第二章 太陽神の巫女 --- 3
カイルが正面玄関に掛けられた白銀鷹旗の下まで戻った時、門のところにセフィアーナの姿が見えた。彼の冴えた碧玉の瞳は、いつでも彼女を一番に映し出す。
少女は、門番と何か話をしているようだった。青年が近付いていくと、すぐに気付いて明るい声を上げる。
「カイル! 遅かったのね。心配したわ」
「待たせて悪かったな」
そのやりとりを聞いていた門番が、目を丸めてカイルを見た。
「この娘、おまえの知り合いか!」
「あぁ」
いったいどういう知り合いかと、好奇心を全開にする兵士の胸ぐらを手荒に掴むと、カイルは小声で囁いた。
「悪いが、中庭にフィオナの爺さんを呼んできて欲しいんだ」
「なっ! 貴様、口に気を付けろ。だいたい、これが人にものを頼む態度か」
二人の会話を聞き取れないセフィアーナは、突然始まった掴み合いに思わず息を呑んだ。が、カイルを諫めようとした途端、二人が離れたので、安堵する。
「カイル、そろそろ戻りましょう」
身を翻そうとする少女の細い二の腕を掴むと、カイルは中庭の方へ顎をしゃくった。
「セフィ、ちょっと付き合ってくれないか」
「でも、先生が馬車で待ってるわ。一人で……」
「すぐ済む」
官邸内は用のない者の立ち入りを嫌うが、中庭は一般に開放され、市民の憩いの場になっている。カイルは強引に少女の手を取ると、広大な中庭に足を踏み入れた。白い煉瓦が敷き詰められた道に沿って歩き、やがて小さな森に入ると、木漏れ日が地面に美しい幾何学模様を浮かび上がらせていた。
「ねえ、カイル、どこに行くの?」
セフィアーナが困ったように尋ねると、カイルは正面を向いたまま言った。
「会わせたい人がいるんだ」
「会わせたい人……って?」
「約束したんだ」
「え?」
ますます理由が解らなくなり、セフィアーナは無理矢理カイルの手を振り解いた。
「カイル、私、巫女になりたいの! そのために聖都に来たの!」
突然の剣幕に、カイルは僅かに目を見開いた。
「……わかってるつもりだが」
「もう試験は始まっているのよ。カイルに方法があるって言うから、私……私……」
緊張と焦りと不安とが、少女の瑠璃色の瞳を潤ませる。
「私、巫女になりたい……」
俯いた拍子に蜜蝋色の髪が流れ落ち、彼女の崩れた表情を隠した。青年は溜息をつくと、少々反省しながら少女の頭を撫でた。
「悪かった。だが、今は何も聞かず、その人に会って欲しいんだ」
「その人って、誰なの?」
セフィアーナが声を掠らせて尋ねた時、俄に背後から声がかかった。
「ここは私のお気に入りの場所なの。逢い引きなら他でやってちょうだい」
そのきつい口調に振り向くと、立ち並ぶ木々の間に、ひとりの少女が座っていた。年の頃は九つ、十といったところか。膝の上に、読みかけの絵本を載せている。
「……フィオナ」
不意にカイルがその少女を呼んだ。呼ばれた方は、一瞬、驚いたように青年を見つめ、次の瞬間、大きく口を開けて立ち上がった。
「カイル!」
しかし、フィオナという名の少女は、再会を喜ぶどころか一段と表情を険しくして青年に詰め寄った。
「嘘つき! すごい吟遊詩人に会わせてくれるって言ったのに、フィオナ、楽しみに待ってたのに、ちっとも連れて来ないじゃない!」
「申し訳ない。氷の檻に閉じこめられていたんだ」
「だから田舎者はイヤなのよ」
感情の塊のような少女を、セフィアーナは呆気に取られて見つめていたが、ふとカイルの腕を小突いた。
「彼女、なの……? 会わせたい人って……」
「ああ」
カイルはあっさり頷くと、一歩前へ出た。
「フィオナ。遅くなったが、約束の歌姫を連れてきた」
「えっ?」
瑠璃色の瞳を見開いたセフィアーナを、フィオナは値踏みするような目つきで見遣った。発する言葉といい、その表情といい、とても幼い子どもとは思えない。
「セフィ、こちらはフィオナ嬢。ここの総督の孫娘だ」
「………!?」
セフィアーナは、白い顔を奇妙に歪めて少女を見た。
「総督様の、孫娘……?」
何がどうなっているのか、まるでわからなかった。なぜ総督の孫娘とカイルが知り合いなのか、なぜ自分が彼女に紹介されているのか。しかし、セフィアーナの思考は、フィオナの叱咤に中断を余儀なくされた。
「カイル、余計なことは言わなくていいのっ」
気分を害したように、少女は再び木の間に腰かけた。
「総督の孫なんて、良いことなんてちっともないわ。お父様もお母様も、ああしろこうしろってうるさいし。そんなことより!」
いったん言葉を切ると、フィオナは面白そうに首を傾けた。
「いいわ。じゃあ、セフィ。何か歌って?」
突然歌うよう指示されて、セフィアーナは困惑した表情を青年に向けた。すると、カイルは申し訳なさそうに片方の手を顔の前に立てた。
「以前、な。彼女が落ち込んでいるところに吟遊詩人が来て、まぁ下手な歌を歌った上に、金品をねだったんだ。そこにちょうどオレが通りかかったんだが、あんまり人間不信なことを言うんで、本当に歌が好きな人間もいるって言ったんだ。そしたら、今度連れて来いって約束させられて」
「それが、私なの……」
深い溜息をつくと、観念したようにセフィアーナは顔を上げた。他ならぬカイルの頼みである。いつもよりだいぶ勝手が違うが、歌が歌えるのなら、この際どこだってかまわなかった。そうすることによって、彼女自身も逸る気持ちを落ち着けることができそうだった。
少し考えて曲目を決めると、セフィアーナはゆっくりと木に寄り添うように歩を進めながら、麗しく響く歌声を紡ぎだした。
西の空を見よ
日の沈みゆくさま
まるで花の萎れるがごとく
まるで去りゆく英雄のごとく
驚いたのは、中庭で思い思いのひとときを過ごしていた人々である。突如、風に乗ってきた聞いたこともない音色に、その出どころを探して腰を上げた。ダルテーヌの歌姫の周囲に人だかりができるのに、そう時間はかからなかった。
街の通りを見よ
人々の身着飾るさま
まるで流浪の道化のごとく
まるで恋人待ちの乙女のごとく
歩を止めよ
口を閉じよ
瞳を綴じよ
息を止め 己を殺せ
今宵は聖なる夜
たとえ汝が滅びようとも
またすぐこの地に辿り着く
今宵は聖なる夜
すべてを捨て去り
丘の頂へと上りゆけ
耳を澄ませ
汝の心が確かならば
光の御足が
山を跨ぐ音を聞く
山を跨ぐ音を聞く……
この歌は『迎え唄』と呼ばれ、流浪の吟遊詩人が、聖日の前夜、神聖な気持ちを忘れて遊び歩く人々に警鐘を鳴らすために作ったと伝えられている。
神懸かり的な少女の歌声に、七重八重となった人垣を構成する誰もが驚愕し、やがて魂を奪われた彫像のように立ち尽くしていた。戒めの歌は、そのとおり人々の心に戒めを刻み、さらにそれを持ち続ければ神の恩恵を受けられると彼らに信じさせた。彼女の歌声の素晴らしさを知り尽くしているカイルにも、そして安易な気持ちで彼女に歌を命じたフィオナには、さらに大きな感動を伴って、歌声に込められた想いは届いた。
いつにない静寂が、総督府の中庭を支配していた。歌い終えたセフィアーナは、彼女を取り囲む人々の表情をさっと一巡すると、小さく「ほら」と囁いた。すると、人々は揃って「山を跨ぐ音」を聞こうと耳を澄ませた。しかし、次の瞬間、魔法が解けたように互いに顔を見合わせると、異世界へ自分たちを誘った少女へ盛大な拍手と声援を贈った。
「なんと……まこと今のは人間の歌声か?」
「儂はお袋の腹の中にいる時から歴代の《太陽神の巫女》の歌を聞いてきたが、これほどの者はおらなんだぞ」
各処でセフィアーナを賞賛する声が上がる。
「なんなの……なんなの……」
フィオナも想像以上の歌声に、そればかりを繰り返した。その時、輪の外で、満ち足りた雰囲気を撃ち破る、無粋な笛の音が鳴り響いた。
「いったい何事だ!」
警備隊の制服を着た者たちが五、六人、無理矢理人垣の間に割って入って来る。
「ここで何をしておる!」
その中でも長らしき人物が厳しい視線で人々を見回していたが、ふと木にもたれかかっている青年に目を留め、眉を吊り上げた。
「ダルテーヌのカイル! また貴様か!」
すっかりカイルに『騒ぎを起こす人間』という評価を下しているらしく、兵士たちは即座に青年を取り囲むと、今にも跳びかからん形相でにじり寄った。
「おまえたち、私の友だちにひどいことをしたら、承知しないから!」
それを見たフィオナが怒鳴り、周囲の人々を驚かせた。
「フィ、フィオナ殿!」
兵士の代表が迷惑そうに顔を歪めた時、輪の外から太く張りのある声が響いた。
「ファガシス、馬車の用意を!」
セフィアーナがそちらに顔を向けると、崩れた人垣の先に、ひとりの男が佇んでいた。
「………?」
首を傾げていると、風のように傍にやって来たカイルが耳元でそっと囁いた。
「フィオナの爺さんだ」
「えっ? じゃあ、あの人が……」
ゆるやかにうねる肩までの白髪を今だ冷たい風に靡かせ、セレイラの総督は穏やかな瞳でこちらを見ている。
「総督閣下、お騒がせして申し訳ありません。ただちに……」
兵士の代表がうろたえて言うと、ディオルトは口元を曲げた。
「聞こえなかったのか。私はおぬしに馬車の用意を頼んでいる」
「は、しかし……」
「ファガシス。おぬしは、私の生命を救った者を、庭で素晴らしい歌声に聴き惚れていたという咎で捕らえるというのか?」
ちらとカイルに目を遣りながら、総督は今度は聴衆に向かって呼びかけた。
「フィーユラルの人々よ、私は信頼すべきあなた方の耳と心に問おう。かつてこのように清々しくも熱く語りかけるように歌う乙女を見たことがあるか。その言の葉すべてを我々の心に刻んだ少女がいただろうか」
人々は一様にむきになって首を振った。すると、突然、総督は興奮したように声を張り上げた。
「私には、今年の《太陽神の巫女》は、そこにいる乙女以外の適任者はいないと思うが、あなた方はいかに!」
一瞬、沈黙の帳が降りた。が、しかし、
「そうだ! そのとおりだ!」
「総督様のおっしゃるとおり!」
次々と上がる賛同の声を、ディオルトは片手を上げて制した。
「私はテイルハーサ神をお慕い申し上げる者として、今年の《太陽神の巫女》に彼女を推そう!」
わっと歓声が湧き起こる中、事態を呑み込めないセフィアーナは、魂を抜かれたようにその場に立ち尽くしていた。
「あんた、すごいわねえ!」
「お嬢さんならきっと選ばれるわよ!」
次々に声援をかけられ、肩を揺さぶられ、ようやく我に返ったセフィアーナは、半ば怯えたように傍らのカイルを見上げた。
「約束してたのは、フィオナだけじゃないんだ」
盛り上がる人々に身体を押されながら、カイルは不敵な笑みを漏らした。
昨年、秋の広場で、彼が愛孫と約束を交わした本人だと知り、総督は近しく青年に声をかけたのだった。その時は私も同席させてくれ、と……。
総督と視線を交わしているカイルの横顔が滲んでいく。セフィアーナは感謝の気持ちで胸がいっぱいになり、目を綴じて深呼吸した。彼はきっと最初からこのつもりで、こうなることを予想して、彼女を総督府へ連れてきてくれたのだ。約束があったのは偶然だろうが、そのおかげで気張ることもなく、いつもどおりの心持ちで唱うことができた。その結果、今の彼女には最大の味方を得ることができ、再び夢に挑戦する機会を与えられたのだ。
(今度こそ挫けない……!)
ふと、手に何かが触れる。視線を落とすと、フィオナがあどけない笑顔で彼女の白い手を握っていた。
「さぁ、おじいさまの馬車で神殿に行きましょう!」
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