ラモーナ・アンドラ・ザビエルの優雅な休日


 休日。それは平日ではない日――もっとも、もはや今の彼にはその区別はなかったのだが――その日、妻と妻の母親が食事に出かけているあいだ、彼が留守番をすることになった。彼は失業していた。彼には留守番をするだけの時間があった。彼の名前は樋口恭介といったが、ここでは、彼が長年愛用しているインターネット・ユーザー・ネーム、〈ラモーナ・アンドラ・ザビエル〉と呼んでおこう。樋口恭介ことラモーナ・アンドラ・ザビエル は、地元岐阜県においては右に出る者はいないほどのネット弁慶で知られており、リアルでは温厚であるものの、ひとたびインターネットにつながれば、そこら中でお得意の〈イキリ〉をかましていた。

「ゆっくりしておいで」とラモーナ・アンドラ・ザビエルこと樋口恭介は言った。

「ありがとう」と妻は言った。「それじゃあ、赤ちゃんをよろしくね」。樋口の妻はそう言って、母親と二人、手を振りながら家を出ていった。

 ザビエルは赤ん坊にミルクを与え、おむつを替えた。ゆったりとした音楽をかけて、赤ん坊をゆりかごに乗せてゆらした。赤ん坊が眠ろうとしたとき、玄関のチャイムが鳴って、赤ん坊は目を覚ました。赤ん坊は泣き始めた。ザビエルは、仕方がないので赤ん坊を抱きかかえ、そのままあやしながら玄関に向かった。

 ザビエルは玄関のドアを開けた。マスクをつけた作業着の男がドアの前に立っていた。

「こんにちは」と作業着マスクの男は言った。「ここ、樋口さんちだよね」

「はい、そうですけど」とザビエルは言った。「どうかされましたか?」

「ああどうも、清掃業者です」と作業着マスクの男は言った。「名前は木牟田といいます。キムにタで木牟田です」

「清掃業者? そうなんですか」とザビエルは言った。樋口は、え、この人なんで名前まで言うの? と思ったが、思っただけで口には出さなかった。「でも聞いてないですね。予約してましたか?」。ザビエルは左手で赤ん坊をかかえたまま、右手でドアを開けたままにしていた。彼はドアを足で支えて右手を抜き、両手で赤ん坊をかかえなおした。

「いや、旦那さんが注文してないなら奥さんが注文したんだよ。予約したとかしてないとかの話じゃなくてさ。普通に考えれば普通にそうなるでしょ。あんたさ、ひょっとしてちょっと頭悪い人?」と、キムにタで木牟田と名乗る作業着マスクの男は言った。「ほら、これ、見てもらってもいい?」。木牟田を名乗る男はそう言うと、発注書のコピーを取り出して見せた。そこにはたしかに樋口の妻の名前があった。

「たしかに妻の名前です」とザビエルは言った。

「そうだよね。ああ、良かった」と木牟田を名乗る男は言った。「いや、俺まだこの仕事始めたばっかなんでこの辺の地理とか知らないしさ、住所合ってるかとかちょっと心配だったんだよね。でもまあ良かったよ。合ってて。それじゃあ早速掃除始めるんで、家の中入りますね。あんたが変なことごちゃごちゃ言うからさ、いろいろ雑談してなんか無駄な時間過ごしちゃったけど、こっちもそんな暇じゃないんでね」

 そう言うと木牟田を名乗る男は靴をぬぎ、家の中に入っていった。


 木牟田――キム――は黙々と作業を進めた。キム の作業は無駄がなく、休みなく、端的に言ってよく仕事をしてくれたと言ってもいい。ザビエルはそう思った。

 キムは換気扇を外して専用のシャンプーで洗い、カーペットを剥がして裏側を拭いた。

「カーペットは定期的に剥がしてちゃんと裏まで掃除したほうがいいよ」と キムは言った。「カーペットの裏はゴミをためこむんだよね。収集癖っていうかさ。ほら、人間でもそういう気持ち悪いやついるだろ? そういうやつと同じでさ、カーペットの裏は、髪の毛とか埃とか、そういうゴミをさ、なんでも集めたがるんだよ」

 それからキムは、本やCDの詰まった棚を一段ずつ整理しなおし、タオルを使って埃をとった。

 CDの最後の一枚を拭き終わり、「これでまあ、だいたい終わり」とキムは言った。「俺もプロだからさ、わかるんだけど、旦那さん性格悪いでしょ。部屋汚いもんね。ちょっとたまには掃除したほうがいいよ。部屋が汚いやつは心も汚いんだ。それか、心のほうも俺がきれいにしてやろうか? ははは。嘘だけど」

「そうですか」とザビエルは言った。「まあ、でも、お疲れ様でした。ありがとう」とザビエルは言った。


 作業が終わったあと、キムは換気扇の下で煙草を吸っていた。旦那さんも吸う? とキムは言って勧めた。ザビエルこと樋口はリアルに禁煙中だったが、たまにはまあいいかと思った。「ほんとは/ほんとに禁煙中なんですけどね、いただきます」とザビエルは言った。赤ん坊は別室で眠っていた。

「いや、禁煙中だったら駄目じゃね? 旦那さん意志弱いね。そんなんじゃ駄目だよ」とキムは言った。

「ああ、たしかにそうですね。すみません。やっぱりやめときます」とザビエルは言った。

「冗談だよ冗談。なんでも真に受けんなよ」とキムは言った。キムは声を上げて笑いながら、煙草を一本差し出した。ザビエルはそれを受け取った。口にくわえ、ライターを借りて火を点けた。息を吸うと苦い香りが口の中に広がって、そのまま頭の中を覆っていくようだった。

「それにしてもさあ、この家は本が多いね。気持ち悪いくらい。全部で何冊くらいあるの?」とキムは言った。

 ザビエルは少し考えてから「数えたことないから正確にはわからないですけど、五〇〇〇冊はあるんじゃないかな」と言った。

「え、マジ? 何それやっば」とキムは言った。

「僕のだけじゃないけど」ザビエルは付け加えた。「家族全員分ですからね」

「いや、すごい。すごいよ。気持ち悪いくらい。読書家ってやつだね」

「いえいえ、そうでもないですよ。最近はあまり読めてないんです。小さい子どもの面倒も見なきゃいけないですからね」

「ふうん。そんなこと訊いてないけど。お客さんは普段何してる人?」

「今は会社勤めはしてないけど、家で小説を書いてます」とザビエルは言った。「まあ、まだ本は一冊しか出てませんけど」

「へえ、ニートの作家さんなんだ。ふうん。すごいね。すごいっていうか、すごいって言われたそうな顔してるね。まあ俺もさ、昔はラップとかやっててさ、けっこうブイブイやってたからさ、そういう盛り上がっちゃう感じの気持ちはわかるよ。知ってる? 〈コリアン・ファッカー〉っていう――いや、まあそれはいいや。で、あんた本を出してるんだね。なんていう題名?」

「いや、題名とかはちょっと言うの恥ずかしいんで、あんまり言いたくはないんですけど」

「ええ? なんで? 自分の本なのに? おかしくね?」とキムは言った。「いいじゃんいいじゃん。今さら何言っちゃってんだよ。隠すようなことでもないでしょ。別にいいじゃんかよそのくらいさあ。マジ意味わかんないんですけど。変なとこでデリケートな感じになってんなよ。なあ、教えてよ。教えてくれたら本買ってあげるよ」

 ザビエルこと樋口は腕を組んでうーんとうなった。樋口は少し間を置いてから言った。

「題名は、構造素子といいます」

「え?」

「構造素子です」

「は?」

「構造・素子です」

「ああ、はいはい、行動阻止ね」

「いや、行動じゃなくて構造です。どじゃなくてぞ。構造ですよ」

「ふうん、構造ね」とキムは言った。「なんとか構造の構造だ」

「そうですね、はい」

「そしは?」

「素直の素に、子どもの子で、素子です」

「え? ああ、ああ、なるほど。なるほどね。それで合わせて構造素子ね」とキムは言った。「でもそんな言葉は聞いたことないね。めっちゃ厨二病っぽいんだけど。なんていうか、イタい。構造も素子もなんとなく聞いたことがあるけどさ、くっついた言葉を聞いたのは初めてだよ。どういう意味なの? つーかそんな言葉があるの?」

「いえ、造語ですね」

「造語?」

「僕が作った言葉なんです」

「え、きも。変なの。めっちゃ変じゃね。イタいよそれ」

「え、イタいですかね」

「いや、ちょっと思っただけだよ。そのくらいでいちいち気にすんなよ。さっきからなんかグチグチ言ってさあ、あんたちょっと細かすぎるんじゃないの? そういうのって嫌われるよ、マジ。あんたもさあ、いい歳してんだからさ、もうちょっと寛容になったほうがいいんじゃないの? これは僕からの忠告ですよ、忠告。でも、まあ、それは別にいいや。なるほどね、構造素子ね。わかった。こ、う、ぞ、う、そ、し、と」。キムはそう言いながらスマートフォンの画面に文字を打ち込んだ。「おっ、すっげー、マジじゃん。あったあった。構造素子あった。Amazonにあったよ。ほんとだ、樋口恭介って書いてある。お客さんほんとに本書いてる人なんだね。ははは、すごいな、マジウケる。つーか超ウケる。はっは。マジでおもろいわ。これはウケますね。ウケますよマジで。つーか、マジかよー。はっはっは。いやいや、いやいやいや、でもさ、いやあ、なんかこれあれだね、あんまり評判良くないみたいだね。総合評価で★三つとかだし。最低評価の人もいるしね。こういうのってけっこう珍しくない? あんまり見ないよね、★一つって。すげえレアじゃね? うん、すげえレアだよ。ウケるうえにさらにウケる。ウケの上塗りって、どんだけウケをちょうだいしちゃってるわけですか? って感じだね。ははは。マジおもろいからさー、これちょっと読みあげてみてもいい?」

「え?」

「いや、だから、読み上げてもいいかって。このレビューをよ」

「え、いや、もういいじゃないですか、そういうのは」とザビエル樋口は言った。「世の中にはいろんな人がいて、そういう人もいるってだけで、別にことさら珍しがって言うようなもんでもないじゃないですか」

「いやいやいやいや、いいじゃんいいじゃん。何言ってんの? いいじゃん、気にしてないなら別にさ。ほら、あんたは慣れてるかもしれないけど、俺はこういうの初めてだからさ。まあ、ちょっと気になっただけだからさ。読ませてよ。いいっしょ? いいね?  読んでみるね?」。キムはそう言って、Amazonのレビューを読み上げ始めた。「2章の途中で挫折。『それらのプロトコルが頻繁にエラーを返した』って何? プロトコルエラーってのは確かにあるけど、プロトコルとプログラムは別ものだし。らしい言葉を使うときは、その意味をずらしたり新しい意味を付加したりする場合でも、読者が了解しないかぎり、たんなるしったかぶりの誤用。少なくとも、ここまで読んだかぎりでは、サイバーパンク的ガジェットのほうがまだマシです。1章2章には雰囲気理系ワードちりばめられているけれども、すべてが上滑りで、くどい。ひょっとしたら、SF批評を親子の物語風にしあげ目くらましに平行宇宙とイミフ理系ワードをぶちこみました、的なもんじゃなかろうかと、この段階で思ってしまった、だってさ。何これめっちゃウケるね。このコメントもなんか難しいし全然意味わかんないけど、なんかめっちゃディスられてるね。ディス100パーセントじゃん。ははは。いやほんとウケるわ。でもさあ、旦那さんさあ、こういうの見て腹立ったりしないの?」

「え、いや、まあ、正直ちょっと嫌だなあと思いますけど、まあそんなの気にしてたらキリがないですからね。いろんな読み方があると思いますし、読む人によっては不満もあると思いますよ。まあ、残念だとは思いますけど、そういう人もいるんだなあとしか思わないです。そのコメントととかはまあ、最後まで読んでないのによく自信満々にそういうこと言えるなあとは思いますけど」

「え?  ほんとに? それだけ?」

「ええ、まあ、だいたいそんなところです」

「嘘でしょ? マジ? マジだったらマジすごいね。俺だったらめっちゃムカつくし、なんならぶっ殺したくなっちゃうと思うけどな」とキムは言った。「だって普通に死ねって感じじゃない? 匿名とかで言いたい放題言いやがってさあって感じじゃね? まあこれは別に他人のことだから笑って見れるけどさ、自分のことだったらふつうムカつくっていうか、ぶっちゃけふつうにキモくない? ていうかヤバくない? ヤバイよね? ヤバイっしょ。うん、マジヤバいよ。ウケを通りこしてマジヤバすぎだよね。だからこんなやつはさ、やっちゃえばいいんだよ。すげー検索とかして家とか探してさ、夜道とかでやっちゃえばいいんだよ。お前もやっちゃえよ」

「ええ? やっちゃいませんよ」

「はあ? なんで? あんたも男だったらそのくらいやるべきだろうがよ。あんたほんとにチンチンついてんのかよ? 怒れよ。怒ってボコれよ。怒んないの? こんな言われ方してさ。普通怒るよね? どうなの? 実際。ぶっちゃけたところさあ」

「いや、そんな風には思いませんよ。そんなには、さすがに。でも、まあ、そうですね、強いて言えば、強いて言えばですけど、なんか不満があるならお前が書けよとは思いますね。僕は僕が書きたいことを書いたわけで、それに不満があってほかに理想があるなら、それはあなたが書けばいい、とは思いますね」

 それを聞いてキムは笑った。

「はっはっは。いやあ、旦那さんもなかなか言うねえ。ウケる。まあそうだよねえ。しかしウケるわ。おもろ。ふつうそこまで言うか? でもぶっちゃけこういうの読むとさ、本の内容とか全然知らない人とかさ、そもそもそんなに買う気もない人的にはさ、かなり読む気失せるよね。俺も今正直買おうかどうか迷ったもんね。これ、買う価値あるか? とは思うよね。旦那さんには悪いけどさ」

「いや、まあ、別にいいですよ。買う買わないも読む読まないも自由ですし」

「いやいや、買う、買うよ。買うって。さっきそう言ったじゃん。ははは、何怒っちゃってんですか? つーかさっきからその口のききかたなんなの? そういうのウケるよ? ウケるっつーか笑えるわ。つーかさ、まあさ、まあ落ち着きなよ。ただの冗談だからさ。そんな気を落とさずにさ、ほら、今Amazonでポチッたからさ。二〇〇〇円お買い上げだよ。本とか久しぶりに買ったわ。マジで。だからさ、ほら、旦那さん元気出してよ」

「ああ、ありがとうございます」

「いや、でも今日は良かったよ。面白かった。マジウケたわ。仕事しててこんなおもろいことあるなんてなあ。俺も良かったよ。今日はありがとね。まああんたは別になんもしてないんだけどね」

「はあ、まあ、なんもしてないですけど、テンション上がってもらえて、僕もなんか良いことした気分で光栄です」

「うん、まあ、じゃあ掃除のほうももう終わってるんでね、もう行きますわ。余計な時間使っちゃったからさ、あんたのせいで残業かも。じゃあね」

「はい、どうもありがとうございました」

 そう言って樋口はドアをしめた。ドアごしに木牟田を名乗るキムの足音が遠のいていくのが聞こえた。


 足音が聞こえなくなると、樋口は自室に戻り、パソコンの電源を入れた。赤ん坊はまだ眠っていた。赤ん坊が眠っているうちに書かなければ、と樋口=ザビエル=僕は思った。

 ディスプレイに明かりが灯った。ザビエルとして〈イキリ〉を開眼しながら僕は、デクストップに置かれたテキストファイルをダブルクリックした。ファイルの名称欄には「殺すリスト」と表示されていた。しばらく待つとファイルは開かれた。

 ファイルにはいくつかのメモが箇条書きで記載されていた。

 その一部を以下に引用する。


「構造素子読んだ。金の無駄だった」

「悪い意味で難しい本」

「たぶん構造素子は読みません。ああいう厨二くさいのは無理です」

「物語も設定もイマイチ。必然性がない」

「思ったより普通。残念」

「こんなの許しちゃ駄目。唾棄すべき」

「こんなの小説じゃないでしょ」

「はっきり言って意味不明。頭良いふりしたい人が読む本」

「ゴミ」

「オナニー本」

「長いだけの駄本。金返せ」

「駄作。読まなくてもわかる」


 樋口=ザビエル=僕はキーボードを叩き、テキストファイルに並べられたそれらのメモに、新たなメモを書き加え始めた。


 玄関のほうから音がした。女の話し声がした。妻と妻の母親が帰ってきたのだと僕は思った。僕は立ち上がり、玄関に向かって歩き始めた。


 そのとき、ふいに叫び声が聞こえた。


「ちょっと! 何よこれ!」と、樋口の妻。「煙草の吸殻だらけじゃない!」

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