中編

3.


 誰かが体を揺さぶっている。

 湿気た空気と、土の臭い。肌に触れる弱々しい風が、ここが建物の中ではないことを知らせてくる。

 自分はどこにいるのだろう。重い瞼をゆっくりと持ち上げてみれば、ようやく聴覚も活動を始めたらしい。木々のざわめきと共に、自分の名を呼ぶ声を聞いた。

「明実! 明実、しっかりしろ!」

「……こま……?」

 名を呼び返せば、狛はホッとした表情をしてみせた。余程心配してくれたのだろうか、とぼんやりとする思考をなんとか働かせてみる。狛の手を借りながら体を起こし、辺りを見渡した。

 立ち並ぶ木々と、その間から緩く吹き付ける生暖かい風。見上げれば、橙色の空が……

「え、嘘、夕方? なんで? 私、そんなに寝ちゃってたの?」

「そういうわけじゃないよ。落ち着いて明実」

 明実の髪についた落ち葉を払いのけながら、狛は眉を顰める。どう説明するべきか、と悩んでいるようだ。手を借りつつ立ち上がった明実は、巫女衣装についた土を払い落としながらもう一度空を見上げた。

 やはり空は黄昏の橙色だ。その色が、今だけは不気味に見える。その時、狛が困ったように首を横に振った。

「ごめん、うまく説明できそうにない……とにかく今は神社に帰ることだけ考えよう。ここはいろいろと危ないから」

 そう言うなり狛は明実の手を握って引き始めた。慌てて歩調を合わせ、思わず明実は不安げな声を出した。

「帰るって、帰り道がわかっているの?」

「大丈夫だよ。それに、早くこの場から離れた方がいいんだ。あいつらが来る前に……」

「あいつら? あいつらって……狛?」

 ふいに狛が握る手を強めた。そして素早く声を上げる。

「明実、走るんだ!」

 突然強い力で腕を引っ張られ、危うく転倒しかけながらも何とか足を動かす。いきなりどうしたのか、と声を出そうとして、顔を上げた瞬間にその訳を理解して声を失った。

 視界の端にうろつく影がある。しかも一つではない。あちらこちらから、自分達に向かってザワザワと音を立てて近づいてくる。木々や風の音が混ざり合ったような、心をざわつかせる音だ。その音の正体を見極めてみると、それは何人ものお面をつけた子供だ。

(あれは何? どうして私たちは追われているの? あいつらって、あの子達の事?)

 訳が分からないまま、狛に手を引かれて走り続ける。だがそれも長くは続かない。徐々に息が切れ始め、代わりに背後からの音は大きくなっていく。子供の数が増えているのだ。耳触りなその音で頭がいっぱいになり、明実は思わず叫び声を上げた。

「無理よ狛! もう走れない!」

 だが、その声も背後から迫りくる音に遮られ、自分でも聞き取ることができない。走り出して僅かの時しか経っていないはずなのに、すでに息は切れていて足もふらついている。体の自由が効かないのだ――それが、恐怖からきているのだと気付くのにそう時間はかからなかった。

「――目を瞑っていて」

 ふいに、すぐ間近に狛の声を聞いた。

 かと思えば、次の瞬間には足が地から離れており、驚いて声を上げる前に明実の体は狛によって抱きかかえられていた。

 状況に頭が追いつく前に、今度は辺り一面を覆い尽くさんばかりの閃光が目を射抜く。咄嗟に目を瞑ったが、瞼の裏にまで光は入り込んできた。自分を抱えている狛にしがみつくようにして必死に耐えていると、程なくして急速に光は消えた。

 すぐ耳元で狛の声が聞こえる。

「何とか撒けたみたいだ。明実、大丈夫?」

 慎重に地面へ降ろしてもらい、足の裏に柔らかな土を感じた瞬間に力が抜けてその場にへたり込んでしまった。慌てた様子で狛が体を支えてくれるが、恐怖やら恥ずかしさやらで、心臓の音がうるさい。視界がチカチカとする中、明実はなんとか声を絞り出した。

「さ……さっきの、光……なに?」

「目暗ましみたいなもんだよ。上手く効いてくれてよかった」

「私も目が痛い」

「だから目を瞑って、って言ったのに」

「あ、あんな雑な言い方でわかるはずないでしょ! えぇっと、それで、その……今どうなってるの?」

 なにせ一向に視界は光の影響でよく見えず、自分がどの様な状態で狛にしがみついているのか、確認することすらできないのだ。気恥ずかしいとは思いながらも恐怖が勝っている現状、体を支えてもらったまま狛に頼るしかなかった。

 そんな明実の心情は狛も重々承知の様子で、自分に明実を引っ付けたままで辺りを見渡す。

「暫くは目暗ましが効いているから、大丈夫だよ。ただ、安全になったわけじゃないんだ。あいつらの気を逸らさないと。俺が様子を見てくるから、明実、暫くここでじっとしていられる?」

 とんでもない、と慌てて明実は首を横に振った。

「やだ、一人とか無理!」

「でもこのままだと、また見つかっちゃうよ」

「そうかもしれないけど、で、でも……っ」

 否、ここは狛に任せた方がいいのだ。

 そうとわかっているものの、それでも今この場で一人残されるのは、もはや恐怖でしかなかった。

「明実、ちょっとだけだよ。すぐ戻ってくる」

「っ……わ、わかってる……わかってるんだけど……」

「じゃぁ、これ」

 ふいに体を離した狛が、明実の掌に何かを乗せた。手触りは小さな石のようだが、はっきりとしない視界の中ではよく確認することができない。

 狛はそれを、明実の掌に押し付けてしっかりと握らせて、その場にしゃがみこませた。

「お守り。握って、ゆっくり深呼吸して。焦らなくていいよ」

 戸惑いながらも、言われた通りに息を吸い込んで、ゆっくりと息を吐き出す。何回か繰り返す内に不思議と鼓動が落ち着いてくるのを感じ、明実は顔を上げた。

「だ……大丈夫、みたい……」

「俺が帰ってくるまで、ここを動かないこと。いけそう?」

 落ち着いて、頷いて見せる。

 顔はよく見えなかったが、狛は笑ったようだった。


×××


 暫くの間はじっと身を丸めて蹲っていた明実だったが、ようやく視界が元に戻り、おそるおそる顔を上げた。

 何十分も経ったように感じていたが、実際にはたったの数分しか経っていないのだろう。空は変わらず夕暮れの色をしており、まるで自分だけが時間と一緒に切り取られて残されてしまっているかのような錯覚がして、ふるりと身震いをする。

 よくよく辺りを確認すれば、どうやら明実は大きな木の洞にすっぽりと収まっているようだった。木の根元には背の高い草木が生い茂っており、上手く周りから明実の姿を隠してくれている。見える範囲では狛の姿はなかったが、明実はそっと握っていた掌を広げ、狛が渡してくれたお守りを見つめた。

 小石かと思っていたが、よくよく見れば、それは乳白色の小さな爪のようなものだった。

(動物の爪、かしら? 先が丸まってるけど……)

 きちんと見るまで気付かなかったのだが、その爪には小さな穴が穿たれていて細い紐が通されている。ちょうど首にかけられそうだと、明実は首に紐をかけてから改めてお守りを握り締めた。

 狛はまだ戻ってこない。じれったくなってほんの少し背筋を伸ばした時、さっと明実の頬を生緩い風が撫でた。

「明実ちゃん」

 ギクリ、と肩が跳ね上がった。この声は狛のものではない。ガサリ、と大きな音がなってすぐ左隣の草木が踏み倒される。

 恐怖で声が出なかったのだが、かえってそれは正解だった。明実の視界に突如現れた真っ黒なぶよぶよとした塊は、明実には気付いていないらしく、のろのろとした動作で草木を踏み分けて移動する。

 人や動物の形ではない、本当に全身真っ黒な塊だ。おそらく顔と思われる部分に狐のお面が貼り付けられていて、その塊が先ほど自分たちを追いかけてきていた子供の本当の姿なのだと辛うじて理解させられる。

 手足もないが、それは意志のある液体のようにずぶずぶと視界の左から中央へと移動していく。

「明実ちゃん。どこかな。どこかな。明実ちゃん」

 発せられる声は子供のものである。おそらく、最初に見たあの子供だろう。

 そのまま通り過ぎてくれるのを切に願いながら、明実は掌のお守りを強く握り締めた。

(お願い、どこかに行って。どうかこっちに気付かないで)

 狛はどこにいるのだろう。すぐに戻ってくると言っていたのに。

 明実にできることは声を押し殺すことのみで、次第に視界は恐怖からくる涙で歪み始めてくる。鼓動の音がやけに耳に響く。

 黒い塊はひどく動きが遅い。ようやく視界の左から右へと移動したところで、ふとそれは動きを止めた。

「明実ちゃん」

 突如、お面の顔がぐるりとこちらを向く。

「みぃぃつけたぁぁ」

 お面であるはずの狐顔の口許が、ぐにゃりと歪んだ。

 ヒッと息を呑むのも束の間、恐ろしい笑みを浮かべたそれが明実の目前に迫る。

 目を瞑った。目を開けていられなかった。

 その刹那の間に、強い風が吹き抜けていった。

「……え?」

 いくら待っても自分の身に何かが起こることはなく、そっと目を開けた明実は、思わず声を漏らした。

 黒い塊はそこにはいなかった。代わりに、白く美しい見事な毛皮を持つ四肢の獣が、塊がつけていたお面を噛み砕いている。

 それは、大きな犬のような生き物だった。

 言葉を失って明実はその獣を見つめる。一瞬だけ、金色の双眸と目が合った。反射的にビクリと体を強張らせる明実に対し、獣は踵を返すとすぐさま茂みの中へと消えていく。

「待って」

 咄嗟に呼び止めたのは、直感的にそれが誰か、わかったからだ。

「待って、狛」

 慌てて立ち上がるものの、知らずうちに痺れていた足では歩くのが精いっぱいだった。それでも獣が走り去った方向へと何とか茂みを掻き分けて進み、開けた場所に出たところで白い毛並を見つけて駆け寄った。

 獣は湿った地面の上で這いつくばっていた。よくよく見れば、美しい毛皮はあちらこちらが赤く染まっている。酷い怪我をしているのか、明実は喉を震わせながら声を発した。

「狛……狛、なの? ねぇ、その怪我……」

 手を伸ばして毛並に触れようとした瞬間、獣はグルルと唸り声を上げた。驚いて手を引いた直後に、それが触るなという意思表示なのだと気付く。獣は荒い息遣いをしながらも懸命に立ち上がって見せ、そして左の後ろ脚を引きずりながらも動き出す。慌てて明実はその後ろについた。

「ねぇ、ねぇったら……狛、酷い怪我よ。無理して動いちゃ……」

 獣の体が傾くのを、あ、と考える前に体が動いていた。地面に倒れ込む獣の体を抱きかかえるように腕を回し、その体を支える。

 と同時に、獣に触れてようやく明実は確信した。この獣は間違いなく狛である。なぜこのような姿をしているのかはさっぱりだったが、狛であるとわかった瞬間にカッと体が熱くなるのを感じた。

 狛は自分たちを襲ってきたあのお面の子供たちを追い払ってきてくれたのだ。この怪我はその時に負ったものに違いない。

 明実が感じているこの熱は、怒りからくるものだ。

「ひどい、こんなにいっぱい、血が……待ってね、確かハンカチが……」

 犬のような姿をしていようと、狛だとわかれば恐怖なんて感じない。すぐに服の中からハンカチを取り出して、血が流れている左の後ろ脚に触れる。グゥ、と狛が呻くのを心苦しく聞きながら、傷の少し上の方をハンカチできつく締め上げて止血する。しかし傷は他にもあるようで、腹の部分も血と泥で汚れきっている。

 どうして、どうして心優しい狛が、こんな目に遭っているのか。そう考えると、怖がって震えてばかりいた自分自身にも怒りを覚えて、じわりと目に涙が滲む。泣いている場合ではないと頭を横に振り、慎重に狛の体を持ち上げた。犬にしては大きな体とはいえ、この姿ならば明実でもなんとか抱きかかえることができる。

(考えて、考えるのよ、明実。落ち着いて、冷静になれば、帰り道がわかるわ。ここが裏山の中なのだとしたら、夕日がある方向に下って行けば、神社に辿りつけるはず……)

 力なく体を預けられている狛から、時折苦しそうな小さな声が聞こえてくる。

「誰か! 誰か来て! お願い! 狛を、狛を助けて!!」

 掻き立てられるように足を動かして、明実は声を張り上げた。




4.


 気付けば神社の傍らにある、見慣れた祖父の家の中だった。

 あれから必死に山を下りて、自分たちを探しに裏山の入口に来ていた昭夫に見つけてもらったのだ。極度の疲労と安堵による涙のおかげで言葉らしい言葉を発せなかった明実だったが、その腕に抱えていた狛の姿で昭夫はすぐに状況を呑み込んだらしい。獣の姿の狛をすぐさま本殿へと連れて行った後、足の震えが限界を迎えてその場にへたれ込んだ明実を抱き上げて家の中へ連れていき、落ち着いたら母へと電話をすることを言いつけ、昭夫は大きな救急箱を手に本殿へと引き返した。

 きっと狛の手当をするのだろう。どうやら昭夫は事情を知っているようで、ひとまずは安心することができた。


 それからは何をどうしたのか、よく覚えていない。とりあえず言われた通りに母へと連絡を入れたところ、母が明実の着替えを手に祖父の家へと飛んできて、いろいろとお叱りを受けたような気がする。だが明実も疲労がピークを達していた。会話をするだけの元気もなく、そのまま気を失うように眠ってしまったのだ。目が覚めると部屋の一室に敷かれた布団の中にいて、いつの間にか寝間着に着替えられていた。母が世話をしてくれたようだ。枕元に着替え一式が入っている鞄が置かれていて、母の姿はなかった。

 おぼろげだが、母は泣いていたように思う。叱りながらも、いつかこうなるかもしれないと思っていた、とも言っていた。どういうことだろう。薄暗い天井を見上げて、ぼんやりと明実は思考を巡らせた。

「――」

 と、かすかに話し声が聞こえる。隣の部屋からだ。意識をそちらに集中させて、そっと耳を澄ませる。

「――もう、いいのかい。狛」

「はい。心配をおかけしました」

 昭夫と、そして、いつもの狛の声だ。ハッとすると同時に、思わず涙が溢れた。狛は助かったのだ。布団から起き上がろうとして、続いて聞こえてきた声に慌てて動きを止める。

「昭夫さん……いや、昭夫殿。これまでのご恩とご協力、改めて感謝いたします。私はこれより人の憑代を捨て、我が主の御心のもと、この身を捧げに行く所存です」

 どういうこと、と声を上げかけて、咄嗟に手で口を塞いだ。

 声はいつもの狛のものだが、その言葉は明実が知る狛ではない。息を潜めて体を起こし、じっと聞こえてくる昭夫の返答を待つ。

「なるほど……これ以上は、留まれぬと……」

「奴らは明実を見つけてしまいました。今回、この傷と引き換えに奴らの力をいくらか封じ込むことができましたが、それも時間稼ぎにしかならない……今の私では、全盛期の我が主に遠く及びはしませんが、それでも決着をつけるのならば今しかありません。もとより刺し違えることは承知の上。私がいなくなることで当初の予定よりも時間がかかることになりますが、すぐに我が主が次期主を見出し、この地を治めてくれることでしょう。今しばらく不作や不況が続くかと思われますが、それも僅かな間です」

 ふぅ、と嘆息の音。昭夫だろう。暫しの沈黙の後に、再び狛の声がする。

「……昭夫殿には、大変お世話になりました。このご恩は忘れません」

「いえ……いえ、そう申されるのであれば、どうかお願いしたい。今すぐに人の身を捨てるなどと言わず、せめて明日の夕刻までお待ちくだされ。そしてあの子に、明実に、会ってやってくだされ。あの子はあなたと共に育ちました。何も言わず立ち去れば、それがあの子の中でしこりとなって、いつまでも痛むことになるでしょう……そんな孫の姿は……私には耐えられませぬ」

 狛は言い淀んだようだ。

 二度目の沈黙は長く、明実は動けないままに狛の言葉を待った。

「……彼女には、俺も世話になりました。俺から話します」

 隣室から狛が立ち去る音を耳にして、ようやく明実は詰めていた息をゆっくりと吐き出した。そっと静かに布団の中に潜り込み、ぎゅっと強く目を閉じる。

 狛は、どこか遠くに行ってしまう気なのだ。

 相変わらず状況はわからないままだったが、それでも聞こえてきた会話でそれだけははっきりと理解できた。そして、それがどうやら自分に原因があるようだ、ということも。

(狛がいなくなる……いなくなってしまう)

 それは考えるに恐ろしいことのように思えた。ずっと一緒にいたのに、同じように育ってきたのに、否、そう思っていたのは実は明実だけで、本当は、狛は。狛は人ではない何か、であって。

 何も知らなかった自分に腹が立った。秘密にしていて何も話してくれていなかった祖父と母が恨めしかった。そして、狛の本当の姿を知らなかったことが悔しかった。

 思えば自分は狛の何もかもを知らなかった。明実は学校に通っていたが、狛はずっと神社にいたし、狛が昭夫と明実以外の人と何かをしたり喋ったりしている風景なんて見たことがなかった。だからこそ狛に友人がいるという噂もまったく聞いたことがない。考えればすぐに疑問に思うはずなのに、今まで違和感すら覚えることもなく過ごしてきていた。

 もしや、そうなるように何らかの暗示でもかけられていたのだろうか……そう疑ってしまうほどに、疑問だらけの日常だったのだ。

 涙が零れる目尻を枕に押し付けて、明実は布団の中でただ震えていた。


×××


 結局その夜は眠ることができず、日が昇り出してから明実は体を起こした。

 泣いたせいで頭痛が酷く、瞼も腫れぼったく、当然ながら体の疲れも取れていない。それでもなんとか服を着替える気力ぐらいはなんとか回復できていて、母が用意してくれていた服に着替えて一息をつく。ふらつく足で部屋を抜け出して居間を覗けば、足音に気付いたらしい祖父が明実の顔を見て驚いた顔をした。

「とりあえず顔を洗っておいで。朝ごはんを用意しているから、食欲がなくても一口だけでも食べなさい。いろいろ聞きたいことがあるだろうが、まずはそれからだ」

 洗面所の鏡を見れば、なるほど酷い顔色だ。時間をかけて髪を整えて顔を冷水で洗うと、まだ幾分気持ちが落ち着いた。それから祖父が用意してくれた握り飯を温かい茶で何とか体に流し込む。食欲は全くなかったが、それでも体は栄養素を求めていたようだ。ようやく思考が回り始めて、明実は改めて祖父を見た。年老いた祖父は、今朝はいつもよりも老いたようにも見えて、もしかすると明実と同じでよく眠れていないのかもしれない。珍しく目の下に隈をこしらえている祖父の顔をまじまじと見つめた。

「さて、どこから話したものかな……」

 明実が聞くまでもなく、昭夫はそう切り出した。


 それは数年前の、明実が野犬に襲われたその日のことだったという。

 神社の本殿前に、その少年は座っていたという。


 ――昭夫殿、ですね。私は主の使いの狛狼です。


 そう言う不思議な少年を、昭夫はすぐに人ではないものだと確信したそうだ。すぐにその場で膝を折って頭を下げれば、少年は真っ直ぐな瞳で昭夫を見つめたのだという。


 ――話しというのは、他でもない、貴殿の御孫様に関わることです。此度の御孫様の怪我は、私の力が及ばないばかりに巻き込んでしまった、奴らの贄の呪いなのです。

 ――このままでは、いずれ御孫様は奴らに呪い殺されてしまいます。それを私は食い止めたい。

 ――然らば、この私に御孫様を……彼女を、守護する許しを頂きたいのです。


 そうして少年は自らを「狛」と名乗り、この神社に住み着いた。正体を隠し、人のふりをして、彼女の隣で。

 彼女を、明実を守る為に。


「狛はね。この神社のご神体、つまり、おおかみ様の狛使いなのだよ。この事は私と、お前の母しか知らないことだ。今まで黙っていて申し訳ないが、それも明実、お前の為を想ってのことだったのだよ」

「……私の為……」

 正直、信じたくはなかった。

 狛は狛なのだと、言いたかった。彼はどこにでもいるような平凡な人で、優しくて、少しドジなところがあって。

 それでも、信じるしかないのだ。信じなければいけないのだ。あんな狛の本当の姿を見てしまったからには。

 昨夜あんなに泣いたのに、またじわりと、瞼に涙が溢れてしまう。堪えようとして、ぎゅっと目を閉じた。

「狛は今、部屋で休んでいるよ」

 昭夫は静かに言葉を続ける。

「まだ傷が癒えていないようでね。暫く眠ると言っていたから、すぐには会えないけれども、様子を見て声をかけるから部屋で待っていなさい。おそらく……あの子に会えるのは、今日が最後になるだろうから」

 昭夫は労うように、明実の頭を優しく撫でた。

「悔いが残らないように、しっかりと見届けるのだよ」

 ああ、なんて酷いことなのか。

 明実はただただ頷くことしかできなかった。


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