第3話 老人の決断

 控えめなノックが総一郎の部屋に響く。


「おじい様、今よろしいでしょうか?」

「構わないぞ」


 天津総一郎は口をつけようとしていたコーヒーカップを置いた。


「こんにちは、おじい様」


 控えめな挨拶とともに陽菜が舞とともに入ってくる。


「体はもう大丈夫なのか?」

「えぇ。ご心配をおかけしました」


 時刻は既に正午を過ぎていた。

 陽菜が自宅に帰ってきてからずっと眠っていた。

 熱はなく、呼吸は安定していたので命に別状はないと医者は言っていたが、こうして元気な様子を見て総一郎の心に深い安堵感を覚えていた。


「いいんだ、お前が無事なら。それで今日はどうしたんだ?」

「はい。おじい様にお話したいことがありました」


 話したいことがある。

 こんな言葉、陽菜から今まで聞いたことない。


「二人で話したほうがよいか?」

「いえ、大丈夫です」

「そうか。で、話とは?」

「はい。まずは昨夜はおじい様を傷つけてしまいごめんなさい」


 深々と頭を下げる陽菜に総一郎は驚愕する。


「陽菜よ……まさか……」

「はい。おぼろげですが自分が何を言ったかを含めて昨夜のことを覚えています。それと思い出したんです。私の過去を」


 孫娘と一緒に生活を始めて三年は過ぎている。

 それまで彼女は一度として夜のことを口にしなかった。

 これまでは傷つけないように夜のことはなるべく触れないようにしてきた。

 それが彼女から初めて言及してきた。

 しかも、自分の過去まで思い出したと言った。

 総一郎は今までになかったことが一気に起き混乱を隠せない。


「おじい様?」

「すまない。あまりに唐突で少々考えがまとまらない」

「そうですよね。私も今朝から驚いています」


 なかば諦めていた昔のことが今になって急に思い出したのだ。

 驚かない方がおかしい。

 しかし、予兆はあったらしい。

 陽菜の話では断片的ではあったが記憶が蘇っていた。

 それが今日細いながら一本の糸に繋がったらしい。


「こうして思い出せたのは彼、勇人君のおかげなんです。お願いします。彼をもう一度私の護衛にしてください!」


 真っ直ぐな瞳でこちらを見つめてくる。

 普段主張しない彼女がお願いをするのも珍しいことだ。

 思えば彼女は自己主張をほとんどしない。

 記憶がないことによる自己の喪失した彼女にとってこの家での生活はさぞ居心地が悪かっただろう。

 少なくとも自己決定や自己の欲求を満たす行為には遠慮がちになるのは控えめな性格の陽菜なら当然の結果だったかもしれない。

 そうしたことが菜月いなくなった妹を作ってしまったのかもしれない。

 そんな彼女の切実な願いを聞いてやりたいが……。

 総一郎は立ち上がり背後にある窓の方向に向かう。


「すまない、陽菜。お前の願いを……聞いてやることはできない」

「え?」


 愛する孫娘がどんな顔をしているか総一郎はわからない。

 ただわかるのは、その顔を、表情を、見ることはできないということだけ。


「おじい様……どうしてですか?」

「昨夜、お前は賊に襲われた。ケガこそなかったが彼はその責任を痛感していたよ」

「ですが、私は今もこうして……」

「昼まで眠っていたことを果たして無事と言えるのか?」


 陽菜は言葉が出ない。

 彼女自身が襲われたという事実とその結果の責任を取った勇人。

 それはどんな業界でもある当たり前のことだ。

 一企業のトップだった総一郎の言葉だからこそ一層重く感じられた。


「陽菜よ、お前は病み上がりなんだ。明日も学校があるんだ。今日はもう休みなさい」

「……わかりました」


 陽菜は不承不承と言った感じで部屋を後にする。

 ドアが閉まる音がして総一郎は大きく息を吐く。


「ワシは正しかったのじゃろうか?」


 ソファに腰掛け背もたれに体を預ける。

 総一郎にとって空木勇人はどちらかと言えば好意的に見ていた。

 多少不遜な態度はあったが何より陽奈が気に入っていたことは確かだ。

 夜の人格とも良好な関係を築けている上に高い身体能力を持っていることもプラスだ。

 今まで何度かボディーガードをつけてみたが昼と夜の変化についていけず辞めてしまう人が続出していた。

 そうした意味でも勇人は貴重な人材だった。

 貴重な人材だからこそ総一郎は昨夜の一件は不問に付し、勇人に護衛を続けてもらうつもりでいた。


「総一郎様。貴方の判断は正しい。あのような下賤な輩はお嬢様の護衛に相応しくありません」


 筆頭執事の高島が断言する。

 高島は勇人が護衛に就任した当初から反対していた。

 そして、今回の一件で彼の解雇を強く主張した。

 加えてそれに同調した複数の使用人が総一郎に直訴してきた。

 使用人と孫の気持ち。

 どちらを取るべきか迷っていたところに勇人の辞意だ。

 結局本人の意志を尊重する形で了承してしまった。

 その結果、最も大切な孫娘を傷つけてしまった。

 総一郎はふと引き出しの上にある写真に目が止まる。

 再び立ち上がって写真を手に取る。

 そこに映っていたのは二十代半ばぐらいの青年の姿だった。

 穏やかで優しげな微笑が印象的だ。


健一けんいち……」


 天津健一。

 総一郎の息子にして陽菜の父である。

 優しくて聡明な自慢の息子だった。

 総一郎の妻は健一を生んでしばらくして亡くなってしまう。

 そんな総一郎にとって妻の忘れ形見でもあった健一は命より大事な存在だった。

 どんなに辛くても仕事が多忙を極めても息子のためにと思いながら耐えた。

 その思い、期待に健一も応えていった。

 学生時代は生徒会長を務めあげる。

 文武両道を極め、部活では全国制覇、有名大学の首席合格に加え海外に留学もした。

 明るく気さくで皆をまとめ上げるリーダーシップも備えていた。

 総一郎の会社に入社してもその非凡な才能は変わらなかった。

 少々頑固なところはあったが、総一郎は順調に成長すれば間違いなく跡取りになると確信していた。

 しかし、二十年前順調に見えた親子の関係に亀裂が入る。

 きっかけは健一は恋人を連れてきたことだ。

 彼女の素行を調べると両親はなく様々な非行を繰り返していたようだ。

 ただでさえ素行に難があると言うのに、あろうことか健一は彼女と結婚前提で付き合っていると明言した。

 総一郎を含め関係者は全員反対した。

 跡取り息子の交際相手に相応しくないと。

 しかし、息子の意志は固かった。


 ――――父さんが彼女と別れろと言うなら僕は会社を辞める!


 壮絶な親子喧嘩の末、結局行くところまで行ってしまった。

 その結果、総一郎は最愛の息子を、家族を失った。

 あの時息子の望みを聞けば良かったのか?

 そうすれば今のような状況にはならなかったのではないか?

 後悔と罪悪感が胸を締め付けるが、それはもう後の祭りだ。

 もし神様がいるのならせめて、せめて孫娘だけは幸せにさせて欲しい。

 総一郎はそう願わずにはいられなかった。

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