第二話 眼鏡先輩と呼ばれるの事。

「待ってくださいよ、真駒美冬さん!」

「着いてこないでください」

 午後5時。初夏の夕暮れは遅く、校庭の大きなケヤキは明るく照らされながら立っている。

「そんなこと言わないで! 運命のライバル同士、もっとお話ししましょう!」

「漫画を読むのは好きですが、現実と混同する人とはお付き合いできません」

「そんな冷たいこと言わないでください。あっ、呼び方が悪かったですか? 真駒美冬センパイ!」

「そういう問題じゃないけど、いちいちフルネームで呼ぶな!」

 私は立ち止まると、綾乃にビシリと指を突き付けた。

「ああもう、うっとおしい!  貴女、何が目的なのよ?」

「それは、由香里お姉さまに真駒先輩よりも大事にされたいからです」

「ゆかりお姉さまぁ?」

 そんな名前、聞いたこともない。そう言ってやろうとして、私の脳裏をある人物の顔がよぎった。

「お姉さまって、もしかして井沢部長のこと?」

 説明しよう。井沢由香里とは、我が高校の三年生にして、現役最強の女。平たく言えば美術部の部長である。

 その才能は安く見積もっても十年に一度の逸材で、すでに美大への入学が内定しているほどなのだ。

「やっぱりお姉さまのこと知ってるんですね!」

 私が部長の名前を口にした途端、綾乃は目をキラッキラさせて話に乗ってきた。

「どうですか、お姉さまってどんな人ですか? やっぱり食べてるモノから特別だったりしますか?」

「えっ、ああ、うん……サンドイッチとか食べてるかなあ」

「サンドイッチ……きゃー!」

 あっ。こいつサンドイッチと聞いて、バスケットに入った手作りのを芝生の上で食べてると思ったな。

 実際の部長はコンビニで買ったチキンサンドとポテトサンドを、美術準備室で早弁しているのだが、言わないでおくことにした。

 ああもう、じれったい。

 綾乃とは関わりたくないが、自分が標的にされた理由が分からないのは、もっと気持ち悪い。私は自分から話を振ることにした。

「それで? 井沢部長と貴女はどんな関係なの?」

「私、お姉さまの絵のモデルになったんです」

 モデル? 自分が絵描きなんじゃなくて? ますます私に絡んでくる理由が分からない。

「ゴールデンウイークの初日に駅前で『キレイな目をしているね』と声をかけられて。お姉さまと毎日会って、描きあがるまでの時間を二人で過ごしました」

 はあ。そりゃお熱いことで。

「私、お姉さまが絵を描いている間、ずっと見ていたんです。お姉さまの真剣な顔、楽しそうな顔、ちょっとイタズラを考えているような顔。それで私も絵を描いてみたいって思ったんです」

「まさか」

 嫌な予感がして、私は綾乃の言葉をさえぎった。

「貴女、部長に『弟子になりたい』って言ったんじゃないでしょうね?」

「ええ。でも断られてしまって……」

「だろうと思ったよ」

 ついに考えていることが口に出てしまったが、気にしないことにする。

 綾乃は、飼い主に構ってもらえなかった犬のような顔でうつむいた。

「お姉さまったら謙遜なさって『自分より見所のある絵描きはたくさんいる。年下で一番、才能があると思うのは真駒美冬だ』って」

「それで私のところへ押しかけてきたのか! この中二病め!」

 部長め、面倒くさいから私の名前でごまかしたな! テスト期間が終わったら文句言ってやる!

「それで、話は変わるんですけど」

「今度は何!」

「センパイのことは、何とお呼びすればいいでしょう……?」

 その瞬間、私は身動きが取れなくなった。綾乃の目がキレイだったせいだ。

 裏表のない目。ガラス玉で出来ているのかと思うような、色彩の薄い瞳。それを縁取るように長いまつ毛が伸び、病的に白い肌へ影を落としている。

 まるで純粋そのものといった問いかけの姿勢に、私は言葉を失ったのだ。

「あの、センパイ?」

「あ、え、うん。好きなように呼べばいいんじゃないかな」

「分かりました。じゃあセンパイの特徴でお呼びします」

 そして彼女は息を吸うと、

「眼鏡先輩」

と純粋そのものの顔で言い放ったのだった。

 私の顔の良い部分や身体的特徴が、視力矯正装置に敗北した瞬間であった。

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