いある

仮初めの温度

 雨が、降っていた。

 身体を突き刺すような、ひどいあめ。泣きっ面を指す蜂の様に心と身体を貫く。


「あんたなんか、いらない」


 そんなたった一息で口にできる言葉。その程度の言葉で、私の自尊心は灰燼と化した。目の前にいる母親の姿がどこまでも遠ざかり、存在が朧気になっていったのをいやというほど覚えている。

 行く宛などない。ただこうして雨降りの町を歩く。歩いてると言えるのかすら怪しい程の覚束なさではあるが。

 水を含んだ髪が目に刺さる。乱雑に母親によって切り散らかされた頭髪は、ファッションセンスの欠片もありはしない。


「いたい、な…いたい…」


 そう独り言ちてしまうほどには、私の胸中には負の感情が充満していた。

 痛い。辛い。苦しい。きつい。怖い。悲しい。

 ぐるぐると渦を巻く感情の奔流に飲み込まれそうな精神をなんとか押しとどめて道端に腰を下ろす。満足に食事を与えられたことなどついぞ無かった人生だった、と一人過去を振り返る。寒気がする。吐き気がする。けれど救いの手を差し伸べてくれる人などいるわけがなくて。そもそも私に味方など存在していなかった。学校でもいじめられ、家庭でも忌避され、ネット上に助けを求めれば意味不明な誹謗中傷と来た。

 …もう、私なんて生まれなければよかったのだと、心から思う。

 こんなことを言えば独善的な意見をぶつけられるかもしれないが知ったことではない。同じ環境で生きてみろよ、そんな風に恨みを吐きながら、力なく瞼を下ろした。

















 温かい、おひさまの香りが鼻孔びこうくすぐった。

 ふかふかのベッド、目が眩むほどの真っ白なおへや。病院など連れていってもらえたことなど記憶にはないが、知識から判断するに病室だろう。無機質で愛想のない部屋だったが、突き放すような冷たさではなかった。


「目が覚めたみたいだね」


 しわがれた声だった。校長先生みたいな声がした方向を見れば、本当におじいちゃんみたいな人がいた。腰の曲がった物腰の柔らかそうなおじいちゃん。

 しわが寄って小難しそうな顔をしているけれど、その奥に覗く瞳は慈愛の光を湛えているみたい。


「ここは…あのとき、私は雨に打たれて…」

「…まぁ何があったのかとかは聞かないヨ。でももとの家に帰そうと思って沢山質問をしたこの爺に『優しい顔したウラギリモノ!』だなんて言われちゃあねェ。流石に放っておけなかったのサ」


 そんなことを私は言っていたのか。少し特徴的な喋り方というか、やや胡散臭そうな人柄ではあるが、きっと悪い人ではないのだろう。少なくとも、今すぐ取って食おうということじゃあないらしい。こんな人にひどいことを言っていたとは。申し訳なさで頭がいっぱいになった。

 カツカツ、と革靴を鳴らしながら私が横たわっているベッドのそばに置いてある椅子に腰を下ろす。生まれて初めて、人の暖かさを感じたと思う。

 こうしたぬくもりは一生縁の無いものだと思っていたから、なんだか無性にうれしかった。涙が、頬を伝った。

 幾度も繰り返してきた咽び泣きではなく、静かに自らの居場所を見つけられたことに安堵する涙。緊張がほぐれたというか、張りつめられていた糸が緩んだような、そんな感じ。

 そんな風に泣く私をおじいちゃんは静かに見ていた。急かすでもなく、慌てるでもなく、ただ落ち着いて。その行為が何よりもうれしくて。一人でしばらく涙を流していた。






 それから私は、おじいちゃんについて沢山のことを聞いた。

 私を拾ったのは単なる気紛れだということ、人にやさしくするのは得意ではないということ、なんて言われても信用できなかった。だって彼は、あまりにも優しい。

 彼の話の中でひときわ記憶に残っているのが、人のぬくもり、と言う話だ。

 人のぬくもりは人の心の傷を埋めて、凍った心を溶かしてくれるらしい。俄には信じがたい、と過去の私なら一蹴しただろうけど、今の私はそんなのもあり得るかもしれないと希望を抱いた。だってこんなに気持ちは安らいでいるのだから。






 沢山の会話を積み重ね、いろんな場所に連れていってもらい、様々な食べ物を食べさせてもらった。

 時には嫌いな食べ物もあったけれど、それも含めて私にとって大切な思い出だ。

 海外にもたくさん連れていってもらい、見分を深めた。勉強することすらまともに許されていなかった私は、彼の所有している書物にとても興味をひかれ、貪るように読み漁った。感情を表現する術を知った、人の思いに共感する術を知った、誰かのために行動することの難しさと大切さを知った、世界の彩を知った。

 沢山の事を学ばせてもらった。

 雨の日だって素敵な日になるのだと言って、朝から晩まで二人でボードゲームをした。死ぬほど暑い日だってスイカや素麺みたいに美味しく食べられる食べ物があること教えてもらった。きつくても我慢しなくていいと言ってもらった。

 そんなある日の事だった。

 よく分からない人から電話がかかってきた。


「もしもし、貴方はお孫さんですか?」


 開口一番、相手はそう言った。話を聞くと病院の人らしい。おじいちゃんは私のことを孫だと話していたみたいだった。


「ええ、そうですけど…どうされました?」

「…どうしたんだい、お嬢さんマドモワゼル。どちらの方カナ?」


 不意に背後からおじいちゃんの声が聞こえた。いつもと変わらないと最初は思ったけど、どことなく余裕がなさそうに見えた。

 何かあったのかな、そう思ったけど、おじいちゃんは何でも教えてくれた。だから私に何も言っていないということは何もないのだろう、そう思った。


「病院の…」

「そうかネ」


 短く返事をしたおじいちゃんは私の手からするりと受話器を奪うと素早く通話を終了した。何故通話を切ったのかは私には分からなかったけど、おじいちゃんがそういうことをするなら相手はきっと悪い人なのかもしれない。騙されないように助けてくれたに違いない。


「さぁ、爺と一緒にお料理でもしないかい?とびっきりのごちそうを作ろうじゃないか」

「うんっ!」

 満面の笑みで笑う私に向ける表情は、今思えばどこか強張っていたのかもしれない。





























 それが、最後に聞いたおじいちゃんの言葉だった。

 ピッ、ピッ、ピッ…無機質な、機械的な音が静かな病室に木霊する。

 酸素供給用のマスクをつけ、苦しそうな表情で目を瞑っているおじいちゃんが目の前にいる。ここは、私が初めておじいちゃんの事を認識した部屋。

 けれど、この部屋の表情はその時よりも、冷たい。

 夜空には三日月が覗いている。獲物を睨みつける獣の様に、残酷な月。

 首元に刃物が当てられているような錯覚を覚えておじいちゃんのしわがれた、樫の木のような大きな手を握った。

 いつも怖い夢を見た時はおじいちゃんはこの大きな手で頭を撫でてくれた。そうして暖かい胸の中で眠らせてくれたのだ。甘えることを知らない私に、そんな優しさをくれた。

 だから少しは落ち着くだろう、と思って…。
















 ――こおりみたいに、つめたかった。


「おじいちゃん…?」


 ――いつしか、きかいのおとはとぎれていた。


「ねぇ」


 ――わずかにうごいていたむねのうごきは、とまっている。



 いたい。つらい。くるしい。きつい。こわい。かなしい。


 唾棄すべき感情が、失い、決別したはずの感情が、噴火した。

 目が眩み、視界が歪み、脳がパンクし、胸が暴れ、冷や汗が頬を伝う。

 ゆめならばさめろ。そう祈った。



 ――否、願った。

     夢であれ! そう願った。


 嘘だった。何もかもが。

 何が人のぬくもりだ。大ウソつきじゃないか。



「だって…こん、なにも、っ…つめた、い…っ、あぁ…うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっ!」



 久しぶりに私は、


 結局は、仮初めの温度ではないか。そうだったじゃないか!




「優しい顔したウラギリモノ…っ!」




 だってあなたは、こんなにもつめたい。


 ぬくもりの残滓が消えていくのをどうしようもなく、感じていた。






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