三幕、『礼』の章
幕間/前奏 夕闇の剣士
夕刻。
ある街の、ある館の、ある一室。
「……それで、進行状況はどうなっている?」
男は問うた。
陰鬱な、あるいは冷徹な表情で問うた。
色素の抜けた白い頭髪と、同じ色をした眉を顰めて。
いいや、その眉根はいつも顰められていて、ひどく冷たい印象を与える男だったのだが。
壮年の、石膏像のように硬質な男が、執務机に座ったまま、問うた。
「はっ。およそ八割の接収が完了しております」
問われた男は実直に答えた。
短い返答の中に混ざる感情は――――畏怖。怯え。そして僅かな使命感。
問うた男の眉が、僅かに深く皴を刻んだ。
「……接収? 作業の八割ではなく、接収の八割か?」
ごくり、と唾を飲む音が聞こえた。
無論、問われた男の喉から出た音だ。
「随分と遅れているようだな……八割か」
失望の色が乗ったため息が、ほうと漏れる。
「も、申し訳ございません。残るは旅人向けの施設が中心の区画でして、いかんせん抵抗の意志が強く……」
「そこを解決するのが、諸君の職務なのだがね」
「うっ……申し訳ございません、ラファイス様。滞在している旅人などの抵抗もあり……」
ラファイス――――そう呼ばれた男が、窓から差し込む茜色の陽光に照らされた陶磁器のカップを手に取った。
眉ひとつ動かさずにそれを傾け……静かに、テーブルの上に置く。
「まったく……困ったものだ。己の家でもあるまいに」
苛立ちと共に、そう吐き捨てる。
深く、深く沈みこむような低い声で。
「己の郷里の代わりでも求めているのか……まぁいい。ならば人員を増やせ。遅れた分は取り戻して貰わねばな」
「は、ははっ!」
「奴の処刑も早めろ。少しは大人しくなるだろう」
部下は胸に拳を当てて礼を取ると、足早に執務室を出た。
もう一度、ラファイスが大きく嘆息する。
眉間を揉み解し、しばし瞑目。
何事か思案でもしているのか。茜色の陽に照らされたまま、その体勢を維持し――――
「――――――――そうしてるとほんとに彫像みたいですねぇ、ラファイス殿」
――――いつの間にか部屋の隅にいた男が、意地悪く笑いながら口を開いた。
「……貴殿か」
短く答え、ラファイスが視線をそちらにやれば、陽光の隙間に隠れていた男がゆらりと一歩前に出る。
どこか血を思わせる赤みがかった黒の頭髪を三つ編みにし、それを尾のように垂らした長身の男だ。身を包む深緑の外套が、夕陽によって朱く照らされている。
そしてその外套の隙間から覗く――――象牙の白き鞘に包まれた、剣。
黒き脚絆、帷子と鼠色のサーコート。ベルトに挟まったナイフ。
総体として見れば、夜闇にも紛れ込めそうな暗い色合いの剣士であり――――だからこそ、美しき象牙の白が酷く目立った。
鞘には複雑な紋様が金細工で施され、それそのものがひとつの芸術品として完成していると言っていい程の物である。ならばその刀身はどれほどの物か。この美しき芸術に納められた刃は、どれほどの美を誇るのか。
……それは、いずれ明らかになることもあろう。
だが、今ではない。
象牙の鞘が外套の下に隠れ、剣士は茜色の光の中を歩いた。
「どうも進みが悪いようじゃあないですか。ラファイス殿が直接出てはいかがです?」
「……なんのための兵士だ。そのために数を増やした。問題はないだろう」
「多少早いか遅いかの違いだ、って? ま、確かにそりゃそうですがね」
ただでさえ陰鬱なラファイスの表情が、不機嫌に渋くなる。
剣士から視線を切り、深く息を吐く。剣士はお構いなしと執務机に腰かけた。
「“
「ふん、そう思うなら貴殿に行ってもらいたいものだ。私の倍は手早く済む」
「あっはっは! 倍、と来たか!
「……三倍、と言うべきだったか?」
陽が沈みかけていた。
茜色の光が、徐々に暗闇へと変じていく。
夜が来る。
剣士が闇に溶けていく。
じろり、ラファイスが剣士をねめつけた。
「貴殿の腕を安く見積もったつもりはないよ――――――――“
にぃ、と剣士が笑う。
サーベラスと呼ばれた剣士が、鮫のように笑う。
ひょいと彼が机から飛び降りれば、丁度陽が沈みきったところだった。
……振り返る。
三つ編みがくるりと揺れる。
闇の中で、象牙の白が映えた。
「ラファイス殿が冗談とは珍しい。珍しいついでに、いいでしょう。ご期待に応えますよ」
「ほう……どういう風の吹き回しかね?」
「いやさ、計画の円滑な進行は誰にとっても益ってもんですから。それこそ大した手間でもないでしょうし」
「……そうか。では、ひとつ任せるとしよう」
「仰せの通りに」
ラファイスが卓上のランプを軽く小突けば、ぼう、と火が灯り部屋の中を照らしあげた。
照らしあげれば――――部屋の中に、剣士の姿は既に無かった。
ラファイスは陰鬱に目を細めると、また大きくため息をついた。
ため息をついて、卓上の書類に手をつけた。
――――――――三章、開幕。
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