お茶でもいかが

 アパートの三階、303号室。怪人の住み処の丁度真上である。

 本当に同じアパートに住んでいるのだろうか。――いや、事実なので否定のしようが無いのだが、これは違いすぎる。

 壁紙が付いているだけで、床に絨毯が敷いてあるだけであのソファとコンピュータとゴミしか無い部屋とは大違いである。

 しかも家具がキチンと置いてあるというだけで少し広く感じる。――たとい彼の部屋に隠し部屋があるとしてもだ。

 人の感覚とは常々不思議なものである。

「はい、ダージリンと苺のショートよ」

「はわわ、任務中にこんな事してて良いのでしょうか……!」

「良いよ。飲め飲め、食え食え。腹が減っては戦は出来ぬだ。それにおーちゃんを拉致ったのはこいつだしな。それならアイツも文句は言うめぇ」

 げらげら笑う。

 それに木霊が乗っかった。

「そうよ! 今回は特にスポンジが上手くいったのよ。是非とも食べて貰わなくっちゃ」

「そ、そうですか? それじゃあ頂きます!」

「はいどうぞ」

「随分遠慮ないな」

「怜は黙ってなさいよ」

「ええっ、一口でそんなに食うのか!?」

「良いから黙ってなさいよ」

 むうむう。

 口いっぱいリスみたいに頬張って幸せそうにケーキを飲み込む。

 ふわふわでしっとりとしたスポンジが良い仕事をしているのが分かる。

 安い食パンにホイップクリームを乗せて食べると分かるのだが、ホイップクリームにはスポンジが一番合う。ケーキの全てを決める存在、それがスポンジ。

「幸せそうに食べるのね」

「おいひいです! ふわふわ!」

「ふふ、お弁当付けちゃって可愛いわね」

 口の周りに付いているクリームを紙ナプキンで丁寧に拭き取りながら微笑を浮かべる。

 ケーキはあっという間に無くなった。

「あー、美味しかった!」

「それは良かった」

 腹を撫でる千恵をにこやかに見つめ、一言そう言った。

「じゃあこのお茶飲んだら私、行きますね」

「そんな、つれないじゃない。もうちょっとお話しましょうよ」

 ティーカップを手に取ろうとした千恵の手を無理矢理取る。

「え、でも」

「良いじゃない! ね、私、貴女の追ってる『姿無き殺人』の話が聞きたいの」

「あ、う」

 千恵の隣に無理矢理座り、腕に絡みつき、顔を近付けてきた。

 微香が鼻腔をつく。

 側頭部の辺りがどくどくと波打った。頭に響く鼓動に混乱する。


「ね? お願いよ。――『最後のもてなし』って言ったでしょ?」


 二人――千恵と怜の瞳が見開いた。

 一気に目の前の少女が信じられなくなった。


「こ、木霊さん……真逆、ライ――」

「何? あの怪人・変態小僧と一緒にする気なの?」

 頬をぶうと膨らませる。

「いや、でも……」

「良い? 私はあいつの言葉に乗ってるだけ。あいつとは何の関わりも無いの」

「……」

「あいつも言ってたんでしょう? 最後のもてなしって」

「ま、まあ……」

「じゃあ気にすることは無いわよ! それより本来この時間は姿無き殺人について怜と話す予定だったんじゃないの?」

「良く知ってるな」

「容易に想像出来るわよ」

「……誰に似たんだ」

「ほら! そういう事だから、ね? 良いでしょう? 私も混ぜてよ!」

 どんどん迫ってくる木霊。

 いわゆるゴシップ好きと言うやつだろうか。

「れ、れいれいさん」

「言ったろ、こうなったらこいつは聞かねぇよ」

 肩をすくめる怜。

 遂には千恵も彼女の勢いに根負けしてしまった。

「それじゃあ……木霊さんも」

「やった!!」

 そう言って彼女は立ち上がった。

「木霊さん、どこへ?」

「待ってて、お話のお供に紅茶を淹れ直してくる。千恵ちゃんは何が良い?」

「あ、じゃ、じゃあミルクティーで」

「O.K.そのダージリンが飲み終わる頃には沸くでしょう」


 * * *

「なるほどね。要は貴女達はあいつと会社の癒着が生んだ事件だって言いたいのね」

「まぁ今の所は」

 粗方の説明を聞いて二人が唸る。

「な、何かまずい所があったらなんなりと仰って下さい」

「うん? うーん……そうね。何て言えば良いのかしら。足り、ない? のかな」

「足りない?」

「うん……色々事を急ぎ過ぎてるような気がするわ」

「例えば?」

「そうね……まずこの事件の目的は分かったわ。でもそれを裏付ける証拠が薄い気がするの」

「はぁ」

「まず、貴女達はその目で彼らが交渉をしている場面をちゃんと視認したかしら?」

「……いいえ」

「その会社に向かっている様子は」

「……いいえ。――で、でも彼がその会社に行っているという事は、れいれいさんから委員長が買った情報です!」

「それじゃあ巧みに貴女達を彼が切り抜けたとしましょう。貴女達はその裏付けの為にその会社に出入りした?」

「……、……いいえ」

「唯一の目撃者には? 接触した? ビルの管理人は?」

「……、……いいえ」

「警察には接触した?」

「警察はちょっと色々事情があって接触は出来てない、です……」

「ふぅん……だとしてもよ。他の所は? 真逆何もかも駄目って事は無いでしょう?」

「まあ、一応は……」

「アポすら取ってないの」

「色々忙しくて……」

「呆れた。そんなの言い訳よ」

「……」

 確かにそうだ。机上の空論ばかり飛ばしあって、それに関する証拠集めを怠っていた。

『現場は足からだ』

 新入りとして初めて役場の床を踏んだその日に武が言ったその言葉を思い出す。

 どうして忘れていたんだろう。

 それを思うと涙が滲んだ。

 スラックスを思わず握り締める。

「あ、泣かせた」

「嗚呼! 泣かないで、泣かないで! 大丈夫よ。あんなきつい事は言ったけれど、だからと言って千恵ちゃんが悪いとは一言も言ってないわ」

 慌てて彼女の肩を抱き、頬の涙を拭う。

「ぐず……」

「落ち着いて考えてみて。貴女は既に答えを得ているはず。そうすれば自ずと本質を見極める事が出来るわ」

「本質……」

「そう。何事においてもまずは本質を見極めようとする事が大事。全てを客観的に見て、まずは何を知るべきかを自分に問うの」

「ううん、難しい……」

「大丈夫よ。今回は私も手伝うわ。なんたって、私は千恵ちゃんの味方なんだから」

「木霊さん……!」

「よしよし」

 自分の懐に飛び込んできた千恵の頭を木霊が優しく撫でた。

 それを怜はひたすら黙って見つめていた。

「まず考えてみて。どうしてこんなに奇怪で残酷な事件をまだ成年もしていない、ミッションも一つもこなした事の無いようなぴかぴかの新人に割り当てたのだと思う?」

「……」

「まずはここからね。固定観念を突破するの。この事態に陥るきっかけは組織の問題なのかもしれないわ」

「そうなんですか!?」

「仮よ、仮。でも、充分あり得るわ。最初は上司に着いていくのが普通だもの」

「た、確かに」

「それに話を聞く限りだと一連の推理の主導権を握ってるのはその委員長とかいう人なのね」

 その言葉に呼応するように怜の瞳が木霊の横顔を捉えた。

「木霊、何が言いたい」

「あら。どこまでも鈍い人なのね。私は彼が事件の首謀者なんじゃないかって思うんだけど」

「……」

「どう?」

「まだそうとは決まってねぇだろうが」

「あら、数少ない顧客を守るつもりなの? 探偵に顧客どうこうは無いのよ」

「じゃあ何で自ら事件を追っている? 自ら周りに晒してその事件を追わせている理由は何だ」

「何か別に目的があるのよ。そうすれば変死の理由も死体が消えた理由も何もかも明らかになる」

「なるかバーカ。そんな簡単に解けるんだったらこの話が十万字越えるわけねぇだろ」

「際どい事言わないでよ、このエセ日本人!」

「何言ってんだテメェ」

「瞳がエメラルドグリーンの日本人なんて聞いた事ないのよ!」

「そういうテメェが隠してる瞳は白濁してんじゃねぇか! そっちの藍色の瞳はカラコンか? オッドアイか?? そっちの方がエセ日本人だわボケ」

「そんなの差別よ!」

「そっちだって差別だろ!」

 二人の唐突な言い合いをぼーっと聞きながら千恵は海生の言葉を反芻していた。


『……あいつ、事件に何らかの形で関与してるんじゃないかと思う』


 頭がかち割れるような痛みが走る。

 ぼんやりと光る満面の彩りが脳内を駆け抜けてゆく。

 耳鳴りに混じってゆっくりと現れる二つの濃い、異様な色彩が何かと重なる。

 ……もっと前からそれを私は知っていた気がする。

 私は、何を忘れているの?

 掴もうと手を伸ばしては遠ざかる記憶、更に酷くなる頭痛に体を折り曲げる。

 彼女の荒い呼吸にようやく二人が彼女の異変に気付いた。

「お、おーちゃん!?」

「千恵ちゃん、しっかり!」

 呼びかけても応じない。肩の辺りを握り締めたまま、ただただ冷や汗を流すばかりだ。

「どうしよう……」

「取り敢えずベッドに運ぶか?」

「そうじゃないでしょ!? 鈍ちんは黙ってて!」

「ニブ……」

 血管を浮き上がらせた怜を放っておいて木霊は千恵の背中をさすった。

「千恵ちゃん、こっちを向いて」

「い、いん、ちょ……」

「千恵ちゃん」

「ハァ……ハァ……」

「……そう。思い出してるのね」

 がくんと頷く。

「でもそのままだと辛いわ。何とかしたいの。だからお願いこっちを向いて」

「……」

 下唇を噛んだ。

「ちー」

 聞き覚えのある呼称、そして声に思わず顔を上げる。

「やっとこっちを向いてくれた。ほら、抱きしめさせて」

 しかしそこにその人はいない。

「良い子よ、千恵ちゃん。辛かったわね。もう大丈夫だから」

 柔らかな胸に顔を埋めながら、その温もりにふとした懐かしさを感じていた。

 以前もこんな事があった。

「おにい、ちゃん」

 彼女の体を抱く手がぴくりと震える。

「そう、ね」

 苦しそうに呟いた。

 そしてその言葉を埋めるように更にきつく抱きしめた。

 暫くはそのままだった。


「……どう? 落ち着いた?」

 数分後、優しく声をかける。

「ええ、大分。すみませんでした」

 改めて起き上がった彼女の顔から先程までの不安は感じ取れない。

「良かった」

 木霊は安堵の笑みを零した。

 そんな彼女を押しのけて怜がいつになく真剣な面持ちで千恵に迫る。

「おーちゃん、一体何があったんだ?」

「こら、怜、ズケズケと――」

「何分、俺は。俺には何があったのかさっぱり」

「……!」

 彼の言葉に木霊が動揺する。

「だから教えておくれよ。何を思い出してたんだ?」

 その言動をもう咎めようとはしない。

「えっと……以前海生さんが委員長がクロなんじゃないかって言った事があったのを思い返してて」

「うん」

「そしたら突然……頭が痛くなって……」

「それで?」

「そしたら……緑色が……」

「緑……」

「ぎょろって、こっち向いて……」

「……」

「丁度、れいれいさんの目みたいに」

「……そうか。それで『委員長』か」

 またこくんと頷いた。

「ほら。姿無き殺人の首謀者は委員長よ」

 また木霊が喚く。

「証拠が無い」

「あるわよ。その子を襲った」

「そんな事したりしない。それにこんなの、証拠にならないだろ」

「私は知ってる! 全部知ってる! この子の記憶を無理矢理奪った!」

「木霊」

「ホテルで追い詰めて、笑いながら歩み寄って、散々傷を付けて、剔って、掘り返した! お気に入りとか言いながら渋沢は――」

「落ち着け!」

 その言葉に思わずハッとなる。

「木霊さん……?」

 動揺を隠せない揺らぐ瞳は純真な少女の疑問に満ちた顔を真っ直ぐ捉えた。

 怜は目を見開いたまま動かない少女の肩を抱き、その顔を覗き込む。

「……落ち着け」

「……」

「偽装工作は止めろ。その滅茶苦茶な言い草の方がよっぽど無責任だ。証拠の欠片も存在しない」

「……」

「部屋にこもって何も知らないはずだろうが。何を知ってるっつうんだよ」

「……ごめん。ちょっとどうかしてた」

 そのまま会話は続いたがそれ以前のような目立った動きはこれ以上起きなかった。

 それまで堅固だったはずの様々な物が崩れ落ちたまま平行線を辿ってゆく理論。


 お茶はとっくの昔に冷めている。

(つづく)

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