後編

5.


 昼過ぎになって、ようやく狛が目覚めたようだと昭夫から知らせを受けた。

 何と言って話を切り出すか、怪我は大丈夫なのか……午前中の間に散々に思い悩んでいた言葉は、しかしひとつとして口に出すことはできなかった。

「狛……」

「……やぁ、明実」

 狛は縁側の柱にもたれかかって外を見ていた。

 その髪は白い。あの時の、獣の毛並と同じ色である。手足に巻かれた包帯は、未だに血が滲んでいる箇所が多く痛々しい。おまけに、よく見れば後ろからふさふさとした尻尾が出ているようだった。そんな姿のままで、狛は困ったように小さく笑う。

「明実と会うまでになんとかしようと思ったんだけど……ごめん、こんな姿で。でも、力が戻るのを待ってたら、明実に会う時間がなくなっちゃうからさ」

 そう言う狛は、明実が知るいつもの狛そのものだ。

 声を詰まらせた明実は、黙って狛の隣に座り込んだ。

「け、が……怪我、大丈夫なの?」

「うーん、正直言うと、ちょっと辛い。いつもはすぐに治るんだけど、今回はそうもいかないみたいでさ」

「……痛そう、だけど」

「そりゃ痛いよ。でも、やらないといけないことがあるから」

「……」

 駄目だ。

 駄目だ、と明実は唇を噛む。

 言葉が出てこない。何と言えばわからない。

 狛を引き留めたいのに、それができない。

「明実」

 ふいに狛が呼びかける。

 返答できなかったが、狛は言葉を続ける。

「明実は忘れちゃっているだろうけれど……昔。すごく昔、明実がまだまだ小さかった頃に、明実に助けてもらったことがあるんだよ、俺」

 え、と声が漏れ出た。

 狛は笑っている。

「まだ俺がここに来る前のことだよ。その時、俺はまだ生まれたばかりの狛狼でさ。ふらついた拍子に山から転げ落ちたことがあって。自力で山に戻ることもできなくて弱っているのを、見つけてくれたのが明実だった」

 明実は顔を上げる。

 見覚えのある情景が、脳裏に浮かびあがった。神社の裏手、裏山の入口で、小さな子犬がぐったりとしている風景が。

「その時の明実は、まだ犬が怖くなかったから。俺を見てびっくりした顔をして、すぐに駆け寄ってきて」


 ――だいじょうぶ? けが、してるの?


「水を入れたお椀とか、ソーセージとか持ってきてくれたっけ。動けない俺の頭をずっと撫でたりしてさ」


 ――そばにいるからね。はやくげんきになってね。


「あの時の手の温かさは、今でも覚えてるよ。明実は日が暮れて迎えがくるまで、側にいてくれた。その後、動けるようになった俺はお礼がしたくて、暫く神社の周りをうろうろしたっけ。人の子が学校に通っていることとか、その時はあんまり知らなかったもんだから、なかなか見つけることができなくて……その頃、山の中では異変が起こっていた。余所から来たナラズ者が、山で勢力を付け始めていたんだ。俺は狛狼として、そいつらを追い払う命を受けた」

「……それは、えっと……おおかみ様に?」

「うん。おおかみ様は、俺の主なんだ。主は力が衰えていて、次代の主を選定している最中だった。その候補が俺だったんだけど……結論から言って、俺はその命を達成することができなかった」


 ナラズ者を山から追い払った、その時、残党たちが一斉に襲いかかってきた。

 なんとか攻撃を避けた。が、背後に回られ、気を取られている間に残党の一匹が標的を変えた。

 山の入口で子犬を探していた、一人の少女に向かって。


「そして、明実は残党に襲われた。おまけに呪いまで受けてしまった。明実の右肩に残っている傷痕は、あいつらの呪いの印なんだ。明実を贄にして、あいつらはナラズ者の力を復活させたがっている……だから俺の責任なんだ。あいつらから明実を守るのは、俺の使命なんだ」

 見上げた狛の表情は、真剣なものだった。

 彼は痛む体を動かして、縁側から地面へと降りる。

 その時になってようやく明実は気付いた。もう太陽が傾き始めている。

 夕刻は、すぐそこに迫ってきていた。

「こ、狛……」

「大丈夫だよ、明実。君は、俺がかならず守る」

 振り返った狛は、決意を瞳に宿していた。

 もう引き留められない。

 彼は、もう。

「狛!」

 裸足で地面に降り、その身に抱き着いた。

 少しよろめいて、彼は明実の肩に手を置く。

「やだ、嫌よ、狛がいなくなるなんて、私……わたしは……っ」

「明実……」

「お礼を言いたいのは私の方よ! 思い出したの、あの時、私を助けてくれたのは狛だった。なのに私、勘違いして、怖くなったりして……っ! 今ならわかるよ、狛はずっと私を守ってくれていた。山からあの獣の声が聞こえる時、いつも狛がいなかったのは私を守ってくれていたからだよね。私のために、怪我までして……」

 言い終わらぬ内に、明実は狛に抱きしめられていた。

 ぎゅっと、強く抱きしめられて、その温もりを感じ取って。

「ごめん。もう、側にいてあげられない」

 告げられた言葉に、もはや涙を堪えることはできなかった。

 幼い子供のように声を上げて泣けば、背中を優しい手が撫で、そして離れていく。

 体を離されて、あたたかな温度が遠ざかる。

「さようなら。明実」


 一言、告げた。

 彼女は顔を上げない。地面に膝間ついて泣く彼女を、自分は置いていく。

 走り出す。

 後ろを振り向かず。

 四肢で駆け出して。

 人の姿を捨てて。

 狛ではなく、狛狼として。

 目の前に黒い塊がいくつも飛び出してくる、それらを蹴散らす為に。


 声を、上げた。


×××


 わずかの間、縁側に腰掛けて放心していた。

 さきほどまで彼が座っていた場所である。俯いて、ぽたりぽたりと零れ落ちる涙を目で追っていた。

 夕暮れは残酷にも落ちていく。目が痛い。素足で降りた際に小石を踏んだ踵が痛い。

 ぽっかりと心に穴が開いたような心地だった。まだ夏で気温は暑いはずなのに、手足は冷たくて力が入らない。

 不意に、胸元で何かが夕日の光を反射した。

 のろのろと目を向ける。

「……お守り……」

 それは昨日、狛が手に握らせてくれた、獣の爪を象ったお守りだった。力の抜けた手を動かして、握り込む。


 刹那、電流が流れたように、大きく鼓動が鳴った。


 力が入らなかったはずの足で、すくりと立ち上がる。急いで洗面台に向かい、冷水で涙を洗い落す。

 次に部屋に駆け込んで、箪笥から引っ張り出したのは巫女衣装だった。慣れた手つきで素早く着替え、首からお守りを取り、しっかりと握り締める。

 そうして明実が向かったのは、おおかみ様の像が祭られている本殿だった。

 夕日は、今まさに山の向こうへ隠れようとしている。明実は急いで本殿の扉を開け、奥に鎮座するご神体を目にした。

 本殿の中は明るかった。不自然に明るすぎるぐらいだった。


 そこに居るのは、木の像ではなく。人の子ほどの大きさもある神々しい毛並を持つ狼そのものだ。


「おおかみ様」

 明実は声を出す。

 確信を持って、声を出す。

「おおかみ様、お願いです。狛を、狛を助けてください。彼はもう十分に私を助けてくれました。私を守ってくれました。でも、私は彼にそのお礼ができていません。彼がいなくなってしまったら、私の気持ちは、私の想いは……どこにやればいいのですか」

 膝を折り、その場に膝をついて、頭を垂れた。

 本殿の奥で、何かが動く気配がする。ゆっくりと近づいて、光り輝く狼は少女の目前に佇む。顔を上げれば、黄金のような瞳が見えた。

 神の瞳は、少女の手に注がれている。

 明実は何も言わず、握り締めていた掌を開いて、捧げるようにお守りを掲げた。

 神々しくも老いた狼は、僅かに口を開いてお守りの紐を牙に引っ掛ける。それを見届け、本殿の入口から身を引いて道を開ければ、老いた狼はゆっくりと明実の横を通り過ぎる。山の向こうへと落ちていく夕日と共に、神は鳥居に向かって歩いていく。

 やがて、その姿が鳥居の向こうに消えた。

 その瞬間、劈くような叫び声が、山全体に響き渡った。

 まるで断末魔のような獣の咆哮に、右肩の傷がふいに痛んだと思えば何かが抜け出ていくような感覚がして。

 明実はそのまま、気を失った。



6.


 本殿で倒れている明実が発見されたのは、夜も更けてからのことだったらしい。

 姿の見えない明実を探して昭夫が境内を探し周り、本殿の入口で意識の無い明実を見つけた。肝を冷やした老人は人を呼び集めて少女を介抱し、呼び寄せた町医者に診察を頼み、怪我はなく異常は見当たらないとお墨付きを得て、ようやく安堵したのだそうだ。

 目が覚めるまで様子をみることになり、家まで送り届けたのだという昭夫が、覚えているかぎり自宅の敷居を跨いだことがないというのに母と共に明実の部屋に入ってきたのを見た時は、逆に明実が驚いて声を上げたものだった。


 本殿に鎮座していたご神体は、消えてしまっていた。

 立派な姿のご神体だったのだ。泥棒の可能性があると、一時は警察沙汰にもなった。しかし、木造だったとはいえ数十キロもある像を運び出すのは難しいこと、仮に運び出せたとしてその運搬方法や人数にどう考えても無理があることがわかり、結局、原因不明であるとされて警察は引き上げるしかなかった。

 その間、明実は念のための養生として自室で過ごしていた。食事や身の回りの世話を甲斐甲斐しくしてくれていた母が言うには、昭夫から電話があり、「ご神体は見つからなかったが、翌日見に行くとご神体があったところに、爪のようなお守りが置いてあった」と連絡があったのだという。

(あれは、夢なんかじゃなかったんだ……)

 ベッドで横になりながら、明実はぼんやりとそう考えた。

 明実の右肩に傷痕として残っていた呪いの印は、もうすっかり無くなっていた。その事を一番に喜んだのは母であり、母は良かった良かったと涙を流して明実を抱きしめた。その時になって、ようやく明実は母がどれほど自分の身を案じていたのかを知り、一緒になって泣いたのだった。


 そうして、月日は流れて行った。

 夏休みはあっという間に終わり。秋がきて、秋が終わり。冬がきて、明実に待っていたのは高校受験だった。

 必死になって勉強して、町からすぐ近くの高校へ受験し。春がきて、入学して。

 あっという間に一年が過ぎて行った。

 本殿のご神体は戻らず、狛も、いないまま。

 明実は新しい夏を迎えていた。


×××


 町中でセミが鳴き始めた八月の夏休み。


 高校一年生の明実は、ぼんやりと神社の鳥居前に佇んでいた。

 少し身長が伸びた為、来ている巫女衣装は新調されたもので、まだ体に馴染んでいない。照りつける日差しに、ふう、と息を吐く。

 もう少しで夕刻になる。そうなれば、このむしむしとした暑さも多少は和らぐだろう。

 近頃の明実は、この時間帯になると鳥居の前で佇むことが多くなっていた。夕日が山の向こうに落ちていくのを見届けてから、帰宅する。それを飽きずに繰り返している。

 最初のうちは昭夫も母も心配して自分を迎えに来ていたが、頑なにそこから動こうとしない明実に、今では心行くまで放っておいてくれるようになった。


 今日も、夕暮れは知らぬ顔で落ちていく。

 辺りが橙色に染まって、境界線があやふやになる。

 黄昏は、人の顔がよく見えない。鳥居の前を過ぎている人々を、目を凝らして眺める。

 夕日が山の向こうに隠して、一気に辺りが暗くなる。

 明実は息を吐き出した。肩を落としたが、そうやってがっかりするのも、もう慣れっこだった。

(あんまり高望みしても、駄目な時は、駄目なんだものね)

 星が輝き出した空を見上げて、最後に本殿にご挨拶してから帰ろうと、明実は踵を返して本殿へ足を向ける。

 ご神体がなくなり、すっかり寂しくなってしまった本殿へ入って、何もない本殿の奥へ頭を下げる。

(……あれ?)

 ふと、ご神体が置かれていた場所に目をやる。

 いつもならそこに、ご神体代わりにあのお守りが置かれているはずだ。

 けれど、それが見当たらない。

(まさか)

 弾かれたように立ち上がって、そろそろと本殿を後にし、駆け足で鳥居の前へと戻る。

(まさか……まさか……そんなはず、ない、か……)

 鳥居の前は、相変わらず静かだった。参拝客も帰ってしまった為、明実以外は誰もいない。

 ――と、思った矢先。鳥居の下に、爪のお守りが落ちているのを見つける。

 しゃがんで、おそるおそる手に取る。覚えのある触感だった。あのお守りで間違いがない。

 と。

「ワンッ!」

「きゃっ?!」

 唐突に目の前に真っ白な子犬が現れて、思わず声を上げた。

「こら、吠えちゃ駄目よ! ごめんなさいね、大丈夫?」

「あ、あぁ、お隣の……だ、大丈夫です」

 見れば、その犬はリードに繋がれている。慌てて飼い主が犬を宥めて引っ張り、申し訳なさそうに頭を下げながら去っていく。

 明実は思わずお守りを握り締めて、深々と息を吐き出した。

「はぁ……びっくりした……」

「――なんだよ明実。まだ犬が怖いのか?」


 明実は勢いよく振り返った。



END


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おおかみ様の黄昏 光闇 游 @kouyami_50

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