第二話 異世界にはじめまして
くすぐられるような感覚に、目を覚ます。
まず目に入ってきたのは、知らない天井だった。
……とまぁお決まりのネタを言ってみたが、さて実際のところ目が覚めると視界に飛び込んできたのは岩壁だ。背中をごつごつとした違和感が刺激し、ぼんやりとここが洞窟の中だと理解する。
同時になにか、小さな手が自分の体をまさぐっている感覚。違和感を覚えて上体を起こす。
「む。起きたか」
……黄色の体をまさぐっていたのは、幼い少女だった。年の頃は、10を越えない程度だろう。童女と言っていい。童女は和装に身を包んでいるが、腰まではあろうかという銀髪と、鋭くも
童女はぺたぺたと黄色の体を触っていたようで、その手が黄色の右手首に添えられた。
「君は……」
寝起きで頭がうまく働かない。
どうして自分はこんなところで寝ていたんだったか? 確か自分はトラックに轢かれて、それから……
記憶を辿ろうと頭を振ると、童女が年不相応に妖しく
「見せた方が、理解も早かろう?」
鈴を転がしたような甘い声。そっと黄色の手が持ち上げられる。手の甲に紋様。孝。……そうだ、自分は転生して、それで。
童女は黄色の手を己のふとももに導いた。じく、と僅かな
……それから、ようやく絵面から漂う倫理的ヤバさに気付き、背筋が冷えた。
「ばっ、ちょっ――――!」
慌てて手を振りほどこうとする。が、振りほどけない。力が強い。幼い見た目とは不釣り合いに!
どう考えてもこんな幼い少女に力負けするのはおかしいのだが、しかし事実として黄色の手はビクともしない。抵抗できないまま、つつ、と童女のふとももを撫でさせられる。
ついに手のひらが押し付けられ、すべすべとした感覚が心地好さと気恥ずかしさをはっきりと心に刻んだ。そのままふとももの上を滑るように、足の付け根まで。
それ以上は、と叫びそうになったところで、動きが止まった。
同時に、手の甲に走った疼きが少し強くなる。手の甲の紋様が淡く光っていることに気付いた。童女のももの付け根……あてがわれた手の下からも、僅かに光が漏れている。
「これは……?」
「うむ。犬士の共鳴と言ったところかのう。紋様同士を近付けると、このように反応するらしい」
童女が手を離す。手を横に滑らせてみれば、確かに童女のももの付け根にも黄色同様に不可思議な紋様が刻まれていた。
異世界……この世界の文字で、『忠』。
となれば、この童女は忠の犬士ということになるか。なんとなしに童女の紋様を指でなぞってみれば、神秘的な輝きが
「お主は『孝』か……さて、あの奇天烈な天狗がどこまで考えて八行を選んだものかはわからんがな」
……あの神は、見る者がイメージする“メッセンジャー”の姿になるという話だったか。さしあたってこの童女には天狗に見えたらしい。
和装といい、口調といい、妙に古風な印象を受ける。
まさか、なんらかの妖怪だったりするのだろうか。
神がいたのだから、妖怪ぐらいいたっておかしくはない。仮にそうだとすれば先程の怪力の説明もつくのだが。
「……ところで」
「あ、ああ……なに?」
「いつまで儂の脚を撫でておるつもりじゃ?」
「あっ、ごっ、ごめん! ごめんな!?」
「よもや
「違いますゥゥゥーーーッ!!! 断固として違いますゥゥゥゥーーーーーッ!!!!」
混乱するあまり撫でっぱなしにしていた手を慌てて引っ込める。
確かにひんやりとしてすべすべした彼女のふとももは撫でていて気持ちよかったが、それは無意識の行動であって決して下心があってのものではない。断言するが黄色はロリコンではない。むしろ年上が好みである。
しかし呆けたままに童女のふとももを撫で回していたことは客観的な事実であり、羞恥心と罪悪感が激しく黄色を
気恥ずかしさのままに這い這いで童女の側を離れる。死にたい。ひたすらに。
児童ポルノ。未成年強制わいせつ。社会の恥。様々な単語が黄色の脳裏を飛び交い、最後に父の顔が浮かび、本当に死にたくなった。父に顔向けができなかった。世が世なら腹を切って詫びかねないレベルの罪悪感だった。今なら童女と世間と家族に向けて、焼けた鉄板の上でだって土下座ができるだろう。
「すいませんでした……」
ここには焼けた鉄板は無いので、繰り出したのは素の土下座だったが。
「クク、よいよい。
童女は袖で口許を隠し、ころころと笑った。
それを見て、そもそも黄色の手をふとももにあてがったのは童女だということを思い出した。
バツが悪くなり、そっと目をそらして息を吐く。それからたっぷり吸って、また吐く。深呼吸。してみれば、少しは頭が落ち着いた。
「……ええと、なんだ。君が……俺を呼んだって言う転生者で、いいのか」
「うむ、いかにも」
そう、確かそのような話だったはずだ。
神が呼び寄せた七人の転生者の一人が、弟子を求めて手頃な若者を求めたのだ、と。
……その割りには、目の前の彼女はあまりにも幼い。よく見てみれば腰に刀を差してはいたが、それを振るうにはいささか背丈が足りないだろう。短刀ならまだしも、彼女が差しているのは成人男性に合わせて作られたと思わしき打刀。先程の怪力を見るに振るうだけの力はありそうだが、どう考えても体格が小さすぎた。
「……なんじゃ、天狗からなにも聞いておらんのか?」
訝しげな視線に気付き、童女は不快そうに眉をしかめた。
「わ、ワリィ。自分の剣術の最強を知らしめるために、弟子を取ろうとしてる剣士……って聞いてたんだけど」
「ふむ……あながち間違いではないが、正しいとも言えんのう。確かに儂は剣術を仕込む弟子を求めたが、別に剣士ではない」
「じゃあその刀は……?」
「……これも見せた方が早いか。ほれ、手を出せ。……安心せい、もう戯れはせん」
一瞬警戒したが、言われるがままに手を差し出す。
童女が無造作にその手を握り……次の瞬間、激しい光が辺りを包んだ。
「うおっ……!」
思わず目をつむる。
一拍遅れて、童女と繋いだはずの手に違和感。感触が硬い。繋いだ時は、確かに柔らかい肉の感触だったはずなのだが。
ゆっくりと目を開き……驚愕した。
「ほれ、こういうことよ」
いない。
声はするのに……童女の姿が、どこにもない。
そして黄色の手には、ひと振りの刀が握られていた。妖しく輝く、どこか危うい魅力を放つ打刀。吸い込まれそうなほど美しい刀身。ゾッとするほど澄んだ刃紋。人を殺めるために鍛え上げられた鉄の重みが、ずしりと黄色の手の中に収まっている。
しげしげと刀を見つめると、あることに気付いた。刀身の根本に、見覚えのある奇妙な紋様が刻まれている。
――――異世界……この世界の文字で、『忠』。
「
童女の声。姿はない……否、姿はある。
ただ、形が変わっただけだ。そのことが理解できた。童女の姿は、この刀へと変わったのだ。
より厳密に言うならば、戻ったと言ってもいい。
彼女は人ではなく、刀であるが故に。
刀が人の姿をとったもの……物のあやかし、付喪神。
「――――――――――――銘は村正。そう呼ぶがよい」
童女は、刀は、日本で最も有名な妖刀の名を告げると、鈴を転がしたような声でくつくつと笑った。
◆ ◆ ◆
それから、二人(というより、ひとりとひと振りと表現するのが正しいか)は簡単な自己紹介を済ませ、洞窟を後にすることした。
洞窟はどちらかと言えば横穴とでも呼ぶべき風情で、崖の中頃にぽっかりと空いた場所であるようだった。幸いにして下までは目測2m程度。気を付ければ飛び降りても怪我はしない高さだ。十分に用心しつつ飛び降り、地面に手をついて着地。四つん這いになることで、衝撃を分散させる着地法である。……次の瞬間、なんでもないようにすとんと村正が立ったまま着地していたが。
「…………」
「ん、どうかしたか?」
「いや……ほんとに人間じゃねぇんだなぁって」
村正。
恐らくは、日本で最も有名な妖刀だろう。
徳川に仇なす刀として忌み嫌われ、同時に徳川に仇なす者に好まれた刀たち。無類の切れ味と美しさを誇る、呪われた名刀。
長い年月を過ごし、人の想念を蓄えた道具は妖怪として意思を持つと言うが、なるほど村正ほど高名な妖刀ともなれば人の想念も多量に集まろう。その想念は、およそ妖刀への畏れや嫌悪、そして憧れなのだろう。数多の人々が妖刀を畏れる心が、ひと振りの刀を付喪神に仕立て上げたであろうことは、容易に想像できた。
「なんじゃ、あやかしを見るのは初めてか。なぁに取って喰らいはせんわい」
「……だとしたら、目覚める前に死んでたろうしな」
「血を啜りはするがのう」
「いかにもだな……」
今宵の村正は血に飢えておるわ、と言ったところか。
軽口を叩きながら、村正と並んで歩き出す。
何はともあれ、まずは人里を探すのが先決だろうというのが二人の共通見解だった。なにをするにせよ、いつまでも洞窟の中にいるわけにもいかない。
洞窟を抜ければ、辺りには森が広がっていた。時刻は昼。木々は赤黄に色付いており、地面には落ち葉や枝が敷き詰められている。地球と似た環境と仮定するならば、季節は秋ということになろうか。
幸いにして、少し歩いてみれば川が見つかった。これを下っていけば人里も見つかるだろう。人間はどう生きるにせよ水源が必要なため、川沿いに作られる町は多い。
「しかしのー」
「どうした?」
「お主、体が貧弱過ぎるぞ。まともに刀が扱えるのか?」
「……扱ったことねぇからなぁ」
……最初に黄色の体をまさぐっていたのは、それか。体つき、筋肉量を見ていたわけだ。
「まったくあの天狗め、因果がどうこうと言うておったが、これは体作りから始めねばならんか……」
「…………いやまぁいいんだけどさ。俺が弟子になるの、もう決定事項なのな」
「……嫌なのか?」
「いや、やるよ。やらなきゃな。魔王、倒さなきゃだし」
一介の高校生の身で魔王とやらと戦うのは、いささか荷が勝ちすぎる。剣術を教えてくれると言うのなら、素直に教えてもらうべきだろう。素人からどこまでやれるかはわからないが、妖刀のポテンシャルに期待する。
「村正ちゃんはさ」
「ちゃんはよせ。ナリは幼子とはいえ、百年は生きておるのじゃぞ」
「マジで妖刀なんだな……」
「…………まぁの」
言ってから、黄色は己の失着に気付いた。村正というからには妖刀と呼ばれていたのだろうが、そもそも妖刀というのはポジティブなニュアンスの言葉ではない。彼女がそう呼ばれることを気にしていてもおかしくはない……というか、気にしていて当然なのだ。僅かに俯く童女を前に、いたたまれない気持ちになる。
「……その、すまん。デリカシー無かったな。 悪口言ったつもりは無かったんだが……」
しまったな、と頭をかく。出会ったばかりの童女ではあるが、だからこそあまり傷つけたくはない。どうにも実感はないが、これから長い付き合いになるかもしれないのだ。
二人の間に気まずい空気が流れ…………――――さて、その瞬間の出来事だった。
みしり、と樹が軋む音。
のし、と枯れ葉が踏みしめられる音。
ぱき、と枯れ枝が踏み折られる音。
……いる。
違う。いた。
顔を上げる。
そこにいた。
毛皮。
巨体。
爪。
牙。
吐息。
こちらを睨む凶悪な目つき。
その獣は、熊と呼ばれる猛獣だった。
「――――…………おいアレ」
「……デカいな。ヌシか」
「歴戦って感じだな。……逃げれると思うか?」
「向こうの腹具合によろう」
「へっ、そりゃそうだ」
小声で、隣の村正と囁きあう。視線は熊を見つめたまま。
死んだふりは効果がないのだったか。叫んだり背中を見せたり走って逃げるのも危険、とテレビで見た記憶がある。
ジリ、と少し下がれば、その分ゆっくりと熊が足を踏み出した。完全に狙いを定められている。
巨大な熊だ。
動物園で一度見たことがあるが、それよりもひと回りかふた回りは大きいように思う。
「取れ」
「は?」
「手じゃ。取れ。抜け。斬るしかあるまい」
村正が短く言い切り、手を差しのべる。
黄色は僅かに躊躇った。熊を刺激したくないという気持ちがあったし、
「……素人だぜ? 流石に熊の相手は……」
無茶だとも思った。
銃などであればまだしも、刀だけで熊の相手など、どう考えても狂気の沙汰である。
「たわけ、死ぬぞ。ここは儂に任せよ」
「……わかったよ」
だが真剣な顔でそう言われると、不思議と反論する気も無くなった。
妖刀、付喪神である村正であれば、どうにかするだけの能力もあるのかもしれないという希望もあった。
だから、差し出された手を握る。
先程と同じように、輝きと共にひと振りの刀が黄色の手の中に収まった。
そして――――黄色の瞳が、鋭い白銀に塗り変わる。
「借りるぞ、小童」
村正の声が、どこか遠くに聞こえた。
構えを取る。
誰が? ……黄色がだ。
勝手に動いている。黄色の意思に関わらず、手足が勝手に構えを取っている。
その奇妙な感覚に、しかしどこかで納得した。
……きっと、村正が動かしているのだ。
なるほど確かに妖刀だ。担い手を操るというのは、妖刀の特徴として耳にしたことがある。
童女が消えたことに驚いたか、握られた刃を恐れたか、構えと殺気に警戒したか。
大熊はぐるると唸り声を上げ、用心深く間合いを測っている。
油断すれば、一瞬の隙に距離を詰めて爪と牙を突き立ててくるだろう。
『……行けるのか?』
声は出せない。
黄色の口は呼吸のために使われている。規則的な呼吸が静かに肺を膨らませ、あるいは凹ませていた。
だが、念じれば届くような気がした。実際届くらしい。村正が答える。
「クク、愚問よな。儂らの
……天狗夜天流。
それが、彼女の流派の名であるらしい。今のところは正眼に構えるのみで、特に珍しい点は無い。ただその正眼は実に洗練され、切っ先は真っ直ぐ大熊に狙いをつけてピクリとも動いていなかった。本来の黄色であれば、これほど美しい構えを取ることは不可能だろう。
ニィ、と黄色の口角が吊り上がった。黄色が笑ったのではない。笑ったのは、村正だ。
その僅かな表情の変化に何を見てとったのか、大熊は咆哮を上げながら大地を踏み締めた。彼我の距離は10mも無い。大地と巨体を揺らしながら、大熊が突進する。
直撃すれば……命はないだろう。ウェイトが違う。膂力が違う。濃密で具体的な死が急速に迫る。
残り五歩。咆哮に魂が
残り四歩。叫び出したくなった。叫べない。
残り三歩。体は村正が動かしている。覚悟を決めた。
残り二歩。祈る。それしかできないのが歯がゆいが、他にできることはない。
残り一歩。
零――――手首が返され、一歩を踏み込む。
爪を振りかぶる大熊の脇を抜け、掬い上げるような逆袈裟。
速い。
傍観者として動きを知覚する黄色でさえ、踏み込みも手首の返しも見えなかった。気付けば踏み込み、気付けば切っている。分厚い毛皮をものともせず、肉を裂く手応えがあった。
「……浅い」
しかし
大熊は脇の下から鮮血を滝のように垂れ流し……憤怒の相貌で、ゆっくりとこちらを見た。
深手ではある。だが致命傷ではない。
トドメを刺すには、加えて一撃。
だが無理だ。
黄色にわかった。
黄色には聞こえていた。
ミシミシと、メキメキと、嫌になるほど聞こえていた。
『ま、って』
「待たん。後にせい」
『いやマジで、待って、ほんとに……!』
大熊が唸り声を上げ……ゆっくりと、こちらを睨みながら下がっていく。
意外に冷静だ。退くつもりらしい。黄色としてもありがたい。
ジリ、と
『無理、追わないで!』
「なんじゃ」
『そのまま! ほんと頼むから!』
そうこうしている間に、大熊は森の奥へと消えていった。血痕を追えば、ここからの追跡も可能だろうが……
「なんなんじゃいったい。あとひと押しで始末できたと言うに……」
血払い。
いつの間にか現れた鞘に刀身がゆっくりと納められ……清んだ鍔鳴りの音が森に響いた。
瞳が銀から黒に戻り、肉体の操作権が黄色に返還される。
それと同時に、黄色はその場に倒れこんだ。
「!? お、おい! どうした小童っ!」
「……ってぇ……」
体はピクリとも動かなかった。
なぜか?
……決まっている。激痛でだ。
腕、脚、腰、背中。
身体中のありとあらゆる場所が、想像を絶するほどの激痛に襲われている。指先一本も動かない。理由はわかっていた。単純な話だ。
「お―――童――っりせ――――!」
村正の声が遠い。
黄色は僅かばかりの申し訳無さと、前途の多難さに想いを馳せ……その意識は、ゆっくりと闇の中へと落ちていった。
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