第四話 剣の初め

 朝の構え矯正が終わり、さぁ昼食だぞというタイミングで、その計画は実行された。


「――――う」

「ん、どうした?」


 いつも通り虫を探していた黄色の動きが、ピタリと止まる。腰にいた村正が怪訝そうに尋ねても、返事はない。

 ただ返事の代わりに黄色はよろめき……腹を抑えながら、どさりと倒れた。


「うぐ、ぐうぅぅぅ……っ!」

「ど、どうした小童!?」

「は、腹が……!」


 小刻みに、荒い呼吸を吐く。

 表情は苦痛に歪み、目尻には涙が浮かぶ。

 胎児のように背を丸め、必死に腹を抑えている。


「朝に食った柿みたいなの、腐ってたかも……!」

「なんじゃとぅ!?」


 村正が人型を取り、慌てた様子で黄色を揺さぶった。


「なにをしているのじゃたわけが! まずいと思ったらすぐに吐かんか!」

「まてまてまてまて揺らすな揺らすなマジでやめろマジで」

「あっ、す、すまぬ。ど、どうする? 大丈夫か……?」

「大丈夫じゃないです……」

「大丈夫じゃないのか!!」


 すっとんきょうな声をあげ、ああでもないこうでもないと村正が周囲を駆け回る。黄色の体には触れないようにしているが、その行為になんの意味があるというのか。あるいはこれは妖刀による回復のまじないなのかもしれない(んなわきゃあない)。


「み、水……」

「ミミズ!? ミミズがどうしたんじゃ!?」

「じゃなくて水汲んできて……」

「わ、わかった。水じゃな! 待っておれよ! 死んだら承知せんからな!」


 ズビッと白い指を突き付けたかと思えば、風のように村正が走り去っていく。

 童女の艶やかな銀髪がたなびき、やがて見えなくなっていき……


「……よし行ったな」



 何事もなかったかのように、黄色は立ち上がった。



 今までの一連の流れは、当然演技である。

 過呼吸ぎみに呻いて見せれば、まぁおよそ苦しんでいるように見える。この手の演技はそれなりに練習していたが、所詮は高校部活レベル。村正が騙されるかは一種の賭けであったが……無事にというか、予想以上に彼女は騙されてくれた。あまりにも素直に騙されてくれたので逆に良心がいささか痛んだがそれはそれ。思えば黄色がサボりを決意したのは村正の過酷すぎる修行のせいであり、それを思えば罪悪感を覚える必要なし。里見黄色、一世一代渾身の苦痛演技であった。

 そもそも翌日以降は普通にまた修行するわけで、一日の休みぐらいでとやかく言わないでほしい。バレた後の折檻とかは気にしないものとする。サボって行くアテが無いのも気にしないものとする。

 とにもかくにも、黄色には休息が必要だった。それだけのことなのだ。


「すまん村正……俺は自由だっ!」


 急ぎその場を離れる。

 とにかく今日一日、ゆっくり休めそうな場所を探さなくてはなるまい。心が軽かった。足取りも軽かった。今日は枕を高くして寝れそうだ。枕無いけど。


 行きがけにいつもの巨大芋虫を見つけた。普段なら食料にしか見えないそれも、今なら素敵な友人に見えた。


「ふふ、今日はお前を食べたりしないから安心しろー?」


 拾って抱えあげ、笑いかける。

 思ってたよりも気持ち悪かった。

 改めて見ると短い脚がワシャワシャ動いてメチャクチャ気持ち悪い。こんなものを普段食べてるのかと思うと気持ちが沈み、しかし今日は食べなくてもいいのかと思うと無性に嬉しくなった。情緒不安定だった。


 芋虫を下ろして森を駆けていくと、やがて森を出て川辺に出た。川のせせらぎが心を癒す。小学生の頃に友達と川遊びをした記憶が甦り、また嬉しくなった。手頃な石を拾って投げ込むと、石は勢いよく水の上を跳ね、やがて沈んだ。


「……ん。あれは……」


 と、川を流れる物を発見。

 気になって、拾うために川にザブザブと入っていく。勢い任せで川に入ってしまったが水温は冷たく、ちょっと後悔した。

 それでもえっちらおっちらと川を進み、 を拾い上げる。


「これ……ってことは、もしかすると」


 黄色の視線が上流に向けられ、




「こぉぉぉぉぉわっぱぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーッ!!!」




 思考は、童女の怒声で遮られた。


「やべっ、もうバレたか……!?」


 辺りを見渡す。

 まだ村正の姿は見えない。

 が、場所がまずい。

 今いるのは川のど真ん中。

 姿を隠す場所がない。


「よくもたばかってくれたのう! どこに行きおったぁ! 」

「クソッ、逃げなきゃ……!」


 村正の怒声が近付いてくる。黄色は慌てて川を渡った。なにはともあれ距離を取らなくては。そのまままた森の中に逃げ込み……


「そこかァァァァァァーーーーーーッ!!!!!」

「はえーなオイ!?」


 その直前、対岸の森から村正が飛び出した。

 銀髪を振り乱し、憤怒の形相で唸り声を上げている。獣か。


「ふははははっ! 足跡を消すのは思い付かんかったようじゃのうたわけがっ!」

「だぁぁぁぁそういうことか!!!」


 マズい。急いで森の中に逃げ込むが、猛スピードで背後から追いかけてくる気配がある。

 というかなんであんな着物でそんな速く走れるんだ。妖刀だから物理法則とか無視するのか。どうなってるんだ妖刀。


「待てい小童ァ!!」

「待ったら殺されるわ!!!」

「ほーうよくわかっておるのう! ならば死ねッ!!!」

「殺意がたけぇ!!!」


 あっという間に村正は川を渡りきり、ドンドン距離を詰めてくる。

 逃げ切れまい。

 そう判断した黄色の行動は素早かった。

 走りながら地面に手をつき、それを軸に反転。同時に握り込んだ石を、掬い上げるように投擲する。


 逃げきれぬ。

 ならばもはや、ここで村正を打ち倒すしかない!

 やるかやられるか、二つに一つだ!


「甘いわァ!」


 しかし相手は妖刀村正。

 軽く身を反らして投石を回避し、そのまま腰に提げた刀を抜き放つ。


「ばっ、お前それマジで死ぬぞ!」

「安心せい峰は返してやる!」

「なら安心! できるかっ!」


 刀の峰で打ったとして、それは要するに鉄の棒による殴打である。

 普通に凶悪な武器だし、当たりどころによっては普通に死ぬ。

 距離は見る見る縮まっていく。

 ここから逃げるのはまず不可能。

 それでもやるしか無いのだと、黄色は手頃な長さの枝を手に取った。反転直前、拾っておいた簡易武器である。

 刀相手に、いくらか頑丈そうとはいえこちらの武器は木の棒。絶望的な状況だが、それでもやるしか無いのだ。


 ざぁ、と風が吹き、紅葉が舞った。

 村正が紅葉を突き抜け、放たれた弾丸のように駆けて来る。

 黄色は息を吐いた。

 吐いて、大きく吸って、また少し吐いた。


 村正が駆ける。

 脇を開き、立てた刀を己の耳に添えるように。八相。

 黄色も構えた。

 脇を閉め、脚を前後に開き、得物を相手の喉元に突き付けるように構える。正眼。


 距離が詰まる。

 来る。緊張に肌が総毛立った。

 八相から放たれる技は限られる。袈裟か。あるいは。


 ――――否。違う。

 村正の構えが変わる。

 耳に添えるように構えられた刀が後ろへと倒れ、童女の体の後ろに隠れた。脇構え。現代の剣道では失われた構え。

 刀が見えない。間合いが掴めない。斬撃はどこから来る?


 違う。落ち着け。

 これは見た。夢の中で何度も。

 何度も殺された。だが今は駄目だ。死ねばそこで終わる。家には帰れない。おしまいだ。

 だから落ち着け。

 構えが変われば踏み込みが変わる。太刀筋が変わる。だがそれは未知のものではないはずだ。対応しろ。生き延びろ。


 違いがある。

 担い手が侍ではなく、童女であること。

 つまり体格が違う。本来なら打刀であるそれは、村正自身が振るう限りは大太刀に近い。

 ならば、ならば怪しむべきはやはり袈裟。

 下段に構えを下げたと思わせての上段。でなければ中段か。いずれにせよ太刀筋はある程度読める。下段は放てまい。地面にぶつかってしまうからだ。


 来る。

 受ける。

 受けなければならない。

 決意する。


 刀の真芯を避けるべく、黄色は村正の打ち込みを予測して半歩下がった。真芯を避ければいくらか受けやすかろうと。

 半歩下がり――――村正が踏み込んだ。


 速い。


 否。近い。


 打ち込みが無かったことに気付く。

 打ち込まずに踏み込んできた。徒手の打撃が狙いか? 否、徒手には遠い。だが刀の間合いには近い。


「甘い」


 ――――ニィ、と村正が口許に三日月を浮かべた。

 ゾッとするような、恐ろしくも妖しい笑み。死の悪寒。

 来る。

 村正が裂帛れっぱくの気合いと共に刀を振るう。


 太刀筋は――――――――下段。


 あり得ない。黄色は目を見開き、そして見た。

 握っている。

 村正が、右手でしっかと鍔元を握っている。

 間合いが変わっている。短く握ることで、太刀筋の自由度も変わっている!

 地面スレスレを潜り抜け、下段から掬い上げるように現れた刀身が黄色の脇腹を打つ。

 激痛。叩き付けられた質量に倒され、体が地面を転がっていった。


「あ、がっ……なん、で……!」

「己で己を斬る訳がなかろ。甘く見たのう、小童」


 呻く黄色に、村正はひらひらと右手を振って見せた。

 傷はなかった。……彼女はあやかしなのだ。

 刀の付喪神が己を傷付けないというのは、なるほど考えてみれば得心の行く話だ。もっとも、黄色は激痛でそれどころではなかったが。

 のたうつ黄色の襟首を、村正が無造作に掴む。


「……ま、読みはそこまで悪くは無かったぞ。要精進じゃな」

「ぃ、ぃぎ……」

「さぁて、どう灸を据えてやろうかのう……」

「ひっ……」


 どっと汗が吹き出した。

 失敗した。

 サボり計画は発覚し、捕まった。

 つまり? 死ぬ。


「ちょっ、ちょっと待ってくれよ!」

「うん? よいじゃろ。言うてみい」

「お、お前それだけ強いんだったら、もう普通に森出れるんじゃねぇの!?」

「そんなことか。まぁ、あの熊程度は我らが天狗夜天流の敵ではないが……」

「な、ならせめて一回街まで抜けてからさぁ……!」

「ダメじゃが」

「なんでだよ!!」


 せめて街であれば、せめて人が住む空間であれば、もう少し衣食住がマシになる。

 そうなれば、修行のツラさもいくらか軽減されるはずなのだ。もう虫は食べたくないのだ!


「儂が熊を斬り捨てて森を抜けるのは容易じゃが……それではお主が楽を覚えてしまうからの」

「え、えぇー……」

「危ないところを儂に任せて後ろでのうのうとしているようでは、天狗夜天流に相応しくなかろう。体に教え込むという意味では儂と“代わる”のもよいかと思っておったが……あの体たらくではな」


 それに、と村正が銀の瞳を細めて遠くを見る。


「……どうもこの森、異様な気配を感じてのう。熊どころではない……なにかがおるぞ」

「熊どころではない……?」

「うむ。其奴の気配は、時を重ねる毎にいやましておる」


 村正が睥睨する先に視線を合わせても、ただただ森が広がるのみ。当然気配などまるで感じない。僅かな沈黙。村正がニィと笑い、それを打ち破った。


「ま、そういうわけじゃ! お主には今少し使い物になってもらわなくてはな!」

「や、やだーっ! もう芋虫は食べたくねぇーっ!」

「好き嫌いはいかんぞーぅ?」

「そういう問題じゃねぇだろ!!!」

「そんなに嫌か?」

「当たり前だろ!!」

「そうか……なら、仕方ないのう」

「どわーっ!?」


 暴れる黄色を無慈悲に引きずり、そしてぺいっと無造作に投げ捨てられる。

 またしてもゴロゴロと地面を転がり、揺れる頭を抑えながら体を起こした。


「な、なんだ……?」

「後ろを見てみい」

「……後ろ?」


 言われるがままに視線を後ろへ。


 ……少し、離れたところではあるが。

 およそ20mは離れていないであろう、そんな距離に。


「……………………嘘だろ」


 ……いる。

 灰色の毛皮、鋭い牙、爪、ぴんと立った耳、凶悪な眼光――――唸る四足獣、狼。

 森に住まう獰猛な狩人が、しっかりと黄色たちを見据えている。


 幸いにして、臨戦態勢というほどではない。

 刺激しないよう用心しつつ、このまま下がっていけば……


「ていっ」


 ところで村正は石を投げた。


「なっ、ばっ、おまっ」


 石は真っ直ぐ狼へと飛んでいき、その眉間を強かに打った。

 上がる悲鳴。……燃え上がる憤怒。

 当然だが、狼の意識を奪うほどの一撃ではない。外敵からの攻撃により、狼は激しく唸り声を上げた。


「逃げ出したのじゃから、少しは灸を据えてやらねばな?」

「おまっ、おまっ、あれはオーバーキルじゃねぇかなぁ!?」

「おぉばぁ……? ……よくわからんが、これも修行じゃ修行」


 慌てる黄色の手を、村正が無造作に握った。

 直後、童女が刀に変わる。黄色の手中に、ひと振りの美しい打刀が収まる。

 狼は怒りで興奮しているためか、村正が消えたことに特に頓着していないようだった。その視線は、真っ直ぐ黄色を射抜いている。


「――――さ、斬ってみせい」

「できるかァァァァァーーーーーッ!!」


 黄色は踵を返して逃げ出し、狼は吠えたてながら追走を開始した。

 今度こそ……命を懸けた追いかけっこの、始まりだった。




   ◆   ◆   ◆




「おい、小童! 逃げるばかりでは修行にならんではないか!」

「無理、言うなよっ! クソッ、クソッ、死ぬぞマジで……!」


 駆ける、駆ける、駆ける。

 村正を手に、森を駆ける。

 ちらと振り返れば、獣の姿はない。

 だが変わりに、獰猛な吠え声が聞こえた。追ってきている。

 逃げ切れるか。

 否、逃げ切らなければ。

 黄色は遮二無二構わず、ひたすらに森を駆けた。


「たわけたわけたわけっ! そんなことで儂を使えると思うておるのか!」

「俺はお前を使いたいとはひと言も言ってねぇ!」

「なんじゃとぅ!」

「だいたいお前のせいで既に全身バキバキなんだよ!」


 日夜続く過酷な鍛練に加え、先程の打ち合い(と言うにはあまりに一方的だったが)によって打撃も受けている。その後転がされたし、今は全力疾走中だ。

 率直に言って、黄色の肉体は悲鳴を上げていた。まだ脇腹が痛い。

 そうして村正と激しく言い争っていると、背後の……先程より近くから、狼の吠え声が聞こえた。

 咄嗟に振り向く。

 視界の端を掠める灰色。


「どわっ!」


 直後、足元で露出した木の根に引っ掛かり、黄色は転倒した。咄嗟に転がって受け身をとる。握ったままの村正が乱暴に扱うなと文句を付けてきたが、無視した。


 ……改めて、背後を見る。

 いる。

 狼。

 森の狩人。

 黄色の命を刈り取るべく追い立てる死神。


 足は止まった。

 彼我距離、目測約10m。

 今から逃げ切るのは、困難だろう。残念ながら。


「まったく……観念したか?」


 ため息混じりの村正の声。

 黄色は立ち上がりながら、こちらも嘆息で返答した。

 ゆっくりと、村正を正眼に構える。

 息は上がっていて、構えは乱れていた。

 それでも、村正を構えた。狼が様子を伺うように唸る。


「……やるしかないんだろ」

「最初からそうと言うておろう。お主はもう、儂を使わねば生きて行かれぬのじゃ」

「勘弁してくれ……」


 ぼう、と手の甲の紋様が淡く輝いた。

 悪態を付きながらも、黄色の瞳はしっかと狼を見据えている。


「さぁ、往くぞ小童。危なくなれば代わってやる故、安心せい!」


 その代償に、黄色はまた筋肉をブッ千切って倒れるわけだ。笑えない。


「ったく、もっと殺陣タテ勉強しときゃよかった……!」


 無論、演劇用の殺陣でどうにかなるとも思えないが、それでも。少しでもこの場の安心が確保できるのであれば、その程度の保証であれ喉から手が出るほど欲しいものだった。


 また、黄色の背筋が総毛立つ。

 先程以上の、命の危機。

 あの狼は村正と違い、手加減をする理由がない。

 つまり負ければ死ぬ。

 やり直しの効かない一本勝負。


 ……それでも、やるしかないのだ。

 黄色が生き延びるためには。家に帰るためには。

 脳裏に父の顔が過り――――踏み込み、打ちかかる。

 10mはすぐに埋まった。

 放つ太刀筋は軽く持ち上げてからの袈裟。正眼からの最速軌道。

 狼の頭蓋を切り裂かんと刀を振るい、


「んなっ……!」


 およそ獣とは思えぬ、無駄のない回避動作。

 それは刀の軌道の下を潜り、開いた大口が獰猛な吠え声と共に黄色に食らい付かんとする。

 死の気配。黙れ。体を動かせ。

 咄嗟に振り下ろした刃を捻り、横に切り返す。それは狼の口を広くしてやろうとばかりに狼の口中に吸い込まれ、しかし狼があぎとを力強く閉じる。

 金属音。

 やられた。

 腕が動かない。

 完全に村正を咥え込まれた。文字通りに。


「ぎゃーっ!!! なにをするか痴れ者がっ!!!!」


 気勢を削ぐ童女の声が聞こえた気がしたが、無視した。というより、それどころではなかった。

 狼と黄色は村正を起点に押し合い引き合い、一歩も譲らない。鍔迫り合いにも似た奇妙な現象が、ここに起きていた。

 ぐ、と力を込めてもびくとも動かぬ。

 あちらにしても同じことだろう。四つ足がしっかと大地を捉え、首の力で思い切り村正を引っ張っている。


「ぐ、ぐぐぐ……!」

「ええいはよ助けんか! たわけっ!」

「うおっ!?」


 次の瞬間、黄色の瞳が銀に輝き、脚がひとりでに前蹴りを繰り出した。狼の横腹を蹴り飛ばし、村正から口を離す。

 脚の筋肉が悲鳴を上げた。村正が一瞬だけ動かしたのだろう。無茶な体制からの加減を知らぬ蹴りに、腰に鈍い痛みが走った。

 その程度で済んでいるのは成長からか、あるいは村正が加減したか。

 ともあれ狼が蹴り飛ばされ、再び距離が開く。目測7m。つう、と冷や汗が流れた。


 命のやり取りをしているという実感。

 夢で殺されるのとは違う。

 先程の仕置きとも違う。

 対等に、互いの命をかけて斬り結ぶ緊張感に、引き攣った笑みが浮かんだ。

 震える手で村正を構える。此度も正眼。他に構えを知らない。


「たわけ」

「……………………」


 狼が起き上がり、再び唸り声を上げて間合いを図っている。

 今の蹴りでさらに怒りが増したか。勘弁してもらいたい。


「おいたわけ」

「………………………………」


 次はどこからくる?

 どう打ち込むのが正しいのか、どう受けるのが正しいのか。

 呼吸が荒いのがわかる。

 緊張のせいか、うまく酸素を取り込めていない。

 息が苦しい。

 助かるためには、殺すしかない。あの狼を。


「おーい?」

「…………………………………………」

 

 行くか。

 打ち込むか。

 沈黙のにらみ合いに黄色の心が耐えられない。

 斬り捨て、終わらせる。これしかない。

 さぁいざ、正眼から大きく一歩を踏み出し――――



「――――話を聞かんかこのドたわけがぁッ!!!!」



 その一歩は、村正の怒声で中断された。

 あまりの大声に狼も驚いたのか、目を丸くして様子を伺っている。


「な、なんだよ。そんな急に叫んで……」

「剣閃、無念より生ずるべし」

「……なんだそりゃ」

「呼吸も構えも斯様かようにグチャグチャでは勝てるわけがないという話じゃこの大うつけが!!!」


 再度の怒声と同時に、村正に肉体の主導権を奪われる。

 改めて、正眼。

 肉体から力が抜け、脱力。

 自然なままの力で、構えが形成される。

 刀は僅かに握り込まれた小指で保持され、しっかりと大地を捉えた足腰はただそこにあるだけで何もせずとも上半身を支えている。


 そして、黄色村正は大きく息を吐き、吸って、また吐いた。


「……こんなものじゃろ。ほれ」


 主導権が返される。

 呼吸は、落ち着いていた。心も。

 思考が澄んでいるのがわかる。先程よりも格段と。

 焦る気持ちが消え、逸る気持ちが消えた。

 風に揺られる木々のざわめきが、雑音として消えていく。

 黄色がいて、狼がいる。

 そのような世界を、黄色はハッキリと認識した。

 ……行ける。


「後にして先を取るべし。よく見よ」


 狼は村正が放つ剣気に充てられたのか、しばらく様子を見ていた。あるいは、黄色がまた構えを崩すのを待っているのか。

 が、いよいよ黄色の構えが崩れることが無いことを悟ったか、飛び掛かる姿勢を見せる。来る。来い。


 四つ足が大地を蹴った。

 7mなぞ、ひと跳びだ。一瞬で詰まる距離。

 狼はもう一度地面を叩き、左前足を振りかぶって飛び掛かる。


 爪で刀をどかして、本命は牙――――


 ……わかる。読める。ならば。


 正眼に構えた村正で、捻り込むように爪を

 上へとこじ開けられた前足。

 村正であれば、あの夢の侍であれば、この切り上げで狼の腕を寸断していただろう。


 だが、いい。

 この瞬間、その必要はない。

 前足が持ち上がった。

 ――――つまり、ガードに使えない。

 時間が鈍化する。

 狂える獣のあぎとが、黄色の喉元を食い破らんと涎を撒き散らしていた。

 もう遅い。

 再度、腕を捻りながら――――袈裟の斬撃を繰り出す。

 刃は吸い込まれるように狼の首へと向かい、そして通り過ぎた。

 鈍い衝撃に黄色の腕が痺れる。

 手応え、と呼ばれるものを、その時始めて知った。

 肉を裂く、その手応え。

 鮮血。

 狼は悲鳴と共に大地に倒れた。

 ……それから、動かなくなった。

 もう動くことは無かった。

 鋭い爪も、牙も、黄色を害することはない。

 ただ首筋からどくどくと血を流し……倒れている。

 少し遅れて、黄色は己が勝ったのだということに気付いた。


「…………っしゃあッ!!」

「やれやれ……及第点かの」


 今さらのように心臓が激しく鼓動を始めた。

 黄色はしばらく、その鼓動を噛み締めた。

 今ここに生きている証を噛み締め、生死をやり取りした実感に腰を抜かして座り込んだ。


 里見黄色の、剣士としての第一歩だった。

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