終章 償い



 事件後、一月が経った。

 蒼葉は以前と変わることなく、家事と剣術と学問に明け暮れる日々を送っていた。

 父の仇は討った。もう女の身で剣術をやる必要はない。

 だが、身に付いた長年の習慣は簡単には変えられない。気が付けば稽古着に着替え、道場に身体が向かっていた。稽古をしなければ、どうにも落ち着かなかった。

「無理にやる必要はないが、無理にやめる必要もない」

 先生がそう言ってくれたので、いつか転機が訪れるまで稽古は続けることにした。

 ただ、その時は遠くないかもしれない。

 領主・孝水公が倉井先生を剣術指南役に抜擢したことで雲月流の名声は急上昇し、この半月で二十人以上もの入門希望者が押し寄せて来た。

 希望者の中には元一刃流の年少者もいたが、先生はこれを暖かく迎え入れた。

 また、未だ独身であった先生に縁談の話が何件か来た。

 きっとこれから忙しくなるだろう。良い変化なのだから、それはそれでいい。

 気がかりなのは偽善のことだ。

 あれ以来、偽善は姿を現さない。噂も聞こえてこない。例の山小屋へ行くための山道に検問が敷かれてしまったため、こちらから会いにいくこともできない。

 それでも、いつか約束を果たすため会いにきてくれると信じて待つうちに、一通のふみと大きな布の包みが届いた。

 包みの方はひとまず後にして、表に「蒼葉へ」と書かれた文を手に取る。

 差出人は「善太」と記してあった。それが偽善の本名だということは先生から聞かされていた。

 蒼葉は内心焦りながらも丁寧に油紙を開き、あまり達筆とはいえない文を読み始めた。

 

《会いに行けなくて悪かった。ご公儀の捜索が急に厳しくなってな。ほとぼりが冷めたら会いに行くつもりだったが、この様子じゃいつになるかわからない。だから、親父さんの話はこの文で伝えておく》

 

 やはり偽善は約束を違える人ではなかった。

 安心しつつ、続きを読む。


《実は俺も昔、ほんの一年足らずではあるが、一刃流道場に通っていた。十二の時に由宮流道場から移籍してな。親父さんのことは、それ以前から知っていた。当時、この樒原領で一番の剣客といえば、文句なしに雲月蒼助だった。知っているとは思うが、六、七年前は雲月流の全盛時で弟子も多かった。前領主が雲月蒼助を剣術指南役として取り立てようって話まであったくらいだ》

 

 父は自慢話をする人ではなかったので、指南役の話は初めて聞いた。

 とても誇らしく思う。

 

《これに不快を示したのが、筆頭家老で一刃流道場の主でもある豪堂だ。豪堂は前領主を言いくるめ、剣術指南役の話を白紙にした。親父さんは、その理不尽な仕打ちにも不平を言わず粛々を受け入れた。だが、豪堂はそれだけで済まさず、親父さんを自分の駒にしようと一刃流への移籍を促したんだ。もちろん、親父さんは断った。何度も何度もな。終いには豪堂本人が出向いていったが、それでも答えは変わらず、豪堂は激怒した。そこで親父さんを抹殺しようと刺客を何人も送ったって話は、もう聞いたな。豪堂は親父さんに非があるような言い方をしていたが、親父さんは降りかかる火の粉を払っただけだ。何の罪もねえ》

 

 少し前までの倉井先生と重なる部分が多くて血の気が引いた。

 もし、偽善がここには来ず、あのまま移籍を断り続けていたら、先生も父と同じ運命を辿ることになっていたかもしれない。


《だが、そこで困った事件が起きた。豪堂のやり方に怒った雲月流の門弟が十人ばかり、一刃流道場まで抗議に来たんだ。話は折り合わず、道場内で斬り合いが始まった。先に手を出したのは一刃流の方だ。その場にいた俺も参加せざるを得なかったが、自分の身を守るのに精一杯で何もできなかった》


 いかに七つの頃とはいえ、これほどの事件が起きていたことに気付かなかったとは……。

 きっと、父は家族に心配をかけないよう隠していたに違いない。


《不幸中の幸いにも斬り合いで死者は出なかったが、弟子を抑えられなかった親父さんに豪堂は責任を追求した。自分のことは棚に上げてな。切腹しろとまで言った。当然、親父さんは拒否。前領主も拒否を認めた。そこで豪堂が次にとった策が、娘を人質にするというものだった》


 蒼葉は目を大きく開き、この一文を読み返した。

 娘とは、もちろん自分のことだ。


《偶然それを聞いた俺は、豪堂にやめるよう言った。そしたら、豪堂は条件を出してきた。『お前が雲月を斬れば娘には手は出さない』とな。俺はひとまずその条件を呑むことにした。そして、親父さんに娘が狙われていることを知らせに行ったんだ》


 核心が迫るにつれ鼓動が高鳴る。

 文を持つ手が震える。


《親父さんは、しばらく考え込んだ後、突然言った。『私と真剣勝負をしてほしい』と。俺はわけが分からず、理由を聞いた》


 そう、その理由こそ蒼葉が六年間追い求めていたものだ。

 真実がどんなに残酷だとしても、決して目を逸らさない覚悟を決め、続きを読む。


《親父さんはこう答えた。『豪堂は執拗な男だ。これ以上騒ぎを大きくしては、家族はおろか雲月流そのものが根絶やしにされかねない。私が消えることで家族と流派を守れるのであれば、この命、喜んで捧げよう。だが、豪堂の言うとおりに切腹するのは屈辱だ。せめて最期は武人らしく戦って死にたい』――ここまで読めばもう分かるだろう。俺は親父さんの男気に打たれ、真剣勝負に応じることにした。もちろん、それが尋常な勝負でないことはわかっていたさ。それでも、俺はやるしかなかった。まともに戦っていたら、当時の俺ではまず勝ち目はなかっただろう。だが、勝負の結果は、お前がその目で見たとおりだ》

 

 あの時、少年がなぜ悲しげな顔をしていたのかようやくわかった。

 本当は斬りたくなかったのだ。それでも、父の願いを聞いてくれた。

 

《真相を知れば、間違いなくお前は豪堂を憎むことになっただろう。憎しみを抱えて生きるのはつらいもんだ。だから親父さんも、お前の先生も、何も話さなかったんだと思う。俺も、お前に憎まれないような生き方をしてきたつもりだ》


「私の……私のために……」

 声に嗚咽が混じる。

 胸に熱いものが込み上げ、涙が溢れる。文字がよく見えない。

 偽善の言うとおりだった。

 父を殺されて間もない頃、蒼葉はあの少年を憎んで生きていた。やがて悪斬り偽善の噂を聞き、彼があの少年と同一人物だとわかったことで憎しみの心が薄れていったわけだが、それがどんなに楽だったか。

 偽善が悪を斬る時に必ず名乗りを上げるのは、悪斬り偽善の名を世に広め、蒼葉に自分の生き様を伝えるためだったのだ。

 父のことを話すのは豪堂を斬った後と言ったのも同じ理由だ。

 たった一日のこととはいえ、聞けば蒼葉は憎しみに悶えていただろう。

 そうならないために、あえて黙っていてくれた。

(偽善は、私のためにそこまで……)

 蒼葉は涙を拭う。

 あと少し。考えるのは、とにかく全部読んでからだ。


《俺のことも少し書く。親父さんを斬った後、俺は賞賛されるどころか罪人に仕立て上げられちまった。俺は捕まる前に逃げた。故郷を脱して、剣の腕だけを頼りに生き、気が付いたら今みたいになってたわけだ。だが、俺は後悔していない。親父さんが己の武士道を貫いたように、俺は俺の武士道を貫く。たとえ忌み嫌われようともだ。けれど、お前は女だ。俺達みたいに頑なに生きる必要はない。お前が男の真似をするようになった原因の一端は俺にある。だから、せめてもの償いとして贈り物をさせてもらう》


 ふみはそこで終わる。

 蒼葉は一緒に届いた大きな包みを見た。贈り物はこれに違いない。

 包みを開ける。

「あ……」

 そこには、朱色を基調とした可愛らしい着物と、赤い花びらの飾りが付いたかんざしがあった。

「偽善……」

 また涙が出る。

 今度、着付けの仕方を教えてもらおうと思った。

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