第一章 風の谷の詩 --- 5
セフィアーナとカイルは、村人以外によく兄妹か幼なじみと間違えられるのだが、実際には出会ってからまだ一年しか経過していない。昨年のこの時期、少女は今年と同じように憂鬱を抱えていた。暇を見付けては、村のはずれにある
その日も例外ではなかった。当面の日課を終えた少女は、小雪のちらつく中、ふらりと孤児院を後にした。村へと続く長い坂を下り、森の縁に沿って歩いていくと、色彩を失った世界の中心に、彼女の目指す五角形の建築物がひっそりと佇んでいる。
あと十数歩というところまで来て、ふとセフィアーナは歩みを止めた。四阿の中に人影を認めたのである。一番見晴らしのいい場所に腰を掛け、縁に伏せって静かに雪景色を眺めている。見た限り、その後ろ姿に見覚えはなかった。首を傾げながら四阿に上る石段までやって来ると、その背中に向かってためらいがちに声をかけた。
「こんにちは……」
しかし、彼女の声が聞こえなかったのか、その人物は依然として組んだ腕に顔を伏せている。
「あの……」
再び言葉をかけようとしたセフィアーナだったが、不意に悪寒に襲われた。まさか、という思いが体内を駆けめぐり、少女は一気に石段を駆け上がった。そして、立ち竦んだ。
見たことのない男だった。年齢は、まだ若い。彼女より少し年上なだけだろう。一応、冬の旅装をしているが、ひどく傷んでいた。もう長い間、そこで時を過ごしたらしく、その髪や肩にはうっすらと雪化粧が施され、景色の一部へと化しつつあった。しかし、そんなことより、その若者の表情が少女の視線を釘付けにした。
(なんという……)
セフィアーナは両手で口を覆うと、おそるおそる彼の方へ近づいていった。
なんという晴れやかな、晴れやかな死に顔だろう――。枯葉色の髪が落ちかかる奥で、既に周囲の景色と同じ色になった顔に、天使もかくやと言わんばかりの微笑みをたたえ、若者は、時を知らない子どものように眠りについていた。どんなに優れた神官でも、彼の、全てを許し受け入れ、諭すような表情をすることはできない。神以外、何者も。
少女は息をするのも忘れてそれに魅入っていた。自分の中にぽっかりと空いた穴に、神聖な気が大量に流れ込んでくる。その中に、なぜか一縷、悲しいほどの幸福感を交えて。
ドサッと四阿の屋根から雪が落ちた。少女はようやく我に返った。
(ばかっ! ぼうっとしてる場合じゃないでしょ!)
内心で自分を罵ると、セフィアーナは震える心を落ち着けながら、若者の頬にそっと手の甲を当てた。やはり冷たい。今度は口元に手を伸ばした。
「えっ……?」
少女は瑠璃色の瞳を大きく見開いた。
生きていて欲しいと願ってはいたが、こんな状態なのだ。その望みは十中八九叶わないと思っていた。しかし、今、彼女の掌は確かに彼の息吹を感じ取っていた。今にも消え入りそうな、弱い弱い息吹を。
(まだ……まだ生きてる……!)
途端、嬉しくなって、セフィアーナは彼の覚醒のために車輪になって働いた。とにかく体温を取り戻さなければと、持っていた温石を彼の懐中に入れ、彼女が外套の下に羽織っていた毛織りの肩掛けで彼をくるんでやる。さらに外套も脱いで着せかけてやり、背中や腕を力強くこすった。その間、彼に呼びかけることも忘れない。
「ねえ、起きて! しっかりして!」
しかし、随分と長い間、彼は氷の世界にいたのだ。そう易々とは還ってこない。
「お願い、目を醒まして……!」
若者を抱きしめてその背をさすってやりながら、少女は必死になって叫んだ。ひどく淋しい感情が、彼女の中で渦巻いている。どうしてこの谷に来る者は孤独なのだろう。この若者も、ティユーも、そして少女自身も。
(でも、もう大丈夫なのよ! この谷に来たら、もう大丈夫なの!)
彼女はこの谷に来られたことを人生最大の幸運だと思っている。彼にも是非そう思って欲しい。そのためには、何としてでも目を醒ましてもらわなければならなかった。
その時。
「う……」
ふいに若者の紫になった唇から呻き声が漏れた。少女が呆然と見つめる先で、若者の頬に僅かに血色が戻る。彼女が思わず冷気を飲み込んだ時、彼の瞼が微かに動き、次の瞬間、ゆっくりと開かれた。そこから冴えた碧玉の瞳が覗き、虚ろな視線を宙に彷徨わせている。それは、そのうち彼を心配そうに見つめる少女の上で止まった。
「だ、大丈夫……?」
震えながらセフィアーナが声をかけると、若者は切れ長の目を細くした。彼の唇が微かに動き、何か言葉を発したようだが、あいにく彼女は聞き取ることができなかった。次は聞き逃すまいと耳を研ぎ澄ませて待ったが、若者は再び碧玉の瞳を瞼の奥にしまってしまった。セフィアーナは息を呑んだ。
「しっかりして! ねえ――」
しかし、どんなに激しく肩を揺さぶっても、若者の反応はなかった。
(――このままじゃ、本当に死んじゃう……!)
セフィアーナは、若者の体力がもはや限界に達していることを悟ると、長椅子の上に彼を横たえた。
「今、人を呼んでくるから、すぐに戻ってくるから、お願いだから死なないで……!」
そして、下りてきたばかりの白い斜面を駆け上った。
数日後、村長の家を尋ねたセフィアーナは、臨時の病室となった部屋の寝台に横たわっている若者に、作ってきた特製の麦粥を差し出した。風邪とひどい栄養失調に冒されていた彼は、やっと起き上がれるようになったというだけで、とても歩ける状態ではなかった。
「たくさん食べて、春までには元気にならなきゃ」
しかし、若者は冷ややかな瞳で少女を見遣ると、憎悪をこめて吐き捨てたのだった。
「余計なことしやがって」
「え?」
セフィアーナは一瞬、我が耳を疑った。その意味するところを解せずに、驚愕というよりもむしろ呆気に取られながら彼を見返した。すると、若者は粥の入った皿を思い切り床に投げつけて怒鳴った。
「出て行け! おまえさえいなければ、オレは今ごろ……!」
彼は喘ぐようにして唇を噛みしめると、彼女に背を向けて頭から毛布を被った。完全な拒絶だった。
若者の悲痛な叫びに真っ向から胸を刺され、セフィアーナは居たたまれなくなって病室を飛び出した。まさか彼が死を望んでいたとは思わなかった。
(……違う、そうじゃない)
その時になって、ようやく少女は気付いた。彼が死を望んでいたからこそ、あれほどの晴れやかな表情ができたのだ。意識を失ってなお、微笑みを浮かべて待ち続けた瞬間。それを彼女の勝手な願いで奪い取ってしまったのだ。
(うそ……。でも、そんな、私はただ……。間違っていたと……)
セフィアーナは混乱した。彼女はただ、目の前の倒れていた人間を助け起こしただけである。お礼を言われこそすれ、責められる覚えはない。それどころか、彼の発言はテイルハーサの教えに背くものでもあった。
〈聖典〉において、自ら死を望む行為は、いかなる理由があろうとも許されていない。それでも禁を犯してしまった者は、〈闇の谷〉に堕とされ、二度とそこから出ることはできないとされている。神官に育てられた少女の内に、最早それは〈聖典〉を越えた常識として根付いており、若者の気持ちがまるで理解できなかった。
(私は……間違ってなんかないわ。死を待ってたなんて、それこそ助けないといけないじゃない……!)
彼女は心の中で叫んだ。しかし、その一方で、拭いきれない後味の悪さがあるのも事実だった。あの時感じた、一抹の悲しいほどの幸福感。あの至福の状態で死に臨んだ者を引き戻す必要が、権利が、彼女にはあったのだろうか。もし再び死に臨んだ時、彼がまたあの状態になれるとは限らない。
若者があの表情を浮かべることができたのは、それまでの生が少女の想像もつかないほど充実していたものであったからに違いない。例え彼が死を望んでいたにせよ、神は彼を〈光の園〉へ導いたかもしれないのに、それを少女は凍えるほど寒い世界へ呼び戻してしまったのだ。
初めて己の内に芽生えた矛盾に、少女はたやすく翻弄された。
その日以来、村長の家に行きづらくなってしまったセフィアーナは、彼のために礼拝堂で祈った。彼は今後も死を追い求め、彼女を恨み続けるのだろうか。彼の傷付いた獣のような瞳を思い出すと、全身が震え、意気消沈するのだった。
しかし、少女が恐れた再会は、ある日の夕方、突然向こうからやってきた。
セフィアーナが孤児院の庭の雪かきをしていると、その視界に背後から長い影が入り込んできた。彼女が白い息を吐きながら振り向くと、坂の上り口に落日を背負った若者がひとり佇んでいた。
「あなた……」
セフィアーナは瑠璃色の瞳に驚愕の色を浮かべて絶句した。彼はまぎれもなく彼女の好意を床に叩き付けた、あの若者だった。時間が経過しているとはいえ、急な坂を上れるほど回復したとは、彼女は全く知らなかった。いや、それよりも。
「どうして、ここに……?」
気まずい雰囲気の中、彼女がおそるおそる尋ねると、若者は一度口を開きかけた。しかし、言葉が出てこない。そのうちやっと意を決したように整った顔を少女に向けた。
「この間は……その、すまなかった。せっかく作ってくれたのに、あんなことを言って……」
「え……」
また何かを言われるのではと怯えていた少女は、意外な展開に我を忘れて彼を見返した。その彼女を、若者は冴えた碧玉の瞳でまっすぐ見つめている。
「本当に、すまなかった」
「……あ、えと、き、気にしてないから、その、大丈夫よ……」
吃りながらようやく言葉を返すと、若者は多少安堵したようだった。
「今日は……えっと」
若者が彼女の名前を尋ねるような仕草をしたので、セフィアーナはそれに応じた。よく考えると、仲良くなるはずだったその日に何とも苦々しい別れ方をしたので、まだお互いの名前も知らなかった。
「セフィアーナよ。セフィって呼んでくれれば」
「ああ、すまない。そうセフィ、きみに礼を言いに来たんだ」
「私に?」
少女が不思議そうに若者を見ると、彼は静かに頷いた。
「きみはオレの命の恩人だ。本当に、ありがとう」
セフィアーナにはまるで合点がいかなかった。あんなひどい別れ方をしたというのに、それ以来、言葉を交わすどころか会ってさえいないというのに、どういう心境の変化なのだろう?
しかし、そう思いつつも、セフィアーナは喜ばずにはいられなかった。村長の家に行こうとして何度引き返したことか。勇気さえ出せず、彼を遠巻きにしか見守れなかった。来ないかもしれない雪解けをじっと待ち続けた日々は、とても辛く苦しかった。しかし、今、ようやく春を迎えたのである。若者がまだほんの僅かしか心の扉を開いてくれていないことには気付いていたが、直にそれもなくなるような気がした。
雪かきの道具を胸に押し当てて、今度は少女が若者に名を問うと、彼は視線を地面に落とした。
「カイル、という」
年齢は十七で、彼女より二つ年上だった。
どこから来たのか、どうしてこの村に来たのかという質問を、セフィアーナは敢えてしなかった。過日の様子からして、大変な事情があるのは確かである。それを無理に聞き出すのはよくないと思ったのだ。もし彼の方から話してくれた時にはちゃんと聞いてあげよう、そう思った。
若者が帰った後、セフィアーナが嬉しげに養母のもとへ報告に行くと、院長は深く頷き、さらに村長夫婦がカイルを引き取ることになった旨を少女に伝えた。
この谷に来たことを幸運に思って欲しい――彼女の願いは、息を吹き返した。
……それから一年。最初は村人との関係も拒絶していたカイルだったが、様々な出来事を経て、今や完全に村にうち解けていた。二人は時間の許す限り共に過ごし、季節を楽しんだ。お互いを絶対的に信頼し、色々なことを語り合った。……ただ一点を除いて。
カイルが死より生を選んでくれたことを、セフィアーナは何よりも喜んだが、ただ時々不安でたまらなくなった。彼が馬を巧みに操ったり、遠くの獲物を難なく矢で仕留めたり、窓際で異国の本を読んだりしているのを見ると、自分が本当に彼を理解しているのか自信が失くなるのだ。今日のように、理由もわからないまま自分の元を去って行かれると、そのまま彼がいなくなってしまうのではないかと、そんなことまで考えてしまうのだ。
「こんな気持ちのまま、聖都に行くの……?」
だが、それを彼にぶつけることはできない。死を諦め、生を受け入れるという行為は、たった一年で癒えきる傷ではない。それを、彼女自ら抉ることはできなかった。
頼りない月の光が降り注ぐ窓辺で、少女は再び物思いに沈んだ。
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