第一章 風の谷の詩 --- 4

「陣地を守れ! 奴らを入れさせるな!」

「おう!」

「守ってばかりで勝てるもんか! 行け! 突っ込め!」

「やああああ!」

 勇ましい声が、昼下がりの孤児院の庭に響き渡る。午前中の勉強を終え、昼食もすませてしまった少年たちが、溜まりに溜まった生気を爆発させているのだ。

 彼らが剣代わりの棒を片手に庭中を走り回るのを、カイルは木陰の古い切り株に腰を掛け、おもしろそうに眺めていた。

 ここ十数日、セフィアーナの憂鬱に気を揉んでいた彼だったが、今朝の彼女の一言で、もはやその必要もなくなった。彼女の様子だと、再び春が巡ってきても心配ないだろう。その安堵感が春の陽気と相俟って、珍しく青年の鋭い眼光を和らげていた。

「このっ! このっ!」

「何やってんだよ、おまえはあっちを守れって言ったろ!」

「やったな、この野郎!」

 隊列を乱し、将軍役の少年までもが前線で悪戦苦闘しているのを見て、カイルは呆れながら叫んだ。

「おまえたち、本当に作戦を立てたのか!?」

 その時、本棟の表回廊にセフィアーナが姿を現した。カイルは彼女の名を呼んだが、あいにく少年たちの鬨の声によって掻き消されてしまった。しかし、これだけ大騒ぎしているのだ。少女なら足を止めてこちらに目を遣るだろうと思っていたが、その予想は大きく外れた。彼女は足を止めるどころか終始俯き加減で、そのまま建物の裏側に姿を消してしまったのだ。

 意表を突かれ、カイルの冴えた碧玉の瞳に困惑の色が滲んだが、それも一瞬のことであった。青年は大股で庭を横切ると、少女を追って回廊に入った。突き当たりまで来た時、セフィアーナが森の中へと入っていくのが見え、カイルはさらに歩調を速めた。歩き慣れた森だが、なにぶん春先である。熊に出くわしたり、雪解け水でぬかるんだ地面に足を滑らせて谷に落ちる危険性もある。

「いったい何があったというんだ……?」

 足下に細心の注意を払いながら、カイルは心の中で腕を組んだ。晴れたはずの物思いが、再びカイルの心の中で春の嵐を巻き起こしつつあった。



 まだ緑の衣を纏い切らぬ寒々しい森を抜け、泥に覆われた坂道を降り、セフィアーナは沢に辿り着いた。水辺の入口に立つ一本の樹に片手を付いた時、彼女の耳にさらさらと小川の流れる音が飛び込んできた。

 少女は転がる大小様々な石に足を取られぬよう注意しながら、水辺へと歩み寄った。木漏れ日が水面に反射して、まるで光の道が延びているようである。

(――私に、この道が歩めるかしら……)

 捨て子という烙印を捺された彼女に手を差し伸べてくれた心優しい人たち。彼らのように、自分も誰かの役に立てるだろうか。

「今度のことは、その第一歩なのね……」

 そっと足を踏み出してみると、途端、雪解けの冷たすぎる水が薄い革靴に浸入し、あまりの激痛に、彼女は五つ数える間もなく水中から足を引き抜いてしまった。見かけは美しい道も、実際に歩くと茨のそれだということなのか。セフィアーナは軽く息を呑んだ。

 その時、彼女の正面の茂みが音を立てて揺れた。はっとしてそちらに目を遣ると、茂みの奥に二つの光点があった。

「………!」

 濃い茶色の毛で覆われた、茂みからはみ出さんばかりの巨体。どうして今まで気付かなかったのかと思うほど、その獣は静かにそこにいた。しかし、お互いの存在を認め合った今となっては、何も起こらないはずなどなかった。

 カイルの不安が的中した形となったが、セフィアーナはそんなことを知る由もない。彼女が後ずさりしようとするのと大熊が立ち上がるのが同時であった。血に飽いた口を開き、天まで届くかのような咆哮を上げる。その凄まじさに、少女は足下の石に蹴つまずき、水中に倒れ込んでしまった。すぐに起きあがろうとするが、恐怖と水の冷たさで思うように身体が動かない。

 巨体を揺すりながら茂みから出た大熊が今にも少女を襲おうとしているのを、カイルは上方の山道から認めた。彼女の名を叫び、道を外れて急斜面に足を投じるも、到底間に合いそうにない。山に入る予定などなかったので、得物の弓矢も今はなく、カイルは焦りと忌々しさに歯軋りした。

 自分の荒れた呼吸の音を聞きながら、セフィアーナは地に身体を付けたまま、必死に村へ戻る道の方へと這った。しかし、大熊はその目をぎらつかせ、ゆっくりと水辺を進んで彼女に迫ってくる。

(このままじゃ助からない……!)

 そう思ったセフィアーナは、手が草地に届いた時、決断した。熊はその巨体に似合わず、走るのが速い。しかし、道は急な坂道で、しかも上りである。近くまでカイルも来てくれているようだし、死ぬ気で走ればどうにか逃げ切れるのではないだろうか。

 だが、熊の俊敏さは少女の想像を超えるものだった。彼女が立ち上がろうと中腰になった瞬間、大熊は攻撃を受けると思ったのか、前足を蹴って彼女めがけて突っ込んできたのだ。大きな飛沫が上がり、大熊の足下で少女の光の道が割れた。

「セフィー!!」

 カイルの絶望の叫びが樹々の間でこだました。無惨な少女の死体が水面に浮いているだろうことを想像して、カイルは一瞬、強く目を綴じた。その僅かな間に事が起きた。

 ドオン、という地響きに続いてセフィアーナの声がし、カイルが沢に駆けつけた時、少女から五ピクトほど下流で、世にも珍しい対決が展開されていたのである。

「カイル、ティユーが……ティユーが来てくれたの……!」

 息も絶え絶えに震える少女を抱きとめながら、カイルは呆然とそちらを眺めた。その先では、セフィアーナを襲った大熊が、突如騎士のごとく現れた、黒い翼の大きな鳥との慣れぬ格闘の真っ最中だった。

 立ち上がった大熊が力任せに腕を振り回すが、大鳥は翼を駆使してそれを逃れ、大熊が均衡を崩して四つ足になった瞬間、刃物のように鋭い嘴で敵の頭部を攻撃した。咆哮と鳴声、飛沫と羽毛が乱れ飛び、人間と動物との距離は次第に離れていった。

「……あいつめ。鳥のくせに、存外頭が良いな。セフィ、今のうちに上がるぞ」

「で、でも、ティユーが……」

「あいつなら大丈夫さ。オレたちが安全なところまで行ったら、熊を無視して戻ってくる。おまえがここでグズグズしたら、それこそあいつが危なくなるぞ」

「わ、わかったわ……」

 二人は急いで沢から山へ入ると、坂道を駆け上り、村の方へと戻った。途中、村人の作った石段が現れたところでカイルが指笛を吹き、樹々で姿の見えないティユーに撤退を指示する。

 孤児院の裏庭まで戻ってくると、少女は両手を組んで空を見回した。

(ティユー、無事で戻ってきて……!)

 自分の油断で大切なものを失うかもしれないという不安で、セフィアーナはいたたまれなかった。

 ティユーと呼ばれた鳥との出会いは、二年ほど前、少女が山歩きをしていた時のことである。高い崖の麓で鳴いている雛鳥を見付け、彼女は逡巡した結果、村へ連れて帰った。本当なら親鳥の許へ戻したかったが、一度人間の匂いのついた雛を親が受け入れるとは限らない。それならば、最初から自分が世話をしようと思ったのだ。

 セフィアーナは、雛鳥が元気に育つようにと、平和の女神シャーレーンの肩に留まっている鳥の名を取って、ティユーと名付けた。ティユーは衰弱していたが生命の危険はなく、新しい親が苦労して作った食事をよく食べ、すくすくと大きくなっていった。しかし、半年後、大きな問題が発生した。

 生え替わる羽毛を見た時、村長のヒーリックは卒倒しそうになった。それまで真っ白だった羽毛は、同じ鳥かと疑うくらいに反転し、真っ黒になっていた。そして、それがどういう鳥であるかを人間たちに教えたのである。

「これは……人狩鳥の雛じゃ……!」

 その名を聞いて、セフィアーナも言葉を失った。

 人狩鳥は気性が荒く、肉食で、成鳥ともなれば、その翼は人間の大人三人が両手を広げたほどの大きさになる。それを大空に翻らせ、尖った爪で野を行く兎や鹿、時には子牛まで攫ってしまう。人狩鳥と呼ばれるのは、餌に困ると里まで飛んできて、赤子や幼児を襲うことがあるからだった。

 村人は危険を考え、ティユーの処遇を話し合ったが、飼い主であるセフィアーナの必死の説得で、雛鳥の生命が奪われることはなかった。その後、成長したティユーが村人に危害を加えることはなく、それどころか村の狩りの時は必ず付き添って役に立ったので、今ではすっかり人気者になっていた。

 なかなか姿を現さないティユーを待ちながら、セフィアーナはふと思った。今考えると、ティユーを必死でかばったのは、巣から落ちて小さく鳴いていたティユーが、孤児院に置き去りにされた自分と重なって見えたからではないだろうか。自分には暖かく包んでくれる腕があった。ならば、この雛にもそれがあっていいではないか、と――。

「む……?」

 不意にセフィアーナの横でカイルが声を漏らし、彼女が顔を上げた時、

「ピー、クルクルクル」

 聞き慣れた鳴き声が聞こえたかと思うと、北の空から黒い影が彼女に向かって急降下してきた。

「ティユー!!」

 少女は嬉々として明るい声を上げ、無事着陸した大鳥に駆け寄ると、その首筋に抱きついた。

「ありがとう、ティユー!」

 すると、ティユーは優しい目をして、つい先刻まで大熊を相手にしていた嘴を少女の背中に当てた。

「……まあ、今回はおまえの手柄としておくさ」

 その様子を見ながらカイルがひねくれたように言うと、「いつもだろう」とでも言いたげな顔をして、人狩鳥は少女に抱かれたまま彼を見上げた。

「でも、本当に助かったわ。聞いて、カイル。ティユーったら、あの熊の大きな頭を鷲掴みにして水面に引き倒しちゃうんだもの。びっくりしたわ」

 興奮して喋り立てる少女に、カイルはあっさりと言葉を返した。

「人狩鳥なんだから、そんなこと朝飯前だろ」

「そんな。人狩鳥といったって、あんなに大きな熊に自分から向かっていったのよ。とても勇気がいることだわ」

 力のこもった反論を受けて、青年は首を竦めた。彼自身が言ったとおり、少女を助けたのはティユーであって彼ではない。弁解したところで自分の分が悪くなるだけである。

「……ところでおまえ、何でひとりで沢になんか行ったんだ?」

 決して不利な話題から逃れようとしたわけではない。彼にとって一番大切なものが常にセフィアーナであるだけのことだった。

「え、あ、うん……」

 途端、決意とそれに伴う不安を思い出して、少女の表情が微かに翳った。しきりとティユーの背中を撫でる彼女が再び口を開くのを、カイルは静かに待った。まさか彼女が彼自身の幸福を打ち砕くようなことを口にしようとしているとは、露ほども思わずに。

「私ね……聖都に行くことにしたの」

 その唐突な内容に、カイルは軽く首を傾げた。しかし、すぐに閃いて頷く。

「ああ、《尊陽祭セレスタル》か。そういえば去年、《賢者の道》が開通した時、来年は絶対行くって言い張ってたな」

《賢者の道》とは、沢を少し下ったところから谷の入口まで延びている地下水道のことである。ちょうど昨年の今ごろ、沢のそばの崖で雪崩が発生した。それは小規模のものだったが、雪解け水で緩んだ地面はその震動に耐えられず、雪崩が激突した山の反対側で地崩れが起こった。すると、驚いたことに、そこから地下水の流れる広い洞窟が発見されたのである。村の男たちと様子見に出かけたカイルは、それが十分運河の役割を果たせることに気付き、村長に船着き場を作ることを提案した。そうして夏が終わる頃、村人たちは新たなる足を手に入れ、この小運河を、賢者ゴシアスが長く厳しい修業時代を「暗黒の洞窟」と例えたことに因んで、《賢者の道》と名付けたのだ。

 これが出来る以前は、谷から出るには徒歩しか方法がなく、雪深いシリアの最も奥にあるこの村の住人は、冬ともなれば一歩も外に出ることができなかった。信仰厚い少女は、暖炉の前で書物や口伝に聞く《尊陽祭》に強い憧れを抱いたが、巡礼に赴こうにも、氷の壁と針のような疾風によって行く手を閉ざされた。多少財のある者なら、雪の積もる前から聖都に滞在することもできようが、孤児院で生まれ育ち、周囲の善意に寄る処の多い生活の者が、そのような贅沢をできるはずもない。祭が春先でさえなければ六日で行ける距離なだけに残念がったが、まさかその雪が彼女に朗報を運んでこようとは思いも寄らなかった。

「だが、宿なんかは大丈夫なのか? この間、爺さんの使いで聖都に行った時、宿屋の親爺が祭の終わりの日まで埋まった宿帳を見て大喜びしてたぞ」

《尊陽祭》には大陸中から信徒が集まってくるので、カイルの心配も当然のことだった。

「すっかり忘れていた。宿を取ってきてやれば良かったな」

 少女がどれだけ祭に行きたがっているかを知っているので、彼は申し訳なさそうに言ったが、却って少女の方が困惑したように小さく首を振る。

「違うの。そうじゃなくて……」

 セフィアーナは小さく深呼吸すると、改めて青年を見上げた。

「院長先生がね、私を《太陽神の巫女》に推薦するって……。もし巫女に選ばれたら、《尊陽祭》が終わった後も聖都に残って神官の修行ができるんですって。私、それを受けようと思うの……」

 少女の言葉を、カイルはこれまで一度たりとも聞き逃したことがなかった。しかし今、彼女は何と言ったのだろう?

(なに……修行? 聖都って……)

 必死に考える間にも、自分でも驚くほどきつく顔が強張っていく。一方、セフィアーナは言い終えると同時に再びティユーの方へ向き直ったので、カイルのその表情には気付いていない。

「私、この村でたくさんのものをもらったわ。だから、少しでも恩返ししたい。そのためには、今のままじゃダメなの。孤児院でも修行はできるけど、きっと甘えてしまうわ。だから、一度外に出てみる」

 言う間に不安で苦しくなってきて、セフィアーナはそれを吹き飛ばすように明るい声を上げた。

「ねえカイル、私、《太陽神の巫女》になれるかしら?」

 ところが、振り返った彼女の瞳に映ったのは、氷の彫像のように立ち尽くした青年の姿だった。

「カイル……?」

 彼の尋常ならざる顔色を見て取って、セフィアーナは不安げに眉根を寄せた。その掌から不穏な気配を感じ取ったのか、ティユーが僅かに翼を震わせる。

「カイル、どうしたの? 大丈夫?」

 少女に衣服を軽く引っ張られ、ようやくカイルは我に返った。

「あ、いや……」

「やっぱり、私じゃ無理かしら……?」

 普段は恐ろしいほど冷静な青年が忘我するのを見て、彼女は自分がしようとしていることがいかに大それたことであるかを改めて思い、一層不安を募らせた。まさか少女を失う絶望感に彼が襲われていようなどとは思いも寄らない。意気消沈したところへ、濡れた衣服で冷えた身体が合図を送る。

「……そのままじゃ風邪を引くぞ。早く部屋に戻って着替えろ」

 立て続けにくしゃみをする少女に、青年はやっとの思いで声をかけると、足早に裏庭から姿を消した。独り広い裏庭に取り残され、今にも泣き出しそうな少女の横顔を、傍らの大鳥は首を傾げて見つめていた。

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