第2話 未練


 彼女と生活するようになって一週間が過ぎた。依然として状況は変わらず、彼女は俺の背後霊として生活していた。

 当たり前だが、彼女は食事も入浴もできない。そもそも必要が無い。俺以外の誰かと口を利くことも無く、ただふわふわとそこに存在するだけだ。

 日に日に俺たちは仲良くなっていき、彼女の表情も随分明るくなった。そして気づけば俺も、前よりよく笑うようになっていた。彼女の与える非日常は、受け入れてしまえば心地の良いものだった。

 「そう言えば、樹くんは彼女いるの?」

 「いないよ。この前別れたんだ」

 「えぇー!失恋真っ最中だったのか。なんかごめんよ」

 こんな会話を何気なくできるくらいには、俺たちは打ち解けた。基本的に彼女は明るく、穏やかな人だった。まあ、まだ一週間しか経っていないのに分かったふうに言うのも変だけれど。

 

 そんななか、考えていたのは彼女の今後についてだった。今は楽しくもあるけれど、このままではいけない。そんな気がしてならない。あるいはそれは、俺のもつ幽霊に対する偏見なのかもしれない。生きている人間に長生きして欲しいと思うのは理解できても、幽霊に長生きして欲しいと思うのは、いまいちしっくりこない。

 だって、幽霊には未練が付き物だから。それを叶えることで消えてしまうと考えると悲しいけれど、でも、死んでも死にきれないなにかを抱えているのなら、それはきっと解消されるべきだ。

 それを、彼女に訊いてみようと思いつつも結局言い出せなかった。仮にそんなものを抱えているのなら、それを訊きだすことは、彼女のデリケートな何かに触れてしまうリスクを孕んでいるからだ。彼女はイイ人だ。浅はかながらにそう思うからこそ、傷つけたくはなかった。

 けれど今日、勇気を振り絞って訊いてみることにした。大学からの帰り道、彼女に付き合ってもらって買い出しをした。その後部屋に戻り、買ったものをあれこれ片付けながら、できるだけさりげなく訊いてみた。それがきっと彼女のためだと信じて。ところが彼女の返答は意外にもシンプルなものだった。

 「え、未練?うーん、なんかあるかなぁ。言われてみるとなんにもないね」

 彼女は苦笑いを浮かべて答えた。本当に困ったふうだった。未練も無いならどうして彼女は幽霊になってしまったのか。謎は深まるばかりだが、考えるだけ無駄だと思う。彼女と共に過ごすと覚悟した時、もうとっくにそういう常識は放棄している。

 だが、これは困った。もしも消滅の条件が未練の解消であるとしたら、彼女は消えるに消えられなくなる。正直な話、俺はそれでも良かった。今までため息ばかりが聞こえていたこの部屋に、今は彼女の声がする。それは、確実に俺を救ってくれた。

 けれど、彼女の方はどうだろうか。

 彼女と始めて部屋で過ごした時、なぜか自分は彼女に同情していた。それは彼女が不意に見せる曖昧な表情のせいだと思う。けれど、頭のどこかで俺は分かっていたのだ。この、絵に描いたような幽霊の哀しさに。それをこの一週間ではっきりと認識できるようになった。

 何にも触れることはできない。俺を除いて、誰かに干渉することもできない。もう、この世界になんらの影響を及ぼす可能性も持っていない。ただ、そこに存在するだけ。自分とはもう無関係と言ってもいいような世界を俯瞰し続ける。それは、哀しいことではないだろうか。

 きっと彼女も、それを感じている。だからあの時、俺が食事しているのを見てあんなことを言ったのだ。

 俺は、彼女との会話を楽しみ、今を生きている。だが彼女は生きていない。何を語っても俺以外に知られることもなく、存在すら知られない。

 それを哀しいと思うのは、生者のエゴだろうか。それでも、このまま放っておくことは、どうしてもできなかった。

 「どうして急にそんなことを?」

 彼女の言葉にハッとする。一瞬誤魔化そうかとも思ったが、今更隠しようもない。それに、黙っていて解決することでもないだろう。素直に、自分の考えを伝えることにする。

 「俺は、美咲さんといられて楽しい。口説いてるみたいだけど、ほんとに。思ってもみない非日常と、二人だけの秘密にちょっと舞い上がってる。けど、美咲さんは幽霊だ。何にも触れないし、俺以外と話すこともできない。おまけに俺から離れられない。こんな状態じゃ、美咲さんはきっと辛いだろうと思って…」

 彼女は泣いているとも笑っているともつかない曖昧な表情を見せた。これはきっと、困った時の癖なんだろう。それから少し俯いて笑った。その笑みは自嘲にも見えた。それからこちらを向いた。窓を背中にした彼女は、いつも以上に透けて見えた。

 「それで、私を成仏させようと?」

 「うん」

 「いい子だねぇー!ほんとに、出会ってからずっと思ってたけど、やさしいね、君は」

 彼女は嬉しそうに笑っていた。彼女を思っての発言だと分かってくれたみたいでよかった。

 「なら、私も真剣に考えてみるね。…そうだなぁ」

 それから彼女は思いついたことを三つ挙げた。一つ目は、両親に別れを告げること。謝罪と感謝の気持ちを伝えたいそうだ。二つ目は、大学で仲良くしていた友人に別れを告げること。そして最後に、仲のいい幼なじみに想いを告げること。

 全て、他者に向けたものだった。これには少し困った。彼女は俺にしか見えない。ならば、彼女の意思をどう伝えればいいのか。まったくの他人である俺が直接話したところで、怪しまれるのがオチだ。それどころか、相手を怒らせてしまう可能性もある。彼女もそれは分かっていたのか、両親に対しては手紙を書いてくれたらいいと言った。

 「と言っても、どうやって美咲さんの存在を信じてもらうの?」

 「それは大丈夫。私と家族しか知らないことを書けばいい。偶然にも、前に家族と話したことがあってさ」

 彼女が言うには、以前、死後の世界について話したことがあるらしい。もしも自分が死んだら手紙を出す。その中に、ある言葉が書かれていたらそれは本物だから、自分のものだと信じて欲しい。そんなことを言ったらしい。出来すぎた話だが、事実なら利用しない手はない。彼女によると割と最近のことだから憶えている可能性は高い。何より今は、これに賭けるしかない。

 そんなわけで、便箋を用意することにした。ウチにそんな気の利いたものがあるわけもなく、近くの雑貨屋まで買いに行くことにした。彼女はいつもより少し楽しそうに自分の後ろについてきた。最近は歩くのが面倒になったのか、ふわふわ浮かんだままついてくる。いかにも幽霊という感じがして思わず苦笑する。

 やはり、彼女も内心ではこの状況をどうにかしたいと思っていたのだろう。それはそうだ。それに、いつ消えるか分からない以上、やりたいことはやっておきたいに決まっている。

 雑貨屋に着いて車を停め、駐車場を歩いていると店の入り口に見覚えのある姿があった。空良だった。なんとタイミングの悪いことだ。流石に鉢合わせになるのは気まずく、立ち止まった。突然立ち止まったことに後ろの彼女は驚き、俺にぶつかった。もっとも、ぶつかることはなく彼女の身体が俺をすり抜けただけなのだが。傍から見るととてもシュールな状態になっている。

 彼女はそのまま俺の前にすり抜けると、「どうしたの?」と首を傾げた。こちらの視線を追うように前を向いた彼女は、またも驚きの声をあげた。

 「空良だ!おーい!って聞こえないかぁ」

 少しガッカリしたように肩を落としてこちらを振り向く。

 「あれ?もしかして空良のこと知ってるの?」

 「あ、あぁ、うん。そんなとこ」

 できるだけなんでもないようなフリをして答えたが、表情を繕えている気がしない。まさか、こんなことがあるのか。彼女と空良が知り合いだなんて。そうでなければ適当に誤魔化して、車でやり過ごそうと思ったのに。

 彼女は訝しげに俺の顔を数秒見て、ニヤリと笑った。ああ、これは。

 「もしかして、別れたって言ってた彼女って」

 やっぱりバレた。女の勘というやつだろうか。それとも顔に相当なものが出てしまっていたのか。分からないが、こうなっては仕方が無い。とりあえず車に戻ると、彼女に説明した。彼女が高校三年の時に告白し、付き合うことになったこと。それから二年間は仲良くやっていたこと。自分の性格がイヤになった彼女にフラれたこと。隠さず話した。彼女は静かに聴いていたが、話し終わると大笑いした。

 「へぇー、君が空良の彼氏だったのか。あの子、彼氏が居るとしか言わなかったからさ。ほんと、すごい偶然だねぇ」

 ひとしきり笑った彼女は「とりあえず事情は分かった」と言って、空良が出てくるまで待ってくれた。空良が車を出したのを確認してから店に入った。彼女は上機嫌でついてきた。なんだかイヤな予感がしたが、気にしないことにした。

 目当ての便箋を手に入れて家へ戻る。当然、彼女が選んだ。部屋で座卓に向かう。彼女は俺の正面に座った。

 「さて、俺が代筆することになるけど、字は綺麗じゃないから先に謝っとくよ」

 「いいよ、そんなことは。私が言う通りに書いてくれたらいい」

 それから彼女は一文ずつ、よく考えながら俺に伝えた。俺はそれをできるだけ丁寧に文字に起こした。内容のほとんどは感謝の言葉や家族との思い出だった。最後に先立つ不孝を詫びると、最後の一文を読み上げた。

 「愛をこめて、美咲より」

 これを鉤括弧つきで添えた。彼女の両親が信じてくれるかどうかは分からないが、どうかこの思いだけは伝わって欲しいと思う。

 翌日、大学での予定を終えて彼女の家に向かった。立派な平屋で、表札のある門から玄関までのスペースがちょっとした庭になっている。夕日が差していた。秋の夕暮れ、庭の緑は美しく、やけに寂しい。そんな風景を眺めてから、隣の彼女に目配せをする。彼女が頷いたのを確認し、門の隣にあった郵便受けに手紙を入れた。

 自分は怪しまれないようにすぐ離れた。が、彼女はしばらくそのまま家を眺めていた。一分ほど経過した頃、ようやく自分のところにやって来た。その顔にはある種の諦めが浮かんでいたように思う。覚悟と言い換えてもいい。それに安心して、車に乗り込んだ。

 

 部屋に戻るまで彼女の様子は変わりなく、自分は油断しきっていた。そう、油断していた。彼女は宙に浮かんだままくるりとこちらを向くと、

 「ありがとう」

 と言った。その頬には涙が伝っていた。思わず絶句した自分を見て、彼女はようやく自分の涙に気づいたらしかった。

 「あ、あれ?ごめんね、もう大丈夫だと思ったのに。…すごいな、死んでも涙って出るんだ」

 平気なわけがなかった。彼女は今日、自分が死んだことを再認識した。もう戻れない日常を思い出し、それを受け入れようとした。

 彼女だって、そんなことは分かっているのだろう。けれど、分かっていても自分の痕跡を目の当たりにすれば、哀しくなってしまうのは当たり前だ。それを、誰が責められるだろう。もう彼女は何にも触れられない。存在さえ、認識されない。

 それを、目の当たりにするのだ。幽霊として。なんて残酷な存在なのだろう。結局のところ、未練自体が悲しいものでなくとも、幽霊という存在自体が哀しいのだ。死は、詰まるところ存在の終了なのだった。彼女のためとはいえ、罪悪感を感じてしまう。

 「ごめん、これじゃあ感じ悪いよね。君は悪くないから。私に、覚悟が足りなかっただけ」

 「当たり前のことだよ。こんなことになって哀しくないわけがないんだ」

 「うん。…ありがとう。もう大丈夫。目を逸らしてちゃだめだよね。ちゃんと受け入れなきゃ」

 彼女は目元を拭う。ポロポロと落ちる涙は、彼女の足下ですっかり透明になって消える。もう、彼女の涙でさえこの世界には届かない。

 こちらを見る彼女の目は少し赤い。それから微笑んだ。弱々しく、痛々しい彼女を、それでも今は信じるしかない。手を取ることだってできない。俺にできるのは彼女を信じて対話をすることだけだ。

 彼女用の布団を敷いてから風呂に入った。服を脱いでいると、彼女がすすり泣く声が聞こえた。俺の前で気丈に振舞っていただけなのだろう。落ち着くまで泣けばいい。好きなだけ。ここには俺しか居ないのだから。

 風呂を出ると、彼女は布団に横たわっていた。こちらを向いていて、目は閉じられている。病衣を着て眠る彼女は、まるで病人みたいだった。

 

 翌朝、彼女はやはり眠っていた。それにしてもよく眠る。昨日はかなり早くに寝たはずなのだが。幽霊と人間では体内時計が違うのかもしれない。

 呼びかけると彼女は目を覚まし、半身を起こした。眠そうに欠伸をする。まだぼんやりしているようだったので、その間に俺は身支度を済ませてしまう。全てが完了する頃には、彼女も目が覚めたようだった。

 「あ、昨日はごめんね。もう受け入れたから、大丈夫。それから、次は友達と話したいんだけど…」

 そう言いながら彼女はニヤニヤしている。昨日のイヤな予感が的中しそうだった。

 「…やっぱり、空良ですか」

 「あたり」

 困った。これは俺のせいだった。今更どんな顔をして会えばいいのかも分からなかった。空良は、悪い人ではない。フラれたのは、俺が変われなかったからだ。彼女を満足させてあげられなかった。

 しかし、どうしたものか。と言っても、見ず知らずの他人でないから、今回は手紙に頼らずともどうにかなるかもしれない。彼女の意思をダイレクトに伝えられれば、それが一番なのだから。

 けれど、空良は俺のことをよく思ってないだろう。そんな俺が突然現れて、友達が幽霊になったなんて言っても、毛の先ほども信じてもらえないだろう。新手の嫌がらせともとられかねない。むしろその可能性が高い。

 「やっぱり、手紙じゃダメ?」

 「うーん。どうしても君がイヤならそれでもいいよ。迷惑かけたくないしね。でも、できれば空良の顔が見たいなぁ」

 そう言われると断れない。連絡先はまだあることだし、彼女と会うこと自体は難しくないだろう。ここは、一つ覚悟を決めようか。新鮮な楽しさをくれた彼女への礼だと思えば、それほど嫌でもない。

 「分かったよ。けど、きっと信じてもらえないと思う。どうやって伝えればいいだろう?」

 「んー、まずはストレートに事情を話してみよ?それから私が説得してみるから、君は私の言葉を伝えて。それでもダメなら諦めるから」

 そんなわけで、空良と再会することを決めた。連絡をとってみると、幸い応答してくれた。どうしても伝えたいことがあるから、今週末に会えないかと言った。彼女は不承不承といった感じだったが了承してくれた。

 彼女はなぜか楽しそうだ。宙に浮いたままくるりと回ってみせた。スマートフォンをベッドに投げて彼女を軽く睨むと、先ほどと同じニヤニヤが返ってきた。他人事だと思って楽しみやがって。そう思ったが、不思議と悪い気はしなかった。

 

 そしてその週末が訪れた。空良とは喫茶店で落ち合うことになっている。約束の時刻より少し早めに着くように出発した。彼女はやっぱり後ろを浮かんだままついてくる。

 彼女のためとはいえ、やはり気が重い。果たして、空良は俺を信じてくれるだろうか。

 喫茶店に入ると窓際の席に座った。彼女は俺の隣に座った。幸い混雑はしておらず、客は少ない方だった。メニューを眺めていると空良がやってきた。片手を軽く上げるとこちらにやって来る。俺はコーヒーを、彼女はミルクティーを注文した。隣の彼女は、向かいに座った空良をまじまじと見てから、軽く俯いた。長い髪で隠れてしまって、表情はよく見えなかった。

 まもなく店員が注文の品を運んできた。店員が立ち去ると、空良は少し不機嫌そうに切り出した。

 「で、なに?話って」

 「あ、ああ。まず前置きしておきたいんだけど、話してもきっと信じられないと思う。だからバカにしてると思われても仕方ない。けど、そんなつもりはないから」

 軽く深呼吸をする。覚悟を決めて言う。

 「実は、今ここに空良の友達の美咲さんが居るんだ。彼女は幽霊になって今もここに居る。なぜか分からないけど、俺には彼女が見えて、しかも彼女は俺から離れられなくなってしまった。ここニ週間、一緒に過ごしてきて、未練を晴らそうという話になった。それで、彼女の未練の一つは君にお別れを言うことだった」

 そこまで話してコーヒーに口をつける。いつもより苦く感じられるのは、なにも入れていないせいなのか、それとも。

 空良は明らかに怪訝な顔をしてこちらを見ている。だが最初の前置きが効いたのか、反論してくる様子はない。明らかに信じていない顔だ。とりあえず空良を怒らせないために、彼女に目配せする。彼女が頷いたので、もう一度「しつこいようだけど、落ち着いて聴いて」と言っておく。隣の席を指差す。

 「今、ここに美咲さんが居る。彼女の言葉を伝えるから、せめてそれだけでも聴いて欲しい。お願いだ」

 空良は黙ったままこちらを睨んだが、やがて諦めたようにため息をつくと頷いた。

 「いいよ。樹はそんなわけのわからない嘘をつく人じゃない。とても信じられないけど、聴いてあげる」

 「ありがとう。じゃあ」

 隣の彼女が語り出す。

 「こんにちは、空良。元気?初めに言っておきたいんだけど、樹くんの言ってることは本当だよ。って彼に言わせても変な感じになるけど。あのね、私死んじゃったんだ。それは知ってるか。それでね、気がついたらこんなことになってて。幽霊ってさ、すごいよ。お腹も空かないし、壁とか色々すり抜けられるし。…でね、今日はお別れを言いに来ました。大学での三年だけだったけど、今までどうもありがとう。入学して独りだった私に優しくしてくれたの、憶えてる?私、すごく嬉しかったんだよ?今までそんな人、あんまり居なかったから。だから、どうしても空良にはお別れが言いたくて。何を言えば信じてもらえるかな?二人で遠出した時に食べたサンドウィッチの味?空良がその店に傘を忘れちゃったこと?私がテスト前に焦ってた時、一日かけて私に勉強教えてくれたこと?いくらでも言えるよ。だってほんとにここに居るから。私は、私は…ううん、なんでもない。さようなら、空良。私の分まで長生きしてね。ありがとう」

 彼女の言葉を一言一句落とさずそのまま伝えた。空良は最初こそ呆れた顔でこちらを見ていたが、彼女が思い出を語り始めた時から表情が変わった。多少は信じてもらえただろうか。なんにせよ、俺にできるのはここまでだ。

 空良はしばらく黙ったまま俯いていた。隣に目をやると、彼女も同じように俯いたまま、曖昧な表情を浮かべていた。涙はこぼれていないけれど、彼女は泣いているように見えた。しばらくして空良はこちらを向いた。

 「うん、分かった。私は信じるよ。とても信じられない話だけど、樹とあの子の性格を考えると、なんだか本当かもって気がしてきた。それにもし、もしも本当にそこに美咲が居るなら、疑うことで傷つけたくない。…けど、さすがに気持ちの整理がつかないな。もう帰るよ」

 「ありがとう」

 「じゃあ」

 そう言って空良は立ち上がったが、荷物を手に取ったまま固まった。目を見開き、いかにも信じられないという表情を浮かべている。まさかと思って視線を辿ってみると、それは彼女に向けられていた。

 彼女はまだ俯いたままだった。が、空良の視線に気づいたのか顔を上げる。そして唐突に目が合ったことに驚き、目を見開いた。

 「…美咲?」

 「空良、私が見えるの?」

 空良は彼女を確認するようにじっと見つめている。

 「ええ、見える。ほんとに美咲なの?」

 「うん、そうだよ」

 空良は彼女に触れようと手を伸ばした。彼女も同じように手を伸ばしたが、結果は見え透いていた。きっと彼女は自分が幽霊であることを示すためにわざと手を出したのだろう。空良はすり抜けた自分の手を不思議そうに眺めて、ようやく理解したと言ったふうに頷いた。それから静かに涙を流した。

 「どうして、死んじゃったのよ。まだまだ美咲と遊びたかったのに。まだ一緒に居たかったのに」

 彼女は立ち上がって空良に近づく。決して触れることはできない。けれどきっと、想いを伝えようとして至近距離から目を覗き込む。

 「泣かないで、空良。私だって、まだ生きていたかった…私も、私も、死にたくなんてなかった」

 そういった彼女の目からも涙がこぼれる。二人の女性が向かい合って涙を流している。もう、触れ合うこともできない。抱き合って再会を喜ぶことはできない。

 半透明な彼女と空良はしばらく泣き続けた。さすがに目立ってしまうからと空良を座らせたが、涙は止まらない。隣に座り直した彼女もまた、泣いていた。二人の涙は同じように服や床やテーブルに落ちたが、彼女の涙はシミを残すことなく消えていく。

 少しして落ち着いた空良に現状を詳しく伝えた。それから二人をそっとしておきたくて、俺はトイレに向かった。

 まさか、空良にも彼女が見えるようになるとは。これは想定外だった。けれど、好ましいことでもある。彼女だって、自分の口からちゃんと別れを告げたいだろうから。

 きっと、見えて会話ができるぶん、また彼女は哀しくなるだろう。生と死のコントラストがはっきりと浮かび上がってしまうから。けれど、あんなふうにきちんとお別れを言えるのが、きっと正しいことなのだと思う。

 

 そのまま十分ほど時間を潰し、席に戻った。二人はもう泣いておらず、楽しそうに話していた。どうやら、ひとまずは現実を受け入れられたようだ。その様子に安心し、自分も会話に加わった。二人の妨げにならないよう、控えめに。空良と美咲さんが俺をイジリつつ話して、話題が尽きることはなかった。数時間、そうして過ごした。

 喫茶店を出ると、もう夕方だった。俺たちは駐車場で別れることになった。夕陽が彼女を透過していた。空良はやさしく微笑む。

 「今日はありがとう。樹、美咲。最後にちゃんと美咲と話せてよかった。…また、会える?」

 彼女は曖昧な表情で俯いた。それから軽く首をふる。

 「分からない。私自身も、いつ消えてしまうのかよく分かってないの。でも、きっとまた会いに行くよ」

 空良は黙って頷き、「またね」と告げて踵を返した。空良が車に向かうのを、彼女はじっと見ていた。それからこちらを向いて笑った。

 「私たちも帰ろ?」

 「うん」

 車に乗り込んだ彼女は少し悲しげで、けれどどこかスッキリした表情をしていた。いよいよ、現実を受け入れる覚悟ができてきたのかもしれない。道中、ポツリと彼女がこぼした。

 「今日はありがとう。お陰でスッキリしたよ。…やっぱりちょっと悲しいけど、大丈夫。もう、覚悟を決めたから」

 そう言った彼女はやっぱり哀しそうだった。どう言えばいいのか分からなかった。追求はせず、ただ「よかった」と返した。

 部屋に戻って夕食を作る。俺が食事をしている間、彼女は窓際でふわふわ浮かんで外を見ていた。無表情で、感情は読み取れなかった。

 そのあと彼女と軽く雑談をしてから布団を敷き、風呂に向かった。が、服を脱いでいるとやっぱり彼女の泣き声が聞こえてくるのだった。それを聞かなかったことにして、シャワーを浴びる。

 人は、弱い。生きている俺もそう思う。だって俺なんて、つまらないからと言って自殺しようとしたのだ。現実を受け入れて進むことは、時として非常に残酷で難しいものだ。だから、彼女のように動揺して気持ちが揺らぐのは正常なことだと思う。

 風呂を出ると、彼女はまだ起きていた。「今日は夜更かしだね」なんてからかうと、いつも通りクスクスと笑ってくれた。そのあと彼女は不意に俯き、顔を上げたかと思うと

 「ねぇ、生きるってなんだろうね」

 なんて言った。彼女の目は真剣で、俺は反応に困ってしまう。そんな俺を見て、すぐに彼女は笑顔に戻って、

 「なんてね、冗談。でもね、死んでしまうことって、やっぱり結構哀しいことだね」

 と言った。そのまま布団に倒れて、おやすみなさいと言って目を閉じた。俺は彼女にバレないように後ろを向いて小さくため息をついた。灯りを消してベッドに倒れ込む。

 少し前までなら、それでも現実はつまらないし、虚しいものだとして突っぱねることができたのだろう。けれど、幽霊の哀しみを目の当たりにした今、俺の考えはずいぶん変化していた。

 死んでしまえば、どうにもならない。ただ、それで終わりだ。

 俺は、自ら命を絶とうとしていた。それを、美咲さんが、哀しい幽霊が止めてくれた。もう、死にたいだなんて口が裂けても言えない。

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