第3話 仏壇

 「ねぇ。」

気持ちいい風が夏の終わりを告げたころに、実花は記憶が戻ってしまったことを告白した。私は、そう、と答えながら、夜風がレースのカーテンの裾を揺らすのを見ていた。私、帰りたくない。実花は小さな声でそういって、私は、たまらず実花の小さな背中をだきしめた。

 信条さんは、よく私たちを訪ねにきた。彼は、実花、実花、実花、と、実花のはなしばかりをして、彼女のことをとても、大切にしているようだったから、実花はどうして帰りたくないと言ったのか、わからなかった。

 「ねぇ、あなた、信条さんが一緒に食事でもって誘ってくれたけどどうする?」

私が受話器を置くと、実花はしばらく黒い受話器を見つめたあとポツリと言った。

「信条さん、私のことなんて呼んだの?」

私は、質問の意図をが汲み取れず実花を振り返った。実花の目に全く感情がうかがえないのを見てドキリとしてしまう。

「え、と。普通に実花、かな。」

私が答えると実花は、興味をなくしたようにフラりとソファーにすわり、行かなーい。と間延びした言い方で誘いを断った。

 

 結局、食事には、私一人で行くことにした。

 「お邪魔します。」

私が、ソファーに腰かけると仏壇が目に入った。

「あれ?お仏壇なんてありましたっけ?」

うん、この間は、扉を閉めていたからね、と答えながら、信条さんは、紅茶を出した。

仏壇の上の写真にふと、目がとまった。つい呟いてしまった。

「実花?」

信条さんは、私の目線を追い、あぁ、と納得したようにうなずいた。

信条さんは、あれは実花ではなく亡くなった前妻だと、言った。言われてみれば実花よりも歳をとっているかもしれないと感じた。

「百合子といってね。素敵な女性だよ。僕のことを1番わかってる。」

仏壇の写真に注がれる信条さんの目線は、愛しい女性を見つめる男性のそれで、故人に向けるものには思えなかった。

「百合子さんのこと、ずいぶんと愛しそうに話すんですね。」

わたしの一言に、にこりと笑って、そうだね、と答える優しい紳士をみて私は実花がああなってしまった理由のはじっこに触れた気がした。

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