ライトウィング・ペイトリオッツ・コリアンファッカー――私家版エメーリャエンコ・モロゾフ短編集
ラモーナ・アンドラ・ザビエル
エメーリャエンコ・モロゾフ――あなたの名
最初に一つ確認する。本書におさめられた作品はすべて、私樋口恭介の作品ではない。さらに正確に言えば、私のオリジナルの作品ではない。一人の作家がおり、翻訳者がおり、そして最後に――ここにきて初めて――あなたの前に私が現れる。
作家の名前はエメーリャエンコ・モロゾフ。生年・生地ともに不明。稀代の無国籍多言語作家として伝えられている。その名からはロシアの出身と推察されるが、本名かどうかはわからない。世界各地を転々とし、多くの文学者や運動家たちと交流を持ち、著名なところでマルセル・プルーストと交友があったと聞く。そうだとすれば活躍したのは一九世紀の後半か、もしくは二〇世紀の初頭だろうが、真偽のほどはわからない。
本書は彼が遺した数十万にもおよび作品のうち、いくつかの短い作品を翻訳したものである。翻訳者は、あるときは櫟諒でありあるときは鼎雄一でありあるときは吉澤直晃である。それともラモーナ・アンドラ・ザビエルや、あるいはバルベルデ・劉・イブラヒモビッチであることも。いずれにせよ、私は一人の、この謎に包まれた作家の紹介者に過ぎない。そして、その紹介もまた、先行する紹介者からの、不確かな伝聞に過ぎないのだ。
エメーリャエンコ・モロゾフ。その作家は七〇ヵ国以上の言語を操り、代表作である『加速する肉襦袢』は、彼の多言語運用能力の全てを費やし執筆された二〇万ページを超える大作で、あまりに膨大な言葉の種類と量により、翻訳は何度も試みられては頓挫しているのだという――私は、吉澤直晃という人からそう伝え聞いた。私はモロゾフの存在を二〇一一年に知ったのだが、そのころ、私が住んでいる岐阜という〈日本のヘソ〉として名高い街には、〈ヘソ=可能性の中心〉だけあって熱心な海外文学読者が集まるコミュニティがあり、そこで知り合った吉澤さんから、一部翻訳原稿の私家版コピーを見せてもらったのである。吉澤さんはモロゾフに異様に詳しく、モロゾフに関する文献整理を進めていた。訳者の櫟諒氏と鼎雄一氏とは大学以来の友人であり、翻訳作業を手伝うこともあるのだと言ったが、三人とも日本語以外の言語はからっきしだったので、翻訳は困難をきわめているとのことだった。
「エメーリャエンコ・モロゾフの翻訳はたしかに大変な作業です」と吉澤さんは『加速する肉襦袢』のコピーを探しながら言った。「しかし、それがもし仮に完了すれば、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』や『フィネガンズ・ウェイク』の全訳以上の価値があるかもしれませんよ」
二〇一八年現在、『加速する肉襦袢』の翻訳は未だ完了していない。三人とも、結婚したり子どもが生まれたり、仕事をクビになったり――櫟さんは、大学を卒業してから新卒で就職した地元のスーパーで、入社以来発泡酒のケースを定常的に盗み続けていたのだが、ある日メルカリで転売した先がたまたま店長の奥さんで、それが原因で店長にバレてクビになったらしい――と、それぞれ人生の大きな転機がさまざまあり、私的な作業に時間を割くことができなくなってきているのだという。
「正直、このプロジェクトがいつ終わるのかは私にもわかりません」と、数年ぶりに会う吉澤さんは、岐阜駅前の大衆居酒屋〈信長〉で、サングリアを煽りながら言った。「そもそも僕、日本語もできないしね」
「吉澤さん、だったらこうしましょうよ」と僕は言った。「吉澤さんは吉澤さんの中のモロゾフを訳し、僕は僕の中のモロゾフを訳すんですよ。吉澤さん、以前言ってましたよね。「そもそも『加速する肉襦袢』の原著は持っていないんだ」って。吉澤さんが翻訳しようとしていたのは、上海版の、ルベルデ・劉・イブラヒモビッチが翻訳したものでしょう?」
「そうですね。おっしゃるとおり、わたしは翻訳するとき、ルベルデ・劉・イブラヒモビッチ訳の、櫟氏の手書きによる写本を参照していました」と吉澤さんは言った。「そして現在主流の研究では、ルベルデ・劉・イブラヒモビッチは翻訳するとき、テキストを一度も読まずに翻訳したという……」
「でしょう? それですよ」と僕は言った。「ルベルデ・劉・イブラヒモビッチにできて、僕らにできないという根拠は、どこにあるのでしょうか?」
「でも、ルベルデ・劉・イブラヒモビッチは翻訳のプロだ。僕らは違う」
「吉澤さん」と僕。「やってみなければわかりませんよ。やってみましょうよ」
「うむ……」うなりながら、吉澤さんはサングリアをゆっくりと飲み干した。「そうですね。樋口さんの言うとおりです。やってみましょうか」
こうして僕らの一大翻訳作業が始まった。吉澤さんは長編を翻訳し、僕は短編を訳すことになった。僕らは周りの友人たちを熱心に誘い、彼らもまた未訳の長編や短編を翻訳し始めた。僕らはそれぞれの翻訳を持ち寄り、互いに読んで感想を言い合った。僕らは今や、エメーリャエンコ・モロゾフをとおしてつながっていた。それは一つのコミュニティであり、そしてプロジェクトだった。僕らはそれを〈モロゾフ・プロジェクト〉と名付けた。
ここにあるいくつかの短編小説は、その翻訳プロジェクトがもたらした成果のうちの、ほんの一部にすぎない。
なぜなら、エメーリャエンコ・モロゾフとはわたしであり、そしてあなたがエメーリャエンコ・モロゾフなのだから。
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