初めてのお外
独特の臭いがするトンネルは結構長い。
こんな所を歩いてお兄ちゃんは怖くないのかな。そわそわしながら歩く。
「お兄ちゃぁん」
おにいちゃぁん……。
――!!
重なるようにして返ってきた反響にびっくりして思わず物の影に隠れた。
影から頭だけ出してもう一度叫んでみる。
「わ」
わ。わ。わ……。
「わ!!」
わ!! わ! わ……。
「わー!!」
わー、わー、わー……。
……。
……、……。
「面白い!!」
おもしろい、おもしろい、おもしろい……。
「きゃー! あはは!!」
はしゃぐ少女の足音がカンカン響く。
そうして暫く行った先、見えてきたのは光さす向こう。トンネルの出口。
「わー……!」
思わず飛び込むとそこに広がっていたのは見たことのない世界だった。
ビルが高く高く建ち並び、青空があんなに小さい。自分より背の高い人に低い人、男も女も子どもも大人もご老体も沢山。何よりそこかしこから甘い香りやら良い匂いやら辛い匂いやら大人な匂いやらが立ち込めてきたのに興奮した。
「わー!!」
目をきらきら輝かせ、人目など気にせず駆け出す。
「おいしそー!」
「楽しそー!」
「素敵ー!」
「うささんだー!!」
「きゃははー!!」
「これくだしゃーい」
「かわいー!!」
「欲しいー! 欲しいー!!」
はしゃぎ倒す彼女にある者は飴玉を渡したり、頭を撫でてみたり、挨拶をしてみたり、またある者は警察に連絡すべきか迷ったりしていた。しかしそれ以上のことはできない。見えない“恐れ”によるものだ。現地の人工知能の監視は時に理不尽なまでに“完璧”である。おかげで犯罪発生率はこの国トップの低さを誇ってはいたが、偉く自立心やら向上心のない街にもなってしまった。それが真逆自分達の大事にしている子を危機に陥れようとは。その時点ではすぐ傍にいる人間でさえ気づかなかったのである。
* * *
「るんるん! るんるん!」
貰った飴玉を頬張りながら道をどんどん行くHONER。勿論お兄ちゃんのことは既に頭から抜け落ちている。
「あれ?」
気付くと辺りは薄暗い路地裏である。一時期は嘘を喰う化け物こと、LIARの噂が絶えない場所だったが、今はそれ以外も沢山いるらしい。
取り敢えず一般の人は滅多に近づかない場所だった。しかし外を全く知らない彼女にそんな事情など分からない。ずんずん進む。
上を見ながら歩けば四角い青空が楽しいし、鳥を追いかければ飛んでいくさまが面白いし、ネズミも可愛いし、変な臭いがするのも今は楽しくて堪らなかった。
そうしてよそ見をしながら歩いていると誰かにぶつかった。
「あ! ごめんな、さ――」
慌てて謝ろうとした時、目に飛び込んできたのは顔にグロテスクな傷を付けた大男。今まで見た誰よりも怖い顔をしていて、足がすくんだ。
「あん?」
声もガラガラで、大きくて、低くて怖い。
「ガキが何してんだよ」
「エヘヘ、チビだチビ」
しかも後二人怖そうな男の人がいる!
どうしてかは分からない。どうしてかは分からないけど、この人は凄い怖いと思った。声も出ないし、こういう時どうすれば良いとかも教わってないし。いつもはれいれいが一緒にいてくれるし、最近は、最近は……あ! お兄ちゃんを探しに来たんだった!
途端に不安が胸を渦巻く。
「こんな所で女の子が一人って……何しに来たのかな? ん?」
「お、お兄ちゃん、探しに」
「お兄ちゃん? ああ、このオッサンのこと?」
「ちがう! お兄ちゃんもっと小っちゃいもん!! 怖くないもん!!」
必死に言ったが全てゲラゲラ笑い飛ばされてしまう。
その内、後ろのひょろ長いニキビ顔がHONERの左肩に刻印されている「Dr.Schelling Product」を目ざとく見つけた。ついでに彼女がHONERであるという証拠の「H」の刻印も。
こっそり他の二人に耳打ちすると、全員で顔を見合わせニヤリと笑った。
「何? 何話してるの? おーちゃんにも教えて!」
「へえ、お嬢ちゃん。おーちゃんって言うのかい?」
「おーちゃんだよ」
「ふーん。ねえ、Dr.Schellingって知ってるかい」
「ぱ、ぱぱだよ」
「ぱぱなの」
「ぱぱ……だよ……」
気付いた時にはもう三人に囲まれている。
全てが初めてだらけのHONERの小さな頭はもうパンク寸前だった。目が回りそう。さっきまであんなに楽しかったのに、何で?
抑えても体が震えた。
「ねえ、おーちゃん。おじさん達と来ないかい」
「え」
「お兄ちゃんの所へ連れてってあげようね」
「お兄ちゃんの所知ってるの?」
「ああ! 物凄く大変なのさ!」
歯が一番黄ばんでいるずんぐり男が大げさに言う。
「お兄ちゃん、あっちで交通事故に遭っちゃったんだよ」
「こー……? 何?」
「死にそうなんだ!」
「死んじゃうの!?」
「そう。だからお兄さん達と一緒に病院まで行こう!! 早くしなくちゃ!」
「後でお菓子も買ってあげるからね、心配しなくていいからね」
遂に手が取られた。
しかし不安だらけで考える余裕も対策も何もないこの子に逆らうという選択肢はない。誘拐するにはちょろ過ぎる相手だった。
「さ、行こう。おーちゃん」
「え、あ」
「ホラ」
「待って」
四人連れたって歩き出そうとした丁度その時。
背後から声がかけられた。
茶髪に糸目の青年。普段使いのラフな襟付きシャツに、折り目が付いたベージュのパンツ。少なくともHONERは見覚えがなかった。
「……何だよ。天下のレジスタンス様が何か御用か?」
「その子、身内か何か?」
「……、……決まってんだろ」
「本当に?」
見開いた焦げ茶の瞳が男達を真っ直ぐ射貫く。糸目の男が目を開くだけでこんなに迫力のあるものなのか。思わずひょろ長いのが肩を震わせた。
「僕には人攫いの常套手段にしか見えないんだけど」
「……ッ!」
「全部見てたけど、今時ベタ過ぎて逆に胡散臭いよ?」
「は、ハァ!? 何を偉そうに! 人を疑うのも大概にしろ! うぜぇんだよ!! 英雄気取りが!」
信じる気ゼロのストレートな物言いに、黄ばんだ歯が唾を飛ばした。しかし相手は一切動じない。ウエストポーチからマガジンを取り出して、オートマチックピストルを構えた。
「ほら、放し給え。さもなくば撃つ」
「……うう、撃てるのか? 子どもの目の前で!」
「簡単だ。殺すだけだから」
「んなっ!」
「――イ、良い度胸だ! やってみや」
ドン!!
「キャアアアアア!!」
突然の銃声と鉄臭い脳の弾ける臭い、焦げ臭い硝煙にHONERの限界が来た。泣きじゃくり、がたがた震えて死体と化した大男から逃げようと必死だ。
そんな彼女をよそに渋沢は奴に向かってオーバーキルを繰り返す。マガジン一つをそいつだけで消費して、後は逃げようとしているもう二人の頭蓋も撃ち砕いた。脳髄が飛び散り、血糊がそこら中を汚く染め上げる。
そうしてその場はようやく静かになった。――離れた場所で顔を覆い、泣きわめく少女を除き。
「ほら殺した」
返り血を浴び薄く広がる口元の笑みが場にそぐわず、やけに不気味。そんな彼はホルスターに自身の愛器「ベレッタ・モデル92」を突っ込み、先程とは全く別の笑顔で少女の元に駆け寄った。
「あはは、大丈夫かい? けがはなかった?」
「イヤアアアア!!」
物凄い勢いで離れる。そりゃそうだ、あんな光景を目の前で見せられておきながら懐く方がどうかしている。
「ぴー! ぴー!!」
「ああ、ごめん。本当にごめんよ。――君を保護しに来たんだ。もう怖がらなくて良いから」
「ヤダヤダ!!」
「あ、え、えっとね。これには深い深い事情があって――じゃなくて、訳があって」
「来ないで!!」
ようやくそのことを悟った彼の弁解タイム。血を拭き拭き、必死に話すが全く聞き入れてもらえない。近づかせてすらくれない。
――HONERにとって今ここに信用できる大人は誰一人としていなかった。
泣きじゃくるしかできないその子は本当に無力だ。
ぱぱに、れいれいに。何より行方をくらましてしまったお兄ちゃんに会いたい。
今傍にいない彼らを想っては益々恐怖と混乱と悲しみとが募った。
「ぴー! ぴー!! お兄ちゃーん! お兄ちゃーん!!」
「ご、ごめんよ! あのまま放っておけば確実に傷つけられていたし、人質に取られていたかもしれなかったし、っていうかもうこんな事、日常茶飯事っていうか、いや、そういう社会もおかしいんだけども……いやそのつまり、君を殺そうとは考えていないというか、その、えっと……お菓子食べる?」
「わーん!! お兄ちゃああん!!」
嗚呼、沙恵を連れてくれば良かった。先に立たない後悔を思っては自分の馬鹿さ加減を嘆く渋沢。
その目がふと、彼女の左肩を捉えた。
「希望の花……?」
瞬間、彼の表情が一変する。
逃げ出す前に肩を抱き、目の前に固いビスケットをちらつかせた。
「君、泣かないで。お菓子をあげるよ」
「ぴーぴー! ぴー、ぴー!!」
泣きじゃくりながらもちゃんと受け取る。おお、ちょろい。
噂に聞いていた通り、まるで子兎だ。ちゃんと両手でかじかじ食べている。
ちょっと落ち着いてきた辺りを狙って、彼は丁寧に尋ねる。
「君、君。お名前は」
「おーちゃん」
「もっと、本当のお名前は」
「ほんと? ……分かんない」
「じゃあ、『HONER』って呼ばれたことない?」
「あるよ!」
「本当かい! それじゃあ周りにDr.Schellingって男は」
「いるよ! ぱぱだよ! あとね、れいれいもいるよ!」
「れいれい?」
「れいもんどー!」
元気よく答えた彼女に渋沢は苦笑するしかない。
少女は知らないのだが、文武両道、正確無比のリボルバー使い・Raymondと射撃の名手たるオートマチック使い・渋沢大輝のライバル関係こそ有名で、ここら辺で知らない者はいない程だった。
「そうかい、そのRaymondって奴はお兄さんと同じ茶色い髪の毛だったかな」
「そーだよ! 緑のお目目だよ!」
「ハハ、じゃあお兄さんとの違いはそこら辺だけだね。だって、お兄さんのは焦げ茶だもん」
「顔もいっぱい違うよー!」
「そうだね」
楽しく談笑を重ねつつ、大輝が後ろで控えている仲間達に手信号で指示を送る。わらわらと集う若者達の手には大きな白い袋に縄、布、その他必要なもの。
準備はばっちりだ。
――この日を待ちわびたのだ。忘れる訳がない。
「それじゃあね、おーちゃん。もうあんな悪い奴らに捕まったりしないようにこの袋に入ろうね」
「……え?」
またしてもいつの間に、しかも今度は先程より大人数に囲まれて、嫌な予感がむくむくと湧き上がってくる。
「入るの?」
「そうだよ」
「……やだ」
「入ろう」
「やだ。何かやだ!」
逃げようとするのをメンバーの一人が抱き上げ、無理矢理袋に入れようとする。
「やだやだ!! お兄ちゃん!! お兄ちゃん!!」
蹴りやらパンチやら食らいながらも袋に押し込めるとすぐさま周りから縄やら布やら構えた大人達が群がってくる。手足を押さえつけられながら口の中に綿を詰め込まれそうになったところで、彼女の中で危険信号が高らかに鳴った。
「アーダダダダ!!」
思いっきり噛みつき、驚いて一人が転んだところで体を滅茶苦茶に暴れさせ、右手の拘束を外す。少し自由になった体でもっと暴れて、出された手は端から噛みついてやった。
そうして抜け出した。必死だった。
「A地点、抜けられた。『花』は北西方向だ、急ぎ追え! 人工知能に助けを求められる前に何としても捕まえるんだ!!」
渋沢の無線の指示を合図として、その場以外の人員も含めたメンバーが散り散りになる。そうして今から獲物を確保するのだ。
逃がさない、今度こそ。
皮肉なことだが、これが今の
* * *
「わああああ!!」
絶叫しながら路地裏を駆け回るHONER。人の住む所へ出ようとすればすぐさまクラリスのメンバーが塞いだ。
――その絶叫を、町で聞いた少女がいる。
片目を前髪で隠し、人々の間に紛れ、獲物を待ち受ける。
名を、神代木霊と名乗る。正体は言わずもがな。
彼は少女の悲鳴が誰のものか直ぐに察し、目を見開く。
慌てて路地裏に飛び込み、室外機や雨どいを伝って屋根によじ登った。
眼下にはぞろぞろと動く大人と小さな子どもの影。自前の無線機で通信の傍受をすれば聞き覚えのある嫌な声。
『Z地点で追い詰める。アルファは左から周り込め、ベータが追い立てる』
『目指す未来は直ぐそこだ、希望の花を何としてでも奴らから奪い取れ!』
ファーレンハイト・クラリス!
HONERが危ない!!
無我夢中で駆けた。
――、――。
「いやあああ!! お兄ちゃーん!! お兄ちゃーん!!」
必死で路地裏の出口に向かうがそこを大勢の大人に阻まれた、慌てて右へ曲がると行き止まりである。
どうしよう!
驚いて転んだ拍子に待ち構えていた男が彼女の腹を抱きすくめる。
「捕まえた!」
「や、や! お兄ちゃん!! 助けて!! 助けて!!」
「乱暴ですまんな! 今だけ許せ……コノヤロ!!」
「痛い!! お兄ちゃん、お兄ちゃん!!」
麻縄で両手をきつく縛り上げ、袋を被せる。
その場にどんどんメンバー達が集まってきた。暴れ、必死に抵抗する袋の中の娘を押さえつけ、声を出させないように布を噛ませようと必死だ。
「怪我だけはさせるな。これは人間の解放の第一歩だ、人身売買ではない」
リーダーも合流した。計画は着々と進んでいる。彼らの心は明るい未来に沸き始めていた。彼女を利用する形となってはしまうが、小の虫を殺して大の虫を助けるともいう。これは仕方のないことだ。
「へへっ、手間かけさせやがって。渋沢さん、捕まえました」
「お疲れ様。よし、クーラーボックス持っておいで。この子を入れよう。なるべく迅速に運ばなければ――」
そこまで言った時。
目の前に何か降ってきた。
「……!」
袋をかつぐ男のうなじに深く手を突っ込み、すぐさま引き抜く小さな少女。半透明のゲル状の「嘘」が少量の体液と同時に飛び出し、直ぐにその口元へ消えた。
こちらを睨む藍色の瞳と、嘘と体液で塗れた口元と、その下で白目向いてぶっ倒れている男の顔と、充満するきつい臭いと……。その全てがその場の人間に恐怖を与えた。
「ぐ!」
直ちにリロード、木霊の脳天に向かってぶっ放す渋沢。
「ギャアアアア!!」
しかし弾が当たったのは彼女でなく、さっき被害にあって失神していた仲間の男。
ふくらはぎからどくどくとおびただしい量の血が流れだした。――いつの間に彼の術にかかっていたのだ。
「イヤアアア!!」
幻像を見せるフードを苛々しながら払いのけると、今度は彼の背後から嫌な悲鳴が聞こえた。女性メンバーのうなじに手を突っ込み、嘘を引き抜いている。
一人対二十数人。
一時はこちらの方が有利と思う瞬間もあったが、矢張りだめだ。特殊能力持ち程厄介な相手もいない。
苦渋の決断だった。
「総員退却! これ以上の被害を出すな!」
被害に遭った男女二名を抱えながらクラリスの連中が引き潮のように去っていく。
ようやくだった。
木霊は肩の力を抜いた。
咳も二、三発吐き飛ばす。
* * *
「大丈夫?」
「お兄ちゃああああん!!」
ぐずぐずに泣き腫らしたHONERが木霊の胸元に飛び込んでくる。
「怖かったよおおお!!」
「……全く、何で抜け出してきちゃったのよ! 危ないって言われてたんでしょう!?」
「あれ、お姉ちゃんだった」
「ちょ、聞いてるの!?」
「でもお姉ちゃんもお兄ちゃんだから良いや」
そう言いながら自分の服に鼻水を擦り付ける彼女に目を見開かざるを得なかった。
「……分かるの? 僕だって」
「分かるよ、だってお兄ちゃんはおーちゃんのお兄ちゃんだもん」
「……」
「探してたんだよ、ずっと」
……。
やがて疲れて寝てしまった彼女に自身のロングパーカーを着せ、あのゴミ捨て場まで帰った。
家ではこっぴどく叱られたが、その後きつくきつく抱き締められた。
その夜はHONERから一緒に寝ようと誘われた。
どうしてだか、悪い気はしなかった。
(つづく)
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