第一章 風の谷の詩 --- 6
燃えさかる暖炉の前で、ひとりの老人が揺り椅子に身を委ねている。
ダルテーヌの谷の村長である彼は、名をヒーリックといった。その座を親から受け継いで、かれこれ三十余年が経過している。
彼は膝の上に書物を広げていたが、その視線は本のわずか上空で留まっていた。痩せ細り、血管の浮き上がった手で真っ白になった髭を撫でると、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「なんとか首を縦に振らせる方法はないもんかのう……」
すると、夕食の支度をしていた妻のマルバが、何事かというように物思いに耽る夫を見やった。それに気付いて、ヒーリックは首を回した。
「いや、ほれ、セフィのことじゃよ」
「ああ……。院長先生は何て?」
「セフィに話してみると言っていたが、その後、何も言ってこん」
眉間にしわを刻む夫を、マルバは呆れたように見遣った。
「その後って、おまえさん。推薦の話をしたのは今朝ですよ? そんな、一朝一夕で決められる返事でもないでしょう」
「しかし、推薦の締め切りの期日が迫っておるんじゃ。受けるのであれば、早く聖都に発たねば間に合わん」
ヒーリックは力説したが、妻には食事の支度の方が重要だったようで、途中で会話を放り出されてしまった。老人は揺り椅子を揺らしながら、再び頭を抱え込んだ。
マルバの想像に反して、セフィアーナの《太陽神の巫女》の推薦話は一朝にして決したが、シュルエ・ヴォドラスは、そのことをすぐに村長に報告しなかった。少女の決心を鈍らせないためには性急さも必要だが、今回の件、院長の一存で半ば押し切ったようなところもある。村中に知られてお祭り騒ぎになる前に、セフィアーナに心の準備をさせたかったのだ。しかし、一方のヒーリックは、今度のことを村長の仕事の集大成のつもりでいるため、気が逸って仕方がない。それで双方の時間の流れの感じ方に大きな差が出ているというわけだった。
今晩既に八度目の唸り声を上げた時、廊下をカイルが横切り、老人は慌てて背中を起こした。
「おお、カイル。帰ったか。ご苦労じゃったの」
ヒーリックが労るように声をかけると、青年は無言で頭を振った。彼は年老いた夫婦のために、薪割りをしていたのだった。
「さあ、座った座った。今日はあったかい豆汁じゃ」
マルバがカイルの背中に手を当てて言い、ヒーリックもやって来て、食卓に三人の顔が集った。料理に手を付ける前に、しばらく沈黙して祈りを捧げる。
「さて……」
家の主が顔を上げると、他の二人もそれに倣い、ささやかな夕食をそれぞれの胃袋に収め始めた。
「ところでのう、カイル」
ヒーリックが親しげな視線を黙々と食べている若者に向けた。
この老夫婦には娘がひとりしかおらず、それも二十年も前に村外へ嫁いでしまったので、カイルを実の子のように思っているのだった。
「今日、セフィと話をしたか?」
咄嗟にカイルは匙を落としそうになった。午後の一件以来、彼の胸中にあったのはセフィアーナのことばかりだった。
「……ああ」
なんとか動揺を押し隠したカイルだったが、彼の心中など知る由もない養父は、さらにきつい質問をそろそろ浴びせてきた。
「何か言っておらなかったか? その、巫女がどうとか、聖都がどうとか……」
どうしてそのことを養父が知っているのかと、カイルが険しくなった顔を上げると、口に食べ物を含んだヒーリックの代わりにマルバが答えた。
「笑ってやってちょうだい、カイル。この人ったら、セフィを《太陽神の巫女》に推薦したらどうかって、朝っぱらから院長先生のところに駆け込んだのよ。まあ、あの娘の実力なら、十分受かりそうなものだけれどね。で、その返事がまだないもんだから、さっきからすっかりうろたえてしまって」
「儂はうろたえてなどおらんぞっ」
慌てて食べ物を飲み下して喚くと、老人は再びカイルを見た。
「あの娘のことじゃから、おまえに相談したんじゃないのか」
カイルは唇を噛んだ。
「相談じゃなくて、報告だったよ」
いつになく淋しそうな若者の声音に、老夫婦は驚いたように彼を見遣った。
「聖都に行くってさ。そりゃ嬉しそうに話してたよ」
言うなり立ち上がると、「ごちそうさま」とだけ付け足して、カイルは足早に自分の部屋へ戻った。その行動が二人をさぞ驚かせるだろうということは容易に想像がついたが、あれ以上、食卓に留まって、昼間あったことを話せる状態ではとてもなかったのだ。
部屋の扉を閉めて大きく溜息をつくと、カイルはすぐに寝台に横になった。
(爺さんが言い出したのか……)
くそっと拳を身体の横で叩き付ける。
この村に来て一年。出逢った当初はあの少女がここまで重い存在になるとは、彼自身思いもしなかった。
***
『神様、どうか彼をお救い下さい……』
雪の降りしきる礼拝堂で、一人の少女が祈りを捧げている。カイルがその場を覗き見て、かれこれ半ディルクが過ぎようとしていた。
『彼に生きる力を……』
組んだ両手を唇に押し当て、立ち上がる気配はまるでない。彼はそっと礼拝堂を後にした。
初めて見舞いに来てくれた少女に、ひどい言葉をぶつけてしまった。死にたくて死にたくて、死にたくて旅を続けていた自分。やっと叶ったと思ったのに、彼は少女によってこの世界に留まらされてしまった。腹立たしくて悔しくて、彼女を傷付けてやろうと故意に発した言葉を、彼はその後、ひどく後悔していた。
『あの娘はのう、生まれて間もない頃に、この上の孤児院に捨てられたのじゃ。だが、その辛さをおくびにも出さず、困った者がおったら、飛んでいって力になる。自分のことは顧みずな。だから村の者はあの娘が大好きなんじゃ。あの娘がいるだけで、笑うだけで、歌うだけで、儂らは幸せな気持ちになれるんじゃ』
少女に冷たく当たったことを知ったのか、村長は頼んでもないのにそんなことを説明してきた。しかし、最初、彼には理解できなかった。
(孤児のくせに、なんだってそんな幸せそうなんだ)
(花が蕾をつけたくらいで、そんな嬉しそうな顔するなっ)
(他人の外套の解れなんか放っておけばいいじゃないか!)
(洗濯物そっちのけで、雨の唄なんか歌うなっ!)
窓布の隙間から少女の姿を垣間見る度、彼は苛立ち、彼女の言動すべてに反感を覚えた。
生まれながらに烙印を押された彼女と、傍目には羨ましがられる家に生まれた自分。それが、完全に入れ違ってしまっている。何故こんなことになってしまったのだろう? 最愛の母と死に別れた四年前、周囲と決別して旅に出たのは、不幸になるためではなかった。しかし今、彼の手の中には幸福の欠片もない。それどころか、欠片を拾おうとする力さえ失ってしまっていた。
『オレは自分に負けたんだ……』
それを自覚したとき、彼は溢れ出る涙を止めることができなかった。
『おまえは見付けられるといいのだけれど……』
母親の、祈るような声が脳裏に蘇る。幼い頃、寝物語に聞かされた伝説――『白き草原』へ辿り着くことができた者は、自分らしく生きることができるという。いつしか彼の旅の目的となった。
『オレには存在しないのかもしれない……』
ある夜、彼が絶望の淵を見据えて呟いた時、いつの間にやってきたのか、眼下の岩の上に少女が立っていた。月光を浴びて、蜜蝋色の髪が金色に輝き、まるで月の精が舞い降りたようである。
少女は空中にゆっくりと両手を差しのべた。冬の凛とした空気を鈴のように打ち鳴らす声が、まっすぐに彼の耳へと届く。
白き草原求め
我 荒野を行かん
岩につまずき
砂に目を潰し
乾きに狂い
その果て
生命を落とさんとも
朽ちぬ想い
安らかなる夢
月よ 願わくは
行く手に慈愛の光を
なぜ彼がまさに欲しているその時、少女がその歌を口ずさんだのかは解らない。だが、その驚きよりも、彼女の沁み入るような声音が、ただ素直に耳を傾けさせた。
少女のことが腹立たしかったのは、彼の望む生き方を彼女が実際に、遙かに高い境地で演じていたからかもしれない。
(彼女のように生きたい……)
そう思った時、彼の心の中で小さな旋風が起こった。その渦はやがて大きくなり、次第に熱をもっていく。それが勇気や生きる希望だということに、若者はまだ気付いていない。
(見付けられるかもしれない――)
『白き、草原を……』
彼の口から漏れ出た言葉は、少女の歌声に乗り、月の輝く天空へと舞い上がっていった。
翌日、若者は少女の暮らす孤児院の坂を上った。
「岩につまずき、砂に目を潰し、乾きに狂い――」
暗誦して、若者は小さく笑った。
「まだ岩につまずいただけだ」
天窓の端に月が姿を現し、徐々にその中心へと歩を進めていく。彼は冴えた碧玉の瞳を綴じると、心の中で切に祈った。願わくは、行く手に慈愛の光を、と……。
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