歪めた。

「やめときなって。そんな細っこい身体して、怪我するぜ」

 そういう男はなるほど筋肉の塊のような体躯をしている。

 あんまり男が笑うので、カイルは怒るようなことはせず、逆に挑発をかけてみた。

「怪我って、例えばどんな?」

「ほぉ、言うねえ……」

 相手もそれがわかったようで、先程までの笑みにどこか危険な色を滲ませている。

「……いいだろう。付いてきな」

 言うと、神殿に向かって歩き出した。カイルが後に付いていくと、男が前方を向いたまま話しかけてきた。

「兄ちゃん、銀貨百枚は名誉のためか?」

「名誉?」

 カイルは思わず噴き出した。男が怪訝そうに振り返る。

「そんなもの、糞の足しにもならん」

「ふん、違いねえ。じゃあ、何のためだ?」

 その時、横合いから男に声がかかった。

「よぉ、ヒラード! 今年も賞金いただきか!?」

「当たり前だ!」

 言いながら、男が拳を振り上げた。カイルは驚いて彼の顔を見た。

「あんた、去年、優勝したのか?」

「まぁな。で、何のためだ?」

「……あぁ、村に銭子がいるんだ。役所が当てにならないんで、自分で稼ごうかと」

 それを聞いて、ヒラードは二、三度小さく頷いた。

「そうか……」

 彼の妙な反応にカイルが瞬きしていると、男は溜息と共に言葉を吐き出した。

「オレの理由も兄ちゃんと同じだ。だが、たいていのヤツは違う。くだらん名誉や単なる腕試しのために集まって来やがる。まったく胸クソの悪い」

 ケルストレス祭はもともと武勇を競うものであるから、そのような輩にすれば非難される覚えはない。しかし、賞金を生きる糧と当てにしている者が、道楽で賞金に群がる者たちを疎ましく思うのも仕方がないことだった。

「……その様子だと、とても銀貨百枚じゃ足りそうにないな」

 カイルが軽く首を竦めると、ヒラードははっとしてカイルを見た。

「おぉ、すまん。初対面なのにこんな愚痴……」

「いいさ」

 ヒラードは義理堅く気の優しい男なのだろう。そしてこの世の中は、そういう人間に限って苦労が絶えない。

「三年前、オレの村は盗賊に襲われて廃墟になっちまってな。諦めて出ていったヤツもいるが、しょせん自分が生まれ育った村以外に行くとこなんかねぇ。早いとこ昔みたいな暮らしに戻してぇんだよ」

 それを聞いて、カイルの足が止まった。

「どうした、兄ちゃん?」

 ヒラードが青年の顔を覗き込むと、彼はすぐに我に返った。

「あ、いや……何でもない」

「ふぅん? お、見えたぞ。ほら、あそこだ」

 男が指さした先を見ると、神殿の壁に沿って白い天幕が幾つか張られていた。その前には既に数十人もの屈強な男たちが列をなし、受付の神官に参加を申請している。ヒラードは、改めて眉を顰めた。

「兄ちゃん、本当に参加する気か?」

「くどいな」

 カイルは苦笑したが、ヒラードは真顔のまま続けた。

「兄ちゃんがどれほどの腕前か知らんが、あんまりナメてかかると痛い目に遭うぜ。参加するのは、それぞれの地域でそこそこの名を上げているヤツらばかりだ」

「別にナメてかかってるつもりはないんだが、前年の優勝者の忠告だ。ありがたく受け取っておくよ」

 言葉ほど注意を払っていない様子のカイルに、ヒラードはやれやれと首を竦めた。

「ま、お互い、村のために頑張ろうな。もし対戦することになっても、オレは手加減しない」

「望むところさ」

 その後、列に並び受付を済ませると、カイルはヒラードに礼を言って別れた。

「さて、どうするかな……」

 言って顔を上げた先に、ルーフェイヤ聖山がそびえていた。

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