怪人の住み処
海生が千恵の耳元に顔を近づけ、囁く。
「今日一日の千恵の活動が終わったら、僕の家に来て」
千恵の喉がゴクリと鳴った。
「剛と僕と千恵で秘密裏にこの事件の調査をしよう。……良い?」
「……」
千恵は言われるがまま、頷くしかなかった。いつだってそうだ。海生の言う事には何か裏がある。そこに否定をさせるだけの余地はいつも無い。
「それじゃ。せいぜい死なないように」
「分かりました」
それだけ言って立ち去る海生の背中を千恵はただぽんやりと見つめていた。
「何なんだろ」
千恵は海生の言葉の裏が見える程、成長してはいなかった。
自転車のスタンドを思い切り跳ね上げ、千恵はサドルにまたがった。大輝からもらった資料が入っている鞄はかごの中に放り投げた。
「よし……!」
ペダルに足をかけ、全体重をかけてこいだ。ゆっくり進み始めた自転車がみるみるうちに加速していく。
役場の正面玄関前を過ぎようとした時、武がドアから出てくるのが遠くに見えた。
彼に向かって千恵が手を振ると武が気付いて手を振り返した。
「お、気を付けろよ千恵! 終わったら役場に顔出すんだぞー! 待ってるからな!」
「ありがとうございます、時沢先輩! わぁお、普段の先輩には似合わずお優しい!」
「うるせぇ! 毎日叱らにゃならんのは元々はお前のせいだからな! 俺は本当はいつでも優しいんだよ!」
「ええー!? うっそつきー!」
「ばぁか! 気を付けて行ってこい! 俺は今から仕事だから」
「何しに行くんですか?」
「最近妙な不審者がうろついているらしくてな、偶に女性や女児を追っかける事があるんだと。誘拐騒ぎになりそうだって市民の方々から文句……じゃなくてご指摘があったからとっ捕まえに行くんだ」
「へー」
「不審者は二人組で、一方は前髪が長い、紳士風の男。もう一方は茶髪チンピラらしいぜ。……捜査の途中で遭遇したら締めてやれ」
「分かりました。フルボッコにします」
千恵がそう言いながら左手を乗せた右腕でガッツポーズを取るような仕草をすると、武は柔らかく笑いながら
「本当、気を付けろよ」
と言って調査に出掛けていった。
「お父さんみたい。何かくすぐったい」
そうぽつりと呟いてみたりする。
役場から「そこ」までは唸る程離れている訳ではない。しかし、歩くにはちょっと遠すぎる距離だった。
驚いたのは「そこ」が住宅地の中にあるということ。
「もっと巨大なゴミ置き場とか人里離れた山の中とかトンネルの中とか、そういう所にいると思ってたけど……。人って分からないものね」
千恵はそう呟きながら目の前の角を軽快に右へ曲がった。
もう何百メートルも走れば目的地はすぐそこである。
* * *
とある暗い部屋の中に一人の男がいる。彼の目の前には沢山のディスプレイがあり、その中では現実に実際にいると思われる人々が歩く姿がただただ映されていた。――その中には期待に胸躍らせながら自転車を走らせる千恵の姿もある。
しかし、男はそんな映像はよそに、たった一つ、文字の羅列を映し出したディスプレイを凝視しながらキーボードを叩いていた。その文面を見る限りでは物語を書いているようにも見える。
しばらく文字を打ち込んでからエンターキーを押すと、ふうっと息をついて目頭を押さえた。どうやらこれで完成らしい。男はその物語とも言える文字の羅列をコピーしだした。
「さあ、仕上げだ。待っててくれ、
彼は壁に貼られている眼鏡をかけた黒髪の男性の写真を軽く撫でた。
もう十何年も貼られているのだろうか、その写真はセピア色に色あせていた。
「今度こそ……必ず終わらせる」
そう言って彼は印刷途中の物語の束を手に取る。
題名が入るであろう場所には
「幸せのシナリオ」
とだけ書いてあった。
* * *
「……本当にここなんだよね?」
誰もその質問に答えないが、地図は確かに「ここ」を指している。
千恵の目の前にあったのはちょっと古くなった三階建ての鉄筋コンクリートのマンションである。――いや、「三階建て」は名前詐欺かもしれない。何故なら一階部分が入るはずの空間に部屋は無く、代わりにそこはすっかり駐車場になっているからだ。おかげでマンションの前の敷地も合わせると普通より多くの車が停められるようになっている。
全く面白おかしい構造である。
車を持つ家族が二階三階を占める予定で作られたのだろうが今は所有者がハッキリしておらず、実質誰も使っていないのだという。――の割には誰も使っていないはずの駐車場に車が停めてあったり、二階の部屋に怪人が住み着いていたり……全く厄介なマンションである。
千恵は勇気を出して階段を上り始める。
タンタンタン……。
昭和から平成にかけて多く作られた、真っ白なごく普通のコンクリートの階段だ。
怪人が住んでいるからと言って何か特別な仕掛けがあるわけでは無さそうだ。
ひとまずはそれに安心する。
階段を上がりきった所もまた珍しい。普通は外に剥き出しになっているはずのドアがビルディングの中に収まっている。ホテルのような物だと考えてもらえれば想像しやすいであろう。つまりは非常階段からホテルに入るイメージだ。
こんなに妙ちきりんなのにこの建物のオーナーはこれを「マンション」だと言い張っていたらしい。
一瞬千恵の脳裏に大輝の顔が浮かんだ。
「……まさかね」
千恵はドヤ顔を決める彼の顔を慌てて頭の中から追い出した。
気を取り直そう。
「こんにちはー……。どなたかいませんかー……」
恐る恐る入り口の扉を開く。
ギィイイイ。
不気味な音がひんやりと静まり返ったマンションの中に響いた。
……、……。
返事は返ってこない。
「失礼しますよー……」
千恵はマンションの中に入った。
ほこりっぽい廊下は薄暗く、とても寒かった。外は春爛漫の陽気であるのに、ここだけ別世界のようである。
千恵は身震いしながらジャケットを羽織直した。
「確か、LIARの住んでいる部屋は203号室だったはず」
コツ、コツ、コツ……。
千恵の靴音だけが空しく響く。本当に無音の世界だ。
まるで自分だけが突然違う世界線に放り出されたような心持ちがして、無性に人が恋しくなった。
「203、203、203は……あ、これだ!」
懸命に寂しさを心臓の裏にしまい込んで、千恵は無理に声を出した。
そしていつしか怪人の住み処まであと数十センチという所まで来ていた。
深く息を吸って吐く。
「すぅ……よし」
とんとんとん。
「すみませーん」
……、……。
とんとんとんとん。
「誰かいませんかー?」
……、……。
「いないのかな」
なんとも言えない気分だ。
あれ程調べたかった相手であったのに、不在である事にこんなにも安堵するとは。
「ま、仕方ないですね。また明日出直すことにしますか」
そう言って千恵が後ろを振り向くと――。
「どちら様ですか?」
「……!」
――いた。
そいつだ。
間違いない。
紫のロングパーカー、その頭の部分には派手な怪獣の不気味な笑顔。
らんらんと光る白濁した気味の悪い瞳。
肉食獣の様な隙のない無表情、姿。
奴はいた。
名前こそ「嘘」だが、彼自身は「嘘」ではなかった。
実在したのだ。
「LIAR……」
口を突いて小さな単語が漏れ出た。
「何用ですか」
相手の口からも一つ、定型文が流れ出た。
その瞬間、千恵は確かに悟った。
嗚呼、矢張り。この人がLIARだ。
私は確かにこの人に会わねばならなかったのだ。
――と。
(つづく)
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