その後――
豪堂重座衛門には切り札があった。
人生を六度やり直しても、なお尽きぬほどの隠し財産が。
地位を失い、家を失い、歩行もままならぬ身体になろうとも、金さえあればどうとでもなる。それが人の世というもの。
(悪斬り偽善、そして雲月流の甘ったれ共め。このわしを生かしておいたこと、存分に後悔させてやるわ)
いざという時のため、金に意地汚い者の顔と役職は覚えておいた。
この独房の番人にも目を付けておいた者がいる。
「豪堂様、手筈が整いましたぞ」
今宵の番人である中年男が柵の前にしゃがみ、小声で告げた。
「抜かりはなかろうな?」
豪堂も小声。
「はっ。今なら誰にも見咎められることなく裏口から脱出できます。駕籠もご用意しました。夜明けまでには樒原領を抜けられましょう」
「よし。もたもたしておると何が起こるかわからん。急げ」
番人は懐から鍵を取り出す。
が、なぜか鍵穴に手を伸ばそうとしない。
「どうした? はよう開けぬか」
「その前に今一度お聞かせ願いたい。脱獄後のお約束は……」
「わかっておる。お主には遠方の地で一生遊んで暮らせるだけの金を渡す。家も用意する。それでよかろう?」
こんな口約束を信じる愚か者はそうそういまいが、豪堂は目の前の男がその愚か者であることを知っていた。
この番人には博打で作った莫大な借金がある。このまま樒原領にいても借金取りに追われる地獄の日々が続くだけだ。たとえ怪しい話であろうとも、この機に乗らぬ手はない。
だというのに、直前になって怖気づいたらしい。
筆頭家老として十年以上も君臨し続けてきた自分が、こんな下郎相手に駆け引きしなければならないことを屈辱に思う。
「わしとお主は一蓮托生じゃ。ここに残っても先はない。それとも、何か借金を返す当てがあるのか?」
「いえ……念のためです。こちらも命懸けですので」
嘘だ。この男は命など懸けてはいない。
いよいよとなれば命惜しさに逃げ出すに決まっている。
だが、今この男の機嫌を損ねるわけにはいかない。まずはこの独房から脱獄しないことには始まらないのだ。
だから静かに言う。
「約束は守る。急げ」
「……はっ」
番人は震える手で牢の鍵を開けた。
足の自由が効かぬ豪堂は番人に背負われ、外に出る。月のない闇夜をしばらく進むと、道沿いの木陰に
「この中で、しばしお待ちを。すぐに駕籠者を呼んで参りますので」
駕籠を担ぐ二人には大金を渡すのと引き換えに、誰が乗るのか問わないよう番人に取引させた。事を知る者は少ない方が良い。当然、番人まで駕籠に乗せては雇う人間が多くなってしまうので、自分の足で付いてくるよう命じた。
やがて、駕籠が動き出す。
第一に向かうのは領内にある隠し財産の保管場所だ。
まずは当面の資金を手にしなければならない。
樒原領から脱出した後は、過去に多額の資金援助をして借りを作っておいた侠客の元に身を寄せるつもりだ。そこで全国各地にある隠し財産を回収しつつ、報復の準備を始める。
剣客を雇うのはやめだ。今度は鉄砲隊を組織する。
いかに化物じみた力を持つ悪斬り偽善でも、鉄砲隊で囲んでしまえば抵抗できまい。
これまでは樒原領での地位と名誉のため、一応は面目の立つ手段を選んできたが、こうなった以上なりふり構ってはいられない。どんな汚い手を使ってでも悪斬り偽善と雲月流を抹殺する。
(まずは雲月流道場に夜襲を仕掛けて、倉井と小娘を始末する。いや、小娘は生かしておいた方が良いな。悪斬り偽善をおびき寄せるのに使える。なにより、この指と足の恨みがある。人質として捕らえている間、たっぷりいたぶってくれるわ)
豪堂の左手からは親指を除く四本の指が失われていた。また、右足の膝下が骨の半ばまで切断されたため、立ち上がることもできない。
一応、簡易な治療は受けたものの、夜も眠れぬほど傷が痛む。
あの小娘に限っては、ただ殺すだけでは到底満足できぬ。
(悪斬り偽善をやった後は雲月流の門下生、ついでに由宮流も滅ぼしてくれる。そして、最後が小娘だ。すべてを失い絶望しきったところで、地獄へ送ってやろう)
倉井石が、悪斬り偽善が、あの小娘が、目の前でもがき苦しむ様を想像し、豪堂はほくそ笑んだ。
そう遠い話ではない。早ければ一年以内に――
不意に駕籠が止まる。
「なんだお前は?」
「そこをどけ!」
駕籠者たちが声を上げる。
どうやら、誰かが道を塞いでいるようだ。
(酔っぱらいでも転がっているのか? まったく、どこの阿呆だ。こんな夜更けに)
豪堂は心の中で悪態をつく。
だが、違った。
「命が惜しかったらとっとと失せな。退く者を斬るつもりはねえ」
聞き覚えのある声だった。
豪堂の肝が縮み上がった。
「ひぃー!」
「お、お助けー!」
駕籠者たちが逃げていく声。
「あ、あっしは関係ねえ。こいつに騙されただけだ!」
番人も逃げていく。
(まさか、まさか、まさか――)
足音が近付いてくる。
豪堂は恐怖のあまり身動き一つ取れなくなる。
足音が止まり、駕籠の
そこから顔を見せたのは――
「よう」
やはり、あの男だった。
「な、な、なぜじゃ!? なぜ貴様がここに!?」
「なぜって?」
男が不敵に笑う。
切っ先がこちらを向く。
「それは、俺が悪斬り偽善だからさ」
終
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