第一章 風の谷の詩 --- 7

 翌朝一番に孤児院を訪れたヒーリックは、朝食の支度に追われているセフィアーナを捕まえると、喜色を満面に浮かべて言った。

「よくぞ決心してくれたな、セフィ。この村から巫女の候補を出せるなど、後にも先にもこれっきりじゃわい」

「おじいさんたら……。ダメでもともとですもの。後悔しないように頑張ります」

 控えめに決意を述べる少女の背を、ヒーリックは強く叩いた。

「なに、おまえさんなら大丈夫じゃわい。儂の生命を賭けてもいいぞ」

 老人の大言壮語に、セフィアーナは苦笑するしかなかった。その表情は、わずかに翳っている。

 結局、昨晩は寝ることができなかった。聖都へ赴き、巫女の試験を受ける。このことを決心したことに後悔はない。だが、今の彼女に聖都の白大門を晴れやかな気分でくぐることはできそうになかった。一方、偶然にも同じ不安を抱えている村長も、残すところその心配だけとなり、突如その表情を曇らせた。

「こうなると、カイルが心配じゃわい……」

「おじいさん……?」

 驚き首を傾げる少女に、ヒーリックは昨夜の若者の様子を話して聞かせると、再び深い溜息をついた。

「カイルにとって、おまえさんは儂らが思っとった以上に心の支えになっておったんじゃ。あの様子では、もしかしたらこの谷を出ていってしまうかもしれん……」

「そんな……カイルがこの谷からいなくなる……!?」

 セフィアーナは、思わず老人の腕を強く掴んだ。

「そんなこと……」

 あるはずない、と続けたかった。しかし、昨日のカイルの後ろ姿が、彼女からその言葉を奪っていった。黙り込んだ少女の横で、老人もまた項垂れていた。

(儂はもしかしたら、自ら自分の息子を失うようなことをしたんじゃなかろうか……)

 今まで、村政を殆ど思いつきでこなしてきた。自分でも酒の席などで「幸運の女神に気に入られとるんじゃ」と豪語するほど、それらはすべて良い方向に転び、おかげで村人の反感を買うこともなかった。そして今回も、院長の部屋の扉を勢いで開いた。その結果、またしても女神は良い方へ石を放ってくれた。しかし、いささか力が強すぎたようである。転がって辿り着いた池――カイルの心に、この石はいったいどんな波紋を生じさせてしまったのだろう……?

 寒い回廊で不安に沈んでいる二人の姿を、朝礼にやってきた人々が怪訝そうに眺めながら礼拝堂に入っていく。セフィアーナは、まだ自分の仕事を終えていないことを思い出した。

 まだ本当にカイルが谷を出ていくと決まったわけではない。今、ここで話し合っていても仕方のないことだった。

「おじいさん、カイルを信じましょう」

「信じる……?」

 老人の不安げな声に、セフィアーナは力強く頷いた。

「カイルはこの谷を本当の故郷のように思ってくれてるわ。おじいさんのことも、本当のおじいさんのように思ってる。たった一年だけど、カイルにとっては生きる勇気を取り戻した、大切な一年だったと思うもの」

「……そうじゃな」

 瑠璃色の瞳の奥に真摯な光の輝きを見て、ヒーリックの波立つ心は次第に収まっていった。



 その日の朝礼の後、村長であるヒーリックは、今年の《尊陽祭セレスタル》の《太陽神の巫女》にセフィアーナを推薦すると決めたことを村人たちに発表した。おかげで礼拝堂内は蜂の巣をつついたような騒ぎになってしまった。

「爺さんも思いきったことを……」

 しかし、村長の決定を批判する者は誰もいなかった。

「セフィならきっと選ばれるわ!」

「オレ、絶対巡礼に行くから!」

「セフィの歌う姿が今から目に浮かぶよ。国中のみんなが聞き惚れるじゃろうて」

 セフィアーナと仲のいいフィラネ老婆が言い、その言葉にみな頷いた。その後、ひとりひとり少女に励ましの言葉をかけると、それについてのお喋りに花を咲かせながら、午前の仕事へと散っていった。

 最後に残った人物を見て、少女は顔を少し強張らせた。カイルはその様子に気付いているのかいないのか、少なくとも普段よりは神妙な面持ちで彼女のもとにやってきた。

「……昨日聞いたばかりなのに、もう明日発ってしまうのか」

 セフィアーナは無言のまま頷いた。

「まあ、身構える時間のない方が、良い結果になるということもあるからな」

 彼のあまりにあっさりとした様子に、セフィアーナとヒーリックは思わず顔を見合わせた。

 二人は知らなかった。少女が決意したように、若者もまた決意したということを。セフィアーナが神官を目指すというなら、自分も村長の養子となった自覚を持って生きていこう――それが、カイルがこの谷に来て初めてした決意だった。

 老人と少女が訝しげな態度を取る傍らで、院長は薄々何があったかを察した。セフィアーナを聖都へ遣わそうと決めた時、どこかでこうなる予感はあった。昨年、少女を村外に出せなかった大きな要因が、カイルだったからだ。

 そんな三人のために、シュルエ・ヴォドラスはひとつの提案をした。

「村長からお聞きしたのですが、最近この一帯に盗賊が出没しているとのこと。私とセフィだけでは心配です。あなたは村長のお使いで聖都への道には精通しています。ですから、私たちと一緒に聖都に行ってくれないかしら……?」

 院長の言葉を聞いて、ヒーリックは内心、手を打った。このままだと、カイルは糸の切れた凧のように谷を出ていってしまうかもしれない。しかし、セフィアーナとシュルエを糸にすれば、帰りの道中にセフィアーナがいなくても院長を守らなければならないし、その間に少女のいない谷に帰るのだという覚悟もできよう。いったん谷に戻ったら、しばらくは谷を出ようという気も失せるのではないだろうか。

「そうじゃ。女二人では、とても旅になるまい。盗賊もじゃが、まだ雪の残る道は多い。何かと危険が付きまとおう。聖都に入っても、祭となれば悪人も集まってくるからのう……」

 老人は顔色を窺うように若者を見た。カイルは軽く肩を竦めた。

「……御二人の仰せとあらば」

 あからさまにセフィアーナとヒーリックの口から、安堵の吐息が漏れた。それに苦笑しながら、シュルエ・ヴォドラスは内心で気を引き締めていた。

「それでは準備をお願いしますね。セフィ、私たちも早く支度を」

 歌だけならば、セフィアーナはおそらく集まってくる乙女たちの誰にも負けまい。しかし、大神殿の看板を背負った彼女たちが、そう易々と巫女の座を諦めるとは思えなかった。

(この娘の澄んだ歌声で聖なる日の暁を迎えられるよう、私はできるだけのことをしよう……)

 我が子の横顔を眺めながら、シュルエ・ヴォドラスはそう心に誓った。



 翌朝は、門出にふさわしい日和となった。普段は礼拝堂にあるはずの村人の姿は、セフィアーナたちを見送るため、坂を吊り橋まで下った村の入口にあった。

「セフィねえちゃん、がんばって巫女さまになってね!」

「わたしのミュミュちゃん、お守りにもっていって」

 同じ孤児院で暮らす幼子たちに取り囲まれて、セフィアーナは少し淋しげな笑みを浮かべた。もし巫女に選ばれ聖都に留まることになったら、次に子どもたちと話ができるのはいつになることだろう。再会の日まで、彼女のことを忘れずにいてくれるだろうか。

「当分、あの娘の歌や竪琴を聴けなくなるのじゃなあ……」

 少し離れたところから、フィラネが両脇を村人に支えてもらいながら、しんみりと漏らした。

「シュルエ・ヴォドラス」

 呼ばれて、院長がフィラネを見遣ると、老婆は真剣な眼差しで彼女を見返した。

「……もし駄目だったとしても、あの娘は谷へは戻って来ないのじゃろう?」

 その言葉に驚いた村人たちは、一斉にシュルエ・ヴォドラスに注目した。僅かな沈黙の後、院長はゆっくりと頷いた。

「あの娘が神官になることを望んでいるのです。聖都での修行が叶わなかったとしても、優秀な神官のいる神殿はたくさんあります。もしもの場合は、そこへ預けようと思っています」

 大人たちの間で、小さなどよめきが起きる。それが子どもたちに伝わる前に、シュルエ・ヴォドラスは言を次いだ。

「けれど、何年後になるかはわかりませんが、もしあの娘が一人前の神官になれて、この谷で奉仕したいと願うなら――」

 誰もが、院長の声が震えているのに気付いていた。十六年前、捨てられていた少女を最初に発見し、名付け親にもなった彼女の心中を、彼らは暖かい眼差しで見守った。

「……そう願うなら、私は受け入れるつもりです。セフィアーナは……この谷の娘ですから」

 少女の成長を見つめてきたのは、なにも院長だけではない。まだ産着に包まれたセフィアーナを、ようやく二本の足で歩き始めたセフィアーナを、飛び跳ねながら歌うセフィアーナを、村人たちも共に喜びながら今日まで生きてきた。それぞれが少女との間で作った思い出を思い返しながら、院長の言葉に無言で賛同する。

「……そろそろ時間じゃな」

 院長の肩を軽く叩くと、ヒーリックはセフィアーナを呼び寄せた。

「さあ、セフィ。当分、みんなの顔を見れなくなるのじゃから、今のうちにしっかり見ておけ」

 それに従い、既に潤み始めた瑠璃色の瞳が、村人に向けられる。

「もし《太陽神の巫女》に選ばれたら……」

 泣き出してしまいそうになるのを必死で堪えながら、セフィアーナは澄んだ声を響かせた。

「私、《称陽歌》を歌う時、きっとこの谷の暁を思い出すわ。だって……ここのしか知らないんだもの」

 言い終えた途端、熱い雫が頬を伝っていく。カイルに頭を撫でられ、とうとう少女は肩を震わせて泣き始めた。

「カイル、頼んだぞ。わしらも必ず後から行く」

 村長の言葉に、カイルは強く頷いた。その時、人々の頭上を黒い影が過ぎった。

「あっ、ティユーだ!」

 少年が空を指さし、村人たちがそれを目で追っていくと、確かに大空に黒い翼が舞っている。

「……ティユーもセフィを見送りにきたのかなあ」

 少年がかわいらしく首を傾げると、その隣の少年がふてくされたように言った。

「そんなわけねえだろ。ティユーがセフィから離れるもんか」

 セフィアーナはティユーを束縛したことは一度もない。鳥は自由に大空を飛んでこそ、鳥であるのだから。しかし、肝心のティユーの方が少女から離れたがらないのである。育ての親という恩義を超えた何かが、人界に堕ちた人狩鳥の中に生まれているようだった。

「鼻が利く奴だな。本当に鳥か?」

 カイルが冗談めかして言い、セフィアーナは思わず噴き出してしまった。涙に濡れた顔を手の甲で強く拭うと、大きく深呼吸して心を落ち着かせる。

「さあ、行きましょう」

 養母の声に、故郷の山を見上げる。少女を育ててくれた、シリアの山。毎年訪れる厳しい冬は、今後は形を変えて彼女を襲うことだろう。しかし、彼女は知っている。その先にあるものが、必ず優しい春だということを。

「行ってきます……!」

 元気な声を上げ、赤茶色の外套を翻すと、セフィアーナは残雪にぬかるんだ道に運命の第一歩を踏み出した。

 少女は知る由もなかった。再びこの地へ帰るとき、彼女の一番大切なものを失っていようとは……。


【 第一章 了 】

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