脳を穿つ 藍の血

「そんな君から嘘を抜いたらどうなる? 抜けない物は抜けるか? 抜けたらどんな味? とても興味があるんだよ、君には」


 上半身が滑るように前傾姿勢を取った。

 本能が見せた行動だ。

 待ち切れなかった。


「教えてよ」


 ――グチャッ!


 千恵の目が途端にカッと見開いた。


「ガ……! ハアッ!! ァァア……!」

 苦しそうに息をする。

 腹をよじらせ手を何度も痙攣させ、床を引っ掻き、額には脂汗。瞳は大きく揺らいだ。まるでモルヒネか何かの毒にでも犯されたようだった。

 そのまま毒殺でもされてしまいそうな激しさだった。

 うなじに激しい痛みと不快感が一気に押し寄せる。それでも喉が潰れたように、声はみじんも出てこなかった。

「……」

 LIARは特段何も言わなかった。目を異常な程見開かせ自身の右手が埋もれた先をただただじっと見つめていた。


 彼は手を本物のうなじに埋めている訳では無い。それ故うなじに傷はつかないし、その先にある骨や内臓を傷つけることもない。うなじは人間の精神世界と外界を繋ぐ唯一の扉なのだ。その扉の隙間から、しばしば人間はある種の魅力を感じ取る。だから人間のうなじは美しいのだ。

 その精神世界の中に「嘘」はある。外界に出る時その嘘は形を持って現れる。――聞いた話によればそれは「醜さの権化」であるという。決して良い匂いはしない。旨くもない。見た目もそこまでよろしいものではない。

 しかしそれは彼しか知らない、秘密の園だった。その精神世界の扉の鍵は彼にしか委ねられていない。

 それが彼の保持する特殊能力だ。

 彼の全てだった。


 彼も額から汗を垂らした。

 それは優位に立った者がしばしば見せる歪んだ微笑みだった。心臓は激しく高鳴り、脳を大量の血液が流れていくのをハッキリと感じていた。

 心臓の辺りからどくどくと「楽しさ」が溢れ出して仕方なかった。

 右手を少し動かすだけで彼女はその身を激しく揺らした。

 興奮に近い――いや、ほとんどそれと言える快楽の感情が彼全体を支配した。

「嘘……聖女の光を纏いし乙女の躰に住まいし邪悪よ憐れなれ。住みにくかろうや、解き放とう。サァその姿を現し、我に味わわせておくれ」

 暴れる小さな体を押さえ込むようにのしかかりながら右手でまさぐった。

「クク……もうすぐだ」

 咽から溢れ出た楽しさで口蓋垂を震わせながら、LIARは流れるようにそう呟いた。

 もう自制が効かなくなっていた。

 その時恐ろしい怪物と成り果てていた。


 それ故か――。


 彼の瞼の裏から奇妙な物が流れ落ちた。

 それは藍色のどろりとした粘性の高い液体だった。しとやかに彼の瞳の上を通過し、床に垂れていった。

 そして流れ始めてから程なくしてその液体は千恵の頬にも垂れた。

 それが千恵の中の何かの引き金トリガーを引いた。


「イヤァァアア……!」

「……!」


 叫び声が一気に喉の奥からせり上がり、それと同時に千恵の体は大量の酸素を急激に欲し始めた。同時に涙がとめどなく溢れた。

 いわゆるパニック状態だ。

 パニック状態は犯罪者と対面する時――特に犯罪者側が興奮している時になってしまうと大変危険である。完全に恐怖に押し潰され、どうしようもなくなってしまった状態は犯罪者を刺激しかねないのだ。

 ――しかしそれは我々の予想とは違う、意外な効果をLIARに与えた。藍の液体が引き起こしたのは千恵のパニックだけでは無かった。

 千恵が叫び声を上げた瞬間彼はいきなり右手をうなじから引き抜いた。彼女が逃げようが何しようがお構いなしと言った具合だ。

 罪の意識に駆られたのでは無い。

 正気に戻った訳でも無い。

 千恵の叫び声にとんでもない不快感を覚えたのだ。

 脊髄反射的に耳を塞ぐ。それでも指の微かな隙間から飛び込んでくる甲高い叫び声を完全に取り払う事は出来なかった。

「う……ぅわぁ……止めてくれ、止めてくれ!」

「……」

 LIARの態度の豹変振りに再び千恵の思考が一旦停止する。自分よりも強く長く濃い恐怖を感じているように見え、動悸等の症状は残るものの、先程までのパニックは一気に鳴りをひそめてしまった。

 それよりも遥かに目の前で起きていることを完全に目撃する事の方が彼女にとっては大事なように思われた。

 彼は藍の液体を目から垂らしながら頭を抱え、最も人間らしい表情で苦悩していた。

 それは彼の人生を陰から支配する重苦しいだった。脳の奥の精神の深淵に隠している忌まわしい記憶が掘り出された。


 ――そう、それはまるで滲み出た藍の血が垂れて脳を穿つようだった。


 彼女の叫び声と共に彼の体は後ろの奥の方へと引っ張られた。無数の生気の無い冷たい腕が彼の胴に絡みつく。顔を上げるとそこには紅と橙が悔しい程美しく燃えたぎっていた。

 炎の壁だ。

「離せ、よせ、止めろ!! まだ中に……まだ中に!! ヤダァァアア!!」

『お兄ちゃん……! どこ!? どこにいるの!? お兄ちゃん!』

 の声が……あの子の声が聞こえる……。

 早く助けないと!

 僕は……僕は! だって僕は……!

『お前ごときに何が』

『あそこへ行くな』

『あの子は大丈夫だから』

 嘘だ! そんなの……だって、だって……じゃあ、何で……!!


 何で、大丈夫ならあの子は僕を探しているの!? 何でこんなに苦しい思いをしているの!


『何故って……どうしてそんなに思い詰める? 我々に任せていれば充分であるのに』

 不意に目の前に何者かが現れた。揺らぐ炎の中に微かに見えるその人は黒髪に眼鏡をかけた真面目そうな青年のような容姿をしていた。着ている白衣から察するに彼は権威ある博士か何かなのだろう。

「Schelling……!」

 しかしLIARはそんな彼に尊敬の念を表しはしなかった。

 歯をギリリと擦らせて、憎悪いっぱいに相手を睨んだ。

「テメェ……テメェのせいで!」

 飛びかかろうとするが胴に巻き付く手が邪魔をする。

『荒ぶるな。希望の花は我々がちゃんと管理している。心配は何も無い』

「……ック! テメェ等のせいだろうが! そう言って守ろうとしなかった癖に!」

『それはお前だ』

「違う!! 僕は、ちゃんと彼女を守ってきた! そこに間違いは――」

「そ、それは……」

『いや、語弊か。助け出せなかった、守れなかった』

「違う!」

『結局お前は弱虫だった。見誤ったよ、お前は王子じゃなかった』

「黙れ! 黙れ黙れ黙れ黙れ!!」


「LIARさん!? 大丈夫ですか!?」

 ボダボダと藍の血が目からとめどなく流れた。彼が何かを否定する毎にその勢いは激しさを増した。


『弱虫、くず、使い捨て』

「言うな!! それ以上言うな!!」


『お前ごときに彼女が救える訳がない』


「黙れエエエエ!!」

「……!」

 頭を激しく振った後、突如LIARが千恵の方に向かって走りながら両手を伸ばしてきた。――幻像でも見ているらしい。

 しかし、もう眠くないしパニックも起こしていない。動悸も治まり、過呼吸も無い。

 正常な状態である千恵はこの場にいる誰よりも強かった。

 パシッ。

 構えの姿勢からLIARの両手を弾いて攻撃を受け流す。そこからすぐに180°向きを変え弾かれた彼の手首を掴み、思い切り投げた。

「リャアアア!」

 都市伝説グループ長、時沢武仕込みの投げである。

 LIARの体は派手に回転し、背中を打ち付けるようにして床に寝転がった。

 そこに間髪入れず千恵が彼の眉間に今朝取ったポスターの画鋲の先を当てた。

「形成逆転です、動かないで」

 数十秒間の沈黙が空気の中を彷徨った。

 二人の荒々しい呼吸音だけがひっそりと聞こえる。

「僕の惨敗だ」

 そして遂に放たれたその台詞と同時に、最後の藍の血がこめかみを流れ落ちていった。

 いつの間にかLIARは正気に戻っていた。


「ハァ……」

 くすんだ松葉色のソファにLIARがどっかと座る。その隣にちょこんと千恵が座る。

「気分はどうですか」

「まさか負けるとはなぁ。嘘、食べたかったのに」

「冗談はよしてください」

「……千恵ちゃんのは美味しそうだと思う。ね、食べられてみない?」

 誘惑するような薄笑いを浮かべ、千恵の肩に手を回そうとする。

「冗談抜きでぶっ放しますよ?」

 千恵が笑顔で床に転がっていた38口径の銃口をLIARの眉間に突きつけた。

「……本気にするなよな」

 途端に態度を変え、ひょうひょうと受け流した。

 本心かどうかは語り手である私にも分からない。

「それで? 僕をどうしたいわけ?」

「逮捕! ……と言いたいところですが、残念ながらそんな権限は我々にはありません。我々は犯罪を予備的に防止するだけの組織。そこに拘束力等はありません」

「よぉく知ってるよ」

 手ずくなをしながら素っ気ない返事をする。当然こちらは見ていない。

「そこで本題です。我々は貴方を最終的に二つの罪で警察に突き出そうと考えています。それが最初に言った……」

「姿無き殺人の容疑者疑惑と国中の詐欺事件の首謀者疑惑? まだ言ってたのか」

「ええ。それを立証できる証拠が欲しいんです。詐欺事件の方は無理にとは言いません。ですが姿無き殺人の方は速やかに提供願いたいです」

「は? 何の何だって? どれも身に覚えが無いんだけど」

「……」

 またか。

 もう驚かない。この人はこういう人だ。

「でもさっき、自分で言ってましたよね? 自分が犯人だって……」

「お前の目は節穴なのか猟犬の目なのかどっちなんだ? 都市伝説サイトに何て書いてあった?」


『言っていることの八割以上が嘘であると思われる』


 その一文が千恵の頭の中でチカチカ光る。

 思わず眉間をつまんだ。

「じゃあどうすれば良いんですか!」

 先程までの冷静な姿勢とは打って変わって子どものような素直な態度になった。

「僕に聞くなよ」

 それでも彼の受け答えは変わらずひょうひょうとしたままだ。

「この嘘吐きー!」

「LIARって名乗る正直者がこの世にあるか、ばーか」

「せめてならHONERであれば良かったものを!」

「残念。どうあがいても僕はLIARでーす。正直者には到底なれませーん」

「うううう……このあんぽんたん! 酷い人! イジワル!」

「何と、で、も、お言いー」

「うー……!」

 犬のような低いうなり声をあげた所で解決するはずも無し。千恵が欲しいのは約束された証拠なのだ。言ったそばから宙に浮かんでは消えていく、不安定な言葉遊びではない。

 これは有無を言わさず、彼が何も言い返せないような状況を作るほか解決方法は無いとみた。

「それじゃあ……勝負です!」

「勝負?」

 やっとこちらを見た。彼はどうやら興味があるとそちらを見る癖があるらしい。

「良いね、面白い。――何するの」

「私は貴方の嘘を見破り、貴方が殺人と詐欺の主犯である事を突き止めます。貴方はそれを阻止してください!」

「……阻止しちゃって良いの?」

「期限は五日以内、逮捕までこぎつけたら私の勝ち、証拠が見つからなかったら貴方の勝ちです!」

「もし君が勝ったら?」

「勿論、貴方を警察に突き出します」

「僕が勝ったら?」

「その時は仕方ありません。正々堂々と負けを認めて、それからは犯罪予備防止委員会は一切貴方に関わりません」

「……勝手に決めちゃってるけど、本当にそれで良いの?」

「良いです。私には嘘発見器No.1234通称『ゆめちゃん』がいるので!」

「……そっか」

「どうです! やるんですかやらないんですか!」

「逆に聞くけど、それで君は勝てると思う?」

「モチロンです」

「ふうん。――じゃあやってみれば?」

「勝負に乗るって事で良いですか?」

「ああ、モチロン。その勝負、乗った」

「始まりは明日です。逃げないで下さいね?」

「逃げないよ」

「逃げないで下さいね!!」

「うるさい」

「絶対ですよ!!!」

「しつこい」


 鼻息荒く挑んだ勝負、微笑一つで買った青年。

 これが後々とんでもない展開を見せるのですが、それはまだまだ先のお話……



 * * *

「かぁ……また派手に流したな。また興奮したんだろ」

「……」

「無闇に体に負担をかけようとするなよ? 掃除が大変なんだから」

「分かってる」

「分かってねえだろ。じゃあ何でこんなにが流れてやがる?」

「……それは」

「ん? それは?」

「似ていた……からかも」

「似ていた? 何に」


「……希望の花」


「……! それじゃあ……」

「見つからなかった。もう意味が分からない」

 こちらの夜も静かに更けゆく。

(つづく)

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