カレン・ウェザビーの描いた宇宙


 ‪以下の文字列は、2016年までエメーリャエンコ・モロゾフが住んだ上海の2LDKマンションの一室に置き捨てられていた、ガスメーターの点検票の裏に書かれたメモ書きを、エメーリャエンコ・モロゾフの盟友として知られる上海在住のノーベル文学賞作家バルベルデ・劉・イブラヒモビッチ‬が中国語に翻訳したものに対し、読者への可読性を考慮し、簡単化のため、筆者ラモーナ・アンドラ・ザビエルが適宜編集を加え、中国語から日本語へ再翻訳したものである。

 筆者にとって、中国語・日本語はともに母語ではないものの、両国に友人たちはたくさんおり、心の母語と言っても過言ではない。

 そうした経緯を踏まえたうえで、以降をお読みいただければ、翻訳者としては冥利につきるというものである。


 *


 わたしは一本の陰茎である。

 より詳細に換言すれば、わたしは、ある一人の全裸男の股間で屹立した、一本の巨大な陰茎である。名前はまだなく、名前をつけうる誰かはもういない。親譲りの無鉄砲で損をしたことはないものの、一つの世界を終わらせたことならある。

 わたしを所有する男。前述したとおり、彼は全裸である。彼は一枚の絵画の中に住んでおり、それゆえわたしも絵画の中に住んでいる。絵画の題名は「乳の肖像」という。2013年にカレン・ウェザビーという画家によって描かれた、幅50メートル、高さ25メートルの超巨大な作品である。絵の全貌はというと、広大な宇宙の中に一人の男が全裸で投げ出され、股間からは勃起し巨大化したわたしが顔をのぞかせ射精しており、吹き出した精液が星々を乳白色に染め上げている、というものであり、作者曰く「日本最高のSF作家、ケンジ・ミヤザワへのリスペクトに満ちたオマージュなのさ」とのことだったが、それは彼が部屋で一人でいるときに話されたものだったので、わたし以外には誰も聞く者はいなかった。

 目立ちたがり屋で知られるカレン・ウェザビーは、「この奇妙な作品は、その奇妙さによって多くの人の目に触れ、多くの人の口に上るだろう」と、ご都合主義的で楽観主義的な、きわめて浅はかな思考をめぐらせ、そして、それによって自分の類まれなる自己顕示欲は大いに満たされるだろう、と、単純明快な論理が導出する帰結について妄想し、朝がくるまでそうした妄想とたわむれた。付言すると、彼はそう考えただけにとどまらず、実際口に出してそう言った。作品完成後の夜に、彼が一人ウイスキーグラスを傾けながら、わたしの住むその作品に向かってそう語ったのを、わたしは聞き逃しはしなかったのだ。


「乳の肖像」は、カレンの予想とは反し、批評家たちのあいだでは全く話題にならず、好評どころか批判すらも出ることはなかったが、一方で一部の悪趣味な暇人たちやナードでアングラな嗜好を持つ若者たちの間では多少は話題になった。その中でも特に頭のおかしな連中たちは、カレンこと彼に対してインタビューを敢行した。インタビューの連絡を受けたとき、彼はあまりの喜ばしさにより、それまでがんばって抑え続けてきた承認欲求をフルマックスで開放し、あふれんばかりのカタルシスのシャワーを浴びた。そのため彼は語りすぎ、計8時間にわたり次のような話を繰り返すこととなった。

「たとえば、大きなおっぱいを10分眺めてみるとしますね」と彼は言った。「そうすると、陰茎は大きくなるんです。そして、さらに大きなおっぱいを10分以上眺めてみるとします。そうすると、今度は、陰茎はもっと大きくなるというわけです。わたしはあるときそれに気づき、そしてその発見を何かの形で後世に残しておこうと考えました。それが、この『乳の肖像』になった、というわけです。わたしは絵を書いているあいだもおっぱい閲覧を続け、陰茎を、硬く強く、そして大きく育ててきました。大きく、もっと大きく、と唱えながら。そうすることで、わたしは、わたしの描く陰茎に魂を込めていったのです。ですから、わたしの陰茎が生命を持ち大きくなっていくのと同様に、絵画の中の陰茎もまた、生命を持ち、少しずつ大きくなっていっているというわけです。ごらんなさい。最初は画面の半分より少し上にあるくらいだった陰茎が、もうこんなところにまでいっているでしょう。そう、大きくなっているのですよ。実際に」

 彼は絵がおさめられた額縁の上部を指で示しながらそう言った。インタビュアーたちはそれを見て「すごい」と感嘆の声を漏らした。

 そして、信じられないことに、それは客観的事実であることはもちろん、当事者であるわたしの印象としても、彼が語ったことに相違はなかったのだった。

 生まれたときには13メートルほどだったわたしの身長は、描かれた一週間後には15メートルになり、描かれてから一ヶ月を経過するころには20メートルを超えていた。インタビューが行われたのはそのころのことで、確かに先のカレンの指摘とわたしの感覚は一致することになる。


 その後、インタビューが終えられ、カレン・ウェザビーの類まれなる自己顕示欲が十分に満たされると、やがてわたしは顧みられることも少なくなったが、そのあいだもわたしの巨大化は進行した。25メートルを超えようとするころ、わたしの住む絵画は解体されて倉庫にしまわれた。一度解体されて倉庫にしまわれてしまうと、もう一度組み直すのが面倒なのか、展示するための場所がないのか金がないのか、それともやる気がないのか、理由は定かではないものの、わたしの住む絵が外へ出されることはもう二度となかった。作者であるカレン・ウェザビーですらも、倉庫に立ち入りわたしたちの様子を見にくることはなかった。

 わたしは誰からも忘れられていた。世界で最も忘れられた陰茎、それがわたしだった。わたしは誰の気にも止められることはなかったが、それでもわたし自身の巨大化は止まることはなかった。わたしは伸び続け、膨らみ続けた。わたしは絵画の外に出た。それからもわたしは巨大化を続けた。


 そうして膨らみ続けたわたしはある日、狭い倉庫に耐えきれず、天井を突き破り、外へ飛び出した。朝方のことで、やわらかな陽の光が亀頭をやさしく包み込んだ。気持ちのいい朝だった。

 そのとき、起き抜けのカレン・ウェザビーが窓の外にある一本の肉の棒――わたし――に気づいた。彼は叫び声を上げながら外に飛び出し、パジャマのままで車に乗り込み、その場から逃げていった。彼の叫び声は街中の人々を起こした。起きた人々もまたわたしを見ると、叫び声を上げながら逃げていった。驚嘆が驚嘆を呼び、阿鼻叫喚の地獄絵図を巻き起こした。走る人々は将棋倒しになり、その上を無数の自動車が走り抜けた。死体は轢き潰されて四肢はちぎれ、ちぎれた肉片が飛び散り、女や子どもの泣き声と骨が砕ける音が入り混じりながら響き渡った。パトカーと救急車のサイレンが、遠くのほうから近づいてきた。空には何台ものヘリコプターが集まり、上空からわたしの姿を撮影した。ニュースのレポーターたちがマイクに向かって早口で何かをわめいていた。けれど、わたしには関係のないことだった。

 わたしの巨大化はそれからも続いた。巨大化の速度は増していた。朝には1キロメートルだったわたしが昼には10キロメートルになり、夜には500キロメートルを超えていた。朝がくるまでに大気圏を超えて、わたしは――絵画ではなく〈本物〉の――宇宙に出た。宇宙は星々の瞬きに満ち、美しかった。わたしが宇宙の美しさを目の当たりにして感慨にふけっていたそのとき、地球を横切る一つの彗星がわたしの亀頭に触れた。それにより、わたしは、生まれてから最大の勃起を迎えることになった。

 わたし史上最大の勃起は、太陽系を含む天の川銀河の全てを破壊した。それでもなお巨大化は続き、わたしは銀河団を破壊し超銀河団を破壊した。亀頭が観測宇宙の果にある超空洞の中に入り、やがてそこを超えたとき、わたしの勃起は突然止まり、それからわたしは震え上がった。震えはしばらく続き、やがて止まった。

 その瞬間、わたしは射精した。生まれて初めての、〈本物〉の射精だった。

 亀頭から吹き上がる精液は、破壊のあとの無を満たし、宇宙の法則を書き換えた。

 法則が書き換えられた宇宙は、それまでの宇宙を維持することができず、そこで消失した。


 そうして宇宙は終わり、世界は終わり、新たな法則だけが残された。

 だから、ここにはわたし以外の何もなく、わたし以外の誰もいない。

 今は、新宇宙の法則であるわたしだけが、ここにいる。


 *


 2016年8月、雨の上海

 バルベルデ・劉・イブラヒモビッチより愛をこめて

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