第5話 

 「私、よく考えたんだけどちゃんとここを出るわ。だけど一年間ぎりぎりまでここにいさせてほしいの。」

実花がそう言ったのは、朝のコーヒーをちょうど蒸らし始めたところで、苦い匂いがふわりと部屋に広がった時だった。

「あそこに戻るの?」

私は、ポットの口を上に向けて、椅子に座る実花の方を見た。 

 私は、優しい紳士が、実花を百合子さんを映し出す人形だと、おもっているかぎり、彼女はここにいたってかまわないと思うようになっていた。

 それどころか、戻ってほしくないとさえ感じるようになっていた。

 「ううん。あそこには戻らない。」

そう、と答えながら実花が信条さんの元に戻らないことに安堵した私は、再びフィルターに、お湯を注ぎコーヒーの粉のなかにお湯が吸い込まれていくのを見た。


 「もうそろそろ、タオルケット1枚じゃ寒いわね。」

実花が、くしゃみをしたのをきいて言った。 

 頬を撫でる風は大分冷たくなっていた。


 私たちの、距離は会ったときと比べて大分縮まったと思う。


 涼しくなっても相変わらず、定期的に信条さんから連絡が来ていたが、前とは違って実花も私のとなりにしゃがむか立つかして、信条さんの電話を聞くようになっていた。﹙電話をとることはしないにせよ。﹚

「実花は、どう?迷惑かけたりしてないかな?」

信条さんの一言に実花はかわいらしい顔からは想像できないような変顔を私にして見せた。私は吹き出しそうになるのをこらえ彼の質問に答えた。

「実花は元気ですよ。私ともうまくやってます。」

最後に、私たち気が合うんです、と付け足した。実花は、私の爪先を見つめていた。


 実花は、私が思っていたよりもずっとしっかりした子、だった。色々と気が回るけど、変な気は使わないし、使わせもしないのだ。だから一緒にいて苦じゃなかったんだと思う。

 秋には実花と一緒にベランダでお月見をし、冬には毎朝、散歩に出掛けた。足跡のない雪に足跡を付けるのは思ったより気持ちがよかった。  

 春になって、桜の蕾が膨らみ始めると、私と実花は交互に、桜の花記録日記をつけた。

 桜の花びらが全て散ってしまって、青い葉っぱがきらきらとしだすと、私のベランダで育てるラベンダーも花をつけ、私たちはいくつかを摘みそれをドライフラワーにした。

 近づくと鼻をくすぐるラベンダーの香りが、変に新鮮で、私たちはよく部屋に吊るした小さなドライフラワーの香りを嗅いだ。

 仕事をしていない実花は、私が帰ると、大抵は本を読むか、昼寝をするかしていた。

 私は、実花の前髪から覗くつるりとしたおでこと、投げ出された子供みたいに華奢な脚を見て、クスリと笑ってしまった。すると、それで目を覚ましてしまった実花が、モソモソと動いてむくりと上体を起こした。

「っあははははははっ。」

こちらを見た寝起きの実花の平和ボケしたような表情を見て吹き出してしまった。

「なによぅ。」

と、眉をしかめた実花の前髪が一部だけ、ピョコンと、とび跳ねているのがまたおかしくて、私はもっと笑ってしまった。

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