おおかみ様の黄昏

光闇 游

前編


1.


 ――今夏のこまは、どこかおかしい。

 町中でセミが鳴き始めた八月の夏休み。明実あけみはただぼんやりと、しかし確信を持ってそう感じていた。


 中学三年生で絶賛受験生である明実だが、山間にあるこの小さな町は所謂田舎と呼ばれている場所にあり、都会にある私立高校を狙わない限りは他所の町よりも高校受験生は比較的のんびりしている。明実もそれに違わず、中学生最後の夏休みを満喫していた。

 いや、しようとしていた、と言うべきか。

 首元に張り付くセミロング丈の黒髪を払いのけ、地面に残った水溜りを見下ろす。その水面に移る夕暮れ空に、明実は溜息を吐いた。

「もぅ……狛ったら、今年もなんだから……」

 狛とは、明実の幼馴染の名である。明実の祖父である昭夫あきおが神主をしている狗狼くろう神社に世話になっている少年で、昭夫が何処からか引き取ってきた子供なのである。つまり昭夫とも、もちろんその孫である明実とも血が繋がっていないのだが、幼少期から祖父の神社によく遊びに行っていた明実にとっては弟も同然の仲だった。

 の、だが。この狛という少年は、少々厄介な癖を――目を離した瞬間に姿をくらますという癖――を持っていた。

 その癖は、特に今のような真夏の夕方頃に頻繁に出るようで。

 なので、明実は彼が帰ってくるのであろう神社の石段に腰かけて、彼の帰りを今か今かと待っているのだった。

 こうしていなくなった狛を待つのは、明実にとってはもはや毎年恒例なのだが、にしても。

(……やっぱり、今年の狛はちょっとおかしい。第一、こんなに長時間帰ってこないなんて、今までなかったもの)

 はぁ、と溜息を吐く。今日だけでない、昨日も一昨日も同じように長い間待たされたのだ。普段ならば十分もかからずに見つかるというのに。

 空を仰げば太陽は山の影に入ってしまったようで、駆け足で暗くなっていく。と、山の方から聞こえてきた音に、明実はビクリと身を震わせた。

 山から聞こえてくる獣の鳴き声。この鳴き声は。

「――なんだよ明実。まだ犬が怖いのか?」

「っ、うわぁ?!」

 ふいに真後ろに気配を感じて、明実は思わず飛び上がった。慌てて振り返れば、夕焼け空を背に黒髪を乱雑に短く切り上げた小柄な少年が――狛が、いつも見せる人懐っこい笑みで明実を見下ろしていた。

「先に帰ってもよかったのに。待ってたの?」

「ま、待ってたに決まってるじゃない、バカ狛! どこに行ってたの?」

「ちょっとそこまで。え、なに、怒ってるの?」

 なぜ怒っているのかわからない、とでも言いたげに不思議そうな顔をする少年に、明実は大きな溜め息を吐き出した。狛という少年はいつもこうなのだ。こちらがいくら心配していたのか、少しも考えてくれないのである。

 馬鹿馬鹿しくなって項を垂れる明実だったが、時刻はもうすぐ7時になろうとしている。さすがに待たせすぎたと反省したのだろう、声の調子を落として狛は手を差し出した。

「ごめんって。機嫌直してよ、家まで送ってやるから」

「すぐ近くなんだから、見送りなんていいわよ……って狛、どうしたの、その手」

 顔を上げた明実が目を丸くする。暗がりだが、狛の手首の辺りに赤い一筋の傷が見受けられたのだ。狛もその傷にようやく自身で気付いたようで、慌てて差し出した手を引っ込める。

 が、明実はばっちりと見ていた。狛が「しまった」と表情を強張らせるのを。

「狛、何か隠してるよね? ねぇ?」

「な、なななんでもないよ?」

「傷見せて」

「平気だよ、このくらい」

「そういう問題じゃないの! いいから見せて」

 腕を隠そうとする狛に強い調子で言えば、彼はおずおずと怪我をしている腕を差し出した。明実が一度言い出せば、こちらの言い分を聞いてくれないのを彼は重々理解している。なので素直に腕を出したのだが……狛の手を握って傷口を診る彼女は、その傷口から未だ血が滲んでいることに気付くと、怒った顔を狛へ向けた。

「どこでなにをしてたのよ、まったくもう! 早くおじいちゃんに言って手当をしなきゃ」

「ま、待てよ、昭夫さんには心配かけたくないって! 後で、自分でしておくからさ……それに、明実も早く帰らないとだろ。ほら、空も真っ暗だし」

 狛が指差す空を見上げれば、確かに星が輝き始めている。明実の家は門限を設けているわけではないが、夜遅くまで帰ってこなければ流石に両親に怒られてしまうだろう。渋々と身を引いてみれば、狛はホッとしたように肩を落とした後、改めて怪我をしていない方の手を差し出してきた。

「こんな遅いんだし、ちゃんと家まで送らせてよ。じゃないと俺がおばさんに怒られそうだ」

「……。……じゃぁ、せめてうちに着いたらその傷を手当させて。じゃないと私が落ち着かないじゃない」

 それだけを反論として口にし、狛の手をとって早足に歩き出す。手を引かれて苦笑しながらも、狛は「わかった」と小さく返事を返してくれた。


×××


 遠慮がちな狛を何とか言い含めて手当てをし、別れた後で明実は改めて息を吐いた。しつこく怪我の理由を問いかけてはみたのだが、結局はぐらかされてしまったのだ。玄関先に散らかしてしまった消毒液やらガーゼやらを救急箱の中へと片付けながら、明実は表情を暗くする。

(この季節はよくどこか行ってしまっていたけど、すぐに帰ってきていたし気にしないようにしてた……でも……)

 と、ふと自分を呼ぶ声に気付いて顔を上げる。明実が帰ってきたことに気付いたのだろう、母が自分を呼んでいる。

 その顔がどこか不満そうにしているのを見て、明実はまたかと眉を顰めた。

「明実、また狛と遊んでいたの? あの子とはあまり関わらないでって、何度も……」

「また狛のことを『変な子供』っていうの? 母さん、狛はどこも変じゃないし、大丈夫よ。狛のことを悪く言わないで」

 顔を背けて言い、救急箱を抱えてすぐそこの階段を駆け上る。下から母がまだ何かを言っていたが、自分の部屋に逃げ込んでしまえばその声も聞こえなくなった。

 母は祖父とあまり仲が良くないらしく、その祖父に育てられた狛のことも良く思っていない様なのだ。母とは違って祖父の神社によく遊びに通っていた明実にとっては、なんとも迷惑な話である。

(そりゃ、狛は目を離すとすぐにどこか行っちゃうし、かと思えばどこからともなく出てくるし、妙なところはあるけれど。だからってあんな危なっかしい奴、私が放っておけるわけがないじゃない)

 イライラとしながらベッドに倒れ込み、天井を見上げる。視界の端に見える窓の色は、すっかり日が落ちた空の色を映して真っ黒に塗り潰されていた。なんだかんだとしている内に、夜も更けこんだ時刻になっていたようだ。それに気付けばようやく明実の頭も冷え、さきほどの母の態度も少しは納得がいくように思えてきた。

 こんなに遅くなるまで帰ってこない娘を心配するのは、母親としては当然だろう。少々過保護すぎる気もするが、それは昔からなので仕方がない。

(まぁ、昔にあんなことがあったんだから、母さんが過保護になるのは仕方ないわよね)

 昔――まだ狛が祖父の神社に来る前の話だ。当時まだ十歳にも満たない年齢だった頃に、明実は神社の裏山に迷い込んでしまい、そこで野犬に襲われたことがある。明実自身はその当時の事をよく覚えていないのだが、野犬に噛まれた傷痕はまだ右肩の辺りに残っているし、その事件以来、犬に対して恐怖を感じるようになり鳴き声を聞くだけでも身が竦んでしまうようになってしまったのだ。

 ちょうど今日、狛を見つける前に獣の遠吠えを聞いて震えあがってしまったように。

「……狛がおじいちゃんのところに来たのって、あの事件のすぐ後なんだっけ」

 何となしに呟き、体を起こして閉めきっていた窓を開ける。夜の暗闇の中に、ぼんやりと祖父の神社の鳥居が見えた。

 その直後、またも山の方から獣の鳴き声が聞こえて肩が反射的に飛び上る。

 今年の夏は山から犬に似た獣の声をよく聞くような気がする。野犬だろうか、と考えたところで血の気が引いていくのを感じ、慌てて頭を横に振った。

(狛、ちゃんとおじいちゃん家に帰れたよね……?)

 不安に駆られたが、狛は呆れるほどに機械に弱く携帯電話もまともに使うことができない。神社に一台だけ置かれている古臭い固定電話ぐらいしかまともに使えない上、こんな時間に電話をすると早くからに床についてしまう祖父を起こしてしまうかもしれない。

 明日、朝早くに様子を見に行ってみよう。ついでに祖父に狛の様子を相談してみることにしよう……そう考えることで何とか自分を落ち着かせ、獣の鳴き声を遮るために窓を閉めた。



2.


 翌日は結局のところ、寝付きが悪かったおかげで寝坊気味に起きてしまった。慌てて身支度をして神社に辿りついた明実は、背をピンと伸ばして境内を掃き掃除している老人を見つけて頬を緩める。

「おじいちゃん、おはよう!」

「おや、明実。今日は遅かったのだね。寝坊かい?」

 掃き掃除の手を止めて振り返った祖父・昭夫は、良い笑顔で開口一番にそう言った。う、と言葉を詰まらせながらも明実は素直に頷く。

「ご、ごめん、昨日は寝付けが悪くて……で、でもバイト代の減額は許してっ」

「はは、それは明実の今日の頑張り様によるかね。ほら、今日も手伝ってくれるのなら、早く着替えてきなさい」

「! うん、わかった!」

 元気よく答えて、すぐに神社に隣接している祖父の家に上がり込む。明実は毎年、お小遣い稼ぎのために巫女のアルバイトをしているのだ。慣れた様子で巫女衣装に着替えて境内に戻ってきてみれば、昭夫の姿はなく、代わりに狛が箒を手にしているのを見つけた。

 昨夜のこともあり、すぐに手を上げて狛に呼びかけようとし、ふと彼の横顔に真新しい絆創膏が貼られているのを見つけて……

「あ、明実、おは……」

「ちょっと狛どうしたのよ、その顔! 怪我増えてるじゃない!!」

「え、いや、あの」

「昨日あれから何してたの? ま、まさか誰かと喧嘩とかしたんじゃないでしょうねっ?!」

「ちょ、明実ストップ! 落ち着けって!」

 勢い余って両肩を掴む明実に揺さぶられながら訴えれば、我に返ったらしく、すぐに彼女は手を離してくれた。軽く目を回しながらも、狛は絆創膏が貼られている己の右頬に手をやった。

「昨日、帰る時にうっかり小枝に引っ掻けたんだよ。大袈裟だなぁ。大したことないから、心配するなよ」

「……怪しい」

「えぇー」

 こちらの言い分を一言で一蹴されてしまい、狛は苦笑いを浮かべる。どうにも信じてもらえないようだ。明実はむすりと頬を膨らませていたが、ふと狛の手に握られている箒に目をやり、次いで辺りを見渡した。

「そういえば、おじいちゃんは?」

「昭夫さんなら俺に掃き掃除を任せて、本堂に向かったよ」

「う……本堂かぁ……」

 途端に明実は渋い顔を浮かべた。本堂には狗狼神社のご神体が祭られているのだが、そのご神体が明実はどうも苦手なのだ。

 この狗狼神社は、その名からも推測できるように狼を祭っている。なので、本堂に祭られているのは狼の像である。その像が、犬に恐怖心を抱いている明実はどうにも苦手なのだ。木製の像で動くはずがないとわかっているのだが、薄暗い本堂の中では妙に生々しく見えてしまうのである。

「やっぱり、まだあのご神体が苦手?」

 いつまでも渋る明実の表情を伺いながら、狛が問いかける。ハッとし、慌てて明実は首を横に振った。

「そ、そんなことない! いや、まぁ、確かに怖いのは怖いけど」

「あのご神体、犬というよりは狼なんだけどな」

「し、知ってるわよ、それぐらい! べ、別に平気だもん、ちょっと行ってくる!」

 上擦った声でそう言い終わるや否や、明実は本堂がある方角へと走って行ってしまう。狛が「あ」と手を伸ばすのも気付かない様子だ。やれやれ、と狛は苦笑する。

「そんなに苦手なら、俺が昭夫さんを呼んでくるのに……まぁ、いいか」

 息を吐き、手に持ったままだった箒を動かして掃き掃除を再開する。山からはセミの騒がしい声が、今朝も変わらず鳴り響いてくる。太陽はすでに高く昇り始めていた。この調子では、今日も快晴のまま、一日を終えるだろう。

 狛は再び手を止めた。

 セミの大合唱に紛れ込んで、別の音を聞く。あれは、獣の声だ。

 狛はただじっと山を見上げた。


×××


 勢いのまま本堂に向かったのはいいのだが、明実は結局のところ本堂の中へ足を踏み入れることができなかった。それほどにご神体を拝むのが苦手なのである。もしあのご神体が狼の像ではなく他の動物の像であったならまだ平気だったのに、と思わずにいられない。

 そうして本堂の入り口付近をおろおろとしている内に、外の様子に気付いたのかどうなのか、タイミングよく本堂から出てきた昭夫に見つけてもらえたのだった。

「どうしたんだい、明実。こんなところで」

「うぅ……おじいちゃんに相談したいことがあったんだけど、本堂はやっぱり怖くて……」

「ははぁ。それで右往左往していた、というわけだね。明実は昔からおおかみ様が苦手だからねぇ」

 『おおかみ様』とは、ご神体のご尊名である。昭夫は気にする様子もなく笑って頭を撫でてくれるのだが、明実は困ったように眉を下げた。おおかみ様を祭っている神主の孫であるというのに、犬が苦手という理由でその祭るべき神様を怖がっているようでは祖父に申し訳ないではないか。

「ところで、相談があると言っていたね。どういった内容かな」

 しょんぼりとしたまま口を閉ざしてしまった明実に、昭夫は優しく問いかけてくる。そうだった、と明実は顔を上げた。

「おじいちゃん、狛のことなんだけど……狛、最近変じゃない? いつの間にかいなくなっちゃうのは、まぁ、いつもの事なんだけど。最近はそのまま暫く経っても出てこないし、探しても見つからないし」

 昨日なんかは、そのまま夜まで帰ってこなかったのだ。話している内にまたイライラとしてきて、明実はむすりと頬を膨らませた。ころころと表情を変える孫の様子に、昭夫は笑い声をあげた。

「はっは。まぁまぁ、落ち着きなさい。そんなに狛が心配かね」

「当然よ! 虫すら殺せないような顔をしてるのに、昨日は怪我までして帰ってきて……おじいちゃんは心配じゃないの?」

 不満を持って問いかけてみれば、昭夫は考え込むように腕を組んだ。

「……狛にも、何か考えがあるのだろう。今はそっと見守るだけにしておきなさい。けれど、怪我は確かに心配だね。儂からもそれとなく狛に聞いてみることにするよ」

「本当? うん、おじいちゃんなら、狛も話してくれるかも。私には全然理由を話してくれなかったの。何かわかったら教えてね」

 昭夫の言葉に、明実はようやく表情を明るくさせる。

 が、それも刹那のことだった。明実はすぐに「ヒッ」と小さく叫んで肩を跳ねさせる。昨夜も聞いた、獣の声がまた山の方角から聞こえてきたからだ。

「? 明実、どうかしたのかい?」

「ど、どうって、また犬みたいな鳴き声が……」

 けれども、昭夫は不思議そうな顔をする。辺りを見渡し、「近くに犬はいないようだよ?」と言う。

「おじいちゃん、聞こえなかったの?」

「うん? 耳が遠くなったのかね? 春に受けた健康診断では、まだまだ大丈夫と医者から言われたのだがなぁ」

 この歳でも健康なのが自慢なのに、と不思議そうに呟く祖父の様子に、明実は何故か急に背筋が冷たくなっていくのを感じた。

 自分でも理由はわからないが、あの鳴き声が何か悪いモノの声なのではないかと思い始めて……

(ううん、きっと気のせいだわ。思い込みは良くない)

 咄嗟に頭を横に振って考えないようにする。これ以上は考えてはいけない気がしたのだ。深呼吸して心を落ち着かせ、悪い予感を追い払う。

 先ほど感じた悪寒を、違和感を。

 そうして、脳裏に浮かんだ光景から、目を背ける。

「明実、大丈夫かい?」

 いつの間にか昭夫が両肩に手を置いて顔を覗き込んできている。ハッとし、明実は慌てて笑顔を取り繕った。

「だ、大丈夫。ちょっと立ちくらみしただけ。そうだ、掃除。掃除しなきゃね。朝寝坊した分、頑張って働かなきゃ」

「ん、あぁ……掃除なら、朝早くから狛がいろいろとしてくれたよ。狛にどこまで終わっているか聞いてみなさい」

「そうなの? うん、わかった」

 頷いて、すぐに明実は走り出す。

 その後ろ姿を、昭夫は不安げに見送った。


×××


 今朝に狛と会った境内入口付近に戻ってきてみたが、そこに目的の人影はなかった。

 本堂前で少しの間おろおろと立ち尽くしてしまっていたこともある。ここの掃除を終え場所を移動してしまったのだろうか。辺りを見渡し、ふと明実は首を傾げた。

「変ね、今日は人が少ないわ」

 ぼそりと、独り言を呟く。この神社は地元民から憩いの場として、それなりに慕われている場所である。いつもならば散歩として毎日通ってきている老人や、夏休み中の子供達が遊びにきているのだが、今日は参拝客が誰もいないようだ。

 その場でぐるりと境内を見渡してみる。と、参道の脇に生えている松の木に、箒が立てかけられているのを見つけた。あの箒は狛が持っていたはずである。やはり予想通り、昭夫と話している間に掃き掃除を終えてしまったのだろう。

「そうなると、こっちかしら?」

 境内の奥を見やる。そこは神社の裏山に続く参道がある。

 昔に野犬に襲われてから、それとなく避けてきた場所だ。だがそう広くない神社の中、見渡しても狛が見つからないとなると、あとはこの方角しかない。

 ついさっきも獣の声を聞いたところである。恐々と参道をゆっくりと進み、奥の様子を伺い見る。が、そこにもどうやら狛の姿はない。

「あれ……おかしいなぁ。どこに行ったのかしら……」

 否、もう何となく察しはついていた。だが、そんなはずは無いという思いもある。何故なら今はまだ真昼の時間帯だ。狛の癖が、あのいつの間にか姿を消してしまう厄介な癖がおきるのは、いつもならば夕方頃のはず――

「明実ちゃん」

「なに?」

 唐突に名を呼ばれた。咄嗟に返事を返せば、いつの間にか目の前に小さな子供の姿がある。

 小学生の低学年といったぐらいの年齢だろうか。しかし歳の割には落ち着いた子供らしくない声である。それに、顔には何故か夏祭りでよく見かける狐のお面をつけている。どこの子だろうか、と考えていれば、お面の下からまた声がした。

「明実ちゃん、遊ぼうよ」

「え? ちょっと待って、なんで私を知ってるの?」

「知ってるよ。前にも会ったことがあるよ」

 そうだっただろうか? そう思えば、どことなく聞き覚えのある声であるような気もしてきた。

 どこで会ったのだろう。どこでこの子の声を聞いたのだろう。

 考えている内に、その子供はこちらに向かって手招きをしてくる。

「遊ぼうよ。この前の続きをしようよ。皆が待ってるよ」

「続き? それに、皆? でも、そっちは……」

 子供が指差すのは、裏山の方角だ。その方角は危ない。そうわかっているのに、手招きに誘われて足が動く。

(駄目だ、これは駄目だ、何かがおかしい)

 そうわかっているはずなのに、足は止まらない。地面は次第に参道から離れ、柔らかな土へと変わっていく。

 覚えがないはずなのに、そういえば皆を待たせているのだったっけ、と思考する自分を見つけて全身から血の気が引いていくのを感じた。

(駄目よ、これ以上行ったら戻れなくなる。止まって、止まらなくちゃ、止まりなさい明実……)

「明実、こっちだ!」

 突然呼び止められて、水を打たれたように明実はハッと意識を浮上させた。後ろを振り返れば、そこには狛が、こちらに駆けてきている。その時になってようやく、自分がすでに裏山のかなり奥まったところまで入ってしまっていることに気付いた。

「狛……狛、助けて、私……!!」


 このままでは


 狛が走りながら手を伸ばしている。その手を掴もうとした。

 けれど、その時にはすでに遅かった。

 背後から耳をつんざく獣の声が轟き、明実の目の前は真っ暗になってしまった。


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