第3話
叫ぶ桜を体当たり気味に押し倒し、本棚の裏に転がれたのは僥倖であった。先ほどまで朝日がいた空間は、その体積の半分以上をサメの口に収められ、本棚は尾の一撃で激しく揺れる。耐震用のつっかえは、予想外の災難にもその機能を十分に果たした。
だが本棚自体の耐久が限界を超え、いびつな平行四辺形を作る。怪物が身じろぎもすれば、木端微塵に砕けるだろう。
「走って!」
力任せに桜を立ち上がらせ、自身も廊下へと転がり出る。部屋からは大木が折れ、地に倒れる音。
目的地がある訳ではないが、少なくともこの階はまずい。とにかく階段へ走る。
「おい、なんかあったんか!?」
階下から顔を覗かせたのは、眼鏡をかけた男。敷島である。悲鳴を聞きつけて、理由は分からないが尋常ではない何かが起こったかと駆けつけたのだ。
「サメよ!サメ!」
「はあ?サメ?」
敷島も、後から追い付いてきた大和も、唐突にサメと叫ぶ女の正気を疑う目をする。その後ろで、ドアが弾けた。
建材と木っ端が飛び散り、反対側の窓に突き刺さったドアが、サッシを叩き斬って嵐に舞う。もうもうと立ちこめる煙、篠突く雨の中に泳ぐ、黒衣の猛魚。サメだ。
顔面の筋肉が仕事を忘れる衝撃の光景に、顎を落として呆ける男たち。忍者の攻めは
刀のごとき尾を一閃して、地から離れ、窓。
窓を爆砕しつつ、斜め上に跳躍し、天井。
蛍光灯が割れ、石膏ボードが波打つ。三角跳びで数十歩の間合いを詰めた口が、非常マークを削り取った。
「うおおおおおおおお!!??」
叫ぶしかない。叫べただけましだろう。あと一息呆けていたら、口の中にいたのは自分の首だ。四人ともに、手足が絡まりそうな勢いで階段を駆け下る。
「なんじゃありゃああああ!?」
「サメよ!言ってるでしょ!」
「なんでサメなんだよ!?」
「こっちが聞きたいわよ!死ね!」
「嫌なこった!」
「忍者の服も着てたよ。忍者だよ、あれ!」
「ふぁあ!?」
四者四様に好き勝手なことをまき散らしながら降りていく。
「どっから来よったあんなもん!」
「窓が、空いてたから、たぶんそっち……」
桜が息を切らしつつも、敷島の問いに答える。
「窓……?窓だ!止まれ!」
大和が腕を開く。上から窓をぶち破ったサメ忍者が、再び非常マークを抉り取ったのは、ほぼ同時であった。
「廊下、トイレに!」
朝日が走りながらその身で方向を伝える。その後を皆が追おうとして、サメが回った。
「ぐお!」
「おわっ!」
「ああ!」
「入って!」
身長の高い男二人が巻き込まれる。大和の180cm以上ある身体が踊り場の天井にぶつかり、蛍光灯が割れて消えた。敷島はサメの影に隠れて見えない。
トイレに入り、個室のドアを全部開けて気休め混じりの障害にする。サメの頭が入り口に突っ込み、壁が薄いプラスチックのようにたわんだ。
窓から逃げようとして思い切り開ける。現れたのは、豪雨に濡れる転落防止用の柵だ。
「くそ!この、取れなさいよ!」
押して引いて、叩いて回してもびくともしない。当たり前である。人の力で取れるように設計されていないのだから。
茂みをかき分けるようにして、壁を崩しながら、サメはゆっくりと這いいってくる。外の湿気に負けないほどの、潮と血の煙が立つ。気力が萎えたのか、糸が切れたようにへたり込む桜に、襤褸切れと肉片が挟まった乱杭歯が近づいていく。
ふと、サメ忍者の動きが変わった。目を見開くことしかできない桜の前で、困惑したように頭を左右に振る。鼻を濡れた床にこすり付け、猟犬がにおいをさぐるようなしぐさ。
「なに……?」
突然猛獣が飼い犬になったような豹変に、見守るしかない。頭を上げ、固まった桜に濁った目を向け。
その身体が水音と共に痙攣した。
「死ねこらあああああ!!」
敷島だ。廊下に落ちた蛍光灯の残骸を、肉弾となってサメ忍者に打ち付けたのだ。さしもの巨怪もこれは無視できず、身をよじって振り払う。それだけで柱が震え、仕切りが砕ける。下手人に応報を下さんと牙をむくサメ忍者。
その
「敷島ぁ!逃げろ!よくやった!」
大和は据え付けてあった消火器を、至近からサメ忍者の鰓に噴射。人間で言えば気道に泡が入ったも同然。本能的に苦痛から逃れようと暴れ出す。コンクリートの床までがきしみ始めた。
事態の急変に、朝日は窓から入り口に戻る。敵は苦しんでいるなら、決着をつけられるのは今しかない。しかし武器が手元に無い。
その眼に入ったのは、破断してねじ曲がった個室のフレーム。サメは暴れ、尾が無茶苦茶に打たれている。右へ、左へ、右へ。
「イヤッ!」
空中ブランコに飛び移るサーカス団員じみた跳躍。そしてフレームを掴む。目の前まできた黒い筋肉の塊に照準を合わせ、体重と共に満身の力で、金棒を曲げた。
しなったフレームは騎兵を待ち受ける槍のように尾の一撃を受け、その黒衣に突き立つ。衝撃で朝日は弾き飛ばされるが、わずかの滞空のあと、桜に受け止められる。
手の付けられない暴走が一時止まる。大和は足を振り上げ大きく跳ね、サメの鼻面にフルスイングで消火器を叩きつけた。
巨体が動きを止める。動いているうちは目に入らなかった異様さが、静止したことで強調される。
「死んだか?」
「いや、魚類はしぶとい。こんくらいじゃ死なんだろ。念入りに息の根を止めないと」
「じゃあどっかから電源拾ってくるわ。感電したらさすがに死ぬやろ」
「待って!」
「あん?」
声をあげたのは桜であった。とっさにとどめたためか、言葉を選ぶように口を動かす。
「その人、うん、そのサメさん。言いたいことがあるみたい」
「はあ?いやサメが何言うん?サメやぞ」
「でも忍者だし……」
「まあ忍者だな」
「忍者ね」
「ふざくんなや!とっととこの害獣を殺害せんとまた」
サメが跳ねる。尾びれが敷島の鼻先をこすった。
「うおっ!すいませんごゆっくりい!」
それ以上暴れる力が無いのか、あるいは別の理由か、サメ忍者は動かない。桜は廊下に出て、中の見えない目と顔を合わせる。
「あの、なにか、私に言いたいことがあるの?」
当然ながら、声帯も無い魚に答えることが出来るはずもない。しばらくの間、廊下が雨に濡れる音だけが空気を支配する。
サメ忍者が寝返りをうった。その圧迫感だけで、皆が思わず引き下がるが、桜だけは前に出る。黒一色だと思っていた布の中に、一つだけ、違う色が漏れていた。
返り血か泥かと思われたが、違う。いや、そうかもしれないが、汚れてから年数の立った色であった。
「これって……、布?」
「木綿ね。かなり古い」
手のひらからはみ出るくらいの、価値などありそうにない襤褸切れ。それを至宝のように守っていた訳は、無論今の彼女らにはわかるはずもない。
サメ忍者が口を開ける。その端からこぼれたのは、一冊の古文書であった。
「ん、なんだこりゃ」
「あ、それって教授の」
「これが欲しかったの?こんなトンデモ本」
そういって朝日は気が付く。教授の語っていた本の内容。サメ人間。サメ忍者。まさか。
サメ忍者が跳ねた。夜の闇、嵐のうねりの中で身をくねらせ、魚であったことを思い出したように落ちていく。墜落の音は、いやに静かだった。四人はしばらく見通せもしない帳を見つめ、人生で一二を争うほど躍動していたことを思い出す。
「あー、つっかれた。なんなのよ、いったい。髪、直さないと」
「あ、私も。髪洗いたい!」
「女は面倒やな。自分なんざ眼鏡さえ無事なら不死身やし」
「シャワーは浴びなさいよ。あ、私高松。高松朝日。人文の一年。朝日でけっこうよ」
「
「敷島
「あ、桜です。
「花より団子みたいな名前」
敷島の茶化しに首をすくめる桜。
「ぶち殺されたい?」
「すんません」
朝日の援護によって見事終息した。階下からどやどやと人の気配が上がってくる。この騒ぎでようやく人が集まって良くいたようであった。
警備員と、事務員らしき男。野次馬の生徒が少々。
「おい、何があったんだ!……こりゃ、木でも吹っ飛んできたのか?」
まさかサメ忍者が襲撃してきて、何とか撃退、いや、帰ってもらいました、などど正直には伝えられない。返答に苦慮している時、教授が殺害されていたことを朝日が思い出した。
「あ、そうだ、大変なんです。教授が部屋で、その、死んでいて」
「なに!?あ、すみません、警察に連絡を。……ちょっと案内してくれ。えっと君、名前は?」
「あ、私は」
「あれ?すみません、携帯が、何か、これ」
事務員が焦った声を出す。見ると、画面が指に反応していない。フリーズじたのかと、今度は警備員がスマホを取り出すも、これも動かない。
「台風で壊れましたかね」
「いや、今どきそんな」
見ると、野次馬の生徒たちの幾人かも、突然指を裏切ったスマホをいじくっている。
「いったいなにが」
窓が割れる轟音。それが最後の言葉であった。警備員と事務員が消え、新たに黒い大魚が現れる。サメ。黒衣。忍者装束。サメ忍者。
「はあ?」
何が起こったか分からず、使えもしないスマホのカメラを向ける野次馬の群れに、まさにイワシに突っ込むサメの如く、飛び込む。
「ぎゃああああああああああああ!!」
瞬時に鉄火場と化した階段。四人の反応は速い。すでに阿鼻叫喚の渦を後ろに置いては知っている。
「何でまた来てんだよ!?」
「ちがうよ!あれは違う!さっきのサメさんじゃない!」
思えば散々に転げまわり、殺し合った跡がきれいに消えていた。サメ忍者、二号登場。
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