第二章 太陽神の巫女 --- 2
三人を乗せた馬車は、石造りの建物が並ぶ路地を通り抜けていく。土台から屋根まで、聖都の北にあるフォトーラの採石場から切り出した石を用い、玄関や窓枠にはそれぞれの家の紋章を彫り込むのが風習だった。その一貫した建築様式は聖都名物にもなっており、市中に学術的で落ち着いた雰囲気をもたらしている。ただ現在は、年に一度の祭典《
ジャネスト神殿の偉容は既に町並みに没してしまったというのに、セフィアーナは依然としてその方角に翳りのある顔を向けていた。彼女の内で、幾つもの思いが交錯する。巫女の推薦を受けたときの決意、力無い自分の存在を弱いながらも否定された絶望、神の教えを平然と踏みにじる者への憤り……。時間に間に合わなかったことで、彼女は再び自分自身と向かい合う機会を与えられていた。
(私は何のために聖都へ来たの?)
果たしてそれは巫女となるためだったのか。神官になるための修行をするためだったのか。
(きっと……違う)
ぼんやりとそう思った。確かに巫女に選ばれれば、神官を目指すうえで大きな足がかりにはなる。しかし、そのような考えは、やがて己をグロヴァース神殿の神官と同じにしてしまうだろう。それでは本末転倒である。巫女を軽んじる者が、神官となって何を成せよう。先刻、養母が語ったように、《太陽神の巫女》は神に仕える巫女で、それ以上でもそれ以下でもないのだ。そして巫女の究極の仕事はただひとつ。
(私……歌を唱いに来たんだわ……)
村長が推薦を言い出したのも、村人が応援してくれたのも、彼女の歌の力に魅せられたからである。そして少女も、自分の歌で他人が勇気づけられるのならと、新しい世界に飛び込むことを決めたのだ。確かにジャネスト神殿に集った乙女たちに比べれば、知識や作法で見劣りするかもしれない。だからといって、すべてに背を向けることはない。己の弱さを知っていれば、それはいつの日か武器になる。
(もし祭壇場に立てたら、神様を一番に見付けて、みんなに春の訪れを知らせるの。今年もまた、優しい感謝の季節が来たって。夢が実る暖かい季節が来たって……)
東の空に向かい、手を差しのべる自分を思い浮かべる。清く澄み切った空気が張りつめる中、訪れる最初の一条を待ちわびて。
(私、巫女になりたい……!)
改めて決意を固めた時、身体が前後に揺れ、馬車が止まった。
「ここ、は……?」
こぼれてきた蜜鑞色の髪を耳にかけながら、セフィアーナは御者台を振り仰いだ。おそらく聖都の中心街だということは、三百ピクトもある道幅や、行き交う人々の多さでわかった。しかし今、馬車が止まっているのは、聖都特有の石塀で囲まれた、まるで神殿のような建物の前だった。神殿でないとわかるのは、入口の列柱に掛けてある旗の紋章が、白銀の鷹――サイファエール王家のものだからだ。
「セレイラ総督府だ」
短く言い、カイルは荷物の中から円い筒を取り出すと、御者台から飛び降りた。そばの木の枝へ、手慣れた様子で手綱を掛ける。
「村長から預かった書類を出してきます。ちょっと待ってて下さい」
それだけを言い残し、門の方へと歩いて行ってしまった。意表を突かれた二人は、取り付く島もなく、馬車の上で呆然と顔を見合わせた。
「いったいどうする気なのだか……。もう教えてくれてもいいだろうに」
困惑した院長が、深く溜息をついて座席に沈む。
彼女には、「この上ない正攻法」など信じられなかった。何の後見も持たないセフィアーナにとって、ジャネスト神殿で公然と行われる試験こそがそれなのであって、その権利を失った今となっては、何をやっても報われないのではないだろうか。――セフィアーナを預かってくれる神殿を探した方がいいのではないだろうか。
(この娘を巫女にするためには何でもしようと誓ったけれど……)
院長もまた、先程のグロヴァース神殿の神官の毒に当てられていた。
(わかっていたことだけれど、あのような輩がひしめく場所にセフィを出すなんて、むごすぎるのでは……)
物思いに沈む養母を心配そうに見つめていたセフィアーナだが、ふと横にそびえる石塀に目が行った。上部の縁取りには蔦模様が延々と彫刻してあり、その上を馬車の両脇に立ち並ぶ木の枝と、敷地内から伸びてきた木の枝が交差している。少し背伸びをすると、尖塔の先端が見えた。
「総督府……」
カイルが村長の使いで聖都を訪れるのは、この総督府へ村政について報告しなければならない事物があるからで、そのことは彼女も知っていた。しかし、彼に関心がなかったせいか、少女が尋ねなかったせいか、神殿群の話はしても、この建物の話がされることはなく、セフィアーナにとって、想像することなく実物を見た数少ない例のひとつだった。
門に吸い込まれていく人々を見ていると、セフィアーナは好奇心を抑えきれなくなった。
「あの、先生。ちょっと門のところまで行ってきてもいいですか?」
すると、シュルエ・ヴォドラスは鳶色の瞳を見開き、呆れたように吐息した。
「……まあ、いいでしょう。ここにいたって気が滅入るばかりですし。けれど、人の迷惑になるようなことだけは絶対にしないよう、お願いしますよ」
まるで小さな子を諭すように言うと、院長はセフィアーナを通すために身体を起こした。
「門から覗くだけです。すぐに戻ります」
サイファエール政府より唯一自治権を認められているセレイラ地方だが、だからといって野放しにされているわけではない。聖都フィーユラルは、王都バーゼリックと大港町テイランのほぼ中間に位置し、隣国カルマイヤと間近に接する大陸の要衝でもある。中央から派遣される総督は、神官や隣国の動向の監視、陸上貿易の安全保障と税金の徴収、領内の整備や治安確保を主な職務とし、その遂行に、時には生命を削って奔走した。
目下、その苦労を一身に背負っているのは、ちょうど八十代目の総督となったディオルト=ファーズである。『国王の影』と称される宰相に、その温厚な性格と冷静な判断力とを買われ、四年前にこの都へやって来た。通常三年の任期をさらに延長されたことは、彼にとって大きな誉れだった。妻は既に亡く、現在のディオルトの楽しみといえば、共に赴任した次男夫婦の子の成長を見ることだった。
「よぉ、カイルじゃないか!」
官邸内に見張りに立つ兵士に声をかけられ、カイルは内心で舌打ちしながら足を止めた。
「久しぶりだな。初詣か?」
「……あぁ」
昨年、彼がダルテーヌ村長の使者として総督府に赴いたのは、僅かに四度だったが、その都度、彼の意に反して騒ぎが起きたため、すっかり顔を覚えられてしまった。
青年が小難しげな顔をするのを見て、兵士は可笑しそうに言った。
「安心しろ。客寄せの娼婦様は只今お留守だ」
それを聞いて、カイルは冴えた碧玉の瞳を細くした。
「……自分トコの副長をそんなふうに言っていいのか?」
「そりゃ言いたくはないが」
兵士は首を竦めて見せた。
「おまえを隊に引き入れようとするさまなんて、この表現がぴったりだぜ。あ、娼婦じゃなくて男娼か」
妙な訂正を独りごちて笑う兵士を、カイルは憮然と見遣ると、再び用のある部屋に向かって歩き出した。慌てて兵士もそれに従う。
「あ、待てよ。そんなことより、これ。これ見てくれよ」
懐中からぼろぼろになった紙を取り出すと、兵士はカイルの顔の前にかざした。
「何だっていうんだ……」
鬱陶しげにそれを掴み取ると、彼は紙面に視線を落とした。
「……『ケルストレス祭』?」
「ああ。毎年、聖儀の翌日に、ケルストレス神殿で行われている神前試合さ。各地から集まって来た強者どもが、自分の得物で腕比べするんだ」
兵士は頬を紅潮させて力説したが、その情熱は青年の次の一言に粉砕されてしまった。
「興味ない」
しかし、彼は諦めなかった。カイルが目的の部屋に辿り着いても、その傍らで熱気と興奮に溢れるケルストレス祭の様子を延々と喋り続けたのだ。最初は完全に無視していたカイルだったが、次第に文官とのやりとりに支障を来すようになり、ついに端正な顔を険しくして、鶏のようにけたたましい兵士を睨み付けた。
「オレにどうしろっていうんだ」
案の定、お待ちかねとばかりに、兵士はにんまりと笑った。
「だからぁ、ここに書いてあるだろ? 『参加者募集』って。オレ、見てみたいんだよ。総督閣下の身命をお守りしたおまえの腕前をさ」
「はぁ!?」
思い切り眉間にしわを寄せると、カイルはどっと疲れを感じて壁にもたれかかった。
それは、昨年、四度目の聖都訪問の際に起きたことである。
それ以前の訪問で、カイルは必ず騒ぎに巻き込まれていた。彼自身が言い出した《賢者の道》の建設を認可してもらうため、最初に総督府を訪れた時、同時に行った補助金の申請に難色を示した官吏は、なにかと理由を付けて取り合おうとしなかった。そのため、怒れるカイルは衆人環視の中で彼を糾弾し、結果、子ども相手に耐えかねた相手が抜剣して、決闘騒ぎになってしまったのだ。二度目の訪問の際は、前回の続きを期待した者たちによって勝手に騒ぎを引き起こされ、三度目は、騒ぎというほどではないが、あまり笑わないことで有名な総督の孫娘が、偶然出くわした彼との短い会話の中で微笑んだということで、ちょっとした話題となった。
本来なら野次馬の背を一瞥して通り過ぎる性分なので、カイルは自分が騒ぎの中心にいることにかなり憮然としていた。したがって、四度目の訪問の際は、とにかく目立たないように心がけ、用が済むと真っ直ぐ帰途についたのである。ところが、それが裏目に出た。近道に通り抜けようとした広場で、一人の画家が暴漢に襲われていたのである。寄って集って弱者に暴力を加えようとする輩をとりあえず投げ飛ばしてみたところ、セレイラ総督配下の警備隊が駆け付けて来、青年は彼らの口から自分が助けた人物こそ、セレイラ総督ディオルト=ファーズ本人だと知ったのだ。臍を噛んだが後の祭りである。それ以来、カイルは、彼の体術を垣間見たセレイラ警備隊の副長から、熱烈な勧誘を受ける羽目になってしまったのだ。
「カイル」
「いい加減にしろ!」
我慢が限界に達して、青年は思わず怒鳴ってしまった。しかし、はっとして相手の顔を見る。
「……それはこっちの台詞だがね」
くだらない会話の応酬に付き合わされて、彼の応対をしていた官吏の額には、はっきりと青筋が浮かんでいた。
「……申し訳ない」
素直に謝ると、危険な視線を横の兵士に遣る。睨まれた方は、今度こそ押し黙って、そそくさと持ち場に戻っていった。
「カイル。悪いが、この補助金の申請は受理できんよ」
あからさまに「またか」という顔をするカイルに、官吏は肩を竦めた。
「きみに責められるのは私の望むところではないがね、今回ばかりは……というより、しばらくはどうにもならんよ」
「どういうことだ」
これから夏に向けて、ダルテーヌを含めたシリア山麓の村では、名産品であるシェスランの香水の精製が最盛期を迎える。今回、ヒーリックが補助金を申請したのは、老朽化した村の作業場の建て直しを希望しているためだった。
「世の中には公平という言葉がある。ダルテーヌは去年、地下水道の大工事を行ったばかりだろう? また同じ村に金を出したら、他の地域との兼ね合いがつかなくなる。ただでさえシリアの辺りは、政府の財源で贔屓目にあるからな」
役人がおかしなことを言うと思いつつも、カイルは沈黙した。確かに、役所が同じ地域の肩ばかり持つようなことは、彼にとっても忌むべきところだった。しかし、金がもらえないことには、ダルテーヌの村人たちは、常に危険と隣り合わせで作業しなければならなくなる。
カイルは説得を試みようと官吏を見たが、言葉を発する前から首を横に振られ、床に視線を落とした。そんな彼の視界に、不意に「銀貨百枚」という文字が飛び込んできた。
突然青年が姿を消し、官吏は椅子から立ち上がった。すると、彼は片膝を着き、床の上に落ちた一枚の紙を凝視していた。
「カイル?」
訝しんで声をかけると、突如カイルが顔を上げ、不敵な笑みを浮かべて言った。
「申請書を返してくれ。金は要らない」
「え?」
手のひらを返すような彼の態度に、官吏が目を見開く。そんな彼を後目に、カイルは軽い足取りで部屋の出口に向かった。ふと思い出して、楽しげに尋ねる。
「今日、フィオナ嬢は?」
「あー、この時間なら、たいてい中庭にいらっしゃるはずだが……」
礼を言う代わりに軽く手を挙げると、カイルは廊下に出た。
「変に時間を潰したな。まぁ、わざとらしくなくていいか」
呟いて歩調を強めると、再び表玄関に向かった。
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