サメ忍者

@aiba_todome

第1話 

 梅雨時の空を、雲がせわしなく行きかっている。鋭さを増す陽気が窓を貫き、冷房代をケチった代償を教えていた。

 広々とした教室にはざっと200はいるだろうか。四月の初々しさを越え、五月病を克服して立派にダレた大学生達が座っている。


 教壇に立つのは、撫でつけた髪に白いものが見える中年の教授である。教養として歴史学を教えるはずの授業は、この教授の悪乗りによって酒の席での笑い話にしかならない珍説の発表会となっていた。もっとも生徒達にとっては、教科書を開けば載っている程度の知識を得るより、コンパで消費する馬鹿話を補充する方が建設的ともいえる。ウィンウィンの関係によって授業の雰囲気はすこぶるいい。平和な一日である。


「えー、で、ね。史料批判というものがどういうものかと簡単に言えば、一つの史料を鵜呑みにしないで多角的に調べようってことなんだね。昔の人が一つも嘘もつかず勘違いも主観による即断もしないんなら楽なんだけど、まあそれじゃあつまらない。僕の仕事も無い。だけど有難いことに昔も今も変わらず、嘘も偏見も存在する。史料にも当然嘘がある。例えばこれなんか凄いぞ」


 教授が足元の鞄から取り出したのは、いかにも古めかしい冊子であった。損耗を防ぐための、ビニールのブックカバーを透過する煤けた色。年代物であるのは間違いない。ミミズののたくったような達筆で文字が書かれ、その横で身をよじる巨大な魚。鮫だ。


「この前さる村の蔵から掘り出してきたんだがね。人を妖術でサメにする方法が書いてある」


 一瞬理解が遅れる。皆がそれぞれに視線をさ迷わせ、そのトンチキな内容を理解して、爆笑。高い天井に、しばらく反響するほどにその笑いは続いた。

 手に入れるにもそれなりの労苦があったろうお宝が予想以上の効果を上げて、教授もご満悦である。


「まあこれくらい分かりやすいのだと話は単純なんだが、勿論もっと巧妙なのもある。そういうものを見破るためにこそ……」


ひとしきり喧騒が静まった後、本論に入っていく。しかし世の中どうでもいい方に興味をそそられる人種がいるもので、友人と小声で話す女子も、その一人であった。


「朝日ちゃん。あれ、あれ面白そうだよ。わたし読んでみたい!」


平均よりやや低めの身長に、茶色味の強い髪が目を引く女子である。行き場のない好奇心に火がついたか、隣の友人の袖を引きつつ、瞳を輝かせていた。


「いや、どうでもいいでしょ。なによサメ人間って。フカヒレでも取るの?」


「残酷だよ朝日ちゃん!」


「桜、魚肉は時に命より重いのよ。覚えときなさい」


「そうじゃなくって。読ませてもらお?きっと面白いよ?おっきなタコの神様とか出てくるはずだよ?」


「何を期待してるのよ……。講義全部終わってからね」


黒髪を肩まで流した少女、朝日は、少しきつい印象のある眼だけを横に向ける。異性に慣れていない男ならそれだけで心を折られ、遺書まで記しそうな行為であるが、お互い付き合いが長いために桜が気にする様子はない。

こういった怪しげな古文書の魅力に取りつかれる人文系は後を断たず、下手をすると超文明の暗黒面に取り込まれ、週に一度人類滅亡を予言する紙一重の人物になりかねない。

そういった悪の沼から友人を守るために骨を折る朝日は、今度も付き合わざるを得ないのだろうな、とどこか諦感を覚えながらも、桜の電波の濃くなっていく言説を聞き流していった。



昼食時の食堂には、腹をすかせた学生共の食券が舞い、脂質とカロリーの刺激臭が立ち込める。もやのかかったテーブルに浮かぶ空席に、どうにか潜り込んだ二人組。そのうちの金髪のヤンキーじみた男がスマホをいじっている。


「おい、敷島。人が死んだらしいぜ」


荒れ気味の黒髪を眼鏡で留めた男が応える。


「そりゃ生きてる人間が70億いたら誰か死ぬだろ。いちいち言わんでええて。お前は何秒に一回アフリカで人が死ぬとか報告するユネスコか」


敷島は訛りの混じった罵声を投げながら、ラーメンをテーブルに置く。どんぶりの油の対流を監視しつつ、何度か息を吹き掛けるが、無駄と分かると冷めるまで放置の姿勢に入った。


「くそっ。何でラーメン熱いんだよ。冷まして出せや」


「猫舌基準で学食は出せんだろ。つーかそうじゃねえ。結構近くでよ。下流の漁村?かどっかでサメに喰われて死んだらしいぜ。人が」


 敷島が曇った眼鏡をTシャツで拭きつつ、細めた眼を向ける。


「沖で泳いででもいたんか」


「いんや、住宅地の近くで、水場なんて周囲になかったらしい」


「台風で飛んできたな。よくあるこった」


「よくあるのか?」


「あるある。大和よ、この世にはまだまだようわからん不思議がいっぱいあるんだよ。まあでもこんな山ン中にサメもクソもないやろ。川をさかのぼってでもくるんか。鮭かっての。いや、サーモンシャークか。一発あてられそうやな。北海道舞台でアイヌを出せばワンチャンあるか?」


「北海道が独立するからやめろ」


「それもそやな」


 そういって敷島はラーメンを勢いよくすすり、それ以上の勢いでむせた。


「おうえっほ!ごぶ!ぶへ!くっそ!ぬるいラーメン出せや!!」


「無茶言うなよ」


 この時、彼らは小さなニュースに夢中になるあまり、スマホの画面の隅の表示を見落としていた。すなわち、大型の台風が、夕方から列島を直撃するという気象情報を。

 

 脅威は静かに、しかし着実に侵攻してきていた。


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