第5話
ホホジロザメの泳ぐ速度は、通常時速30~40kmといわれ、ものによっては50kmを突破するものもいる。地球の七割を占める海の中では、決して速い方ではない。
ましてここは陸上動物の天下たる山の上である。危険を無視して坂を駆け下れば、40kmは固い。純粋なかけっこならば、人類側にやや有利と言えた。
しかし、ここまでは理想論に過ぎない。あらゆる生物には、個体差というものがある。片やなんらかの修行を積んだことは間違いない忍者。逃げるのはアスリートでもなんでもない、学生やデスクワーカーだ。
最大の問題はスタミナ。足場は悪く、風が吹きすさぶ中を、濡れた服と靴で走る。体力を減退させるには過剰なまでの悪条件である。
まず遅れたのは、肥満気味の男子生徒であった。顎が上がったところで、気管に雨粒が入ったのか、ひきつけをおこして一気に遅れる。無慈悲にもその隙を逃すことなく、サメが肥えた肉体を足先から丸のみにする。口を閉じると、鮮血が風雨を弾く勢いで吹き出た。
「うぎゃあああああああああああ!ぐえええええええええええ!」
肺の空気を残らず絞った断末魔に気を取られ、巻き毛の女子が転ぶ。そもそも装甲を前提にしていないローファーの靴である。意識をしなければ転倒するのは当たり前であった。
黒い流線型の弾丸が通過すると、後にはゆるふわの茶髪ウェーブしか見当たらない。
「ひいっ」
「ぜえ、ぜえ、おえっ」
嗚咽し、恐怖にしゃくり上げながらも、足を止めることは許されない。サメ忍者たちは決して急がず、一定のペースを保っている。反撃の余地を与えず、ひたすらに追い立てる、熟練の猟犬の追跡術であった。
広い土地を得るために、田舎に立地している大学から、田畑までそう遠くはない。だがそれは車での話。徒歩なら通常30分はかかる。
その距離を全力疾走で消していく。時間が遅い。逃走者たちには、雨粒でさえ羽毛の落下に見える。
雨に滲んだ角膜を、まぶたで掃くこともままならない。のたくる道路を右へ、左へ。悲鳴と心音とかすれた呼吸。雨。風。やかましさのあふれた光の無い山間を、ただ、サメ忍者たちだけが、黒点のごとく無音で泳ぐ。
その動作はまるで蛇。カーブで殺しきれない慣性を、ガードレールを叩くことでいなす。その体表を流れる雨粒が、川底のアスファルトをつつく以外、その魁偉なる身体は静粛を貫いていた。
「どけ!!ブス!!」
「きゃっ」
ソフトモヒカンの体格のいい男が桜をたたき出し、カーブの内側に入る。ここで差をつけて逃げ切る気だ。先頭集団から、ホホジロザメ二匹分ほど前に出る。
サメ忍者の一匹が跳躍し、道路わきの松を踏み台に三次元機動。カーブの内側を、ガードレールごと押しつぶすように降下した。
金色のソフトモヒカンが潰れ、ついでに頭も潰れる。道路わきの崖をすっ飛んで、荒れ狂う川に消えていった。
「マリOカートを思い出すなあ!!」
「ゴール直前のスター体当たり、忘れちゃいねえからな!!」
「黙って走れ!」
喚き散らしながらも、冷静さは失せていない。桜がハンドサイン。次の小道を右に。それを見て、先頭にいた四人は、誰というでもなしに足送りの調子を落としだす。
縦長になっていた隊形が、正方形に近付き、サメの牙が迫る。
「よこ!」
走者が一斉に直角に転換。棚田のあぜ道を駆け上がる。
「へえ!?なんでぃぎゃあああああああああああ!!」
サインに気づかず曲がり損ねた女子が、同様に突き進んだサメたちの餌食になる。サメ忍者らも方向転換しようと横を向くが、手足の無い流線型の身では十分に摩擦が利かず、ドリフトしたまま坂を下っていく。
水を吸って海藻のように絡みつく衣服。登りに転じたことで負荷が一層強まるが、気力を振り絞って足で地を掴み、頂上を目指す。
「あ!あった!」
何の変哲もない、白の軽トラ。しかしこの時ばかりは、ノアの箱舟もかくやの救いの乗り物である。
取り込のを忘れていたのか、野ざらしのままの車体。その中には、蛍光ストラップをつけた鍵が、確かに見える。
希望の到来に脳内物質が活性されてか、一層疾駆する生徒たち。それを抜き去り。事務員が先陣を切った。
「なに!?」
「おいこらオヤジ!なにしとんじゃあ!!」
「はっはっふははははははははははは!!すまない!これでも市民ランナーでね!年の功で先に行かせてもらう!若いもんはランニングを楽しんでくれ!」
なんという狡猾さか。長距離走の戦略に基づき、集団の中央辺りに陣取って足を温存しておいたのだ。
マラソンで最も良い記録が出るのは、肉体的な最盛期である二十代前半よりも、むしろ後半から三十代辺りかけてだという。長距離を制すのは、体力よりむしろ戦略。
この命がけの鬼ごっこで、後発にもかかわらず戦術を組み立てる知性。あえて最速を狙わない沈着さ。それを実行する胆力。市井にくすぶっていたがために発揮されることの無かった、デスゲームランナーとしての才能が、生命の危機に刺激され爆発したのだ。
あぜ道をトムクルーズ走りで突破。足は泥にまみれ、田んぼのぬかるみが脇にあるにもかかわらず、一歩たりとも踏み外さない見事な体幹。軽トラまであと一歩。車に飛び込めば、すぐさま走り出して桜たちは置き去りにする気だ。
「はははははははははははは!!いい気分だ!私が一番速い!なめくさったガキどもより遥かに!私が!いっちばあああああああああn」
田んぼのぬかるみが、津波のように盛り上がった。三日月の曲線を描いて、大魚が、跳ぶ。絵のような美しさで襲いかかり、人型が、欠けた。
「うおおわああああああああああああああ!?!?」
事務員をかみ砕きながら雨中に弧を記し、田のぬかるみに戻る。
広い大洋の中で、サメは決して泳ぎが速い方ではない。しかしそれでも生態系の頂点に君臨できるのは、嗅覚、聴覚、電磁覚といった優秀な情報収集能力と、一撃必殺の牙によって、忍者のごとき奇襲を可能とするためである。
サメ忍者の罠であった。闇を見通せない羊たちの、最後の希望を粉砕する為に、泥濘の中に隠れ潜んでいたのだ。
もんどりうって逃げ戻るしかない生存者たち。前にいた四人組は、今度は後ろ。丸刈りの男がほとんど四つん這いになって先駆する。
しかし、数歩もいかぬうちに短く悲鳴を上げ、うずくまった。目を凝らせばその足に刺さる三又の棘。忍者の秘密道具たるマキビシに他ならない。高く舞い上がったあの一瞬で、退路までをも塞がれたのだ。
「うそだろお……。こんなものまで……」
絶望して思わず口をついた嘆き節が、彼の遺言となった。棚田の下からサメ忍者たちが悠然と現れる。頭の一振りで坊主が消失した。
すでに趨勢は明らかであったが、サメ忍者の術理は最後まで手加減を許さない。もはや最初の四人が固まるだけになった人間達を中心に、大きな円陣をとる。
誰が逃げ出そうとも個々に確殺できる陣容を整えた上で、一匹が躍りかかった。
敷島は震える手で眼鏡を押さえ、大和はただ自らの死を見つめ、朝日は睨み、桜は目をつむった。
凄まじい量の血液が、桜の顔に降りかかる。
その血は、雨と同じ温度であった。
桜が目を見開く。雷光に映し出された魚影は、
残照を浴びて投げられる、傷だらけの姿。それは、その姿は。
「サメ忍者……さん?」
それこそは、古文書を狙いに現れ、謎めいた贈り物を桜にゆだねて消え去った、サメ忍者ではなかったか。
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