第2話

 時刻は七時を回り、しぶとい夏の太陽もようやくに地平線へと潜る。普段ならば、それでも残照が構内を照らしているはずだが、この日ばかりは期待できない。

 いつの間にやら流れてきた群雲は、夕闇の空を覆いつくすと、小指の先ほどもある雨粒を落とし始める。すでに雨音は人の息遣いをかき消すほどになり、下界へ通じる道路は川と見まがうほどである。


 雨に煙る景色は、絶え間なく光が供給される大学を不気味に浮かび上がらせる。今この建物が現世から切り離されたと言われて、何の不安も無く笑い飛ばせるものがいるだろうか。

 生徒と教員の大部分は、すでに帰路についている。残っているのは天候の急変を甘く見ていたか、そもそも知らないか、元より気にしていない者ばかり。つまりお世辞にも良き社会性動物とは言い難い連中である。


 コンクリートを抜けて忍び寄る雨音。テレビの砂嵐じみた音を背景に、軽い足音が二つ響く。

 桜と朝日は大学一号館の5階にある教授の部屋へ向かっていた。授業の終わった後、教授が部屋に戻るだろう時刻まで雑談に興じていたら、肝心の時間を余分に使ってしまった格好である。


「しまったなあ。まだ教授っているかなあ」


「たぶんいるでしょ。ずっと大学にいるって有名だし」


「帰っちゃってたらどうしよう」


「明日にでも行けばいいじゃない。別に、今読まないと死んじゃう訳じゃないんだから」


 高めの元気な声と、ハスキーな落ち着いた声が、廊下をにぎやかしながら進んでいく。雲の外では日の入る時刻である。廊下は心なしか濡れていた。外が雨なのだから、おかしなことではないが、その跡に香る潮の臭いをかぎつけたものはいなかった。







 ヤバイッショアメドウスル―オレクルマデオクッテヤンヨヤバーイカッコイーアタシモ―キャハハ


「おい、大和。あの不快指数をガン上げする呪文止めてこいや。デバフ効きすぎてスマホもいじれん」


「おめえが行けよ。つーかイヤホンつけろイヤホン」


「くっそーまさかここまで降るとはなあ。こりゃ帰れんわ」


「つーか学務課も避難してるしよ。逃げ遅れたな」


 敷島がスマホを何度が撫でる。


「警報出てるし、こりゃあ帰らん方が良さそうやな。バスは、多分来ねえなあ。これ」


 窓の外を見ると、大学から発せられた光は、百mも数えないうちに灰色の幕に呑まれている。今の外界は蛇口をひねったあとのバケツも同然だ。わざわざ帰るより地盤のしっかりした雨のしのげる場所にいる方が安全なのは明らかだろう。


 さすがにこんな天候では、普段夜まで居残っている事務員たちも帰宅せざるを得ない。

 無論、生徒にもさっさと家に帰るようにとのお達しがあった。

 それでも二人や騒いでいる連中がいるのは、大学という、広大な土地と多くの人員を持つ機関では必然出てくる誤差である。


「そういや敷島。お前あれ、歴史の課題出してたか?」


「あん、歴史い?」


「この前寝坊で出席しなかった時のやつだよ。今週で期限だぞ」


「えいくそ。忘れとった。今行くわ」


 スマホをズボンのポケットに突っ込むと、椅子がひっくり返りそうな勢いで立ち上がる。


「そういやあん教授の部屋ってどこだっけ?」


「お前な。いいや。俺もいく」


「おお、ありがてえ」


 大和も立ち上がると、エレベーターに向けて歩き出す。


「ん?」


 敷島がふと、鼻をひくつかせる。


「どうした」


「いや、なんか磯臭くないか?」


「あん?……そういや、誰かあたりめでも食ってたのか?」


 疑問に思いながらも、気にするほどの濃さでもないために、そのままエレベーターに乗り込む。ドアは音も無く閉まり、ちん、と電子音を残してかごは上がる。






 教授の部屋の前、壁に付いた小さなホワイトボード。赤いマグネットは、在室の位置に貼ってあった。


「よかったあ。まだいるみたい」


「早くコピーでもさせてもらいましょ。タクシー、よんだら来るかな」


「すみませーん。お時間よろしいでしょうかー?」


 返事はない。何度かとを叩き、もう少し声を張ってみるが、反応は無かった。


「あれえ?ひょっとして寝てるのかな」


「ありそうな話ね。もう入っちゃいなさいよ」


「え、でも」


「失礼します」


 ためらう桜を置いて、朝日はドアノブに抵抗が無いのを確認して入室する。途端に湿った空気が、密閉された室内からあふれた。


「ん、なにこれ、くさっ」


「へんな、なんだろ。お魚さばいた後みたい」


 湿気と異臭の不快感に、両名共に眉をひそめる。耐えられないほどではないが、長居は遠慮したい臭気であった。

 意味も無く目の前の空気を手で払うと、本棚を横切って、裏側にある教授の机に向かう。足に湿った感触。ちょっとしたぬかるみほどはある。ずぶ濡れの人間が入っても、これほどにはならないはずだ。雨の音が強い。


「なによこれ、窓開けっ放し?」


 ひょっとして健康上の問題で意識を失っているのでは。そう思い、早足で角を曲がる。桜も緊張した雰囲気を察して、それに続いた。


「教授、だいじょ」


 神鳴が一瞬、視覚を白く染める。水たまりだった足元が、泥沼になった。ぬちゃり、と靴底に粘度の高い液体がついてくる。

 露光した網膜に、焼き付いた影。それは、人の形をしていなかった。


「わっ、かみ、」 「あ」


 桜が絶叫する。机にあった影は二つ。どちらも人の形ではない。一つは、上半身を食いちぎられた、かつて教授だったもの。

 もう一つ。流線型の胴体に、特徴的な背びれ。散乱したガラスのような乱杭歯が並ぶ大口。感情を感じさせない、黒潮色の眼。身体を、依る色の布が包んでいた。


 サメ。部屋の端から端まで、長々と横たわる肉食魚が、忍者装束に身を包み、横たわっていた。

 

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