第8話 サイバーセキュリティ

 「そういえば、小僧、最近見掛けなかったがどこか行ってたのか?」

信介が肇と煎餅を摘まみながら話をしていた。

「別に。だいたいおじさんと僕とは行動範囲や時間が全然違うんだから、しばらく会わなくても不思議じゃないでしょ。」

肇は相変わらず生意気だ。

 「だが、以前はよく出会ったじゃないか。緑川さんの時も、三橋さんの時も。あれは偶然じゃなかったのか?」

この追求には肇はニヤニヤして答えなかった。

「そうだ、小僧には何度かパンケーキもご馳走した。さてはわざとだな。」

「いいじゃないか、過去のことはさ。最近は勉強が忙しかったんだよ。」

 久恵はホッパーに荒らされたテーブルの片付けをしながらふたりの会話を聞いていた。約50歳の年齢差があるとは思えない会話だと思った。それでクスクス笑い声を立てたのだ。

 「おばさん。このおじさんにも困ったもんだね。」

即座に肇は話を久恵に振った。というより話題をそらせたかったのかもしれない。信介にはピンときた。

 「そうだ、小僧。お前何か調べてたろう。何だ? 何をやってた?」

こういうところは信介も勘がいい。相手が真実を話しているか、なにか含んでいるか、何となく分かるのだ。それが営業という仕事だと信介は今にして思う。

 「仕方ないなあ。墓穴を掘るよ、いいの?」

肇が上から目線で信介に迫った。

「いいから、話せ。何を調べてた。」

信介が肇に高圧的に言った。

「図書館だよ。図書館に通ってたんだ。」

「図書館だあ?」

信介は怪訝そうな顔だ。

「学校の図書館だよ。調べ物をしてた。」

肇がぶっきらぼうに言った。

「学校の図書館で何を?」

「歴史だよ、学校の。」

 「肇君、学校は谷小よね? 私たちは市外から来たんで谷小のことはよく知らないんだけど、図書館立派なのよね。」

「そうなんです。この市の歴史について色々持ってて、市の図書館よりそういう本は多いんです。」

「そうなんだ・・・。肇君本が好きなのね。」

 「久恵、お前は口を挟まないでくれ。」

信介が焦れてふたりの会話に割って入った。

「その図書館で何を調べてたんだ?」

「だから色々と・・・。」

肇はまだもったいぶる。

「色々? マンション建設のことか?」

信介は肇が当然事件のことを調べていたと思った。

 「それはもうおじさんが調べたんでしょ? お役人絡みで色々不正もあったと。」

肇が痛いところを突いてきたので信介も面食らった。

「ど、どうしてそれを知ってる?」

「話してくれた。」

「いや、俺は話してないぞ。小僧。お前まさか、ハッカーじゃ・・・。」

この件は村雨とネットで何度かやり取りをした。マンションの住人に話をした覚えはなかった。

「違うよ。博多のおじさんと話してるのを聞いてて、何となく想像は出来た。はっきりとは話してなかったけど。だから当時の新聞記事もネットで見た。お父さん、新聞社のデータベース検索の契約しててさ。」

 どうやら肇はハッカーではなく、名探偵なのかも知れないと信介は確信した。

「分かった、分かったが、親とはいえ他人のIDでアクセスするのは不正行為だ。」

「はいはい。」

肇は呆れたという表情で信介を見た。

 「じゃあ、何を調べてたんだ?」

肇から笑顔が消えて、信介と久恵を交互に見た。そして意を決したように、

「高野明恵さんのこと、調べてたんだよ。」

「え? 誰?」

あまりに意外な名前に信介は即座に理解できなかった。

「パンケーキ屋の明恵さんだよ。」

「ど、どうして、明恵さんを・・・。」

信介が目をぎょろぎょろさせた。明らかに狼狽えていた。久恵はクスクス笑いながら、でも何も話しかけてこなかった。

 「明恵さんてどういう経歴の人?」

肇が信介に尋ねた。

「そ、そ、そ、それは・・・。東京のパン屋さんの娘さんで専門学校出て自分の店を持つために働いてると。」

久恵が明らかに興味津々で聞き耳を立てているのが分かった。

「つまり東京の人? 地元の人間じゃない?」

「そりゃそういうことだろう。前はあきる野市の店にいたって言ってたし。少なくともこの辺の出身じゃない。」

もはや信介はしどろもどろ状態だった。

「嘘だね。それは全部嘘だ。彼女はここ地元の出身だよ。谷小の卒業生だ。」

「何だって・・・?」

信介は二の句が継げなかった。

 「学校の図書館で高野明恵さんの事を調べてた。あったよ、卒業アルバムが。彼女は平成20年の卒業生だった。」

肇が言うと久恵が頭の中で暗算をして、

「26歳?」

と独り言のように言った。

「そう、26歳。おじさんの娘でもいいくらいだよね。」

「お兄さん・・・。」

また久恵が呟くように言ったが、それ以上は何も言わなかった。

「小僧。お前、そんな他人の個人情報掘り返すようなマネをして、良くないぞ。」

言葉に困った信介は肇を叱りつけるように言った。が、肇は、

「明恵さんに関してだけは、おじさん全然いけてないから、代わりに僕が調べたんだよ。何につけ鋭い人だなあって尊敬してたけど、明恵さんの言うことには全く疑問を持っていないようだったから。」

信介の耳朶が赤くなっていた。

 「彼女言ってたよね、この前。風紀委員会のこと。」

「風紀委員会?」

「そうだよ。僕がズル休みだとか言いたげで、それを否定すると風紀委員会のことを持ち出した・・・。」

信介も思い出した。マンションでの会議の後肇と店に行って確かにそんな話をした。明恵は確かに谷小の風紀委員会のことを話していた。

「僕はそれを聞いて不思議な気がした。だって、彼女は地元じゃないと言ってたし、あの店が出来てからこの町に来たとも言ってたからね。谷小の風紀委員会の事なんて知るわけないだろ。」

「・・・。」

信介は言葉が出なかった。

「それで、彼女が谷小の生徒だったんじゃないかと思ったんだ。図書館でアルバムを見ていったら高野明恵の名前があったよ。写真もまず間違いなく彼女だ。ほら。」

そう言いながら肇は財布の中から写真のコピーを取り出した。それは間違いなく明恵の小学校時代の写真だった。今でも面影がある。間違いない。

 「だ、だが、小僧。出身地を偽ってただけで何が悪いんだ。」

信介にも肇の言わんとしていることは想像できていた。だけど、そう簡単には認めたくなかったのだ。

「図書館には卒業アルバム以外にも色々と所蔵されていた。これはみんな展示してない棚の本だけど。」

 肇は谷小図書館の閉架で『わたしたちの町』という小冊子を見つけた。平成21年に市が制作し各学校に配布したものだ。そこには駅を中心とした絵地図が掲載されていた。

 今のタワーシティの場所には広々としたにんじん畑と何件かの農家が点在し、1軒だけパン屋があった。ちょうどタワーシティの南側、谷小へ続く道の方だ。今はマンションの第2駐車場がある辺りだった。絵地図には「パン製造販売高野」と書かれていた。

 「彼女の実家だよ。卒業文集に高野明恵さんの住所が書いてあった。当時は個人情報温かったからね。このパン屋さんだ。」

肇は『わたしたちの町』のコピーを信介に示した。しばらく沈黙が続いた。

 信介は気持ちをどう整理していいのか困っていた。ジャンキーさんが怪しい、コンシェルジュ秋葉君が怪しいと言いながら、まさか明恵さんが? あまりの人を見る目のなさに信介は情けない思いだった。しかもそれを小学生の肇に指摘されるとは。

 「で、おじさん。肝心なのはこれからなんだけど・・・。」

肇が沈黙を破って会話を動かしにかかった。

「この写真を見て。」

肇は『わたしたちの町』冊子の中にあった写真と記事のコピーを広げた。そこには、パン製造販売高野の店先と思われる場所に、小学生の明恵、そして恐らく母親だろう、と祖母とおぼしき女性3代が並んで写っていた。店の奥には父親らしき人の姿もある。

「これが当時の明恵さんの家族だよ。」

と肇。久恵も近くに来て写真を覗き込んだ。

 信介の胸は張り裂けそうになっていた。自分で調べたタワーシティの土地買収に係わる事件を思い出したのだ。あの事件の当事者こそ、この高野一家に違いなかった。いや、高野の名前は分かっていた。まさかその家の娘が明恵だったとは・・・。

 「ああ、なんてことだ。」

信介は嘆息した。

「俺はマンション建設当時の事件を調べた。槇村不動産と市の助役が組んで立ち退きを迫った事件だ。」

 肇は信介の目の奥を覗き込むように顔を見た。小学校の図書館には高野パン屋は部活帰りの中学生で賑わう町の名物店だとあった。だが、その後マンション建設に絡んで悲惨な末路を迎えたとは書いていない。それはもう少し後のことになるのだ。この頃の明恵は屈託のない只ひたすら明るい少女だったのだろう。一家の写真に信介は胸が痛くなった。

 「彼女が今26歳というなら事件が起こったのは高校3年生かその少し後くらいだな。密かにマンション建設の計画が持ち上がり、それでも高野パン屋はマンションの外れギリギリで店を続けるつもりだった。だが、ここが歯抜けになるのを嫌った槇村不動産が強引に買収を持ちかけたんだ。それでも高野パン屋はそれを拒否した。当時も一部の反対者があり、高野は反対派の中心に祭り上げられていった。それで槇村不動産は市に助けを求めた。協力を求められた助役は地元のヤクザと懇意だった。元はテキ屋の元締めだったのだが、当時すでに広域暴力団の末端組織に連なっていたんだ。で、酷い嫌がらせが始まった。バブル期の地上げまがいだ。助役は槇村不動産からリベートを受け取り、ヤクザにも金が渡った。」

信介は絞り出すようにそこまでを語った。

 辛い話だった。槇村不動産がそこまであの土地に拘った理由は分からない。単にメンツの問題だったかも知れないし、すでに進んでいた設計を直したくなかったのかも知れない。

 「最初におばあちゃんが倒れてしまった。心労だ。おばあちゃんにヤクザの脅しは堪える。」

信介がそう言うと、久恵が声を上げた。

「まあ。」

肇は神妙な顔で信介の話を聞いていた。

 「次ぎにお父さんが何者かに暴行された。反対派の中心になっていたからかな、夜道で襲われた。これは結局犯人は捕まってないんじゃなかったかな。事件との因果関係は認められなかったんだが、その後彼は若年性認知症を発症してしまうんだ。」

「え・・・。」

久恵がまた声を上げた。

 「おばあちゃんは寝たきりになって施設へ入って、しばらくして亡くなったらしい。立て続けに働き手2人を失った高野パン屋はそれでも母親が必死に続けたそうだが、度重なる嫌がらせで中学生や買い物客も怖がって近づかなくなってしまった。母親はふたりの介護と店を守ることで参ってしまったんだろうな、ある日店奥の工場で首を吊っているのが発見されたそうだよ。」

「そんな・・・。」

久恵が今度は声にならない声を上げた。

 「これでようやく本格的に警察が動き出した。市の助役の関与が表沙汰になって世間は大騒ぎになった。最終的にはこの助役と確か市の都市計画課か何かの課長もいっしょに処分を受けた。ヤクザが何人か捕まったけど、チンピラだな。明恵さんは1年ほどの間に家族を全て失った。」

「酷い・・・。」

久恵が涙声でうめいた。

 「事件は終わったが、未成年の明恵さんには何も出来なかったんだろう。結局店はなくなり、当たり前の賠償金を受け取って彼女は町から消えた・・・。俺が調べたあの事件が、明恵さんの事件だったとは・・・。」

 「十分動機になるね。」

肇が感情のこもらない声で言った。

「小僧、お前には感情はないのか。それとも冷静沈着なだけだとでも言うのか?」

信介はちょっとムキになって肇を責めた。

「おじさん。とうとう人がひとり死んだんだよ。大怪我をしたお年寄りもいる。辛い過去も理由にはならないよ。」

「わかってる!」

信介は肇のことを睨みつけた。

「ただ、推測だけで証拠がない。」

肇はそう言って40階の窓の外を見た。

 「ねえ、肇君もお兄さんもお腹空いたでしょ? 何か作るから晩ご飯にしましょう。」

久恵が空気を読んだのかそう声を掛けてきた。

「確かに、腹が減ったな。頼む。」

信介と肇はダイニングテーブルの上を片付ける。久恵が冷蔵庫の中からあり合わせの材料で料理を始めた。

「ホッパー君に手伝わせようか?」

と信介。

「いらない。止めといて。」

 久恵に言われて信介は玄関に待機状態だったホッパーの電源をOFFにした。

「停止した?」

料理の手を休めずに久恵が聞く。

「ああ。電源を落とした。」

「基本的に家事は私がやる。いない時はお兄さんがやる。ふたりいる時は、分担する。それでいいわね。」

「だが、せっかくのホッパーだ、頼めるところは頼んではどうかな。」

「嫌よ。ロボットなんかと同居したくない。」

久恵はかたくなだった。

 「じゃあ、小僧。これはお前にやろう。ご両親がいない時は頼りにするといい。」

信介が今度は肇に言った。

「いらないよ。僕もロボットと同居する気はないな。晩飯をロボットと喰うなんて冗談じゃないよ。」

肇が即座に答えた。

「小僧は夜もひとりなのか?」

信介がズケズケと聞く。

「あの人たち遅いから。いっしょに食事するのは週末だけだね。」

「そうなのか・・・。」

信介は何か言いたげだったが、これ以上肇のプライバシーに立ち入るべきではないと考え言葉を飲みこんだ。

 「ひとそれぞれに状況はあるからね。そこでネットやAIやロボットが必要なところは使えばいいと思う。でも、こいつらを人みたいに扱うのは違うと思うな。」

ミートソースのパスタを頬張りながら肇が言った。そして更に続けて、

「特にセキュリティが確立されてないような状況ではむやみに家庭に入れるべきじゃないね。ボクはそう思うよ。」

「小僧は、営業と言うよりエバンジェリスト向きかも知れないな。」

信介が言うと久恵が、

「でもさ、このホッパー、実際は誰が送ってきたの? だってタナカ電機はそんなキャンペーンやってなかったんでしょ?」

話を切り替えた。

 タナカ電機のキャンペーンのことはさっき肇に聞いたのである。その後ネットで調べたが確かにキャンペーンはなかった。それならこのホッパーの出所はどこなんだろう。信介と肇が顔を見合わせた。

 「まさか、明恵さんが・・・。」

信介はまた陰鬱な気持ちに襲われた。あり得ることだった。そして、2日前明恵はわざわざ信介にホッパーの設定のことを聞いてきたのだ。小耳に挟んだと言って。

「でも、だとしたら・・・。明恵さんはおじさんを直接狙ったことになるよ。」

と肇。

「そうなの?」

久恵も意外そうな顔で信介を見た。

「そんな、いくらなんでも。」

信介は絶句する。

「俺は殺したいくらい嫌われてたって事なのか・・・?」

 「それともう一つ。」

肇が言った。

「偽のキャンペーン景品として明恵さんが送ったとして、偽の発送先じゃ宅配会社が受け付けない。あれは大きいし、重いから普通はチャーターでしょ。」

「小僧は色々と知ってるんだなあ。」

信介は感心しきりに肇を見た。

「だから。受け取る側と示し合わせないと出来ないと思うんだ。」

と肇が続けた。

「そう言えば、あの荷物、コンシェルジュから直接届いてるからと電話を貰ったんだった。普通宅配便の荷物はボックスを自分でチェックする。さすがにコンシェルジュが集配はやらない。」

信介はあの日のことを思い出しながら答えた。そしてそれは、明恵さんとコンシェルジュ秋葉がグルであった可能性を示していた。

 「いや、まさか。」

信介がまたしても言葉に詰まる。

「どこまで連携してたかは分からないけど、少なくともホッパーをおじさんに渡すには、明恵さんが用意したホッパーに偽の伝票を貼って秋葉さんに渡す必要がある。逆に言えば、そうすれば偽の景品をおじさんに受け取らせることが可能って事だね。」

明恵と秋葉が組んで偽の景品ホッパーを俺に渡す。設定など稼働状況を明恵が確認した上でハッカーに指示を出す、それが事件の初動であることは明らかに思えた。

 「あったわ、この伝票を調べれば物証になる。」

黙って席を立っていた久恵が戻ってきた。手にはホッパーの入っていた段ボールに貼ってあった伝票があった。

「こんな伝票は楽に手に入るよ。あとは、印字するソフトを作ればOK。」

肇は久恵の剥がしてきた伝票を見てそう言った。

「だが、何故なんだ・・・。」

信介はすっかり落ち込んでしまった。

 明恵とは仲良くやってたつもりだった。俺はマンション問題の当事者じゃない。事件に首を突っ込んだが、明恵の恨みを買う理由はないはずだ。なぜ、俺を狙ったんだ。信介は堂々巡りの疑問を頭の中で繰り返していた。

 「直接聞いてみるしかないね。明恵さんにさ。じゃあ秋葉さんは明恵さんの何だったのかってことにもなるじゃないか。」

肇の意見に信介は取り敢えず納得せざる負えなかった。明日朝パンケーキ屋へ行ってみる決心をするしかなかった。


 マンション内の全てのホッパーが停止し、公共スペースの機能が元に戻ったのは深夜0時を少し回った頃だった。盛んにあくびを繰り返す肇を信介は12階の両親の元まで送っていった。

 信介はそのまま40階には戻らず地下2階へ降りてみた。だが、そこはまだ規制線が張られ鑑識員たちが作業をしていた。信介は遠くからコンシェルジュが発見された資材倉庫の方に向かって手を合わせた。

 信介は2階から玄関に出ると外を歩き出していた。そのまま道路へ降りる、向かいにいつものパンケーキ屋が目に入ってきた。当然店はシャッターが降りている。

 信介は道路を横切ると店に向けて歩を進めた。すると今までは街路樹の影に入って見えなかった人影がシャッターの前に見えた。

「明恵さん。」

信介は影に近づきながら声を掛けた。明恵は驚いたように振り返ると信介を見た。

「明恵さん、どうしたのこんな時間に。」

「え? 佐崎さんこそこんな夜中に。」

明恵はハンドルの付いたスーツケースを持っていた。

「今頃からお出かけ?」

「え、ええ。まあ。」

「逃げるの?」

「え? どういうことですか?」

「秋葉君、亡くなったよ。」

「そうみたいですね・・・。」

「それでいいの?」

「何なんですか! 私には関係ないことです。変なこと言うの止めてください。」

明恵が気色ばんだ。そんな怒った顔も可愛いなと信介は思った。

 明恵が逃走しようとしているのは明かだ。だが、それを止める証拠を何も信介は持っていない。どうしたものか考えてみた。それで、

「少し話がしたい。」

「もう電車が来るので。」

明恵が拒む。

「もう電車はないよ。こんな時間だもの。車なんでしょ? だったら少しだけいいでしょ?」

信介が粘った。

 今夜は月がない。新月だ。駅前と違ってこの辺は街灯も少ない。タワーシティを中心としたマンションや商用ビルは、闇が多くを覆っていた。町は暗く闇の中に畑が続く、あの頃を想像させた。信介はよそ者だったが、明恵は遠い昔の記憶に連なるはずだ。思い出したくもない黒い記憶とともに。

 「佐崎さんには大変お世話になりました。あのお店を退職しました。なので、この町ともお別れなんです。」

明恵が落ち着きを取り戻して別れの挨拶を寄越した。

「そうなんだ。」

「短い間でしたけど、御贔屓ありがとうございました。」

「7年前かな、6年前かな、やっぱり君はそうやって出て行ったんだね、この町を。」

「え?」

明恵が小首を傾げる。その仕草がまた可愛い。信介はあの『わたしたちの町』に載っていた明恵もちょっと首を傾げていたのを思い出した。

 「知ってるんだ、君が谷小の出身だってこと。そして昔その先にあった高野パン店の娘さんだってことも。」

「そうなんですか・・・分かっちゃったんですね。私、この町嫌いなんですよ。だからよそへ行くんです。」

明恵の顔は半分が影に覆われ、半分が微かな明かりに照らされていた。明恵の中にあるそれぞれ違った人格を表すように。

 影の方の明恵はどろどろとした得体の知れないものを抱え込んでいるのがよく分かった。

「そうなんだ。せっかく仲良くなれたのに・・・。寂しくなる。」

信介は本音の部分を口にした。

「もう行きます。」

明恵はスーツケースのハンドルを握ると駅へ向かって歩き出した。

 「待って。待って、お願いだ。事件のことはもうどうでもいい。私には関係のないことだ。ただ、君の心の闇がそれで晴れたのかなって、それが心配なんだ。」

「晴れたかですって? それこそ佐崎さんには関係のないことでしょ。」

明恵の言葉には棘があった。

「それはそうなんだが・・・。高野パン店に起きた事件のことを知れば知るほど、君の心が心配で心配で。」

信介の言葉は切実だった。犯人がどうこうではなかった。純粋に明恵が心配だったのだ。このまま生きていけるんだろうか、このままで。

「私のことなんかどうでもいいですよ。心配してくださらなくて結構です。」

明恵はつっけんどんに信介に言い返した。

 「ごめん。何も押しつけるつもりはないんだ。今まで君は誰かを、何かを恨むことだけで生きてきたんだね。表面は明るく振る舞いながらも闇に引きずり込まれそうになりながら。そしてとうとうその感情が君の心に収まりきれなくなって・・・。」

信介は静かに続けた。

「もういいんです。もう。私が弱かったんです。」

明恵が目を伏せた。

 その時、信介たちのちょうど前に赤いスポーツカーが止まった。明恵はスーツケースを後部座席に乗せると、

「佐崎さん、ありがとうございました。」

そう言って助手席に乗り込んだ。運転席の男は真っ直ぐ前を向いたまま車を発進させた。

「あの男・・・。」

黙ってそれを見送る信介。ピカキンチューともそういう関係だったのか。どういう関係? ビジネスライクな関係なのかも知れない。そう思いたい信介だった。

 高野明恵が警察へ出頭してきたのは、それから3日後だった。明恵の供述からピカキンチューこと金田一郎が逮捕されたが早々に不起訴処分となった。

 予想されたことだったが、明恵が依頼したハッカーグループは、明恵自身がその素性を知らず逮捕は難しいだろう。また、最後まで否定していたタワーシティのコンシェルジュ秋葉との関係は秋葉のスマホの解析によって明らかとなった。


 「悲しい事件でした。」

信介がお茶とケーキを前に村雨、榎本、柳瀬の3人に吐露した。3人が3人とも信介になんと言っていいか分からず黙っていた。

 「コンシェルジュの秋葉君は村雨さんのおっしゃったとおり、問題を起こして前の職場のホテルグループを辞めていました。解雇に近かったようです。」

やむをえず信介が話を続けた。

「どういうことですか?」

榎本が聞く。警察でもまだ把握していない事実なら報告しなければと思ったのだ。

 「どうも彼はSNS依存症のようでした。」

「SNS依存症?」

「はい、1日に何度もSNSを見ないと気が済まない、そういう状態です。いや、見るだけじゃなく、彼の場合書き込みをしないといけないという強迫観念のようなものが・・・。」

 事件解決から1週間。まだ取り調べは続いていたが、ほぼ出来ることは全てやり終えたという状態だった。そんな中、村雨の発案で以前の4人で会うことになった。レック本社近くの喫茶店である。信介のなじみの店だった。店主の好意で店の一番奥のソファ席が提供されていた。

 「事件にはならなかったようですが、ホテルの同僚などに話を聞くことが出来ました。」

榎本はソファからやや身を乗り出している。

「秋葉君は、ある女性アイドルグループがスイートを借り切って野球選手らとシャンパンパーティを催していたことをSNSに書き込んでしまったそうです。」

「それはいかん・・・。」

と村雨。

「はい。何か特別な情報を手に入れると書かずにおれないんでしょうね。」

「書いた先がTwisterのグループだったんですが、中のひとりが転載したことから拡散してしまい・・・、アイドルグループの芸能事務所からホテルに抗議が来たそうです。」

「で、ホテルが処分したと言うことですか。当時いわゆるバカッターが色々出ましたな。ホテル絡みでも芸能人やサッカー選手の来店をツイートした事件もありました。」

 「このアイドルグループは2流というか、あまり有名でもなかったため、あっという間に噂も下火になり、秋葉君も次の話題を探していたんでしょう。」

「ところが事務所から抗議が・・・。まあ、これは業界倫理として抗議以前じゃないですか。」

榎本がメモを取りながら信介に答えた。

 「で、秋葉君はアルバイトで食いつなぎ、ようやく槇村不動産販売でコンシェルジュの仕事にありついたというわけです。」

信介がコーヒーカップを手に取ると、

「だけど、依存症は治っていなかった。彼はタワーシティに住む住人の様々な事情を集めてはSNSに書き込んでいた。」

村雨が後を引き継いだ。

 「なるほど。それが秋葉が開設していた掲示板ですか。」

サイバーポリスの榎本である。秋葉のスマホの解析により、秋葉が自分で立ち上げたサイトにマンション住人のことを書き込んでいたことが判明していた。

 ただ、普通の、しかも多くはお年寄りの情報など読んでも面白くもない。さすがに秋葉も嫌気がさしていたようだが、そこへ明恵が現れた。

「ええ。取り立てて人気がある掲示板でもなかったようです。読者数は100人に満たなかった。それが明恵と情報交換するたびに絵になる書き込みが出来た。記事や動画は転載され話題になった。」

 「独自の掲示板だから転載と言ってもコピー&ペーストですね。だから秋葉のアカウントも表に出難かった。情報元が誰とは分からないまま、拡散され騒がれる。秋葉としては益々止められなくなっていった・・・。快感なんでしょうな。」

柳瀬が秋葉の心情を推し量ってみた。

 「ええ。いいね!取るためなら何でもやるって連中がいっぱいいますよ。」

と、これは榎本だ。秋葉はこの個人アカウントを使ってユーザーのひとりだった明恵とメールのやり取りをしていた。

 最後の送信メールはちょっとショッキングなものだった。秋葉がホッパーに追われる動画が添付されていたのだ。血を流す秋葉の様子も。驚くべきは秋葉がそれを数秒とは言え自撮りしていたことだった。確かに病気だ。

 「そのメールは掲示板へのメールアップではなく、明恵のアカウントに当てたものだった。だからこの動画はSNSに公開されていません。グロ動画ですからね、公開されなくて良かった。秋葉は明恵に助けを求めたのかも知れません。」

榎本が語ったのは、すでにマスコミ発表された内容である。

「秋葉と明恵はお互い顔を知らなかった?」と柳瀬。

「いえ、見知っていました。目撃証言もあります。」

答える榎本。

 「明恵さんは今後どうなるんですか?」

信介が榎本に聞いてみた。

「彼を殺せと高野明恵が命じたわけではないでしょう。ハッキング行為がこういう事態を引き起こした。ここは難しいですね。明恵がどこまでを予想していたのか、未必の故意みたいなものがあったのかどうか。あとは裁判でしょう。ただ実際の行為者、ハッカーを逮捕できなかったのは悔しい。」

榎本が最後に唇を噛んだ。


 槇村不動産の会議室はいつにも増して重苦しい雰囲気が漂っていた。社長も会議後半には参加するという情報も会議を暗くしている原因だ。だが、事態はそれ程重大であって事ここに到って社長の顔色を気にしているような奴は早々にクビにすべきだろう。不動産本社のシステムにハッカーが侵入し死者を出したのだ、責任は重い。

 「というわけで、槇村不動産販売サーバーに侵入されたことを足場に本社WEBサーバーがマルウェアに感染したことが今回の惨劇を生んだと言うことです。」

状況を総括した前島執行役員システム部長が席に着く。

 すると、槇村不動産販売の東郷企画本部長が立ち上がった。

「この度は大変なご迷惑をおかけし、申し訳ありませんでした。弊社サーバーへのハッキングの際もっと厳重な対応を取っていればと悔やまれます。」

東郷は恭しく頭を下げた。

 「販売さんの情報セキュリティ対策会議の内容には疑問点が多い。議事録も届いていないことも多く、杜撰と言わざるを得ません。」

前島が立ったままの東郷に指を向けた。東郷は再び頭を下げた。会議の責任者である前島としては社長が来るまでに方向性をまとめておきたかった。そしてそれは原因を作ったのは販売の方だという論法だった。

 この発言を危ないと判断したのか、販売から同席しているシステム部長島部長が声を上げた。

「反省すべきは反省し、改革に邁進していく所存であります。ただ我々も予算を組んで株式会社レックにコンサルをお願いするなどやって来ております。HPくらいしか制作・運営したことのない弊社ではやむを得ない状況であったこと、ご理解願いたいと存じます。」

 長島が反論したことで、本社管理部から別の矢が飛んできた。

「HPがハッキングされた時早々にHPを開けたのはコンサルの指示なんですか? ウィルスの除去は完全だったんですか?」

するとなぜか本社サイドの席に座っていた山上販売副社長が突然吠えた。

「レックの実力がどれほどのものかは知らんが、弱小の組織でコンサルの判断に頼るのは仕方ないことだよ。だいたい本社システム部だって原因究明できていなかったじゃないか。」

「申し訳ありません。確かに山上副社長のおっしゃることにも一理ございます。我々もロボットトラブルの原因究明が遅くなったこと、真摯に反省したいと思います。」

社長一族の山上に、前島が掌を返した。

 ここで販売から出席していた浅葉執行役員営業推進本部長が爆弾を投げ込んだ。事の次第を知ったのは今朝部下に聞いて初めてという状態にもかかわらず、である。

「システム部が言うのも分かるが、今回の事件、それにこの間のバスジャックの事件もそうだ。我々の顧客であるマンション住人へ多大な迷惑を掛けたんだという観点が抜け落ちてるんじゃないですかな。その元凶となったのが自動運転バスの運行システムであり、今回は館内環境整備ロボットのシステムだったということですよ。どこから、じゃなくて、本社システム部の作ったシステムがハッキングされていたって事だよ。」

 前島はいきなり鼓動が速くなるのを意識した。

「いや、我々のシステムは万全ですよ。穴があったのは販売のサーバーの方だ。我々のファイアーウォールは完璧でした。穴を開けられたのは冗長化もしていない販売さんのサーバーの方だ。」

前島の抗弁に思わず長島が声を上げた。

「Windows使ってるからでしょう。ふつうにLinuxでApache使ってれば我々も冗長化にやぶさかでなかった。金が掛かるんですよWindowsは。WEBサーバー、Windowsで組んでる方がどうかしてませんか。」

執行役員同士の論戦に無謀に割り込んだ長島システム部長。すると、案の定、

「長島君、何を言ってるんだ。Windowsサーバーに何の問題もない。簡単に侵入を許し、本社サーバーを感染させた販売のシステムが問題なんだ。」

前島にぴしゃりと言われて長島部長はたじろいだ。

 ここで、槇村不動産販売CISOの山上が再び吠えた。

「LinuxでもWindowsでもいい。浅葉君の言うように顧客へ迷惑を掛けたこと、社のイメージダウン甚だしいこと、今後の対策をどうするかと言うこと、問題はこの辺じゃないのかね。」

山上は社長一族だが販売のCISOである。非を認めるべきは認めてしまった上で、前向きな対策構築へ舵を切ろうとしたのだ。それが世渡りだと。

「山上副社長のおっしゃる通りかと思います。みなさん、熱くなるのはこの辺にして会議を進めていきたいと思います。」

前島はどうやら山上に何か弱みでもあるらしい。

 「わたしから少しよろしいでしょうか。」

一番の末席に座っていたレックの柳瀬が手を挙げた。

「レックの・・・何ですか? これは本社の会議ですが。」

前島は明らかに社外の人間がここにいることに不服そうだった。

「コンサル契約結んでおりますので、守秘義務は遵守致します。」

柳瀬が答えた。

「いいじゃないか。発言を認めよう。」

山上が言うと前島も黙って同調する。

 「それでは。レックの柳瀬と申します。宜しくお願いします。先般の販売HPハッキングの件ではご迷惑をおかけしました。HPの再開を優先することでルートキットを見逃してしまったこと、深くお詫び致します。」

柳瀬は静かに頭を下げた。

「あれを見つけるのは至難の業と聞いた。そうなんだろう?」

言ったのは山上だ。元々レックと契約を結んだのは山上であり、HP再開を急がせたのも山上である。が、この後山上は飼い犬に手を噛まれることになる。もっとも柳瀬の方では自分が山上に飼われているなどとは露程も思っていない。あくまでビジネスである。

 「サイバーセキュリティの観点でのみお話しします。顧客対応や社会的責任、はたまた道義的責任などについては広報さんの範疇とご理解ください。」

なんだ、最初から責任逃れかと前島は思った。しかし柳瀬は落ち着いた口調で話を続けた。

 「まず、WEBサーバーの脆弱性は問題です。システムの解析を行う立場にありませんが、ルートキットであっさりと穴を開けられてしまったこと、ウィルスを仕込まれロボットのみならず本社システムに不具合を生じさせたこと、看過できません。」

こうして柳瀬が一つ一つ解説していった内容は本社システム部にとって耳の痛い話であった。

 柳瀬は的確に、システム構造が継ぎ接ぎで脆い点やWEBサーバーの問題点を挙げていった。柳瀬の指摘の中で強調されたのが、各システムの連携構造についてだった。

 「ネットを通してサーバーとサーバーが繋がる時、そこに弱点が生じます。専用線で結んでしまうしか回避は出来ません。かつて金融業界では専用線神話がまかり通っていましたが、ネットの時代にそれもあり得ないことです。」

柳瀬は、不動産WEBサーバーのセキュリティの低さを再び指摘した。その上で、顧客データベースや白地客データベースを格納するサーバーとのデータ通信に関する問題を指摘した。これは本社管轄だけでなく、販売サイドのサーバー通信についても言えることだった。

 「君は何の権限があってそんなことを言ってるんだ。君は販売のシステムコンサルに過ぎん、身をわきまえないか。」

前島の叱責が飛んだ。だが、柳瀬は怯まなかった。エバンジェリストとしてのプライドが彼を支えていた。

「ああしろ、こうしろと申し上げているわけではありません。今回の事件を考えるのに、デジタルセキュリティを見直すべきだと提言申し上げております。」

 前島が更に言い募ろうとした時、会議室のドアが開いて槇村不動産社長の槇村が入ってきた。

「しゃ、社長。」

「少し早かったが、いいところに来たようだ。柳瀬さん、ひとつ質問してもいいかね。」

槇村は立ったまま末席の柳瀬に尋ねた。

 「なんでしょうか。」

さすがに社長の登場に柳瀬も戸惑ったが、ここまで来ては信念に基づいて答えるしかないと思った。上司も多分そう言うだろうという確信もあった。

「関連会社を含めてここまでのシステムを組むのに5年掛かった。それ以前はどこも同じだと思うがSOPやSeeSのカスタマイズで、どうしても使い勝手が悪かった。それで自前のシステムを作り、5年で8億使った。これは十分な金額なのかね。それともまだまだ足らないというのかね。」

 槇村に悪気はないようだ。ただ、柳瀬には的の外れた質問としか思えなかった。だが、柳瀬は臆さず敢えて答えた。

「御社のシステム全体を知っているわけではありません。特に本社システムには精通していません。ですが、会社規模や業務内容と過去の経験から申し上げれば、少々少ないかと。」

「少ない?」

 槇村は反対の答えを期待していた。同業他社や取引先の企業との話の中でシステムにこれだけの金を投入しているのは自分の所だけという自負があったのだ。

 「まず各システムの構築がバラバラであること。もちろん当世競合というのは当然ですが、その場合業務分析やシステムの検証、特に全体を設計する先は必要になります。御社の場合、各社の作ったシステムをシステム部で提示した条件で接続しただけではないかと思われます。またAPIを利用している部分もありますが、外部システムとの連携に関しては特に注意が必要です。そしてこの全体統括をどこにやらせるのかが問題であり、いずれにしても大きな金の掛かる部分です。それとだいたいシステムは5年で古くなります。もう作り替えの時期に入っていると言えます。」

柳瀬が槇村を真っ直ぐに見据えて一気に説明した。

 「金食い虫だな・・・。」

槇村がぼそっと言った。それを無視して柳瀬は続けた。

「もう1点、これは金に換算するのがなかなか難しいのですが、教育の問題が残っています。システムを作っても社員に理解させ使いこなして貰わなくてはなりません。このための教育には大きな人件費が発生します。外部委託なら請求書も来ますが、社内での対応では金額を弾きにくいところですから。」

 ここで山上が柳瀬に食って掛かった。もちろん槇村社長の前でのパフォーマンスである。

「柳瀬君、社員教育は十分やってるよ、当社は。外部の人間が口を出す所じゃない。」

「そうでしょうか。」

柳瀬は落ち着き払って山上の攻撃をかわした。

「御社はISO27001を取得していません。もちろん当世敢えてISOを取らない選択をされる企業さんも少なくありません。ただ、ISOの考え方は非常に重要で、特に関係部門社員の皆さんにこれを周知させることで教育という面でも大きな成果が期待できます。まず、関連会社含めて取得を目指されることをお勧め致します。」

 柳瀬のこの指摘に槇村ははっとした。業界会合などでしばしば環境ISO(ISO14001)の取得が今再び話題になっていたのである。大手はどこもとうの昔に取得済みだった。だが、情報セキュリティISOはなかなか取得している企業は少ない。年収をはじめとして機微な個人情報を取得する企業としてはプライバシーマークだけでなくISOもあった方がいいと考えていたところだったのだ。

 「何を今更ISOなどと。もういい、レックとは契約を解消する予定だ。座りなさい。」

山上が柳瀬に最後通牒を突きつけた。解約するとなれば何を言う権利もない。柳瀬は黙るしかなかった。

 ところが、槇村が発言を促した。

「山上君、ちょっと待ちなさい。こんなとこで契約の話は無粋だ。今は、今回の事件への対応と、教訓をしっかり残しておきたい、そういう趣旨の会議のはずだ。」

槇村社長はそう言いながら山上の上座の席に着いた。今度は山上が黙るしかなかった。

 「柳瀬君。続けてくれたまえ。」

「はい。槇村社長。今、不動産販売ではサイバーセキュリティ経営について学ぶと同時に会社の対応方法について詳細を詰めているところでした。そんな中で事件は起こったわけですが、今回は重大なインシデントということになります。今までの対応を踏まえて今後どうするか決めておくことをお勧めします。どのレベルのインシデントならどう公表するのかを明確にしておいて、迷うことなく出来る限り速やかに公表することが大事です。」

 今回の件で槇村は記者会見などを行っていない。広報を通じて文書によるコメントを発表しただけだ。テレビカメラ等の前には槇村不動産販売社長が立っていた。柳瀬は暗にこの対応を批判したのである。

「君。何も問題はないと思うが・・・。死んだコンシェルジュだって販売の採用だったんだ。全ては販売マターじゃないか。」

山上が堪らず口を挟んだ。今度は槇村も何も言わない。

 「いえ、マスコミ等への対応方法を含めて対策を決めておくべきだと申し上げているだけです。先の自動運転バスのハッキング事件について槇村社長が事件を語りました。今度は死者が出ているにも拘わらず子会社任せというのは世間が納得しないかと・・・。」

柳瀬の背中に冷たい汗が噴き出した。だが、話を続けた。

「その場しのぎはだめです。思いつきもなし。こういう事態について整理し分類して対応を文書化しておくこと、そういう意味でもISOの取得は有意義だと思います。」

 「柳瀬君、君の件は後でゆっくり大河内さんと話をするよ。だからもういい。下がってくれ。」

大河内というのはレックの現社長である。社長が柳瀬のことなど知る由もないだろうが、山上はそういう脅し方をよくする男だった。

 「失礼しました。この辺は広報と密接に結びつく内容なので私がとやかく言う筋合いではないのです。ただ、政府が発表した新版のサイバーセキュリティ経営指針に沿って対応をきちんと決めておき、それに沿ってこなしていくべきだと申し上げたかったのです。ご無礼の段はお詫び申し上げます。」

柳瀬は丁寧に頭を下げた。

「そうだ。君は我が社の対外的な会見に口を出す立場じゃない。君は単なるシステム屋だよ。セキュリティシステムの内容について考えていればいいんだ。」

山上が柳瀬にダメを押した。

 続いて槇村が静かに口を開いた。だが口調は柳瀬への敵意に満ちていた。

「君の専門の話になると思うが、そもそも販売のサーバーに送り込まれたマルウェアが本社のWEBサーバーでロボットシステムを蹂躙したのはどういうことなのかね。うちのシステム部からもまだ明確な回答はないんだが。」

 これに前島システム部長が反応した。

「申し訳ありません。販売の長島部長とも話をしているのですが、狙われたのが環境整備ロボットの管理システムです。ルートキットだけではこの管理画面を操ることができるとは思えないんです。」

「それはどういう意味・・・。」

と槇村。

「つまりロボットの管理プログラムを乗っ取るにはどうしてもIDとパスワードが必要なはずなので・・・。」

「だから?」

山上がきっとなって前島を睨んだ。

「誰か管理画面を開ける当社IDを持った人間でないとこのプログラムにはアクセスできないということです。」

「よく分からんが、ようは内部の人間の犯行だというのか?」

山上が言いにくいことをはっきり口にした。

「社員がそんなことをするはずはありません。」

前島は慌ててそう言い添えた。可能性があるのはシステム部の人間と言うことになってしまう。

 「内部犯行ではありません。外部からのハッキングです。サイバーポリスもそう結論づけています。」

さっきから立ちっぱなしだった柳瀬が思いきって発言した。

 実は、柳瀬は重大な情報を持っていた。これを今切り札にするのか、迷うところだったが、レックとしてのビジネスを優先させることに決めていた。

 このことは会議の前に信介に柳瀬が相談して導いた答えだった。バリバリの元営業マン佐崎信介は柳瀬に答えた。

「ビジネスは継続です。単発勝負のように見えて実際は企業と企業の継続的な交渉ごとです。自分はこの一時それを任されているだけなんです。だから自分に全てをぶち壊してしまう権利はない。それをやるのは営業として二流、三流です。」

 「御社社員のIDとパスワードが盗まれたと考えるのが妥当でしょう。」

柳瀬が言うと前島もこの見解に賛同した。自分の部下が犯罪者などとは思いたくもない。

「どうやって盗まれたんだ?」

と山上。

「メールか何かに仕込まれたウィルスか偽画面で欺して・・・。」

前島が答えた。そして柳瀬がそれを受けて続けた。

「そうしたことも含めて槇村不動産のサイバーセキュリティ経営を再定義し、PDCAを回していくことが重要です。」

 こうして会議は終了した。山上は槇村の後に従って席を立った。もう柳瀬の方を見向きもしなかった。これを合図に他の出席者の緊張がようやく緩んだ。販売からの出席者はあからさまにほっとしていた。

 柳瀬は前島を捕まえると空いていた応接室へ誘った。

「前島役員。」

「柳瀬君、ちょっと発言に気を付けて貰わないと・・・。」

前島が苦言を呈した。

「申し訳ありません。それよりお耳に入れておきたいことがございます。」

柳瀬は前屈みになって前島に独自調査の結果を伝えた。

 それは今朝サイバーポリスの榎本からも報告を受けていた。犯人の高野明恵が認めたと言うことである。間もなく警察から槇村不動産へ連絡が来るだろう。

 これを聞いて、一瞬前島の顔が緩み、そして悪い顔に変わった。柳瀬には関係のないことだった。どうせ、槇村不動産販売の案件は外れることになるだろう。

 柳瀬は槇村不動産社内の権力争いなどに興味はなかった。ただ、バスジャックやロボットジャックはここの経営層が考えている以上に重大な事件なのだ。

 我が国の社会インフラを脅かす重大な脅威、オリンピック前に政府が策定したサイバーセキュリティ戦略でもレベル4並のことである。そのことを経営層は分かっていない。

 柳瀬はエバンジェリストとして己の未熟さを肝に銘じたのだった。

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