君につなぐ
不朽林檎
第1話 幽霊
ああ、つまらない。
空を見上げてぼやく。声には出さずに。
マンションの一室。窓を開けて見上げた空は高く、青い。もう随分冷たくなった空気を吸い込んで、秋山樹はため息をつく。その音は、無人の静かな部屋に消えていく。
窓の外は今日もいつも通りだった。薄い雲だけがゆったりと動いていて、人はやけに忙しく見える。三階の高さでは車のエンジン音ばかりが耳につき、それがまた気分を重くする。
なんとなくスマートフォンをいじってみる。誰からの連絡もなかった。ズラリと並んだメッセージアプリの「友だち」が、いつになく白々しいものに思える。トーク履歴の一番上に、見慣れた名前がある。
先日、二年以上交際した彼女と別れた。俺は変わらず彼女を愛していた。けれど彼女は、俺に嫌気がさしたという。理由は分からなかったが、冷たい目で彼女が語るには「冷めたところについていけなくなった」だそうだ。別れ話を切り出された時は少し戸惑ったが、どこかで冷静に受け止めている自分もいて、これではフラれても仕方が無いなどと思った。きっと彼女は、そういうところが些細な言動となって表れることに耐えられなくなったのだろう。
もともと趣味の少ない人間だった。それゆえ、彼女と出会ってからは休日のほとんどを彼女と過ごすようになった。彼女もそれを喜んでくれた。そしていま、彼女と別れた俺は見事に時間を持て余していた。
ぼうっと空を眺める。なんだか、もうダメだと思った。冷たい風が部屋に入り込んでくる。肌寒さを感じて窓を閉めた。
彼女の言う、「冷たいところ」というのには、思い当たることがある。というより、それは俺の人生でもっとも厄介な要素と言っても過言ではなかった。
いつからだったろう。いや、もしかして生まれつきなのだろうか。俺は物事を楽しめない。少なくとも高校時代の半ばくらいからは、何をやっても楽しいと思えなくなっていた。いつもどこか醒めた目で物事を捉えていて、人生は虚しいものだと考えていた。
それでも、楽しむ努力をした。友達を作り、恋人を作り、楽しいイベントにも積極的に参加した。人生は虚しいものだからこそ、自分が動かなければどうにもならないと知っていた。
だが結局、満たされることはなかった。何もかもが、どこか遠い。人のことは嫌いではなかったが、だからと言って一緒に居るだけで満たされるわけではなかった。
それでも、なんとか頑張って生きてきた。けれど、もとから壊れていたものが、そんなに長持ちするはずはない。俺はどんどん消極的になっていった。そしてなにもかもが面倒になってきた頃、彼女から別れを告げられた。それすらも遠く感じられる自分が嫌だった。
もう、生きていても仕方が無いだろう。そう思った。今日、自殺をしようと思う。この虚しさから解放されたかった。まるで生きた心地がしないのなら、死んだって大差あるまい。そんなふうに思えるくらいに、虚しさは自分を苛んだ。
そんなわけで、外出の準備をする。自殺の場所は決めていた。いつかに友達と肝試しに行った海岸。そこはいわゆる自殺の名所で、なるほど確かにうってつけの崖があった。楽に、とまでは望まないが、失敗するリスクの少ないそこを自分の最期の場所にすることにした。
マンションを出て、車を走らせること二十分。目的地に到着した。皮肉なことに、近くには病院がある。実際、自殺によってその病院に人が運び込まれることもあったらしい。まあ、もちろんほとんどは死体だったのだろうが。日曜日の午後三時、人気はなかった。ちょっとした藪を掻き分けて行くと、件の崖が現れる。
見下ろすと、深く青い海がこちらを覗き返していた。やはり、ここなら大丈夫そうだ。しばらくそうした後、気持ちの整理をつけるため、一度しゃがみ込んで深呼吸する。さて、いこうか。
そう思った瞬間、背後から叫び声が聞こえた。必死な女性の声だった。気にすることはなかったのだろうが、突然のことに思わず振り向いてしまった。そして、目を疑った。
そこには半透明の、同い歳くらいの女性が立っていた。
彼女は驚いたようにこちらを見ていた。驚いたのはこちらだ。誰もいないと思っていたが、どこかに隠れていたのだろうか?まあ、それほど慎重に確認したわけでもないから、どこかに居たのを見落としたのだろう。
しかし、それは重要でない。彼女の身体は半透明だった。背後の茂みが透けて見える。よく見ると微かに揺れているようだった。しかし脚はあった。
ありえないと思いつつも、本能が反射的に彼女は幽霊だと告げていた。半透明の体、薄い気配。まっ白な肌はもともとなのかもしれないが、それがさらに死人を想わせる。
「あなた、私が見えるの?」
「え、ええ…」
彼女は本当に驚いているようだった。この質問を受けて、もはや俺は疑わなくなっていた。やはりこの人は幽霊なのだ。今まで幽霊など見たこともなかったが、人並みにその存在を信じてもいた。
本当は逃げ出したい。幽霊がいいものであるなんて話はあまり聞いたことがない。なにより、突然起きた超常現象に怯えていた。しかし彼女の容姿はあまりに普通で、どうしても化け物には見えないのだった。結局、俺は動けずにいた。
「あ、あの、俺になにか?」
「え、あ、そうだ。あなた死のうとしてたでしょう!ダメだよ、早まらないで!」
どうやら意思の疎通は可能らしい。拍子抜けしてしまった。自殺を止めに来たのか。それにしても、彼女は一体誰なのだろう。
「えっと、あなたは一体?」
「私?私は、橘美咲。この近くの病院に居るの」
「えっと、いや、それは分かりましたけど…」
今一度彼女を眺めてみる。やはり、何度見ても身体は半透明だった。俺の視線に気づいたのか、彼女は自分の身体を見下ろし、こちらを見て笑った。
「あ、ごめん。驚かせちゃったよね。どうも私、幽霊になっちゃったみたいで。自分でもよく分からないんだけどね」
「はぁ…」
予想はしていたものの、こんなにあっさりと幽霊だと言われると、到底バカげているような気がしてくる。まったくもって一般的なイメージと違っているせいなのだろうが。彼女と生きている人間の違いは、身体が透けているという点だけだ。立ち振る舞いもごく普通。服が血だらけだとかいうこともない。強いて言えば、病衣を着ていることだけは、なんとなく幽霊を連想させる。
「えっと、でも病院に居るってどういうことですか?」
「それがね」
彼女はここに至るまでの経緯を語った。彼女は俺とは違う大学に通っていたらしく、歳は一つ上だった。偶然にも空良と同じ大学だ。至って普通に大学生をやっていたらしいが、先日、家の近くで交通事故に遭った。そのまま病院に運ばれたが、帰らぬ人となってしまった「らしい」。
ここが妙なところで、気がつくと彼女は病室の隅に居たらしい。ベッドには誰かが横たわっていて、顔には白い布が掛かっている。ベッドの周りには三人の姿があり、一人は白衣から察するに医者、残りの二人は紛うことなき彼女の両親だった。
両親は泣いていて、医者は二、三言呟いて軽く頭を下げていた。すぐに医者は出ていき、彼女はベッドに近寄った。すでに予感は確信に変わっていたが、やはり眠っているのは彼女自身だった。というのも、目の前の母親が彼女の名を呼びながら泣き崩れたのだ。顔は見えないけれど、そこに眠るのは自分だと知った。
彼女は当然困惑した。とは言え、事故に遭った記憶は残っていたので、なんとなく納得もできた。悲しいやら驚いたやら、いまいち気持ちの整理がつかないまま俯いた。そこで、自分の身体が透けていることに気づいた。それを見てやっと受け入れた。どうやら自分が幽霊であるらしいことを。
それから彼女は病院内を徘徊し、気になることを試してみた。分かったのは、生者からは彼女が見えないこと、任意の物をすり抜けられること。宙に浮かべること、なぜか彼女自身は何にも触れられないこと。床や地面は自然に歩けるのに、何かを持ち上げたり、動かしたりすることはできない。そんな、いかにも幽霊らしい性質が備わっていることが分かった。
両親と話をしたかったがそれも叶わないと知り、行く宛もないまま病院を出た。そしてフラフラとさまよっているうちに、俺を見つけた。
「すごく思い詰めた顔で崖に立ってたから、なんかマズイと思って。反射的に叫んだら振り返ったから驚いたよ」
なるほど、彼女が一体何者であるのかはよく分かった。もっとも最大の謎は、なぜ俺には彼女が見えるのかということだが、当たり前のように幽霊と会話をしている時点で、そんなことを考えても仕方が無い気がした。
なんと応えていいか分からず、空を見上げた。相変わらず高く青い。千切れた雲が風に流されている。彼女の目を見て言う。
「分かりました。とても信じられない話ですが、実際に目の前で起きているのだから疑いようがありませんね。なんだか拍子抜けしたので、今日のところは大人しく帰ります。どうも、ご親切にありがとうございました」
やや皮肉っぽいことを言ってみた。初対面の幽霊に自殺を止められるなんて御笑い種だ。それに対する苛立ちが少しあった。しかし彼女はそんなことは気にも留めていない様子だ。満足げに頷く。
「うんうん。よかった。止めてくれなきゃお説教するところだったよ」
「じゃあ、これで。失礼します」
そのまま立ち去ろうとした。が、十メートルほど進んだところで後ろから悲鳴が聞こえた。振り返ると、彼女が自分の方に向かって倒れていた。どうやらとっさに例の空中浮遊を使ったらしく、地面から数十センチ浮かんでいる。さすがに無視するわけにもいかず、彼女に歩み寄る。
「どうしたんです?大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。変なんだよ、あなたが遠くなるとそっちに引き寄せられるんだ。それがどんどん強くなって、バランス崩しちゃった」
とりあえず彼女を立ち上がらせようと手を伸ばす。彼女も素直にその手を取ろうと手を出した。が、互いの手は空を切る。知っていたはずなのに、まだ彼女が幽霊だという事実に慣れていない。それは彼女も同じらしい。彼女は俺の顔を見て困ったように笑うと、
「ごめんね、まだ慣れなくて」
と言った。こちらも一言謝り、彼女が立ち上がる。宙に浮いたまま。話には聞いていたが、目の当たりにするとなかなか衝撃的だった。が、そんなことはいい。問題は、
「えっと、それはつまり、俺から離れられないってことですか?」
「…そういうことになるね」
やはりそういうことだ。もう、それ自体を不思議だとは思わない。思っても意味がない。けれど、これは大問題だ。
「困りましたね。これではお互いに不便です」
「そだねぇ。とりあえず色々試してみようか」
それから、俺たちはいくつかの離れ方を試してみた。背中合わせで離れる、目を合わせたまま離れる。彼女が空高く浮かんでみる、走って離れてみる、などなど。思いついたことを片っ端から試してみたが、どれ一つとして効果はなかった。ただ分かったのは、彼女と離れていられる距離は最大でも十メートルほど。それでも彼女はかなり踏ん張らなければいけないらしく、せいぜい数秒しかもたない。無理なく離れていられるのは六、七メートルといったところだった。
向かい合って座り込む。俺たちは互いの顔を見て、笑った。もう笑うしかなかった。解決のしようがない。糸口さえ見つからない。こんなもの、どうしろと言うのだ。
「ええっと、どうやら」
「うん、ダメみたいだね」
数秒間の沈黙が流れた。これはもう、解決策が見つかるまで一緒に居るしかない。互いにそんなことは分かっていた。だからこの沈黙は、覚悟を決めるためのものだった。
やがて俺の方が先に立ち上がり、切り出した。
「仕方が無いですね。解決策が見つかるまでの辛抱です。とりあえずうちに来ませんか?」
「そうだね。そうさせてもらうよ」
こうして俺たちは車に向かった。道中は言葉もなく、彼女は黙って俺の後ろについてきた。車中でもその沈黙が破られることはなかった。きっと、嫌な予感が頭を離れなかったからだ。このままずっと離れられないのではないかという不安が。
部屋に帰ると、彼女と向かい合って座った。確認しなければならないことがいくつかある。
「俺はここで一人暮らしをしてます。なので、人に気を遣う必要はないんですが、こうなった以上、あなたには俺の生活に付き合ってもらう必要があります。まあ、早いうちに離れられれば、そんな必要はないのですが」
「うん、分かってる。基本的には迷惑を掛けないようにする。ああ、でも部屋には置いて欲しいかな」
彼女は思った以上に良識がある人のようだった。こうなってしまった原因など分かりはしないのだが、どうやら自身に非があるように思っているらしい。先ほどから表情は暗く、俯き加減に話している。
だが、そんな状態を見ている方が辛い。ここはなんとか元気になってもらわなきゃいけない。
「まさか、部屋から追い出したりはしませんよ。必要なものがあるならできるだけ用意します。いまや俺たちは一心同体なんですから、仲良くやりましょうよ」
そう言って軽く笑ってみせる。冗談めかせて言った言葉は、我ながらどこかよそよそしかった。それでもその真意は伝わったらしく、彼女はこちらを見て優しく笑う。その表情に安心する。
「ありがとう。よかった、親切な人で」
「これでも紳士なんですよ」
彼女をもっと笑わせたくなって、つい調子に乗ってしまう。これは、いままでに培ってきた処世術がさせることなのか、彼女が不憫に思えたからなのか。自分でもよく分からない。きっと両方だ。
狙い通り、彼女は軽く笑ってくれた。表情に緊張は見られず、ようやく砕けた雰囲気を作ることに成功したと知った。さて、本題に戻る。
「えっと、俺はこの近くの大学に通ってるんです。なので、明日からは一緒についてきてもらうことになります。大丈夫ですか?」
「あぁ、うん。分かった」
「それから、一応男女なので、もし気になるなら部屋をなんとか用意しますが、それは?」
「私は気にしないよ。あなたが気になるなら部屋を分けてくれたらいい。どうせ触ることもできないしね」
彼女は曖昧な表情で俯いた。その声はなんとなく悲しく響いた。少しのあいだ沈黙する。が、彼女は思い出したように顔を上げて切り出した。
「そうだ、もう気づいてるかもしれないけど、私はなにも要らないからね。触れないから、食事もお風呂も必要ない。ただ、眠ることはできるみたいだから、それができるスペースをくれたらそれでいい」
「なるほど、分かりました」
それから彼女は少し笑って付け加えた。
「あと、敬語も要らない。もともと歳の差とかあんまり気にしないから。もう死んじゃったし」
「え、でも歳上ですし」
「いいから。よそよそしいとやりにくいでしょう?」
驚いた。話していて堅苦しい感じはしなかったが、気さくな人だ。少なくとも、こちらの気遣いを無下にするような人ではない。先ほどまでの不安が、少し和らぐのを感じた。
「分かった。じゃあやめるよ。あっ、そうだ。まだ名前言ってなかったね。俺は秋山樹。これからよろしく」
「樹くんね。こちらこそ」
「あ、俺はなんて呼べばいい?」
「好きなように呼んでいいよ。あ、でもそうだなぁ」
そこで彼女は言葉を切り、明後日の方向を見て何かを考え始めた。そのまま十秒ほど悩み、ようやく口を開いた。
「お姉ちゃんで」
「却下」
「えぇー!なんで?」
それはこちらのセリフだ。ほぼ初対面の女性をそんなふうに呼べるわけがない。なにより気恥し過ぎるだろう。
「それはこっちのセリフだよ。なんでお姉ちゃんなの?」
「だって一つ下だし、そう呼ばれるの憧れてて…ごめんごめん、もうからかわないからそんなに睨まないで。やっぱり好きなように呼んでいいから」
「…じゃあ、美咲さんで」
「えぇ、普通すぎて面白くないなぁ」
彼女は少し不服そうだったが、その後やさしく笑った。つられてこちらも笑顔になる。二人してクスクス笑いあい、自己紹介は終わった。
イイ人なんだと思う。この状況を理解していて、お互いを思って砕けた雰囲気を作ってくれたのだろう。日頃はそこまで素直でないが、彼女の笑顔はその善性を信じさせるに充分なものだった。
「あ、もうこんな時間か。ちょっと夕飯作るからゆっくりしてて」
「あ、うん。てか料理できるんだ」
「まあ、一人暮らし始めてからはそれなりに。簡単なものしかできないけどね」
そう残してキッチンに立つ。簡単な夕食を作って戻る。彼女は床に座り込んだまま窓の外を眺めていた。部屋にある座卓に夕飯を並べて食べる。彼女をおいて一人で食事をするのは少し気が引けたが、先ほど彼女が「何も要らない」と言ったのは、そういったことは気にするなという意味だろうと受け取った。だからもう気にしない。
彼女はまじまじと自分の食事風景を眺めていた。そんなふうに見られると気になって仕方が無い。耐えられなくなって訊ねる。
「お腹、減らないの?」
「うん。全然減らないんだ。けど、もう食べることは無いんだなって思うと不思議で。あ、深い意味は無いよ?うん」
彼女は笑っていたが、その表情が一瞬複雑な色を見せたような気がした。それはそうだろう。俺だって急に幽霊になって、何にも触れられないなんてことになったら戸惑うはずだ。そしてきっと、少し哀しいはずだ。
結局彼女は俺の食事が終わるまでじっとしたまま、窓の外に目をやっていた。なんと声をかければいいか分からず、俺は時折他愛のない話題を振りながら食事を続けた。彼女はその都度愛想よく応えてくれた。
食事を終えて食器を片付け、彼女に断って風呂に入った。部屋に戻ると、また彼女は物思いにふけっているようだった。その様子がなんだか深刻で寂しげに見えたので、少し気まずさを感じた。そんな雰囲気を壊してやろうと思い、こちらに気づいてないらしい彼女を後ろから驚かせてみる。
「わっ!」
「うわっ!ちょっと、やめてよー!」
彼女は本気で驚いたらしかったが、ちゃんと笑ってくれた。それで俺も安心する。かなり彼女に同情してしまっている。なぜかは自分でもよく分からない。
しばらく雑談して過ごした。徐々に彼女のことも分かってきた。好きな音楽、食べ物。友達はそこそこ居たが、とりわけ付き合いの長い幼なじみが居ること。俺たちは少しずつお互いのことを話していった。やはり彼女は明るく、ひとが良さそうだった。
「じゃあ、そろそろ寝ようか」
押し入れから来客用の布団を取り出す。去年、頻繁に泊まりに来るようになった空良のために買ったものだ。いまや無用の長物と化している。自分用のベッドの横に、できるだけ離して布団を敷く。
「あ、掛け布団は要らないよ。自分じゃ動かせないからね」
ここが不思議なところだ。地面を歩いたり座ったり、そこに敷いた布団で寝ることはできるのだ。しかしなぜか、それ以外のものには触れられない。掛け布団だって、もしかするとすり抜けてしまうかもしれない。
彼女の言う通り、掛け布団は押し入れに戻した。彼女が布団に横たわるのを見届けて電気を消す。それから自分も横になった。誰かの気配が部屋にあるというのも久しぶりで、なかなか寝付けなかった。
翌朝。
上半身を起こすと彼女が見えた。まだ眠っているのか、横になっている。窓の外は快晴。陽の光が眩しい。
ベッドから降りると彼女が起き上がった。どうやら眠っていたらしく、いかにも眠そうに目を擦っている。
「おはよ。準備したら大学行くからね」
彼女はこくりと頷き、立ち上がって伸びをした。こうして見ると生者となんら変わらない。この不思議はいつまで続くのか、なぜ、彼女だったのか。考えても仕方ないけれど、ふとした瞬間に考えてしまう。
軽い朝食を摂って身支度を済ませる。今日は四時頃まで授業が入っているので、彼女を退屈させてしまうかもしれない。まあ、どうしようもないけれど。
彼女は窓際に立っていた。明るい場所では、半透明の身体が余計に際立つ。
「じゃあ、行こうか。終わるまで退屈させちゃうと思うけど、ごめんね」
「あ、うん。大丈夫」
部屋を出た。肌寒い風が頬を撫でる。この感覚は嫌いじゃない。大学までは車で十五分ほどだ。
何事もなく大学に到着する。道中、彼女といくらか会話をしたが、車を降りてからは何も話さなかった。いや、正確には話せなかった。
教室などでいくらかの友人と会い、話をした。どうやら本当に彼女のことは見えないらしい。彼女は俺の後ろに立ってじっとしていた。これが背後霊か、なんて呑気なことを思いながらも、友人たちには不自然に思われないよう注意した。
授業中も彼女は静かだった。さりげなく隣の席を空けると、「ありがとう」と言って座ってきた。よく見ると少し浮いていて、空気椅子のようになっていた。椅子はすり抜けてしまうのかもしれない。生前まじめだったのか、授業に集中しているようにさえ思えた。飽きてくるとちょっとした質問を投げかけてきて、俺はそれに筆談で応えた。見えない彼女と行動を共にするのは奇妙だが新鮮で、知らず知らず楽しんでいる自分がいた。
授業を終えて帰路につく。彼女は朝よりもよく喋った。朝は弱いのかもしれない。あまり話ができなかったことを気にしていたが、彼女もそこは理解してくれているようで安心した。
俺だってまだこの状況に慣れていないが、それは彼女とて同じことなのだ。しかも主導権は俺にある。これではやりにくさを感じて当然だ。だから、そこはお互いにフォローし合っていかなければならないと思っていた。彼女が協力的でよかった。
部屋に戻った俺たちは、テレビを眺めながらくつろいでいた。彼女も少しは現実を受け入れられたのか、昨日のような表情を見せることはなかった。
「ねえ、樹くん」
「なに?」
「ありがとね。色々と」
彼女はこちらを向いて微笑む。そのやさしい眼差しが少し眩しく、俺は少し目を逸らした。
「いや、お互いさまだよ。それに、こうなったのは美咲さんのせいじゃないから」
「でも、私があなたと会わなければ」
「ストップ。後ろ向きなことは言わない。俺もかなり困惑したけど、それは美咲さんだって同じでしょ?それくらい分かるから」
彼女は一瞬驚いた顔をして、それからとても嬉しそうに笑った。少しふざけた様子でぺこりと頭を下げる。
「それでも、ありがとう。樹くんはやさしいね。やっぱり、死んじゃいけない」
「そんなこと」
と言いつつも、どこかで気づいていた。ここまで彼女と過ごしてみて、いつもの退屈を感じなくなっている自分に。彼女という存在は、つまらない日常を忘れさせてくれた。それに、彼女はとても好ましい人だった。自分は彼女と居ることに、新鮮な楽しさを感じている。
「俺にとっては、命の恩人だしね」
「邪魔者じゃなくて?」
「あぁ、茶化さないでよ、もう」
彼女はクスクスと笑う。ひどく歪で、非現実的だけど。こんな日常もアリかなんて思えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます