第2話 火星へ

「ケンジ、まだ寝てるの?遅刻するわよ」

その朝は、こんな美月の声で起こされた。インターホンの音ですら、今はアウトバンド経由で意識に直接入ってくるので、目覚まし効果は抜群だ。

「美月か、今何時だ?」

「あんたね、もう8時よ。ぎりぎりじゃない」

俺は時計を見てちょっと青くなった。これから支度していたら、どう考えても遅刻である。しかも、今日は操船実習の日だ。担当教師はもちろん、あのコワモテである。

「すまん。お前は先に行ってくれ。すぐ用意して追いかける」

「まったく、何やってるのよ。先に行って格納庫で待ってるから、大急ぎで来なさいよ」

「わかった。すまん」


俺はベッドから飛び起きるとパジャマを脱ぎ捨て、急いで制服に着替える。ぼさぼさの髪もそのままで、必要なものだけ持って、慌てて寮を飛び出した。昨夜、ちょっとゲームにハマって夜更かししてしまったせいだ。だが、そんなことは美月には言えない。遅刻はほぼ確定だが、問題は実習だ。俺が遅れることで全員が待ちぼうけを食ってしまう。なによりあのコワモテに何を言われるかと考えると憂鬱になる。

「アカデミー実習センターへ」

俺は車寄せに止まっていた車に飛び込んで、行き先を告げた。

「大急ぎでたのむ」

もちろん、そんなリクエストは無意味だ。この交通システムの運行は集中制御され、常に最適な速度が維持される。合流や分岐も、他車とのタイミングがあらかじめ調整されていて、まったく無駄が無い。つまりは常に最短時間での到着が保証されているのである。だが、今の気分的には、こう言わざるをえないのだ。

「承知しました」

車のAIはそう言うが、これは人の感情に配慮した気休めに過ぎない。乗ってしまったら、あとは何も出来ることはない。ただ窓の外を眺めて早く着いてくれと祈るだけだ。たった10分ほどの時間が、なんとも落ち着かない。本当に寝坊なんてするもんじゃないと思うのだが後悔先に立たずとはこの事である。


やがて、車は幹線道路をはずれ、アカデミー施設の前の車寄せに滑り込む。

「お疲れ様でした。到着です」

そんなAIの声も聞かずに、俺は開いたドアから飛び出して全力疾走する。周囲の学生や教師から見れば、これが何を意味するかは歴然だ。毎朝、必ず見られる光景ではあるのだが、自分が見られる側になると、なんともバツが悪い。俺はエントランスに駆け込み、近場の昇降シャフトに飛び込んだ。


大昔は、こうしたフロア間の移動にはエレベーターという機構が使われたらしいが、今は重力と慣性制御によって、自由に昇降ができる昇降シャフトが一般的だ。一般施設の昇降シャフトには、エネルギー場で構成された不透明な「床」があり、昔のエレベーター同様にそれがフロア間を移動する。乗客はアウトバンドのパネルで行き先階を指定するのである。一方、宇宙船などでは、床が無く、それぞれが自由にシャフト内を昇降できるものもある。いわゆる自由落下シャフトだ。移動は後者のほうが効率的だが、スカート姿の女性には、ちょっと難がある。そこで、アカデミー施設には両方の形のシャフトが併設されているのである。もちろん、今の俺にとっては後者の一択である。希に遅刻しそうになった女子が、なりふり構わずこちらのシャフトに飛び込んでくることもあるが、俺はまだ、そういうラッキーなシチュエーションに遭遇したことはない。


宇宙艇の発着は都市の地下、つまり宇宙都市の内部空洞にある宇宙港施設で行われる。実習用の宇宙艇格納庫もそのレベルにあるため、俺は20層ほどあるフロアの最下層まで降りなければならない。このシャフトの場合、下りシャフトは、ほぼ自由落下できるので、最下層まででも一瞬で降りられる。もちろん、行き先フロアの直前ではブレーキがかかるのだが、これも重力制御で行われるため、ほとんどGはかからないのである。

「5分遅刻か、やばいな」

俺は最下層フロアの通路をダッシュする。格納庫までは少しの距離だが、そこで奴が待ち構えていると考えると、出来ればこのまま逃げたい衝動にかられてしまう。普通の授業なら仮病でも使って休みたいところだが、実習の場合、他のメンバーに迷惑がかかるから、そうはいかない。まぁ、いずれにせよ迷惑はかけてしまうのだが。


そんなことを考えながらも、俺は覚悟を決めて格納庫エリアに走り込んだ。俺たちの船は205号艇だ。通路の両脇にはST1Bタイプの訓練艇が、ずらっと並んでいる。この訓練艇は旧式の戦闘艇であるSF1Bの訓練用として開発された機体である。オリジナルはコンピュータの処理能力が低いので、我々のチーム、というか、美月が生み出す大量の情報をさばききれず、訓練の最初の頃は大変だった。それを担任のフランク・リービスの入れ知恵でジョージが一肌脱ぎ、コンピュータを改良した。おかげで、我々は、今のところ問題なく実習を続けることができている。そのため、使う船は常に205号艇に固定されている。205号艇は並んでいる訓練艇の列の、ずっと奥の方に駐機されている。もうこの辺りに人の姿はまばらだ。他のチームはもう乗り込んで出航準備を始めているはずだ。

205と書かれた機体の周囲にも人影はない。既に皆乗り込んでいるのだろう。余計なことは考えずに急ごう。俺は開いているハッチから船内に駆け込んだ。


「すみません。遅くなりました」

コックピットに入るなり俺は叫んだ。とりあえず、カミナリとお説教を覚悟して、周囲を見回す。

「ケンジ、待ってたよ」

ケイの声だ。見れば、メンバーは揃っているが先生がいない。

「あれ、先生は?」

「なんか、急用ができて遅れるみたいだよ。先に準備しておけって連絡があったし。助かったね、ケンジ」

「まったく、悪運が強いわよね」

脇から美月が言う。どうやら説教は免れたようだが、それでも遅刻に変わりはない。とりあえずメンバーには謝っておかなければいけない。

「すまん。寝坊した。申し訳ない」

「ホントよね。リーダーが寝坊してどうするのよ。私が起こさなかったら、まだ寝てたんじゃないの?感謝しなさいよね」

「でも、ケンジが寝坊なんて珍しいな。このチームで寝坊は僕の専売特許だったはずだけど」

ジョージが言う。

「ジョージ、それって開き直ってない?」

すかさずケイが突っ込む。たしかに、ジョージの遅刻回数はハンパではない。この前も、その件で担任に呼び出されていたばかりである。

「あはは・・・」

「ケンジ君、どこか体調でも悪いんでしょうか?」

マリナが心配そうに言ってくれるのだが、この場合、かえって俺の罪悪感は増幅されてしまう。

「あ、そう言うわけじゃなくて・・・」

「どうせ、つまらないことで夜更かしでもしたんでしょ。心配なんてすることないわよ」

いつもどおりの悪態だが、どちらかと言えば、今日は非難された方が気が楽だ。

「ところで、準備はどこまで進んでる?」

「今、コンピュータの起動チェックが終わった所だよ。これから機関と各システムのチェックに入るところさ。ちょうどいいタイミングだね」

「よかった」

「まったく、狙ったみたいなタイミングよね」

機長席に座る俺の隣で美月がつぶやく。とりあえずそれは聞かないフリして、自分の仕事をするとしよう。


「それじゃシステムチェックを始めよう。ジョージ、メインシステムの起動とチェックをたのむ」

「了解。システム起動、自動チェックシーケンスを開始・・・・OK,異常なし」

「各部、接続チェック、続けてシステムチェックを行う。機長席、システム接続・・・OK、操縦系統異常なし」

「副操縦士席、接続チェック・・・OK、操縦系統、火器管制システム、異常なし」

「ナビゲーター席、接続チェック・・・OK、ナビゲーションシステム、異常なし」

「C&I席、接続チェック・・・OK、通信システム、各センサー、情報処理系、異常なし」

「メディカル席、接続チェック・・・OK、各自、VMI接続許可を確認。メディカルシステム、環境コントロール・・・異常なし」

「エンジニアリング席、全システム異常なしを確認。それじゃ、情報共有チェックに入るよ。各自、情報共有モードに移行してくれるかな」

「了解。各自、情報共有モードに移行。データ表示を確認してくれ。機長席、計器表示は異常なし」

「副操縦士席も異常はないわ」

「ナビゲーター席、おっけー」

「C&I席、情報、通信パネル異常なし」

「メディカル席、バイタル及び環境パラメータ表示に異常ありません」

「エンジニアリング席、機関系データ表示異状なし」

「よし、システムチェック完了。さて、ここから先は先生待ちかな」

「とりあえず、リラックスしよっか」

ケイが背伸びをしてイスの背にもたれかかる。

「あんたねぇ。もう訓練は始まってるんだから、緊張感は保ちなさいよね。」

「だってさぁ、退屈じゃん。どうせ先生が来るまですることないんだし」

「今日のフライトプランの確認でもすれば?」

「そんなの、もう何回もやってるんですけど」


ちょっと時間が空くと、この二人は、いつもこんな感じだ。まぁ、俺におはちが回ってこない間は静観するしかない。ヘタに口を出すと藪蛇になる。

「ケンジ、あんたも何か言いなさいよ。リーダーなんだから」

おっと、いきなりこっちに回ってきたか。もう少し二人で時間を潰しておいてくれると助かるのだが。

「どうした。なにやら賑やかだな」

コックピットの入り口から顔を出したのは担任のフランク・リービスである。

「あれ、先生、どうしたんですか?」

ケイがイスにふんぞり返ったままで言う。

「いや、実習主任が、急ぎの件がちょっと長引きそうだから、指導教官を代わってくれと言うんでな。それで、準備はどこまでいった?」

「そうでしたか。今し方、システムチェックが終わった所です」

「そうか。それじゃ、早速ブリーフィングをやろう。沢村、今日のフライトプランを説明してくれ」

「おっと・・。ちょっと待ってくださいねぇ。フライトプラン・・・っと」

「なによ、もう何度も確認済みじゃなかったのかしらね」

隣で美月が独り言のように言う。

「どうした、星野。何かあったか?」

「あ、いえ。なんでもありません」

流石の美月も担任には弱いのである。フランク・リービスはイケメンの上に、宇宙物理学の研究者としても、また、宇宙艇のパイロットとしても一流で、附属高女子の人気ナンバーワン教師だ。もちろん美月が他の女子みたいにフランク先生を男として意識したりはしないだろう。だが、美月にとってフランク先生は突っ込みどころの見つからない、つまり、逆らいようがない完璧な存在らしい。いずれにせよ、俺にとっては助かる「天敵」である。


「フライトプラン、共有します」

ケイがそう言うと、アウトバンドのパネルに航路図が表示された。

「今回の目的地は火星です。現在、火星は地球に最接近しています。距離は3.5光分です。光速、つまり1cで航行して、3.5分ですが今回の航行では平均速度ポイント03cを想定していますから、所要時間は約2時間となります」


通常航行する宇宙船の速度の表記には2種類ある。低速では、秒速1Kmを単位に表記する。たとえば1000Kと表記した場合、秒速1000Kmを意味する。一方、秒速で約2970Km、つまり光速の100分の1を境に、表記は光速、つまり秒速29万7千Km(c)が単位の小数表記に変わる。ポイント01cは2970Kと同じである。正式な表現は、Kやcを伴うが、実際の運用ではこれらを省略することも多い。つまり整数表記はK、小数(ポイント)表記はcが暗黙に省略されているとするのである。ちなみに、附属校の実習では基本に忠実にKやcを付加して表記することが推奨されている。

「L2を出航後、座標基準点ブラボーデルタ5に進路を取り、L2管制圏内を出ます。経由点ブラボーデルタ5から航路エコーマイクブラボーに乗り、巡航速度に加速。その後、エコーマイクブラボー7を経由して、エコーマイクデルタへ航路変更、エコーマイクデルタ9から、航路点マイクエクスレイ3に向かい、火星軌道ステーションの管制圏へ3光秒手前で減速、火星ステーションにアプローチすることになります」

「これから準備して出航すれば、昼前には火星基地に着ける。向こうで昼飯だな。折り返して夕方までには戻ってこられるだろう。火星は今回初めてだが、航行の手順はこれまでと何も変わらない。航行時間が長くなる分、集中力を切らさないように注意しろ。まぁ、君たちは既に実ミッションを経験しているわけだが、これが訓練だからといって気を抜くな。2Aシリーズとこの機体はまったく別物だ。それを忘れるなよ」


フランク先生が言うことは俺たちも分かっている。実は先日、俺たちは緊急のミッションから帰ってきたところなのである。火星どころか太陽系の外れのその先まで行って来たミッションは、語ると長くなるので、またの機会に話そう。その時に使ったのは、この旧式の訓練艇ではなく、最新型のものだ。これも以前、ちょっとしたなりゆきで、たまたまそれに乗っていた俺たちが、アカデミー唯一の経験者だったことも、そのミッションに借り出された理由のひとつである。それはある意味幸運だったが、そのあと俺たちは旧式艇との落差に苦しむことになる。ジョージの努力で改良されているとはいえ、2Aシリーズの訓練艇と1Bシリーズでは天地の差があるのだ。


「では、このプランをコンピュータにセットします。パイロットは確認をお願いします」

「了解。フライトプランのエントリーを確認」

「よし、特に質問が無ければ、出発準備を始めよう。中井、お前が指揮を執れ」

「了解。各セクションスタンバイ。サム、発着デッキコントロールにコンタクトを」

「デッキコントロールにコンタクト。フライトプランの送信要求が来ています」

通信はサムの役割である。

「フライトプランを送信。承認をリクエストしてくれ」

「フライトプラン送信します。・・・フライトプランの承認を確認。以後、音声通信に切り替えます」

ここからは音声で管制とやりとりすることになる。

「デッキコントロール、こちらは訓練艇T205、3Hカタパルトへのタクシー許可を要請する」

「T205タクシー許可。タクシーシーケンスを開始せよ」

「T205了解。係留を解除、制御を移行する」

格納庫から出発カタパルトまでは自動誘導である。アウトバンドで表示されている計器パネルの表示がブルーに変わると、制御が管制に移行したサインだ。同時に機体をフロアに固定していた人工重力が解除され、機体は牽引ビームによって出発カタパルトまで牽引される。

「よし、離陸前チェックを開始する。美月、チェックを開始してくれ」

「了解、チェックシーケンスを開始するわ。ジョージ、そっちでもモニターして」

「了解、全システム異状なし」

「全システム異状なしを確認。離陸はゴーよ」

「了解。各ステーション、離陸に備えてスタンバイ」

現在の宇宙船や航空機では、チェックシーケンスはすべてコンピュータによって瞬時に実行される。昔懐かしいチェックリストの読み上げはもうないのである。


機体は何度かコーナーを曲がって離陸カタパルトに向かっている。このカタパルトというのは、いわゆる電磁マスドライバーだ。磁気を使用して、宇宙艇を一気に秒速数Kmまで加速し放出する。惑星間航路に向かう船は、その後もカタパルトから照射される指向性磁場によって加速され、L2ステーションの宙域を離れる頃には秒速100Km近くまで加速されるのだ。この方式は、すべての宇宙船や宇宙艇に共通である。また、惑星上から軌道に向かう場合も、より大規模なマスドライバーと強力な指向性磁場のおかげで、ほとんど燃料を使うことなく軌道まで到達できる。


「ちょっと渋滞中ね」

美月がつぶやく。

我々の前には離陸待ちの訓練艇が数機並んでいる。俺たちの同級生の訓練艇だ。彼らも一緒に火星まで飛ぶことになる。

「T205、こちらデッキコントロール、3Hカタパルト出発順はナンバー5」

「T205了解、出発はナンバー5」

「それじゃ、サラウンドモードに切り替えるよ」

ジョージが言う。離陸時のサラウンドモードは、なかなか刺激的だ。まるで、自分の体が直接加速されて宇宙に放り出されるような感覚になる。慣れていないと目を回すくらいだ。訓練でも、実際の運航でも、これをやらないクルーも少なくない。だが、一度この刺激を覚えてしまうと、結構やみつきになってしまうのである。しかも、今回は惑星間航路用の高速カタパルトである。まさに絶叫ものの体験だ。本来なら、この打ち出しには数十Gという猛烈な加速度がかかる。だが、体感する加速度はたかだか1Gから2G程度である。これは、慣性制御システムが加速度を打ち消しているからだ。数百年前に発見され、物質に質量を与えるヒッグス粒子場を自由に制御できるようになった現在、慣性質量を制御することによって、加速時のGは打ち消すことができる。ただ、完全に消してしまうと人間の感覚を狂わせてしまうため、少しの加速感は残してあるのだ。ちなみに、ここで相殺したGはエネルギーとして保存されている。それは減速時の逆Gを打ち消すためや、その他の目的に利用され、最終的につじつまが合うのである。

「T205、こちらデッキコントロール、離陸を許可。チャンネル243Aでデパーチャーにコンタクト。カタパルト3Hに進入せよ」

「了解、離陸許可。243Aでデパーチャーにコンタクト。T205。離陸シーケンス開始、カタパルトに進入する」

ここで通信が、出発管制に切り替わる。L2宙域を離れるまでは、機体の制御を含め、L2の出発管制に従うことになる。

「離陸前チェック開始」

「チェック完了、異常なし」

「L2デパーチャー。こちらT205、カタパルト3H、離陸準備完了」

「T205、こちらL2デパーチャー、航路クリア。離陸せよ」

「T205、離陸する」

俺たちの周囲の景色が後に流れ、次の瞬間、俺たちは星の海に投げ出されていた。この加速では、差し渡し20KmあるL2ステーションの内部空洞もあっという間に抜けてしまう。加速は続いていて、気がつくともう、背後には星しか見えなくなっていた。


「座標点ブラボーデルタ5まであと20秒」

ケイの声。

「自動制御解除準備。航路設定確認」

「オートパイロット設定、フライトプランどおりを確認」

「T205、こちらL2デパーチャー。ブラボーデルタ5にて制御を移行。航路エコーマイクブラボー進入後にインタープラネットコントロールにコンタクトせよ」

「L2デパーチャー、こちらT205。ブラボーデルタ5で制御移行、インタープラネットにコンタクト了解。ありがとう」

「まもなくブラボーデルタ5」

「オートパイロット起動。自律航行に入る」

「針路正常。航路エコーマイクブラボーに入ります」

「了解。サム、インタープラネットにコンタクトを」

「インタープラネットにコンタクト。データリンク確立。フライトプランに従った航行許可を受領。火星宙域まで障害なし」

とりあえず、これで一段落だ。船は自前のエンジンで巡航速度まで一気に加速している。こうした惑星間や恒星間航路を飛ぶ船の主エンジンは重力エンジンである。このエンジンは重力場つまり空間の歪みを発生させて船を加速する。重力場による加速は自由落下であるため、どれだけ急激な加速であってもGは一切感じない。これもヒッグス粒子制御の応用である。物質に質量を与えるヒッグス場は、空間と相互作用させればそれを歪ませ、重力場を発生させるのだ。ただ、重力エンジンは周囲の空間を広範囲に歪ませるため混雑した空域や、特に惑星近傍の領域では使用が禁止されている。こうした領域では、昔ながらのロケットエンジンや、指向性磁場による遠隔加速などの方法が使われるのである。このため、惑星軌道には複数の加減速ステーションが配置されており、通過する船を加速、減速するほか、コース変更なども受け持っている。従って、惑星近傍では宇宙船は自らのエンジンを使用する必要がほとんどないのだ。


「加速終了。巡航速度で慣性航行に入ります」

「現在速度ポイント03c、火星宙域まで1時間48分です」

「よし。航路監視を自動にして、少し休憩しろ」

「了解。短距離、長距離センサーを自動監視モードに設定します」

こうしておけば、船の針路に影響を与えるような障害があった場合、自動的に検知され、回避が行われる。もちろん、だからといって完全に気を抜くことはできないが、ちょっと冗談を言うくらいの余裕は生まれるのである。

「それじゃ、サラウンドを一旦切るよ」

ジョージがそう言うのと同時に、俺たちはコックピットに戻っていた。

「順調順調、このまま火星までひとっ飛びぃ」

ケイが楽しそうに言う。

「呑気なものね。まぁ、ナビなんてほとんど機械任せだから、いてもいなくても同じだけど」

「おいおい、美月。そりゃ言い過ぎだろう」

まったく口の減らない奴だ。まぁ、いつものことだから、ケイの方もそんな言葉でキレたりはしないのだが、聞いているほうはあまり精神的に良くない。

「あんた、こいつのカタ持つの?」

「カタも何も、いてもいなくても、ってのは、いくらなんでも言い過ぎだろう」

「ケンジ優しいなぁ。私の肩ならいつでも貸すよ。好きにしていいから」

「ケイ、お前もあんまり調子に・・・」

と、そんな感じで、だいたい俺は、いつもこの二人のさや当ての間に巻き込まれてしまうのである。

「それじゃ、何か飲み物でも用意しましょう。ちょっと一息入れませんか」

そう言ったのはマリナだ。彼女は、こんな時、いつもさりげなく気を回してくれる。俺にとっては理想の女子である。

「ところで先生。いつもの先生はどうして来られなくなっちゃったんですか?」

ケイがフランクの脇に立って言う。

「ああ、なにやら風紀委員会で急ぎのミーティングがあったみたいだ。実習主任は風紀委員会の顧問だしな」

「風紀委員会ってことは、何か生徒の問題でも?」

「ああ、知っているかも知れないが、例の事件の容疑者が捕まってな、それが専門課程の学生だったらしいんだ」

「やっぱり、うちの学生だったんですか?」

「ああ、セキュリティが通信経路をたどって見つけ出したらしい。最終的なアクセス元がアカデミーの情報ラボの端末だったらしく、その利用履歴から容疑者が浮上したそうだ」

「それが本当だったら退学ものね」

「退学どころか、訴追対象になりそうだけど、いったいどうしてそんなことをしたんだろうね」

「おっと、ジョージがそれを言う?」

「あはは、それを言わないでくれ。でも、僕はそんな悪質なことはしてないつもりだけど」

「今、セキュリティが取り調べをしているから、そのうち分かるだろうが、本当なら、まったくバカなことをしたものだな」

「先生、お茶をどうぞ」

マリナがティーカップを持ってきた。

「でも、かなり慎重に足跡を隠していた様子でしたけど、よく見つけられましたね」

「VUやアカデミーのネットワークには、様々な監視用センサーが設置されている。セキュリティならばそれらにアクセスして情報を相関させることが出来るから、トレースされてしまうことが多い」

そう言ったのはサムだ。C&Iである彼女はこうしたことにも詳しい。

「でもさぁ、犯人はC&Iじゃないかって話でしょ。だったら、そんなことは分かってるんじゃないの?」

「それが大きな疑問。そんなことは基礎過程のうちに習う事項。もし専門課程のC&Iならその裏をかくようなことをしても不思議ではない。たとえば他人を犯人に仕立て上げるとか」

「おいおい、サム。君がそれを言うと冗談に聞こえないから怖いんだけど」

ジョージが言う。サムの実力は彼が一番よく知っている。

「冗談を言ったつもりはない。実際、C&Iはハッキングの追跡技術も学ぶから裏をかこうと思えば、それほど難しくない」

「じゃ、誤認逮捕かもしれないって事?」

美月が口をはさむ。

「予断はできない。でも、可能性は考慮すべき」

「そうだな。エドワーズの言うとおり、その可能性はまだ捨てきれないだろう。風紀委員会のミーティングの議題も、おそらくはそのあたりじゃないかな。誤認であればアカデミーとしても学生を守る必要が生じるからな」

「私たちとしては、間違いであることを祈りたいですね。ただ、どれだけ知識があっても、人間って間違ってしまうことも少なくありません。心理面で何か問題を抱えているという可能性もありますよね」

これはメディカルのマリナらしい発言だ。人間、頭で考えるとおりには、なかなか動けない。特に、悩みや緊張、不安などは間違いを誘いやすい。昔から知能犯に対する警察組織の常套手段は心理的な揺さぶりだ。捜査情報を小出しにしながら犯人の不安を誘うのである。過去に腕利きのハッカーがセキュリティのこうした揺さぶりで馬脚を現したことは何度もある。今回もそう言うことなんだろうか。

「単に、そいつのレベルが低かったってだけの話じゃないの?」

「まぁ、確かに。たいした事もやってないしな。美月の言うとおり、考えすぎかもしれないが」

「たしかに学生たちの技術コミュニティーの仲間うちじゃ、レベルが低いとバカにするような発言も多いね」

ジョージが言う。彼はそういったコミュニティーの中でも一目置かれる存在だ。

「でもさぁ、レベルが高かったら今度は逆に大変じゃない?重要なシステムを乗っ取られたり、機密情報を盗まれたり」

「まぁ、そうなんだけどね。少なくとも今回はそういう兆候が見られないのが幸運かな」

「いずれにせよ、これは捜査の結果を待つしかない。私も正直、間違いであってくれればと思っているよ」


アカデミーの学生、しかも専門課程のC&Iが、その技術を悪用したとなれば、アカデミーも教育機関としての責任を問われる可能性がある。だが、それ以前に、教師たちにとっては教え子が悪事に手を染めたということ自体、辛い話だろう。

「さて、雑談はこれくらいにして実習に戻るぞ。この前、緊急事の対処訓練をしたはずだが、この時間を使って復習するぞ」

「えー、先生厳しい」

「こら、沢村。今は実習中だということを忘れるな」

まぁ、ちょっと息抜きさせてくれたことには感謝しないといけないだろう。いつものコワモテだったら、休憩なしにいきなり始まっただろうから。

「よし、全員配置に戻れ」

「それじゃ、サラウンドに戻すよ」

ジョージの一声で、また俺たちは、星の海に浮かんだ状態になる。

「沢村、航路と周辺の船の位置を出してくれ」

「了解。航路及び周辺船の位置を投影します」

ケイがそう言うと、周辺の映像に航路と周辺船の位置を示す光点が現れた。グリーンの光点は、その船が順調に予定の航路を航行していることを示している。もし、船になんらかの異常が生じたり、緊急事態が宣言されると、表示は赤色になるが、今のところそのような船は見当たらない。黄色の点は、一時的にコースを外れて航行するなどしている船だが、脇に表示されている識別ナンバーがグリーンならば、それは管制の許可を得ていることを示している。

「他の船もやってるみたいね」

美月が言う。いくつか黄色の表示になっている船は、俺たちの僚船である。

「周辺船との距離はどうだ」

「本船から3光秒以内に船はありません」

ケイが言う。

「よし、センサーの接近警報を1光秒でセットしろ」

「了解」

「エドワーズ、管制と繋いでくれ」

「了解。インタープラネット管制と音声で接続します」

「インタープラネット、こちらT205、アカデミー指導教官のフランク・リービスだ。これより訓練のため、一時的に半径2光秒以内で航路逸脱許可を要請する」

「T205、こちらはインタープラネット。航路逸脱申請を許可。周辺で複数の船が同様の訓練中。接近に注意せよ」

「T205了解。周辺船に注意する。以上だ」

「よし、それじゃ訓練の説明をするぞ。発生する事態はシミュレーションの時と同様のコンピュータ異常だ。但し、これは実機なので航路監視系とフライトコンピュータ全体に影響が及ばない範囲のサブシステムに限定する。なんらかの異常が発生したら、速やかに原因を特定して修復すること。その際、コース逸脱は1光秒以内を目標としろ。質問はあるか?」

「先生、全体に影響しない範囲ってどのへんなんですか?」

「おいおい沢村。それを言ったら訓練にならんだろう。自分で考えてみろ。コンピュータ全体に影響が出たシミュレータ訓練よりは難易度が高いから頑張ってくれ」

「はーい」

「よし、各自、運行に集中しろ。問題は突然に発生するぞ」

「了解」


俺たちは、ちょっと緊張しながら、何か異常がないか、計器に目を凝らす。しばらくの間は何も異常はなかった。どうやら先生はじらし作戦に出るようだ。とりあえず、リーダーとして、ここはチームの緊張感を維持しておかないといけない。

「各自、状況を報告してくれ」

「操縦系に異常はないわ」

美月が即座に答える。

「ナビゲーションシステム異状なし」

「通信、データリンク系及び短距離、長距離センサーに異状なし」

「コンピュータシステム及び、機関系異状なし」

「メディカルシステム、環境維持システムに異常ありません」

さて、いつまでこの生殺し状態が続くのか、何か起きるならさっさと・・・と思った直後、突然アラーム音が響いた。

「航路逸脱、針路偏差プラス003、マイナス005」

ケイが叫ぶ。

「各自担当システムをチェック。美月、操縦をマニュルに切り替えてくれ」

「了解、オートパイロットを解除。操縦を引き継ぐわ」

おいでなすった。どうやら標的になったのは操縦系統のようだ。

「フライトコンピュータ自己診断は異状なし」

ジョージの声だ。

「ナビゲーションシステムも異状なし」

ケイのところも異常はないようだ。あとは計測系だが。

「座標計測用センサーシステムに異状なし」

サムの声だ。オートパイロットはナビゲーションからの航路データと座標計測センサーからの位置情報をもとに針路と速度を制御している。どちらかの情報が異常になると制御が出来なくなるが、いずれのシステムも二重化されているから、簡単には壊れない。

「ケンジ、マニュアルもダメよ。安定しないわ」

「ジョージ、機関系はどうだ」

「主エンジンの推進軸制御が安定しないね。スタビライザーに問題がありそうだ。エンジン制御系をチェックするからちょっと待ってくれ」

「美月、針路はどうだ」

「なんとか、大きく外れないようにはしてるけど、あんまり長くは持ちそうにないわ」

「ケイ、コースは?」

「航路からの逸脱は、0.3光秒で少しずつ増加中」

「ジョージ、状況は?」

「物理系に問題はなさそうだ。スタビライザーのサブシステムからの制御データに問題がありそうだね。一度主エンジンをオフラインにしたほうがよさそうだ」

「美月、スラスターだけで制御できないか」

「この速度だとちょっときついけど、やってみるわ」

「よし、ジョージ、主エンジンを切ってくれ」

「了解。主エンジンをオフラインに。エンジン制御系の自己診断を開始」


現在、この船は光速の3%ほどで飛んでいる。慣性航行ではエンジンを使わないが、この速度で針路を変えるためには、かなりのパワーを必要とする。このため通常は重力推進の主エンジンを使用するのである。スラスターは、低速航行時に、機体の姿勢や方向を制御するために使う噴射式のエンジンだが、推力が小さいため、このような高速での航行では制御が難しい。

「航路逸脱、0.6光秒に拡大」

「美月!」

「スラスターをフルパワーで使ってるけど、厳しいわ。針路偏差は少しずつ小さくはなってるけど、間に合わない」

「ジョージ、どうだ」

「うん、どうやら制御用のパラメータが書き換わってしまってるようだね。今、標準値に戻したから、主エンジンを再起動するよ」

「たのむ。美月、主エンジンに切り替えろ」

「了解。主エンジンオンラインを確認。針路修正。現在航路へ復帰中」

「航路逸脱0.4光秒から減少中」

「美月、オートパイロットに切り替えてくれ」

「了解。オートパイロット起動」

「航路逸脱0.1光秒。やったね」

とりあえず一息・・・そう思った瞬間に、またアラームが響く。

「だめよ、またエンジンがおかしいわ。マニュアルに切り替えてスラスターを使う」

「ジョージ、もう一度、主エンジンをオフラインにして確認を」

「了解、主エンジンをオフラインに」

「航路逸脱0.3光秒で増加中」

「さっき修正したパラメータがまた変更されてる。これはいったい・・」

ジョージがつぶやく。

「ケンジ、針路の偏差がさっきよりも大きい。スラスターじゃ間に合わないわ」

「航路逸脱、0.7光秒で増加中」

「ジョージ、原因はなんだ」

「まだ原因は不明。何らかの原因で外部から書き換えられている可能性が高いけど、確認には少し時間がかかるよ」

「ジョージ、時間がないわ。とりあえず復旧して」

「美月、でもそれじゃ・・・」

「一旦復旧してから、針路偏差をなくせばいいわ。その後、もう一度エンジンを切って確認すればいい。短時間だったら維持できるでしょ」

「僕もその意見に賛成だよ。やってみよう。いいかなケンジ」

「わかった。やってくれ」

「ケンジ、サブシステム全体をスキャンしたい。許可を」

そう言ったのはサムだ。

「わかった。たのむ」

「主エンジン再起動」

「針路修正」

「美月、一気に戻さず、元の航路にゆっくり戻す針路を取れ」

「わかったわ。それで時間を稼ぐのね」

「そうだ。針路を変えたらエンジンをオフラインに」

「いいわ。エンジンを切って」

「エンジンをオフラインに。サム、制御サブシステムを外部診断できるかな。自己診断は信用できないから」

「了解。外部からのスキャンを実行。複数の問題を発見。ソフトウエア改ざんの疑い有り。バックドアの設置を確認」

「マルウエア感染か?」

「マルウエア感染というよりも、制御系のソフトウエアそのものが改ざんされている。正式なソフトウエアのバージョンと明らかにチェックサムが異なるので。おそらく、改ざんの目的はバックドアの設置」

つまりは、何者かが制御用のソフトウエアを改ざんし、それを外部から操作するための仕組みを作り込んだということらしい。この場合の「何者か」は、フランク先生ということになるのだが、それはおいといて、そのように外部から不正にシステムを操作する仕掛けのことをバックドア、つまり「裏口」と呼ぶのである。

「了解。ソフトウエアのイメージバックアップを取得して保全。それから正規のソフトウエアで上書きを実行。これで一見落着ってことかな」

「そうだな。改ざんされたソフトウエアが消えれば、もう問題は発生しないだろう」

「まだ安心はできない。改ざんの方法とバックドアを操作した方法が不明」

そう言ったのはサムだ。

「でも、それって先生が全部やったんじゃないの?」

ケイが言う。

「この場合、その可能性は高いけれど、実際のインシデントでは、その先を考える必要があると思う」

「たしかにサムが言うとおりだね。直接の引き金はわかったけど、まだ原因が全部究明されたわけじゃないからね。それでサブシステム全体のスキャンを?」

「そう。スキャンは間もなく完了する。他のサブシステムが踏み台になっていれば、これでわかるはず」

「なるほど、流石だな。ケイ、時間の余裕は?」

「現在、航路逸脱は0.5秒でゆっくり減少中。このままの針路で航路復帰まで5分23秒、そのままの針路で航路逸脱が1光秒になるまで10分46秒」

「タイムリミットは10分か。いけそうか、サム」

「スキャンは今完了した。環境系サブシステムの予備系にマルウエア感染を確認。検体を分離してサンドボックス解析を開始する」

「環境系?そんなところに」

「よし、それじゃ、僕は環境系サブシステムを復旧させよう。予備系なら再インストールしても影響はないから、すぐに終わるよ」

「たのむ、ジョージ」

「マルウエア解析完了。マルウエアのタイプはボット。いわゆる遠隔操作型のもので、指令元サーバは教官用サブシステムになっているから、これが踏み台で間違いないと思う」

「予備系の復旧完了」

「了解。それじゃジョージ、サム、二人の意見を聞きたい。これで対処完了と考えていいか?」

「僕はいいと思う。サムは」

「同意する」

「よし、対処完了と判断する。美月、オートパイロットに切り替えて航路に復帰させてくれ」

「了解。オートパイロットに切り替えるわ」


なかなか手の込んだ仕掛けだ。見ればフランク先生はなにやらニヤニヤしている。ちょっと憎らしい感じだ。

「航路復帰を確認」

「了解。先生、対処を完了しました」

ここは、ちょっとドヤ顔したいところである。まぁ、サムがいなかったら、また一泡吹かされていたかもしれないのだが。

「よし。上出来だ。今回のポイントは、まさにエドワーズが指摘したところにある。訓練から教訓を得られるかどうかは、それが実際に起きた時の状況をできるだけ想定して対処できるかどうかにかかっているんだ。そう言う意味で、問題がまだ未解決であることに気がついたのは評価に値すると思う。実はこのシナリオの対処成功率は20%と低い。多くの学生が訓練だと甘く見て、マルウエア感染を見落としてしまうんだ」

「それと・・」

先生が俺の方を見て言う。

「中井も、前回の課題をクリアできたようだしな」

たしかに今回はサムも最初に提案を出してくれたから、行動は共有できた。まぁ、俺が課題を解決した、というよりはサムがうまく立ち回ってくれたというほうがいいだろう。

「対処完了に際してエイブラムス、エドワーズ両名の意見を求めたのは、いい判断だ。問題の対応には、最もふさわしいメンバーの意見を入れることがリーダーとしての必須要件だからな。さて、沢村、次の経由点までの所要時間は?」

「次の経由点、エコーマイクブラボー7まで、あと32分25秒です」

「よし、それじゃ20分間休憩だ」

「了解。ケイ、航路監視を自動に切り替えてくれ」

「了解でーす」

ケイは、ちょっとおどけた感じで敬礼する。美月は例によって、それを横目で見ながら何か言いたそうな顔をしている。まぁ、いつものことだから、気にしないでおこう。


さて、そんな感じで俺たちはまたお茶を飲み、少し雑談してから、訓練に戻る。往路は特に問題も無く、やがて、火星基地へのアプローチが始まった。


「マーズワンコントロール、こちらT205。マイクエクスレイ3を通過」

「T205,こちらマーズワンコントロール。針路変更250、030。1000Kまで減速せよ」

「了解、進路変更250,030。1000Kに減速。こちらT205」


マーズワンは、基地がある火星軌道ステーションのコールサインだ。俺たちの宇宙艇は、すでに火星基地の管制エリアに入っている。現在、火星には数億人が住んでいる。このため、火星軌道付近は地球周辺についで混雑した宙域になっている。火星軌道ステーションもL2と同規模の宇宙都市で、数万人が居住している。ここにはスペースガードの基地と火星と惑星間、恒星間航路の中継点となる宇宙港があり、アカデミーの訓練用施設はスペースガードの基地に隣接して置かれている。

「T205、マーズワンとデータリンクを確立し、制御を移行せよ」

「了解。こちらT205。マーズワンに制御を移行する」


こうした宇宙都市の周辺は様々な船で常に混雑している。多くの船を安全にさばく必要から、多くの宇宙都市では、宇宙港の管制システムによる自動航行が義務づけられているのである。

「サム、データリンクを確認してくれ」

「了解。マーズワンとのデータリンク完了」

「美月、オートパイロットの制御をマーズワンに移行」

「了解、制御をマーズワンに移行するわ」

美月がそう言った直後に、仮想計器パネルがブルーに変化する。これは、システムが外部制御に切り替わったことのサインである。あとは着陸まで全部お任せだ。

「あー、お腹空いた。早く着いてお昼にしたいよ」

ケイが言う。

「沢村、ここで気を抜くなよ。全員、システムが正しく機能しているかどうか、着陸まで監視しておくんだ」

フランク先生は抜かりない。制御が自動に切り替わると、ついつい気が抜けてしまう。自動制御でも、こちら側のシステムに問題が起きたら大変だ。自分たちだけでなく、周囲を巻き込んだ大事故になる危険がある。

「了解。操縦系異状なし」

「機関異常なし」

「通信、データリンク正常」

「航路正常でーす」

「機内環境システムに異常ありません」


サラウンドの機外映像に重ねて、航路と周辺の船が映し出されている。既に火星は赤い円盤状の姿を見せているが、軌道ステーションは、まだ位置表示の光点にすぎない。そこへ向かって船の列が数本続いている。これらはすべてステーションに着陸する船だ。中には超大型の貨物船から数人乗りの小型クルーザーまで様々なタイプの船がある。俺たちの船が並んでいる列はアカデミー専用の施設へ着陸する訓練船の列で、前後の船はすべて僚船だ。


「T205、こちらマーズワン。航路は正常。着陸順はナンバーファイブ。着陸まで5分20秒」

「マーズワン、こちらT205、航路確認。ナンバーファイブ了解」


コインほどの大きさだった火星は次第に大きくなり、やがて視野全体に覆い被さってくる。それと同時に、前方には火星軌道ステーションの姿が見え始めた。火星軌道ステーションもL2や他の宇宙都市と同じ形状をしている。太陽系内の宇宙都市の多くが、月の周辺もしくは小惑星帯で建設され、運ばれたものだ。月や小惑星帯には資源が豊富な上、大きな惑星に比べ重力が弱いため、それらの運搬が容易だからである。


「よし、中井。着陸前チェックを始めろ」

「了解。各ステーション、着陸前チェックを開始。機長席、操縦系、姿勢制御系異状なし」

「副操縦士席、操縦系、姿勢制御系異状なしを確認」

「ナビゲーションシステムチェック、異状なし」

「データリンク及び各センサーチェック、異状なし」

「機関及び自動システムチェック、異状なし」

「機内環境正常、乗員のバイタル異状なし」

「各ステーション、異状なしを確認。着陸前チェック完了です」

「了解。シートホールド作動させます」


前方のステーションはさらに大きくなり、ディテールまではっきり見えるようになっている。機体の速度が目に見えて落ちてきた。まもなく着陸である。


「T205、こちらマーズワン。最終の着陸態勢を確認せよ」

「マーズワン、こちらT205。着陸態勢を確認。オールグリーン」

全自動制御の着陸で、こうした通信は時代錯誤にも思えるが、万一のシステム異常が発生した際、管制官と乗員がただちに連携して対処できるよう、コミュニケーションを維持しておくことが重要なのだ。実際、まれに、着陸前にシステム異常が発生し、マニュアルで離脱しなければいけないような事態も発生している。

「全員、着陸態勢。ジョージ、シートホールドを作動させてくれ」

「了解、シートホールド作動」


シートホールド装置は、衝撃に備えて乗員をシートに固定するための装置だ。大昔のシートベルトのように機械的なものではなく、慣性質量制御と同様に一時的に体に対するヒッグス場の作用を強めることで体をシートに固定する。やんわりと体全体が抱きかかえられた感じだが、シートから立ち上がろうとしても体は動かない。非常時にはこの制御が全身にかかるので、数百Gの衝撃がかかっても怪我ひとつしないのである。もっとも、そんな衝撃では先に機体の方が壊れてしまうため、せっかくの安全装置も意味なしになってしまうのだが。


俺たちの船は、ステーションの中心空洞に吸い込まれて行く。空洞の壁面には宇宙港などの様々な施設が色とりどりの光を点滅させている。やがて船は大型の巡航艦が係留されているスペースガード基地の上を越えて、その脇にある着陸パッドに着地した。このあと、船は自動的に駐機スポットまで牽引され停止する。

「停止を確認。ジョージ、サラウンドモードとシートホールドを解除してくれ」

「了解。サラウンドモード及びホールド解除」

ジョージがそう言うと同時に、外部映像が消え、俺たちはコックピットに戻ってくる。

「駐機シーケンスを開始。係留システム起動」

「エンジン停止。予備パワーソースに切り替え。反応炉シャットダウンシーケンスを開始」

「機外、エアシールド展開を確認。気圧正常です」

「反応炉停止、安全装置起動。メインコンピュータシャットダウン開始。システムを駐機モードに」


機内の照明が白色から薄いブルーに変わる。降機準備が整ったサインだ。これで、宇宙艇は最小限のシステムを残して停止し、以後、管理は宇宙港に委ねられる。再始動には管制の許可が必要で、たとえ艦長と言えども許可なしでは始動することができないのである。

俺たちはハッチを開けて船外に出る。頭上にはステーションの中心空洞が広がっていて、宇宙港に停泊中の様々な船も見て取れる。つまり、ここは空洞内部の、本来であれば真空の場所だ。しかし、この駐機スポットの周囲にはエアシールドと呼ばれる特殊な力場が作用しており、その内部には空気が満たされているから、普通に呼吸ができるのである。

「あーお腹空いた。お昼に行こうよ」

「沢村、まだデブリーフィングが残ってるぞ。飯はそのあとだ」

「えー、そんなぁ」

「あんた、どこまで食い意地張ってるのよ。ほんと、あきれるわね」

デブリーフィングとは、航行後のミーティングのことで、そこで航行中の状況や生じた問題などを整理して課題を洗い出すのである。特に、こうした訓練では、その講評などもまじえて反省点を整理することになる。俺たちは駐機場に隣接した施設のブリーフィングルームに入り、手短にここまでのフライトを総括した。順調なフライトだったので、大きな反省点も無く、デブリーフィングは短時間で終わった。

「よし、それじゃ一旦解散だ。帰りのフライトは15時だから、一時間前の14時に、またここに集合してくれ。くれぐれも遅刻しないようにな」

「わかりました」

まぁ、実習中に遅刻して出発が遅れたら、どんなことになるかは全員承知しているから、何かアクシデントでも無い限りは遅刻などありえないのだが、最後の一言は、このチームの信用のなさによるところが大きいのかもしれない。


「よーし、ご飯だ」

「あんた、さっきから、そればっかりね。歩く胃袋と呼んであげるわ」

例によって美月がすかさず突っ込む。

「でも、たしかにお腹すきましたよね。長距離実習は神経を使いますから」

マリナがお腹のあたりを押さえながら言う。

「さて、どこで食べようか。一応学食もあるけど。僕としては、どこでもいいから早く食べたい」

「ここにも一人、胃袋が大きいのがいるわね。でも、流石に火星まで来てそれは無いんじゃないの?」

「そうそう。ここまで来たら街にいくでしょ。火星を見ながらランチしたいし」

「それなら、いい店がある。ここからもそう遠くない」

「そっか、サムにとっては地元だもんね。場所選びはお任せかな」

「そうですね。お願いしましょう」

そう言えばサムは火星コロニーの出身だ。ここにも頻繁に来ているはずだから、いい店を知っているだろう。

「そうだな。サム、たのむよ」

「わかった。それじゃ、ついてきて」


そうして俺たちはサムに続いて地上に向かう。昇降シャフトは結構混雑していたが、流石に女子と一緒に自由落下シャフトは使えないので、おとなしく行列に並ぶことにする。

「私はあっちでもいいけどなー。ケンジ、よかったら一緒に行く?」

俺の耳元でケイがささやくのだが、とりあえず聞かなかったことにしておく。

「そんなにパンツ見せたいんだったら、一人で行けば?でも、冗談抜きで下に短パンでもはいておくんだったわ。こんな行列、時間の無駄よね」

こういう会話に関して言えば、美月は地獄耳だ。こんな時は両方聞かないフリをしているのが一番である。まぁ、いくら俺でもミニスカートの下の短パンなんて無粋な物は見たくもないから。


地上に上がって外に出ると、空の半分ほどを赤い火星が占めている。このゾーンの時間では午後8時前。だが、火星の光で周囲は昼間のようだ。地球の静止軌道ステーションもそうだが、こうした惑星や衛星の近くにある宇宙都市は、その位置によっては夜がなくなってしまう。このため、深夜になると、外側の強化シールドの透明度が下がって、光を遮るようにしてある。なので、この時間が火星を見るには一番いい時間帯なのである。


「店は中央街区にある。車で5分ほどで着く。さっき予約を入れておいたので待たずに入れるはず」

サムはそう言うと、車寄せの方に歩いて行く。

「カフェ・メリディアニまで」

俺たちが乗り込んだあと、サムが行き先を告げると、車は静かに走り出した。

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